土岐明調査報告書
十月九日
翌朝、十時ごろ、田園調布の廣川邸に出かける前に前日の調査日誌をパソコンに打ち込んだ。昨晩の飲酒はそれほど深くなかったが、軽い頭痛を感じていた。
〈調査日誌 十月八日 木曜日〉
午前十時半 事務所にて調査報告書作成
午後三時 蒲田駅より京浜東北線で上野駅下車
午後四時 上野桜木周辺で聞き取り
午後四時半 東京芸術大学で浦野助手に聞き取り
午後五時 上野駅より銀座線で日本橋駅下車
午後六時 日本橋にて海野刑事に聞き取り
午後八時 事務所帰着
前日書きあげた調査報告書の文書末の調査日誌と経費一覧に、木曜日分を付け加えた。それから佐藤加奈子に電話し、昼頃訪問することを伝えた。午前十一時に事務所を出た。
田園調布に着いたのは十二時前だった。駅から廣川邸までの風景にそれほどの変化はないとは思われるが、土岐には紅葉の色づきで推量される時の移ろい以上の変化があるように感じられた。
佐藤加奈子は応接室のドアを開けて待っていた。加奈子がコーヒーを持ってくる間に、玄関わきの固定電話の受話器をとって、重量を確認した。わずかに通常より重く感じられた。大日本興信所の澤田英明の盗聴器は、まだ仕込まれたままのようだった。
加奈子のコーヒーを応接間のソファに腰掛けて迎えた。コーヒーに手をつける前に、土岐は調査報告書をショルダーバッグから取り出してクリアファイルごと加奈子に手渡した。加奈子が目を通している間に、土岐はコーヒーにミルクとグラニュー糖を落とした。スプーンでかき混ぜるとコンデンスミルクが白い渦を巻いて琥珀色のコーヒーに沈み、茶色のミルクコーヒーに豹変した。時折、ダブルクリップでとめたA4の報告書を加奈子がめくる音がする。その音が幾度か繰り返された後、速読した加奈子が顔をあげた。
「数日中に結論が出るとなっていますが、いつごろに?」
「早ければ、来週早々にでも・・・」
「そうですか・・・それじゃあ、結論の出た段階で、宇多弁護士と打ち合わせしていただけますか?」
「ええ、そのつもりです。・・・調査活動の依頼主が宇多弁護士に移った段階で、こちらとの契約は終結ということでよろしいですか?」
「ええ、構いません。・・・ごくろうさまでした。・・・では、あと数日、結論の出るまで、お願いいたします」
「今後は、廣川氏の女性関係に絞りたいと思うのですが、・・・以前にもお聞きしたことがあるかとは思いますが、アイテイの相田貞子社長と開示情報の経理担当の松井さん以外に関係が有ったかも知れないと思われる女性を教えていただけますか?」
加奈子はジャカード編みの利休鼠のプリントニットジャケットの腕を組んで、床のアラベスク紋様のペルシャ絨毯に目を落とした。焦げ茶色のブロッキングレザーパンツの足を組んで、右ひざの上に、組んだ左ひじを乗せている。
「あの人は、・・・わたしもそうだけど、基本的に素人さんとは深い関係を持たなかったと思います。だから、相田貞子も事務の松井さんも、それほど深い関係ではなくって、仕事関係の延長線程度じゃなかったかと、思います」
「すると、玄人筋では、どの辺で遊んでいたんですか?」
「ずいぶんと前のことで、記憶が確かじゃないけれど、わたしと出会う前までは、
『深い関係があったらしいのは、川向うだけだったんじゃないかしら』
って所属していたクラブのチイママから聞いたことがあるような気がします。でもそれは廣川がまだ若いころの話で、五十年近く前の話です」
「その・・・川向こうというのは?」
「隅田川の向こうで、向島のことです」
それを聞いて土岐の頭に、目の焦点の合わない魂の抜けた表情で、この世を漂流するように生きている中井愛子が浮かび上がった。海野の調査によれば、愛子の本籍は、墨田区向島だった。帰り際に、土岐は加奈子に尋ねた。
「中村貞江という名前に聞き覚えなはいですか?」
「中村?」
「貞江といいます」
加奈子は首をかしげた。瞳がゆっくりと左右する。
「確かじゃないけれど、・・・聞いたことがあるような、ないような」
