第41話 地下の主 1
「障壁が一発で掻き消えたぞ」
お兄さんは悪意への服従ではなく障壁の詠唱を優先する。ゲインヴは再び大盾を両手で保持。私も障壁を重ね掛ける。
朱の人食い鬼はというと人間のように音声詠唱と左手による身体動作を行使し、呪文を詠唱した。たちまちのうちに周囲が煙幕の魔法によって包まれる。
「ルハカ、盾で身を守――」
煙幕の中、お兄さんが叫ぶが――。
ドッ――という音と共にお兄さんが弾き飛ばされ、煙の中に消える。
私は盾を詠唱せずに驚異の脚を先に詠唱する。お兄さんをすぐにでも庇いたかったが、私よりも適任は居る。だから今の状況を何とかする方が先だ。私は駆けた。
幸いなことに部屋はやたら広く、おまけに明るかったためサイズ感は把握している。
壁際まで逃げ、壁を蹴るようにターンし、距離を取りながら次の詠唱を。
一陣の風!――詠唱すると強風が吹き荒れ煙幕は掻き消えた。
さすがゲインヴはお兄さんをカバーしている。
朱の人食い鬼の巨体は強風に煽られひととき動きを封じられる。
炎の壁!――お兄さんと朱の人食い鬼の間に炎の壁を顕現させる。ただ、朱の人食い鬼もこちらに火球を放つ。放たれた赤い槍は私の居た場所へ向かうが、驚異の脚の機動力と未だ残る耐火の加護が被害を最小限に抑える。私は部屋中を駆けた。
朱の人食い鬼はさらなる呪文を唱えようとしたが、詠唱が中断される。
お兄さんの悪意への服従だ。お兄さんの鎧は凹んでいたけど出血は無いみたい。よかった。
朱の人食い鬼は無理には炎の壁を越えてこない。さりとて詠唱はお兄さんが許さない。果たして、朱の人食い鬼はそのまま降参してくれるか――と思いきや、腰に下げていた水袋のようなものを取り出し、飲み始め――いや、口に含んだ! 黄泉の門番のような吐息ではない。一瞬にして霧のように吹きかけたそれは、炎の壁に触れると大きくその場で燃え上がった。
数瞬、お兄さんから朱の人食い鬼への軟遮蔽が生じた。朱の人食い鬼は悪意への服従からの妨害を躱し、解呪を詠唱した。
炎の壁は消え去り、薙刀が二人を襲う!
再びゲインヴが大盾を構えて立ち塞がる。
ぶつけるように大盾を薙刀に合わせるゲインヴ。
ただ、何故か薙刀には最初の一撃程の勢いはなかった。障壁と合わせて凌げる勢い。
一撃は鋭いが、黄泉の門番の四本の腕ほどの凄まじさは無い。
こうなるとゲインヴは粘り強かった。
薙ぎを葦のように柔らかく往なし、突きは盾の上を滑らせ逸らし、上からの叩きつけには盾で身を隠して重心を変え、芯を外していた。ゲインヴが躱すその度、その度にお兄さんの悪意への服従が叩き込まれる。
薙刀の長さを活かし、朱の人食い鬼はお兄さんを直接狙ったりもした。ただそこはお兄さん。幻影魔術で複数体の鏡像を発生させる。お兄さんの幻に当たるとそれは掻き消えるが、そもそもお兄さんは攻撃をゲインヴに押し付けるように立ち位置を変えている。容易に狙える場所に居るのは全て幻なのだろう。
私はひたすらに障壁を掛け続けていた。
魔術師の魔法は範囲が広い。接敵した敵の排除は容易ではない。
ギリギリを狙ってゲインヴに当たってしまえば元も子もないのだ。
エリン様のようにはいかない。
ただ、意外にも黄泉の門番のように猛攻は延々とは続かなかった。
お兄さんが何十回目かの悪意への服従を当てた時、朱の人食い鬼は薙刀を引いたのだ。そして左手を――待て――とでも言うように差し出し、首を垂れた。
――おかしい。何かがおかしい。
朱の人食い鬼は身体の傷はおろか、黄泉の門番の首のように気絶しているわけでもない。それに何より、まだ余力を残しているようでもあった。
朱の人食い鬼は何らかの言葉を発しているが意思疎通できない。
彼は兜を脱ぐと元居た葦の敷物まで戻り、再び胡坐をかいた。
「なんなのでしょう?」
お兄さんに聞いてみる。お兄さんも彼の意図がわからない様子。
「わからん……が、通してはくれるみたいだ」
格子扉に近づいても再び立ち上がってくる様子はない。
私たちは荷物を回収し、先へと進んだ。
◇◇◇◇◇
さらに地下へと続く階段の先は地下迷宮であった。
壁は比較的軟質の石で、迷宮自体がくりぬいて作られたもののように見える。
さらには壁にどこまでも棚のようなものが並ぶ。幅八尺、高さ一尺半くらいの横長の棚が上下に三段、あるいは四段。それがどこまでも並ぶ。
「まるで地下墓所のようだな」
「ひっ……」
お兄さんが怖いことを言う。怪物は怖くない。けれど人は怖かった。
遠征でも魔王軍に堕ちた領兵の軍隊はあまり相手にしたくなかった。
赤銅が相手をするのは主に怪物どもで、人相手は最初の砦攻め以降、お兄さんの指示で無力化の魔法を主に使っていた。赤銅には若い魔術師が多い。それだけに精神的に弱い。だからお兄さんが気遣ってくれていたのだ。
歩みを進めるが、幸いなことに埋葬された死体は見当たらない。
ズルリズルリ――何かを引き摺るような音と共に、通路の先から鬼火に照らされ現れ出でたのは、鬣に包まれた皺だらけの巨大な顔!
