妹だけはしあわせに
『なりますように』、あるいは『なった』話
「アデーレは、とてもいい子なんだ」
ウルリヒは酒に酔うと、いつも妹の話をする。寡黙な男がぼんやりと酒にあてられて口数を増やす様子を見るのが、アントンは嫌いではなかった。
「うん」
「素直な子で」
「うん」
「きれいな金髪なんだ」
「結構長く伸ばしてたんだっけ」
「手先も器用で」
「ハンカチの刺繍、妹さんがやったんだよな」
「とても」
ウルリヒが酒瓶を握りしめる。
「とても、いいこだった」
後悔のにじむ声で唸るウルリヒの背を、アントンは、ぱん、と軽く叩いた。
「早く、探してやろうな」
ああ、とも、うん、ともつかない呻き声に苦笑して、宿場のベッドへと追いたてる。
「さ、そろそろ寝ようぜ」
もぞもぞとベッドの中に潜り込むウルリヒにおやすみ、と声をかけると、律儀にもおやすみ、と返ってくる。それを聞きながら二段ベッドの上段に寝転ぶと、アントンも他の仲間と同じく、薄っぺらい毛布を被った。
(早く、なんとかしないと・・・)
アントンの率いるパーティは、3人でずっとやっていたのを、1月前にウルリヒを迎えて4人になった。ろくに傷の手当てもせず死にそうな顔で旅をしていたウルリヒとは、川縁の船着き場で出会った。なにかの縁だから、と手当てするうちにウルリヒを放っておけなくなって、アントンは彼をパーティに誘うことにした。最初は断られたがアントンは諦めず、同じ道を行く間だけ、と誘い続けた結果、最後にはウルリヒも物好きだな、と呆れたように頷いてくれた。アントンの粘り勝ちだ。
ウルリヒは不思議な男だった。寡黙な彼は、もとは騎士を多く排出してきた子爵家の跡取り様だったらしい。
ウルリヒがパーティに加入してしばらく、初めてその話を聞いたとき、ロニーは目を剥いた。
『なんだってまあ、お貴族様がこんなことしてんだ?』
『きみの剣の腕前なら、騎士団でも十分やっていけるだろうにね』
ルッツは不思議そうに首をかしげた。
冒険者パーティといえば聞こえはいいが、実際問題、魔物狩りだけで生計はたてることは難しい。ギルドから細々した依頼を受けながら、日銭を稼ぐ毎日に文句はないが、安定した収入が得られる保証はない。
騎士団に勤めれば、毎月安定した収入を得られる。周囲からも一目おかれる。子爵家という生まれも、貴族社会の中では高い身分ではないかもしれないが、生活に困るほどではないはずだ。
『なにか事情があるのかい?』
ルッツの問いかけに答えるか、ウルリヒはしばらく迷っていた。
『・・・妹を探している』
『妹さんを?』
『婚約を破棄された原因が妹の身持ちの悪さにあると言われて、家を出されていた。だが、それが誤った情報に基づく風評被害であったことがわかったので探している』
『それは・・・』
ルッツは言葉を飲み込んだ。
広まったという噂が嘘だったのであれば、おそらく妹も必死で否定したのではないか。それでも家を出された、ということは、少なくとも当主たる父親は信じなかったのだろう。あるいは、嘘とわかっていても、家の名誉のために追い出したか。
『妹を捨てやがったのか』
『ああ』
けっ、とロニーが胸くそ悪そうに悪態をつく。
『えっと、妹さんの居場所は検討ついてるの?』
『いや』
ウルリヒは緩く頭をふった。
『ただ、貴族の娘というのは市井では浮くらしい。この娘を見かけなかったか、と尋ねたとき、数年前のことだったが覚えている人間がいた。おかげで、家から出たあと向かった方角はある程度絞れた』
『で、そこからさらに目撃者を募る、と。お貴族様は気が長くていらっしゃることだ』
『ロニー』
ルッツが小声でたしなめる。
『貴族のお嬢様がいきなり家を追い出されて、まともに暮らしていけるもんかよ。生きていたとして、録な生き方してないだろうぜ』
『ロニー、言い過ぎだ』
アントンが強い語調で咎めると、ロニーは渋々ながら口を閉じた。
『いや、ロニー殿の言うとおりだ。死んでいるのかもしれないことは、わかっている』
わかっているんだ、とウルリヒはひとりごちた。