それを聞いて土岐は腰を上げた。廣川邸を辞すと、土岐は田園調布駅から目黒線で三田駅に出た。三田駅から都営浅草線で押上駅で降り、徒歩で北上して向島についた。
言問橋東詰のコンビニの若い店長に置屋の所在を聞いた。置屋を知らないようだった。
「オキヤ?・・・って何屋さんですか?」
「芸者を斡旋するところですけど・・・」
「芸者?そんなひと、この街にいたんですか?」
土岐は聞き込みを諦めた。地理的に芸者がこの店で買い物をしてもよさそうだが、どうも彼女らは私服以外ではコンビニには来ないようだ。
水戸街道の交差点の交番で改めて聞いた。若い巡査が壁に貼ってある所轄内の地図を見ながら答える。
「ここから、一番近い墨堤組合の組合長をやっている置屋さんでいいですか?」
警官は地図を指でなぞる。そこだけ地図の印刷が擦れ落ちている。
警官の説明を聞いて水戸街道と隅田川沿いの墨田公園に挟まれた南北に延びる街を白髯橋方向に北上した。警官が教えてくれた一方通行の狭い路地の左側に黒い板塀に囲まれた、
〈波家〉
というしもた屋風の木造家屋があった。塀の上から剪定で整えられた松の枝ぶりが見越せた。白木の木戸をするりと開けて、土岐は人を呼び出した。
「こんにちは、どなたか、おられますか?」
しばらくして、銀鼠の和服姿の引っ詰めの老女が出てきた。
「はい、なんですか?」
片膝を付けた姿勢にいかにも玄人という風情を漂わせている。
「ちょっと、お聞きしたいことがありまして・・・終戦直後のことなんですが、このへんで廣川弘毅という人が遊んでいたと思うんですが、そのお相手をした人について聞きたいんですが・・・お分かりになるでしょうか?」
老女は土岐の顔をまじまじとみた。土岐が無表情でいると次第に呆れたような顔に変貌した。
「そういうことは、お座敷できいていただけますか?御座敷でしたら、どんなことにもお答えいたします」
「しかし、わたしは、馴染じゃないもんで・・・」
老女は洗顔料で洗った後、化粧水だけをしみ込ませた顔で、土岐の黒い靴紐の付いた茶のスニーカーの爪先からカーキ色のチノパンとコーデュロイのジャケットまで見上げ、それから目線を足先に戻した。その目の移ろいを二回繰り返した。
「初見でも、構いませんよ。昔はうるさかったんですけどね・・・いまはね。・・・予約さえしていただければ・・・」
そう言いながら老女は、和服の帯の間から角のとれた小ぶりの名刺を人差し指と中指で挟んで差し出した。
「こちらに予約を頂ければ、いつでも御座敷を用意いたします。お尋ねは廣川コーキという人のお相手をした人ですね、五十年くらい前の」
土岐は渡された名刺を見た。
〈波家〉
という草書体の文字の上に松の枝がデザイン化され、下に川が描かれている。裏に電話番号と、簡単なアクセス地図が描かれていた。
「それじゃあ、出直します」
置屋で芸者を呼ぶといくらかかるのか、土岐は知らなかった。調査でカネのかかるときは、宇多弁護士に頼むしか方法がなかった。土岐は、言問橋を渡りながら宇多に電話した。
「いつもお世話になっています。土岐と申しますが、宇多先生はおられますか?」
嬌声に近い女の声が返ってきた。
「あら、土岐さん、お久しぶり。・・・先生はいま、向かいのホテルでクライアントと面談中ですが、三十分ぐらいで戻ると思います。なにか、ご伝言でも?」
「それじゃ、これからそちらに向かいますので、・・・一時間以内には着くと思います。そうお伝えください」
土岐は水戸街道を隅田川沿いに南下し、徒歩で浅草に向かった。都営浅草線の浅草駅まで、置屋の〈波家〉から三十分近く要した。馬喰横山駅で都営新宿線に乗り換えて、九段下駅で降りた。九段下から、靖国通りを靖国神社沿いに坂を登り、武道館を左手に見て、最初のT字路で横断歩道を渡り、英国大使館方向に左折し、三つ目の雑居ビルに入った。狭隘な階段を二階に上ると、正面に、
〈宇多法律事務所〉
と扉のすりガラスにレタリングされた部屋があった。ドアを開けて入ると小さな受付がある。気配を察して、隣の部屋からにぎやかな秘書が出てきた。
「いらっしゃいませ。土岐さん、お久しぶりですね。お顔を忘れるところでした」