皺だらけの顔は私たちの視界に入ると、大口を開けてカラカラと笑う。その口には汚らしい尖った牙が二重三重と並んでいた。体は獅子。四つ足のクセにゲインヴと同じくらい背が高い。
ビュン!――何かが空を切る音と共に障壁にぶつかって弾かれる。細い、尖った串のようなものを何本も飛ばしてきていた。
「腐肉喰らいだ! 障壁を欠かすな。針には毒がある」
私は距離があるうちに白熱の槍を詠唱し放つ。
「わたくしたち、生肉ですよ!?」
「死んだらいずれ腐肉でやすがね」
ギャッ――と人間の顔の倍はあろうかという腐肉喰らいの額に白熱の槍が命中する。
「あれ? 効いてます」
「確かに効いているな」
ただ、腐肉喰らいもそのまま倒れはしなった。読み解けない何かの詠唱を始める。お兄さんは魔占術を、私は二本目の白熱の槍を詠唱している最中だった。
腐肉喰らいの詠唱の完了と共に、私たちの詠唱は掻き消された。途端にキーンという耳鳴り。音が全く聞こえなくなる。
――沈黙だ!
詠唱省略が得意ではない私には手がない。
せいぜい小魔法がいいところ。
ニヤリと人間のように笑う腐肉喰らい!
むかぁ!――ときた怒りはしかし、一瞬で抑えられる。
ただ、腐肉喰らいは突然、目を見開いて頭をぶるぶると振るう。
百面相のように皺だらけの顔をよじらせ、やがてドロドロと不快な何かを大口から吐き始めた。よろよろと体のバランスを崩し、壁にぶつかるとそのままズルリと横たわった。
お兄さんだ。
詠唱を省略された悪意への服従が腐肉喰らいを打ちのめした。
お兄さん凄いです!――と叫びたいところだけど声にならない。
私は仕方なく――仕方ないよね?――後ろからギュッと抱きしめておいた。
お兄さんは沈黙よりも慌てていた。
腐肉喰らいが引き摺っていたのは先端が巨大な針の山になっている尻尾。これを鞭のように振るって針を飛ばしていたみたい。ゲインヴが長剣を喉元に深く突き刺す。
沈黙が失われるまでしばらくその場で休憩。
書き留めていた地図を確認する。迷宮……というほどでもない。通路が整然と平行に並ぶブロックがあり、そのブロックの外周のどこかにある横道を抜けると、通路の先にさらに別のブロックがあるだけ。その繰り返しを奥へ奥へと進んでいる。
再び進み始める。するとまた別の腐肉喰らい。
今度は私が白熱の槍で先制しながらお兄さんとゲインヴが急襲。
可能な限り素早く近くに寄り、悪意への服従を叩きこむ。
先制さえ許さなければ容易な相手だった。別のブロックではさらに別の腐肉喰らいが。ただ、上階の怪物ほど脅威ではない。倒した腐肉喰らいは止めをさしていたが、その前にお兄さんが魔占術で調べる。
「やはり神性の魔法が弱点だな。ここの怪物に共通する弱点なのか?」
◇◇◇◇◇
十といくつかのブロックを超えた先、ようやく地下への階段を見つけた。
狭い階段で、腐肉喰らいが侵入することは無いだろうと、お兄さんは休憩を指示した。
「地下ってえのに意外と温かいでやすね」
「確かにそうだな」
「普通の地下迷宮ではありませんよね、明らかに」
地下迷宮というのは実在する。ただ、こんな桁外れに大規模なものは聞いたこともない。それに、多くは穴掘り妖精が作った洞窟のようなものか、人間が作った浅い構造の地下墓所、或いは鉱山といったもの。
「ま、あたしゃ、あしらいやすい相手で助かりやすがね」
「それ! それですよ!」
「何ですかい?」
「下に行くほど楽って変じゃありません?」
「――だって、怪物の棲み処にしても大物ほど手下に入り口を守らせて自分は安全な場所に居ますし、これだけ大きな場所でいちばん凶悪だったのって黄泉の門番ですよ? 朱の人食い鬼なんて手加減してくれてたような……」
「ルハカもそう感じたか?」
「いやあ実はあたしもそう思いやす」
「もう一層、降りて確かめればわかるかもな」
お兄さんの言葉の通り、次がさらに弱い怪物の棲み処なら……。
長くなりましたので分けます。
オーガメイジの一発目は必殺技(笑)ですね。
変移抜刀霞切りの原点である薙刀での必殺の一撃だとおもいますたぶんきっと。
スヴェントリはマンティコアです。比較的原型に近い描写にしました。