未来への牛乳
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
えっ、日本の食品ロスって600万トンもあるんだ!?
しかも世界の援助食糧援助量を優に上回るって……日本人、食べるのが好きすぎでしょ。
そりゃあね、スーパーに行けばずんどこ山盛りのおかずたちあり。少しくにぎやかなところを歩けば、数十歩で次々と食べ物屋に突き当たり……食べ歩きに事欠かない環境だよね。
しっかし、食品ロスなんて僕たちが小さいころは、全然聞かなかったよねえ。少し調べてみたんだけど、この言葉は20世紀末に使われるようになったみたい。それからメディアを通して浸透していき、20年ほどが経って大勢に周知されるようになったそうだ。
逆をいえば、20世紀ははからずも食品ロス推奨時代だったのかもしれない。その時代ゆえに、奇妙なことに出くわした記憶もある。
君の好きそうな話だと思うけど、聞いてみないかい?
20世紀末といえば、まだ僕も実家暮らしの学生。
自分の用事以外に、親から頼まれて買い物に行くこともしばしばあった。
たいていは、親から買い物のやり方を学ぶだろうけれど、特に刷り込まれるのが消費期限の見方じゃないだろうか?
棚に並んでいる、同じ商品たちを見比べて、少しでも日持ちがするものを選んでいく。早くにものを傷ませないためだ。
おそらく食品ロスの傾向を強めた、大きな原因がこの買い方だといえる。
ひとりにせよ、複数人にせよ、必要な分だけを、消費期限が早い順から手に取っていけば、順繰りに食べ物を減らしていくことができただろう。
それが、誰もかれもが隣同士を手に取り、あるいは奥へと手を突っ込んで、一日でも記された寿命の長い方へ意識を向けちゃうものだから、命日の迫った連中こそ捨て置かれてしまう。
それに3割引きとか半額とか、もうけを投げうって売り込むも、それさえ通用しなくば敗残者。食べるのに問題なくとも、お客様へ渡すことはできず、たいていがそのままゴミ箱だ。
もっとも処理されている現場を見ていない、多くの買い手にとっては、ほとんど気にならないところだけど。
その日はたまたま、僕が個人で買い出しに来ている日だった。
いまでこそ、お腹がゆるくなりがちな僕だけれど、当時は牛乳をたらふく飲むことが好きでね。パックに自分の名前を書いた上で、冷蔵庫のいちスペースにストックさせてもらっていた。
ひとりだから500ミリのパックでいいのだけど、やはり刷り込みにはあらがえず。自然と手はパックの上部、記された消費期限の数字をなぞってしまう。
――もっともっと、長持ちする奴を探すんだ。
手前にあるパックたちの期限は、翌日のものから3日あたりまで。僕はずっと棚の奥へ手を伸ばし、残りの期限も順番に見ていく。
これまでの最高記録は10日後くらいだった気がする。もう何度も買い物に出たことがあったけれど、見つけたことは数えるほどしかなかった。
それを探すことは、野原で四つ葉のクローバーを求める感覚に似ている。めったに出会えないものだからこそ、その可能性がわずかでもあるなら、どこまでも追い求めたくなってしまうんだ。
すでに買い物カゴの中は、棚の前へ置かれていた牛乳たちが、半ばを占めている。
もちろん、どれも買うつもりはなかった。僕の捜索を邪魔する壁に過ぎなかったものだ。
止める店員は来ず、とがめてくれるお客もいない。僕は一心不乱に漁っていき、とうとう棚の最奥まで行って、見つけてしまったんだ。
棚の一番奥で灯る、青白い照明。それに映し出されたパックは、見た目こそ他のものたちと大差がなかった。
けれどもその期限は、ちょうど一年後の今日を示しているじゃないか。
目を見張る僕は、これまでどかした有象無象たちと、何度も比べてみたよ。そして棚にただひとつ存在するブツだと分かるや、即購入へ踏み切った。