『だったら、なんで急がねえんだ。金を払えば、人探しの専門家でもなんでも雇えるだろ』
『家の金は使えない』
『あぁ?』
ロニーは片眉をあげた。ルッツが眉をひそめた。
『それは、ご当主殿のご意向かい?』
『そうだ。妹---アデーレが家を出されたことは当時有名だった。死んだままにしておいた方が、家のためだと』
アデーレが生きていたとして、貴族女性としてまともに生きていくのは難しい。
婚姻にあたって、初婚の令嬢に純潔を求める貴族は珍しくない。家の血統を正しく守るためにも、身持ちのよさは重要視されるためだ。冤罪だった、ということは親しい人間は知っているが、大多数からすれば一度身持ちの悪さで知られた娘だ。過去に広まった噂を完全に消すことは難しい。持参金を増やすにしても、金で買われた娘と謗りをうけるだろう。まして持参金目当てで結婚するような家でまともに扱われようとするなら、継続的な援助が必要になる可能性もある。
加えて、アデーレは家を出されている。
貴族としての生き方しか知らない娘を、まともに雇ってくれる場所があるだろうか。貴族女性の働き口として、まず浮かぶのは貴族子女向けの家庭教師、もしくはメイド。だが貴族の家で働くには紹介状が必須だ。市井の店で働く人間は小さい頃から下積みをしてその職につく。わざわざ技術もなく、子供より賃金の高い大人を雇うだろうか。悲しいことに、お金に困った女性が娼館に身を売るというのは、珍しい話ではなかった。
『人の口に戸はたてられないだろうからね』
『生きて戻っても噂の的、家の名誉に関わる、か』
アントンは唸った。
アデーレの過去の噂は、新しい燃料が投下されなければ噂に翻弄された娘個人の悲劇で終わる。
『家のことを考えるなら、父の判断は正しい』
『でもきみは、納得できなかったんだな』
正しいと思っているのに、ウルリヒはそれに反して、家を出たのだ。アントンには、それが意外だった。
『家を出るアデーレに、酷いことを言った。アデーレはもう俺の顔など見たくないだろうが、それを一言、謝りたい』
『許されたいだけなのかよ。てめえの罪悪感減らすために必死だなぁ』
ロニーの言葉に、ウルリヒは目元を険しくした。
『ロニー殿には関係のない話だ』
『はん、そりゃそうだ。てめえと、てめえの妹の話だからな。だがよぉ、これでも同じパーティのお仲間だからよ』
たん、たんとロニーが組んだ自身の腕を指でたたく。苛立っているときのロニーの癖だ。
『謝りたいだけだってのは都合がいい話だぜ。傷ついた妹を守れなかったって後悔してるなら、今度こそその妹を守る覚悟を決めろよ』
ロニーはまっすぐウルリヒの目を見た。
『貧乏で生活が苦しいなら援助してやるとか、批判されても貴族に戻りたいなら口添えしてやるとか、あるだろ。謝ったっててめえがすっきりするだけで、てめえの妹の生活にゃ関係ねぇんだ。妹の今の、これからの幸せを支えようって気はねぇのか』
ぎ、とロニーが背を預けたイスが音を立てた。
『謝られたって許す義務なんざてめえの妹にはねぇんだからよ、そりゃ許されない可能性のほうがたけぇわな。だがよぉ、妹に許されねぇことが怖いからって、やけっぱちな行動しやがって』
『やけっぱち、とは』
『死にそうな顔してよぉ、ケガの処理も適当で。ちゃんと生きて、償ってくって覚悟を決めろよ』
けっ、と悪態をつくロニーに、ルッツが苦笑した。
『まあ、治療はちゃんと受けてほしいよねぇ』
『ウルリヒ』
のろのろとウルリヒがアントンの顔を見た。
『言葉は悪いけど、ロニーはウルリヒを心配しているんだ』
『・・・心配』
『きみはいつでも、死んでもいいような顔をしていたから』
ウルリヒは目をしばたたいた。
『戦うときには一番に突っ込んでいって、終わった後の手当ても適当で。俺たちが言わなければ放っておこうとしたケガも、それなりにあるだろ?』
アントンに言われて、ウルリヒも思い当たったのだろう。気まずげに目を伏せた。
『世話をかけたくなかった』
『知っているよ、でもケガをしていたらその分動きも悪くなるだろ?』