この秘書は宇多の御手つきだと見立てているので、土岐はあまり愛想良くしないようにつとめている。
「宇多先生、戻りました?」
「たったいま。なーんか、はかったようですね」
と言いながら、秘書は受付わきの応接ルームに土岐を招じ入れる。
「いま、お茶を持ってまいりますので・・・」
と言って部屋を出て行く。それと入れ替わりに、宇多が現れた。深いグレーの三つ揃えが高級そうな生地で仕立てられたオーダーメードであることは土岐にも分かった。
「貧乏暇なしだ」
とため息を吐いて、転げ落ちるように本革張りのソファーに腰を落とす。土岐は静かに腰をおろしながら嫌みのような自嘲をもらす。
「貧乏の意味合いがぼくとは二ケタほど違いますけどね」
宇多は土岐の言うことを無視する。
「それで、どう?佐藤加奈子の一件は?」
「ほぼ、調査が終わりつつあります」
宇多とは一歳しか違わないが、力関係から宇多は土岐を見降ろすように言う。
「で、勝てそう?」
「たぶん」
「でも、警察は自殺で片づけたんでしょ」
「担当刑事は、自殺とは思っていないようです」
「でも、職務義務違反になるから、そんなことを裁判で証言するわけないでしょ」
「自殺の根拠は目撃証言で、それは間違いなく偽証です」
そこに秘書がお茶を持って入ってきた。テーブルにお茶を置きながらかがみこんでパンティラインが浮かび上がる腰のあたりを宇多はじっと見つめている。
「・・・例の見城仁美とかいうOLね。・・・で、偽証をどうやって立証するの?」
「目撃者がもう一人いて、・・・男子学生なんですが、彼に見城仁美の証言が偽証であることを証言してもらいます」
「どうやって?」
「見城仁美の最初の証言は、男子学生とほぼ同じなんですが、あとで、自殺だと証言を変えたんです」
「最初の証言の記録は残っているの?」
「海野刑事が聞いています」
「でも、その人、自殺で調書をあげたんだから、そんなことは証言しないでしょ」
「いえ大丈夫です。来年定年なんで、ぼくと共同事務所を経営することになっています。定年後に、法廷に立ってもらえると思います」
「ちょっと待ってよ。裁判の開廷が来年に延びたらそのことを相手の弁護士につっこまれるでしょ。共同事務所を立ちあげたらその海野刑事は利害関係者になっちゃうでしょ」
「そうなれば、共同事務所の経営は先延ばしにします。・・・ここの事務所からの仕事をもっと回してくれれば、海野刑事にとっては、証言の励みになると思います」
「それも、結審してからね。・・・でも、一審のあとで、そのことが相手の弁護士にばれないようにしないとね。上告期限後にしてもらわないとね」
宇多はテーブルの上のシガレットケースを開けると、葉巻を取り出して、ライターで火を付けた。バニラのような甘い香りが土岐の鼻先をくすぐる。宇多が煙を吐き出す。
「物証がないから、もう少し、状況証拠を積み上げないとね。・・・目撃者がいても、
『自殺だと思う』
『思わない』
では水かけ論で、警察が自殺で処理したこともあるし、保険会社相手では、まず勝てない」
「・・・USライフの顧問弁護士とは、どういう話になっているんですか?」
土岐は宇多の表情を注視した。嘘をつく可能性があると踏んでいた。瞬時に姦計を巡らしているのが、宇多の表情からにじみ出ている。
「・・・大野女史から聞いたのか?・・・向こうは、示談が成立しそうだと勝手に思い込んでいるようだが・・・」
「・・・で、実際のところはどうなんです?」
「こっちの手の内を見せるわけがないでしょ。向こうがそう思いたければ、そう思わせておくだけだ」
と不愉快そうに言う。土岐にUSライフとの癒着の嫌疑をかけられたことに気づいたようだ。土岐の疑念が図星でないことを宇多は弁解する。
「こちらはあんたと違って、事務所経費や事務員の給与やら固定費が掛って大変なのよ。思わず知らず、そういう心掛かりが言動を曖昧にさせることはあるけれど、筋はいつも通しているから、心配しないで大丈夫」
それを聞いて、土岐は待っていたかのように身を少し乗り出した。