レジの店員さんも、重なる流れ作業にモチベーションを失っていたのか。けだるげにスキャナーを当てながら、牛乳の期限に気づくことはなかったよ。
帰宅した僕は、すぐにはその牛乳を飲まなかった。
確かに牛乳は好きだったけれど、それ以上に清涼飲料水が大好きだったからね。
普段はめったに買ってくれない親が、その日はたくさんペットボトル入りのものを購入してくれたんだ。チラシに書いてある特売日で、これを機に衝動買いしたもののひとつらしかった。
2リットルペットボトルが、ひと箱に6本入っている。それは子供の僕にとっては、パラダイスにしか思えなかったよ。
6本がいっぺんに冷やされたけれど、次はいつこのような機会があるとも限らない。
僕はちまちまと時間をかけて、飲んでいった。家族も飲むけれど、その量は大したことはなく、飲み終わるのは開栓からおおよそ5日前後というところ。
6本すべてを空にして、ようやく牛乳へ意識を戻したときには、もう買ってから一カ月半が過ぎていたかな。
この時の僕は、自分が買った時の経緯をすっかり忘れていて、ほぼ一年後の期限に改めて感動していたよ。
それに、一年後までもつ牛乳の中身にも興味がある。
内容量通りならば、コップ2杯半。清涼飲料水のときもそうだったけれど、僕は中身を一気に飲むのをよしとしない。この牛乳もゆっくり味わうつもりだったんだ。
コップに一杯注ぎ、パックは元通りに冷蔵庫へ戻す。そばに置いていたら、立て続けに飲みたくなってしまうかもしれない。我慢をうながす、僕なりの手だ。
ぐっと一息に飲んで、のどに絡み、鼻をくすぐる乳製品独特の香りを、存分に楽しんだ。舌に残る分もつばと一緒にごっくり飲み込み、その日はほどなく眠ってしまったんだ。
ところが翌日。
また牛乳パックを手に取って、僕は違和感に気が付いた。
パックが重いような気がするんだ。口は開いているから、確かに昨日は中身を飲んだはず。
それがほぼ満タンを思わせる手ごたえで、注げばやはり牛乳が出てくる。味わいも、水をくわえて薄めたような、無粋なものじゃない。
それが何日も続き、僕は次第にこれを神様の恵みのように思い出したよ。
――あの歌だと、ビスケットが増えるのはポケットの中だったっけ? でもこの牛乳はパックの中で増えるんだ!
この奇跡を無くすまいと、僕は一日一杯を頑なに守り続けた。親に怪しまれないように、冷蔵庫の中の位置も定期的に変えた。
僕が新しく牛乳を欲しがらないことも、親にとっては大きな問題じゃないらしく、追及されることもなかったよ。
そして一年が経つ。
あのパックに書かれていた期限の日を迎え、僕はいよいよ中身を飲み干そうと思った。
この一年、牛乳が傷む様子はなく、お腹を壊したりすることもなかった。
本当はずっと手元に置いておきたかったけれど、「期限が過ぎたものは、できる限り口にしないように」という親の注意も、頭に残っている。
これがこいつとの今生の別れとばかり、パックへ手をかけた。
そのとたん。
パック全体が白い汗をかいたかと思うと、一気に「溶けた」。
先ほどまで自分たちをとどめていてくれた、パックの壁を失い、中の牛乳たちはあっという間に台所のテーブルを、椅子を、床を席巻した。
かろうじて残ったパックの上部をつまんで、僕は驚く。
触れたはしから、パックは氷でできているように、指の上で消えてしまった。それほど極薄な状態で、いまのいままで存在し続けていたんだ。
おそらく。おそらくだけど、牛乳が補充され続けていたのは、パックそのものが薄くなって牛乳に加わっていたからじゃないか。
そうしてパックとしての役目を果たせなくなるのが、一年後であると。
パックがなくなった翌日から、僕のお腹は思い出したように、調子が悪くなった。
そこから数日間のお通じは、妙に白い塊じみていて紙のようなものが貼りついているように思えたんだ。