『酷くなってから手入れするのだと、薬とか必要なものも増えるから、そういう意味でも困るんだよねぇ』
『・・・すまない』
ウルリヒには、死にたがっているという自覚はなかったのだろう。
『きみが強いのは知っているよ、でも無理はしないでほしい。俺たちのためにも、妹さんのためにも』
『わかった』
ウルリヒは真面目な顔で頷いた。
それからウルリヒは、ケガをしないように気をつけるようになったし、ケガをしたら自分からルッツに治療をお願いするようになった。心情的にも落ち着いたのか、顔つきも和らいだ。
日銭を稼ぎながら情報収集を重ね、とある島にいるようだ、とわかったのが数日前。喜び勇んで、船を出してくれる人を探している最中に、とんでもない知らせが飛び込んできた。
『島に魔族がやってきた』
知らせを運んできたのは、定期的に島に食料などを卸している商家の人間だった。
彼は島に船をつけたが、いつも商品を引き渡している船着き場付近に誰もいないのを疑問に思ったらしい。その場でしばらく待っていたが誰もやってこず、仕方なく村まで向かい、そこで見慣れない男女を見つけてしまった。
『本当に魔族なのか?魔族なんて、もっと北の方にいるものだろう』
獣型、もしくは植物型の魔物は地域を問わずそれなりの数が確認されているが、人型の魔族は北部大陸でしか目撃情報がない。知恵がまわり、強靭な肉体に加えて魔法を使うなど攻撃方法が多彩な魔族は、並みの相手で抑えられるものではなかった。
『おまえ、あいつらを見てないからそんなこと言えるんだよ。そりゃ、見た目は俺たちとそう変わりゃしなかったさ。だがよう、見てたら、ぞぉっとするような、変な威圧感があった。
それに、手になに持ってたと思う?』
商人は血の気の引いた顔で目を見開いて、落ち着きなくあたりを見渡した。
『腕だよ、腕!人間の腕だ。それをうまそうにかじりながら、村の中歩いてたんだぞ』
『そりゃ、そんなまねするのは魔族しかいねぇかもしれないが・・・』
『だが、魔族ってのはずいぶんと目や耳がいいって話じゃねぇか。おまえ、よくバレずに帰ってきたな』
感心したような町人の言葉に、商人は力なく首を横に振った。
『バレてなかったかは、わからねぇよ。あの村にも人間は残っていたからな、目的があるんだろうさ』
集団がざわめく。
『あの2人組の横にも、人がいた。ロープで首をくくられて、犬みたいに連れ歩かれてたぜ。村の奥には柵みたいなものも作られてよ、中に何人か、つながれてた』
周囲の顔が不安げにゆがむ。ざわめく人混みをかき分けて、ふら、とウルリヒが商人の前に足を踏み出した。
『つながれてた人の風貌を覚えているか』
『ウルリヒ』
ルッツが気遣わしげにウルリヒを呼ぶが、ウルリヒは振り向かなかった。
『女はいたか。長さはわからないが、きれいな金の髪をしている』
『あ?だれだ、あんた』
『答えてくれ、頼む』
『悪いな、あんちゃん。こいつの妹が、その島に向かったらしくてな。アデーレってんだが、それらしい女がいたか、覚えちゃいねぇか』
ロニーが口添えすると、いぶかしげだった商人の顔が気の毒げに変わった。
『ああ、アデーレちゃんの・・・』
『知り合いか?』
『何度か、荷渡しのとき来てたのは見た。柵の向こうにも金髪のやつは何人かいたが、なにぶん遠くから見たもんでな。悪いが、顔まではわからねぇよ』
『島へ渡りたい。船は借りられるか』
『やめとけ。魔族相手だ。助ける前に、あんたが死んじまうよ』
『知ったことか!』
大声に、場がしん、と静まりかえった。
『まだ生きているかもしれないんだ。俺一人でいい、船だけ貸してくれ』
『ばか言うな!死ぬとわかってて貸せるもんか』
その後は、船を貸せ、貸さないの大げんかだ。妹が生きている可能性があるなら助けに生きたいウルリヒと、若者をみすみす死にに行かせたくないという商人と、双方譲らなかった。
島は陸地からかなり遠く、波の荒い海域にあった。それなりにしっかりした船でないと島までは行けないが、このあたりでそんな船を持っているのは、定期便を組んでいた商人だけだ。商人を説得できず、不安と焦りでウルリヒは荒れた。