「そこで、今夜、証拠集めをしたいんですが・・・付き合っていただけますか?」
「また、接待交際費のおねだり?」
「すいません。今回は、いくら用意していいか分からないんで・・・」
葉巻たばこの煙を吐き出しながら、宇多の顔色が少し渋目に変わった。
「どこ?」
「向島です」
「へえ、あんなところの馴染なの?」
「まさか、今日が初見です」
「なんだ、裏も返していないのに、接待?」
「今夜、よろしければ、予約をとりますが・・・」
「残念ながら、今夜はほかに何の予定もないので、付き合わざるを得ないなあ。・・・まあ、向島も一度ぐらいは、行って見てもいいでしょう。銀座も新宿も飽き飽きしたし、・・・じゃあ、向かいの中華料理屋で腹ごしらえをして、いっぱいひっかけてから、行くことにするか」
土岐はそこで貰った名刺を見ながら、〈波家〉に七時の予約の電話を入れた。五十年前のことを知っている人を座敷に呼んでくれるように頼んだ。若い芸妓は不要とも伝えた。
「そうですか。それは助かります。今日は、金曜日なんで、若い子は、かもめさんも出払っていて、・・・」
昼間会った女将の声だった。土岐は折角の機会に若い芸者をあげられないのは口惜しくもあったが、宇多のカネで呑ませてもらう身で、あまり贅沢も言えない。それに、宇多は記憶力がよく、帳尻はいつか、かならず合わせてくる男だった。接待交際費で呑むにしても、今晩かかった経費は、今後の宇多法律事務所の下請け業務で、きっちりと削られることを覚悟する必要があった。
九段上の中華料理店で夕食をとりながら、これまでの調査結果を宇多に説明した。
二人で紹興酒の中瓶を一本空けてから向島に向かうタクシーに乗ったのは六時半前だった。タクシーの若い運転手は地理に不案内で、〈波家〉の場所が分からないというので、土岐が名刺を見ながら住所をカーナビゲーションにインプットさせた。運転手は、どこかの会社をリストラされたばかりのようで、運転技術もおぼつかなかった。
七時ちょうどに、急ブレーキとともに〈波家〉の玄関前に着いた。
黒い三和土に二人で足を踏み入れると、昼間会った女将が三つ指で迎えてくれた。
「どうぞ」
と言う。土岐は、どうぞ、の意味が把握できずに、とまどった。
「こちらで少し待つんですか?」
「いえ、お二人さんならちょうどいい部屋はここにもあります。それに、芸妓をあげないと言われるんで、こちらのほうが、お安く遊べます。・・・ただ、お料理は、お隣からの取り寄せになりますが・・・」
と言いながら、女将は宇多の承諾を得ようとしている。三つ揃えの宇多がスポンサーであることを既に見抜いていた。
「いいでしょう」
と宇多が靴を脱ぎ始めた。女将は玄関に降り、二人の下足を整えた。
「さあ、こちらにどうぞ」
と暗い畳の廊下を奥へ進む。突き当たりに、四畳半の次の間付きの八畳ほどの客間があった。床の間があり、その右手に壺庭が見えた。床の間の軸には、
〈寒山寺楓橋夜泊詩石刻〉
が掛けられている。畳の上には座布団が二枚あるだけで、他には何もない殺風景な和室だった。二人が床の間を背に、座布団に座って部屋の中を見回していると、銘々膳が運ばれてきた。持ってきたのは矢絣の和服をぎこちなく着込んだ少女だった。その後ろから女将が丸いお盆にビール瓶を二本載せて持ってきた。
「最初はビールでよろしいですか?」
応諾する前に、銘々膳のコップをめがけて、女将がビール瓶の口を差し出してきた。最初に宇多、次に土岐の順で注いで回る。
「市松姐さんは、もうすぐ来ますので・・・それに新内の勘太師匠と幇間の植吉さんにも声をかけました」
それを聞いて宇多は満足そうな笑みを見せた。土岐は名前を聞いただけで平均年齢が高そうなので、気分が少し暗くなった。
「さっき、こちらの予約をとる電話で、たしか、
『かもめさんも出払っている』
と言ってましたが、かもめさんというのは半玉さんのことですか?」
「いいえ、アルバイトの女の子のことです。・・・だいたい女子大生が多いんですが・・・敷居を高くしているというわけではないんですが、きゃぴきゃぴしたキャバクラ感覚の子はお断りしているんですけど・・・」
