【2】
恋が終わっても、当然ながら潤の毎日は変わらず続いている。
大学で講義を受けている間も、サークルで友人の話に笑っている間も。
とにかく誰かの目がある場では、傷心は抑え込んでおかないとならない。
むしろ何かに集中している間は、恵太とのことを考えなくて済む分楽なくらいだった。
感情を表さないのは得意なつもりでいる。
自分が同性愛者だと自覚したときから、『普通』の仮面を被って家族にさえ疑われることなく平然と過ごしてきた。
特に喜怒哀楽が薄い方ではないのだが、泣くことは滅多にない。
感動する映画も、哀しい身近な話も。何も感じないわけではなくとも、落涙のハードルは高い方なのだろう。
そういえば、幼いころ予防接種で泣いたこともなかったと母に聞かされていた。生まれつき「そういう人間」なのかもしれない。
恵太との別れで流したあの涙。
彼はそれだけ、潤にとって大きな存在だった。心の、身体の、一部だった。何かをもぎ取られたような痛みを、今も引きずっている。
だから潤は、恵太との関係が誰かに見抜かれるかもしれないとは、彼と付き合い始めてからもまったく考えたことはなかった。
そんな日々の中、潤のどこがお気に召したのか何かと構ってくれる先輩の存在はありがたかった。
潤の所属するサークルのOBである陽一郎。
税理士で、恵太とは在学中に税理士を目指す学生のための勉強会で一緒だったらしい。
恵太とのデートの最中にサークルによく顔を出すOBの話になり、偶然その彼が恵太の一年先輩だと知った。
「そんなことってあるんだ! ホント、人間ってどこで繋がってるかわかんないよね。まぁみんな同じ大学ではあるんだけど、それにしてもさぁ」
そう笑い合ったあの日が遥か遠く感じる。
だから陽一郎の突然の告白は、潤にとってはただ驚愕でしかなかったのだ。
「なあ、新名」
ある日のサークルで顔を合わせて、その後は恒例の飲み会になる。
お開きの後の駅までの帰り道で、たまたま二人きりになった、その時。
ごく普通に、何気ない風で彼は声を掛けて来た。
いつも仕事帰りなのでスーツ姿しか見たことはない。細く黒いフレームの眼鏡が似合う、落ち着いた大人の雰囲気を纏った先輩。
「ゴメンな。いきなりこんなこと言うの、いくら何でも不躾だってわかってるけど」
少しだけ遠慮がちに、陽一郎はそれでも止めずに切り出す。
「僕じゃダメか?」
あまりにも唐突なその問い掛けに、潤は咄嗟に誤魔化すこともできなかった。
「……か、風見さん。な、んの、話ですか?」
「藤沢とは、もう別れたんだろ?」
予想外の不意打ちにショックで声も出ない潤に、彼が宥めるように付け加える。
「ああ大丈夫、たぶん僕しか気づいてないよ。僕は新名をずっと見てたから、なんていうか自然とわかってしまっただけだから」
見ていた? 陽一郎が潤を? いったい、いつから……?
「あと、もしみんなに知られるのが怖いっていうことならその心配は要らない。僕は絶対に誰にも口外しない。もし僕のことが信用できないとしても、それとは別に僕には言えない理由がある」
知られていたという事実に混乱している潤に、陽一郎は安心させるように告げた。
「つまり、君もこっちの弱味を握ったってことだからさ。……わかるだろ?」
……この先輩も潤を、男を、好きということか。それを弱味と呼ぶのなら確かにその通りだ。
「それについてはわかりました」
とりあえず、彼の言いたいことだけは理解した。
「でも俺は、弱味とかそんなのは関係なしに風見さんのことは信用してますから」
しかし、重要なのはそんなことではないのだ。
「ただ、け、藤沢さんと別れたから早速次へっていうのは、ちょっと俺は──」
潤は今でも変わらず恵太が好きだ。
別れを選んだことも、他にどうしようもなく仕方なかったと納得していた。
かと言って、すぐに気持ちを切り替えることなんてできるわけもない。
「別に僕のことなんか、好きじゃなくていいんだ」
けれど陽一郎は、そんな潤の心理状態までも把握しているようだった。
「藤沢のことがまだ好きなら、それはそのままで構わない。逆に今僕を好きだって言われたら正直その方が吃驚だな」
そう言って、彼はふっと笑う。
「事情をわかった上でそれでもいいって言ってるんだから、せいぜい利用しろよ。身代わりでも気晴らしでも、僕をどう使おうが自由だ」
「でもそんな、それじゃ風見さんは……」
突飛すぎる提案にわけもわからず零した潤に、陽一郎は平然と答えた。
「僕はさ、新名が好きなんだよ。だから君と一緒に居られるなら、もうそれだけでいいんだ」
清々しい顔でとんでもないことを言い切る目の前の男に、潤は正直戸惑う。
陽一郎が納得尽くで利用されてもいいというのなら。お互いにメリットがあるのならば、そうしてもいいのだろうか。
恵太と別れて、ぽっかりと開いた心の空洞を陽一郎が埋めてくれるなら。
誰でもいいとは思わないし、そのために無関係の他人を巻き込むようなことも御免だった。
もし潤を好きだという誰かがいたとしても、潤は恵太以外の人間に想いを向けることはできない。
それがわかっていて、これ以上苦しむ人間を増やす気はさらさらなかった。
だが陽一郎なら、そのあたりの問題はクリアできているということなのか。
潤は彼の言葉を受けて、フルスピードで頭を働かせた。
今までもいい人だとは感じていたし、好きか嫌いかと訊かれたら間違いなく好きだと言える。
恋愛感情はまったくないけれど、それでも単に人間としてだけでも好感を持てる人がずっと傍にいてくれるのなら。
本当に、どちらにもデメリットがないのなら。
──ひとりでいるよりは、寂しくない。
そうだ。潤は寂しかったのだ。
今までごく自然に隣にいていつも笑わせてくれた恵太がいない日常に、精神的に疲弊し切っている。
心の隙間に入り込んで来た陽一郎の言葉に抗えず、潤は彼の申し出を受けてしまった。