「アデーレ・・・」
夢を見ているのだろう。ウルリヒがぼんやりと妹を呼ぶ声に、アントンは眉を寄せた。
船を借りることを断られてからすでに3日。アデーレが無事なのか、すでに喰われてしまっているのか、アントンたちに知る術はない。死んでいる可能性のほうが高いことは、ウルリヒもわかっている。それでもアデーレが生きている可能性を諦めきれず、死んでいるならせめてその体を墓に入れてやりたいと、ウルリヒは島へ渡る方法を探して町を駆けずり回り、夜になっても床につこうとしない。
墨ではいたように立派な隈をつくってふらつくウルリヒを見かねて酔い潰したが、アントンはいい気分にはなれなかった。
ここ3日、アントンもウルリヒと共に町を回っているが、成果は芳しくない。ルッツとロニーは、近隣の町へと日銭を稼ぎにいくついでに情報を集めてくれているが、船を貸してもいいという人は今のところいないと言う。
「もっと遠くの町から船を回してもらうか?でも、時間がかかりすぎるよなあ・・・」
悩んでいる間にも時間は過ぎる。眠る2人をたたき起こしたのは、ロニーの怒鳴り声だった。
「てめぇら、起きろ!」
がぁん、と扉が吹っ飛ぶ勢いで開け放たれた。眠気に目を細めるアントンには気を払わず、どかどかと足音を立ててロニーが部屋へと入ってくる。
「何事だ」
一瞬で目覚めたらしいウルリヒが眉根を寄せる。ロニーの後ろから入ってきたルッツが、嬉しそうにほほえんだ。
「おはよう。ウルリヒ、アントン。良い知らせを持ってきたよ」
「船、用意できたぜ。午後には出れる」
「・・・え!?」
アントンは慌てて上段のベッドから降りた。ウルリヒが目をしばたたく。
「あの商人からか?どうやって説得したんだ」
「ロニーが、町の取締役と話してね。陸地から離れた島の中に現れたなら、海を渡れる可能性がある。この町も危険だからって、魔族退治をギルドに依頼するよう説得したんだ」
「魔族の危険性は、魔物と比べて段違いだからな。さっさと対処しとかねぇとヤバいが、能力もわからねぇで突っ込むのは危険だ。ギルドに対応してもらいやすくするためにも、近くにいる俺らがまず見てくるってんで、船を借りる約束を取り付けた」
「すごいじゃないか!」
キラキラとした目で見つめてくるアントンに、よせやい、とロニーがそっぽを向く。
「あくまでも、今回は偵察目的だからね。僕たちの実力だと、魔族2人の討伐は荷が勝ちすぎる。今生きている人を確実に助けるためにも、情報は持ち帰らないといけない」
「わかってる。できるだけ戦闘は避けていこう。でも、魔族が村から長時間離れるタイミングがあったら、島の人もできるだけ連れていこう」
アントンの言葉に、ルッツは思わず笑った。
「アントンなら、そういうと思ったよ。言っておくけど、僕たちの生存が最優先だからね」
「アントン殿、ロニー殿、ルッツ殿。一緒に来てくれるのか」
「もちろん!」
「ここまでお膳立てした挙げ句、行かねぇなんて言えるかよ」
「きみたち前衛だけじゃ、なにかあった時心配だろう?援護は任せて」
あっさりと頷く3人に、ウルリヒは震える唇を噛み締めた。
「ウルリヒ?」
アントンの声に、がば、とウルリヒが頭を下げる。驚いたルッツが顔をあげさせようとしたが、ウルリヒは頑として頭をあげなかった。
「・・・ありがとう」
震える声に、ロニーが居心地悪そうに頬をかく。
「礼がはえぇよ、ばか。妹連れ帰ってからいいやがれ」
「ロニーの言うとおりだよ。さ、支度をしておいで。寝巻きじゃ戦えないだろう?」
くすぐったそうに笑うルッツに促されて、身支度を整える。朝食を掻きこんで、船着き場へと走った。眉間にくっきりと縦皺を刻んだ商人に迎えられ、海へ漕ぎ出す。
緊張と不安、そして高揚感。それぞれが抱える感情を、4人は言葉なく共有していた。
船に揺られて数時間、島陰が遠くに見えてきた。島が指先ほどの大きさに見えるようになるまで船で運んでもらい、その後はルッツの魔法で体を浮かせて島へと向かうプランだ。ルッツが小声で詠唱を重ね、4人の体が柔らかな光で覆われる。
不機嫌そうに黙り込んでいた商人が、口を開いた。
「俺はこのまま、ここで待つ。明日、月が出るころに町へ戻るから、それまでに帰ってこい」
「わかった、ありがとう」
アントンが答えると、4人の体が持ち上がった。低空飛行で島へと接近し、人影がないことを確認して上陸する。町の取締役からもらった地図を頼りに森の中を進み、ほどなくして、崖の上にたどり着いた。急勾配の斜面の下には村がある。
つぶれた家屋、血の跡の残る地面。有事を伺わせる村の、崖に近い場所に、商人の言っていた柵が設けられていた。中には10人程度の人が、首にロープをかけられ繋がれている。柵には水の入った桶と、食べ物が詰められた桶がくくられていた。
畜舎。
その単語が、4人の脳裏によぎった。
(魔族は見当たらないな)
アントンは注意深くあたりを見渡した。ルッツに視線をやると、気づいたルッツが首を横に振る。
「近くにはいないみたいだ。それらしい魔力は、村にはないよ」
「どの辺にいそうか、わかるか」
「探してみるよ。島全体をサーチするから、少し待って」
「頼む。・・・ウルリヒ、アデーレさんは、あの中にいるか?」
「・・・いや」
ウルリヒはぎゅっと一度目をつむった。アントンには、ウルリヒが今にも泣き出してしまいそうに見えた。だがウルリヒは目を開け、大丈夫だ、と呟く。
かさ、と背後で草を踏む音がした。4人が勢いよく振り向いた先で、誰かが森を抜けてくる。それぞれの武器に手をかけて近くの茂みに隠れるのとほぼ時を同じくして、少女が崖へと姿を現した。アントンの隣で、は、とウルリヒが息を飲む。
「アデーレ!」
呼ばれて、きょとん、とウルリヒを見上げた少女の顔は、ウルリヒとよく似ていた。さらさらと金の髪が揺れる。
ウルリヒは茂みを飛び出した。アデーレ以外に人影がないことを確認して、アントンも茂みから立ち上がる。
「アデーレ、アデーレ。生きていたんだな」
顔をくしゃくしゃにしてウルリヒが笑う。涙のにじんだ目をこすり、さあ、とアデーレへと手を差し出した。
「助けに来たんだ。詳しい話は、島をでた後でしよう」
アデーレは動かない。丸い瞳が、じ、とウルリヒを見ている。
「アデーレ?」
かぱ、とアデーレの口が開いた。
「---ぁぁぁぁあああぁあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
絶叫が周囲に響く。がりがりと頬に爪をたて、アデーレが叫んだ。
「アデーレ!?」
呆然とするウルリヒを押し退けて、アントンがアデーレの口を塞ぐ。身をよじり暴れるアデーレをウルリヒが押さえ込むが、アデーレはくぐもった声で叫び続けた。
「アデーレ、落ち着いてくれ。傷つけに来た訳じゃない、」
「アントン、ウルリヒ!」
アントンの頭上に影が落ちた。ロニーの切羽詰まった声に見上げると、黄金に輝く瞳と目があった。
「魔族・・・!」
「無礼者。人間のつけた名で、我らを呼ぶとは」
耳に心地よい、深みのある声が響く。大木の枝に、魔族の男が立っていた。アントンたちをかばう位置で、ロニーが獲物のハルバードをかまえる。
「それは我が妹の玩具だ。貴様らが触れてよいと、だれが許した」
「わたくしは許してないわ、許してないわ。なぜあなたは、わたくしのアデーレに触れているの?」
鈴を転がすような声がした。アントンたちの腕にしびれが走り、アデーレを抑える力が緩んだ。見えない糸に吊り下げられて、アデーレは力任せに2人から引き離された。片腕だけが釣糸でもかかったように、ぴんと伸びている。ずりずりと地面にこすられて、アデーレの肌から血がにじんだ。
「アデーレ!」
アデーレはウルリヒには答えなかった。代わりに、嬉しそうに笑った。
「ラディスラウスさま、グンドゥラさま」
「ああ、かわいそうなアデーレ。汚れてしまったわね」
アデーレが引きづられていった先には女がいた。たおやかな、都の貴族のように美しい女だ。細い指が、幼子を愛でるように優しく、アデーレの頤を撫でる。
「グンドゥラ、やめないか。おまえが汚れてしまう」
「でも、ラディスラウスお兄様。あんなものに触れられたアデーレが、かわいそうなんですもの」
彼女の近くに音もなく降りたったラディスラウスの小言に、グンドゥラはつん、と唇をとがらした。妹のわがままに、仕方なさげにラディスラウスが嘆息する。
剣を構えるウルリヒたちの様子など、目に入っていないかのような態度だった。相手にするほどの脅威を感じていないのだろう。
魔族たちとは裏腹に、武器を構えたアントンは冷や汗がとまらなかった。接近に気づかず、触れられてもいないのに腕の中にいたアデーレを奪われた。厳しい顔で魔族たちを見つめるロニーが、後ろ手にハンドサインをよこす。
(さがれ、てったい)
じり、と後退する。とたん、アントンの足が何かに絡め取られた。ひや、と細く冷たいものが背中に触れ、それ以上下がれない。どころか、左右に動くことすらできなくなった。つかまった、とアントンは気づいた。後ろに飛び退こうとしたロニーも同じだったのだろう。大きく肩が跳ね、だがそれ以上動けずにいる。
「わるいこ、わたくしのおもちゃを汚すなんて」
「アデーレは、おまえの玩具ではない」
間髪容れずウルリヒがうなる。怒気をたたえた瞳が、グンドゥラとラディスラウスをにらみつけている。その口元が小さく動いた。ぷつ、と糸が切れたような音がした。
「ウルリヒ、」
「返してもらうぞ!」
怒声と共に、ウルリヒが迫る。グンドゥラも、ラディスラウスも動かなかった。魔族二人を一刀両断しようと、肉薄した身体からすさまじいスピードで剣が振り抜かれる。大量の血が飛び散り、周囲に鉄くさいにおいが広がった。次の瞬間、ウルリヒの悲鳴が上がった。
「アデーレ!」
切り裂かれていたのは、アデーレだった。先ほどまで力なく座り込んでいた彼女は、剣が振り抜かれた瞬間、グンドゥラとラディスラウスの前に両手を広げて飛び出していた。ウルリヒの振るった剣は魔族に届かず、妹を切り裂いた。ぼたぼたと血が地面に落ちる。魔族をかばい大けがを負ったアデーレは、地面へと倒れた。
「なぜ、」
「聖句か。グンドゥラの糸を切るとは」
ラディスラウスはつまらなそうに呟いた。グンドゥラが楽しそうに口元を歪めた。
「なんてかわいそうなアデーレ!家族に裏切られて、最後には切り倒されるなんて!」
「ちがう、おれは、」
ウルリヒは呆然としていた。助けに来たはずの妹の血で、端正な顔は真っ赤に染まっている。
「かわいいアデーレ。何度でもわたくしたちのために飛び出すのね。かわいそうで、かわいらしい、わたくしのアデーレ」
「何度でも・・・?」
逃げ出そうと足掻いていたロニーが、いぶかしげに呟いた。
「ええ、そうよ。何度でも。だってアデーレは、わたくしたちだけが好ましいのだもの」
「今回は、我らを汚さなかったな」
「ええ、行儀の良い子。最初に死んだときはラディスラウスお兄様を汚してしまったわるいこだったけれど、今回はわたくしたちを汚さなかったわ」
楽しそうにグンドゥラが笑う。
「アデーレ、かわいくて、かわいそうな、わたくしの人形。家族に見捨てられて、島の人間にも蔑まれて。臆病者だというのに、わたくしたちのためなら、死ぬこともいとわない」
いいこ、いいこ、と口ずさんで、グンドゥラが満足げに笑う。ころころと、玉を転がすように笑う声だけが、血まみれの森に響いている。
とらわれたままで、アントンは視線だけで周囲を見渡した。
ウルリヒは自失したまま動かない。ロニーは糸から逃げようとはしてるが、見えない糸から抜け出ることができずにいるようだ。見える範囲には2人、周囲の気配を探るが、確認できたのは2人のものだけだ。魔族2人は恐ろしいことに、見えているのに気配として探ろうとしても一切わからなかった。
(ルッツは見つかっていない。なんとか糸を切ってもらうにしても、時間が必要だ)
アントンが、とん、とん、とゆっくりリズムを取って足踏みをすると、ロニーの動きが一瞬止まった。もがく動きはそのままに、ロニーが、おい、と声を上げる。
「最初に死んだときっつったな。その言い方じゃあ、死んだのは今じゃねぇとでも言うつもりか?」
「ええ」
「アデーレちゃんは、さっきまで生きてただろうが」
問いに、グンドゥラは目を丸くした。少しして、くすくすくす、と小さく笑う。笑われることが嫌いなロニーが眉間に皺を寄せた。
「なにがおかしいんだ、てめぇ」
「ふふふ・・・ふふ、あなた、おかしなことを言うのね」
つ、とグンドゥラが、アデーレの死体を指さした。
「あれは、わたくしのお人形よ?」
「、な!?」
「えっ!」
注意を引かないようにしていたが、思わずアントンは声を上げた。
グンドゥラの指の先、アデーレの死体が立ち上がった。
深く切りつけられた身体は今にも二つに分かれてしまいそうな様子で、どう見ても致命傷だった。生きているはずもなく、ましてや立ち上がるはずもない。
「ア、アデーレ・・・?」
ウルリヒは顔を引きつらせて、目の前でふらつくアデーレを見つめた。
アデーレはふらふらと左右に揺れている。うつむいた顔は髪に隠されて、様子はうかがえない。その動きが、不意に止まった。
「・・・ふふ、ふ」
小さく笑う声がした。どこか空虚で、疲れた様子の見える声だった。声はだんだんと大きくなり、控えめな笑い声は様子を変えていく。ついにはうつむいていた顔を仰向けて、アデーレはゲラゲラと笑い出した。
「グンドゥラ、少し音量を下げてくれ。さすがに耳障りだ」
「あら、ごめんなさい、ラディスラウスお兄様」
ぴた、とアデーレが笑うのをやめた。その顔は口角を限界まで上げ目を見開いた、狂気を感じさせる笑みのままだ。
「これは、どういうことだ」
目の前の妹から視線をそらせないまま、ウルリヒが唇を震わせる。顔は血の気を失い、青白い。
愚かしいものを見る目で、ラディスラウスがウルリヒを見下ろした。
「生きているなら、ペットと呼ぶ。自分ではもう動かないものだから、人形なのだ」
自分たちが見ていたアデーレは、とうに生きてない死体だったのだ。
それを理解したウルリヒの衝撃は、筆舌に尽くしがたい。生きていたと喜び、殺してしまったと絶望した。長い時をかけて探してきた妹の姿が、魔族の戯れで再現されたものに過ぎなかったと知って、ウルリヒの視界がじわりと赤くなる。
「・・・きさまら」
血の気の引ききった顔が、壮絶な怒りに歪む。
「きさまら、よくも・・・よくも、お!?」
「猛り狂うだけなど、獣にも劣る」
「獣以下なら、言葉なんていらないでしょう?」
ラディスラウスが眉を寄せ、グンドゥラが微笑む。ウルリヒの喉を糸が締め上げた。
声にならない声で、ウルリヒが吠える。筋肉が盛り上がり、剣ごと糸に絡め取られた腕が揺れた。糸を引きちぎろうと暴れるウルリヒの顔が赤黒く染まり、酸素を求めて唇がおののく。
「撤退だ!」
瞬間、アントンが叫んだ。ほぼ同時に、ぴん、と張った魔の糸がちぎれ、3人の身体が解き放たれる。
「いそ、いで!あまり持たない!」
気配をたって身を潜めていたルッツが、必死の形相で叫んだ。格上の存在が操る糸を引きちぎった反動で、滝のように汗を流している。
ルッツの怒声に、すかさずロニーが獲物のハルバードを振り抜く。攻撃はたやすくラディスラウスに受け止められたが、想定内だ。その隙に、咳き込むウルリヒを引きずって、アントンが走り出した。ロニーもハルバードを捨てて踵を返す。その背後、ラディスラウスの手の中でハルバードが砕け散る。
「無理に取り返そうとはせず、獲物を捨てるか」
「いい判断だわ、いい判断だわ。弱い人、斧使い、ほめてあげる」
アントンたちは、死にものぐるいで走った。ルッツが新たな糸を結ばれないように頑張ってくれているが、それも長くは持たない。魔族2人の手が届かないうちに、ルッツの足下の魔法陣までたどり着かなければ、アントンたちは殺されてしまうだろう。あるいは、島の人々と同じようにつながれるか。どちらにせよ、良い結果は待っていない。
だが突如、アントンに腕を引かれていたウルリヒの足が止まった。つかんでいた腕が手の中からすり抜けて、アントンはぎょっとして振り向いた。
「ウルリヒ!?」
アントンが振り向いた先、ウルリヒの腕を、アデーレがつかんでいた。
「おにいさま」
「アデーレ、」
「いかないで、おにいさま。いかないでぇ・・・!」
くしゃ、と顔を悲しげに歪めて、アデーレが泣いていた。死体だと、そう思い知らされたばかりだというのに、それがなにかの間違いではないかと思うくらい、感情のこもった涙に見えた。
「ウルリヒ・・・!」
「ばっかやろう!」
混乱でウルリヒは動けない。見捨てられずにアントンはウルリヒの方へ戻ろうとした。その動きを止めようと、アントンの胴にロニーが腕を回して引き寄せた。ロニーによって引き寄せられたアントンの襟首をルッツがつかんで、足下の魔法陣に引っ張り込む。ルッツの魔力が魔法陣に流され、鈍く光り始めた。ウルリヒの背の向こう、アデーレが立つよりも先で、ごくゆっくりとラディスラウスたちが歩み寄ってくる。
(間に合わない)
アントンは唇をかんだ。ウルリヒの立つ位置から魔法陣はさほど遠くないが、思考の止まったウルリヒは走るのをやめてしまった。ウルリヒを引っ張ってくるために魔法陣の完成を遅らせようとするなら詠唱を中断しなければいけないが、再度詠唱をし直す間に、魔族2人が追いついてしまう。そして、再度詠唱を行うだけの魔力的な余裕はルッツにはない。魔法陣を維持するために配置されている補助道具は、詠唱を中断すれば使用済みになってしまい、再利用できなくなる。この道具を失えば、島の外までのごく短い距離とはいえ、転移魔法という高等魔法をルッツは使えない。
(このまま3人で、逃げるしかないのか?ウルリヒを置いて行くしかないのか)
「いかないで、おにいさま」
か細い声がウルリヒを呼んでいる。凍り付いたように動けないウルリヒの腕に、水仕事で荒れた指先が爪を立てた。
「このままどこかへ、いくなんて。わたしをわすれて、いきていくなんて」
涙に揺れる声が、急激に温度を失っていく。
「しあわせになるなんて、ゆるせない」
冷たい憎悪に、アデーレの瞳が歪む。ウルリヒの腕から肩へ這い上がった指先が、兄の首をかき抱いて引き寄せた。
そして次の瞬間、アデーレがウルリヒの喉を食いちぎった。
おびただしい量の血が溢れ、二人を、周囲を濡らす。噴き出した血を浴びて立つアデーレに寄りかかるように、ウルリヒは崩れ落ちた。痙攣する兄の身体を、ぞっとするほど冷ややかに、アデーレは見下ろした。食いちぎった肉を吐き捨てて、ゆるせないの、と温度のない声が繰り返す。
「わたしをすてて、おとしめて。わたしをわるく、いうのなら。きずつけようとするのなら」
暗い瞳が、足下の兄から上がっていく。魔法陣から立ち上る光の壁の向こうから、どろりと濁った眼差しがアントンを貫いた。
「おまえたちみんな、しんでしまえばいい」
「かわいそうなアデーレ」
グンドゥラが寄り添い、血にまみれたアデーレの頬をなでる。傍らのラディスラウスを振り仰ぎ、グンドゥラはふっくらとした唇に笑みをたたえた。
「その願い、叶えてあげましょう。わたくしたちのために死に続ける、かわいくて愚かなアデーレ」
「グンドゥラが望むなら、そうしよう」
ラディスラウスが軽く片手を払うと、ルッツの詠唱がやんだ。アントンの視界が横にずれ、ラディスラウスたちの姿が横転して転がっていく。転がり落ちていく視界の中で、首を失った、アントンたち自身の身体が見えた。
(ロニー、ルッツ、ウルリヒ)
無残な姿の仲間たち、血で汚れたアデーレ。互いを愛おしげに見る、グンドゥラとラディスラウス。
アントンの視界が急激に暗くなっていく。自分たちが死ぬのだという理解すら追いつかないまま、4人は息絶え、地面に転がった。
妹は陥れられ、ぼろぼろになりながら歩き続けました。
仕事ももらえず、周囲からは蔑まれ、その心はすり切れてしまいました。
疲れ切った妹は、自分に興味を示さない2人の存在に救われました。
妹は、自分が慕った相手のために行動して、その危機を救いました。
その行動に感じるところがあった2人は妹を側に置き、妹は幸せになることができました。
めでたし、めでたし。