しばらくして高齢の三人が料理とともに現れた。浅黄の羽織に三味線を持っているのが新内の勘太師匠、五分刈りで兵児帯にネルの着流しが幇間の植吉、艶々の鬘の下に罅の入るほど白いファンデーションを塗りたくっているのが市松姐さんだとすぐ分かった。平均年齢は優に七十歳を超えているように見えた。
「何か踊りましょうか?」
と市松が言う。その市松を見て宇多が土岐に耳打ちした。
「おい、おい、化け物屋敷か?」
それを女将が聞きつけた。
「いいえ、おばけは節分のときしかやりませんのよ」
宇多はばつが悪くなってごまかしの質問をした。
「・・・そのお化けってなんですか?」
「仮装大会みたいなもの・・・お姐さんがほっかむりして髭を眉墨で描いて、おじさんになって、安来節を踊ったり・・・」
間髪を入れず、制限時間を気にしている土岐が言った。
「お三方に、先に話を伺えますか?」
それを宇多がコップを持つ手で制した。
「まあ、まあ、かけつけ三杯で、とりあえず、ビールででも乾杯しましょう」
先刻、なにかを伝える際に、女将を、
『おかあさん』
と呼んでいた少女を呼びつけて、女将はコップを三つ持ってこさせた。芸人三人が土岐と宇多の前に正座し、コップを持った手に女将がビールを注いで行った。
「折角来られたんだから、お得意の十八番でも見せていただきましょうか」
と宇多は三つ揃えのチョッキのボタンをはずし、すっかり宴会気分になっていた。土岐は完全に酔いの回る前に話を聞きたかったが、スポンサーの意向には逆らえなかった。
最初に市松が勘太師匠の三味線でひと舞い見せた。鬘の若々しいつやと、顔肌のぼろぼろのファンデーションの不釣り合いが際立っていた。しかし扇子の手さばきと蹴出しの足運びは往年の華麗さを彷彿とさせた。
次に植吉が藤八拳のような滑稽な踊りを市松との掛け合いで見せた。二時間が一区切りと聞いていたので土岐は残り時間を腕時計で絶えず確認していた。
最後に勘太師匠が新内をしんみりと流し始めた。
土岐は切り出した。
「お三方にお聞きします。いまから五十年くらい前、このあたりで廣川弘毅という男が芸者遊びをしていて、芸者のひとりと懇ろになったらしいというんですが、聞いたことはないですか?」
市松が聞いた。
「その芸妓さんのお名前は?」
「それが分かりません」
植吉が市松と顔を見合わせる。
「お客さんの名前が、廣川コーキさんと分かっても、お客さんはその頃五万といましたので・・・何か特徴でもあれば・・・」
「その頃、たぶん、総会屋をやっていたはずです。だから、いわゆる普通の企業の接待の宴会とは違う雰囲気だったんじゃないかと思うんですが・・・廣川弘毅は接待される側で、接待するのは大企業の総務部の社員で・・・これが顔写真です」
と土岐は廣川弘毅のパスポート写真を出して、女将に渡した。女将はそれを右端に座っていた勘太に渡し、勘太から市松、市松から植吉へ回覧された。最後に植吉が土岐にパスポートを返した。その間、バックグラウンドミュージックのように勘太の三味線がばち打たれていた。土岐がパスポートを内ポケットにしまった時、勘太のばちが不意に止まった。
「コーキ、コーキ、・・・ヒコーキ。ひょっとして、その廣川弘毅さんのお相手は、飛行機さんじゃないかな」
市松が勘太の方を向いた。
「飛行機さんって、・・・郭公姐さんのこと?」
植吉が市松に聞く。
「なんで、郭公姐さんのことを飛行機って言うのです?」
市松が植吉と土岐と宇多の顔を交互に見ながら説明する。
「幾つぐらいのときだったかしら、・・・郭公姐さんが四十を過ぎたころから物忘れが激しくなって、そのうち、最後には自分の娘すら分からなくなって、・・・今で言うアルツハイマーっていう病気だったのかしら・・・水戸街道沿いの二階の欄干から空を見上げては、
『飛行機、飛行機』
って呟くようになったのよ。それで、いつしか、若い芸妓たちが、からかうようにして、
『ひこうきさん』
って郭公姐さんのことを、かげで呼ぶようになったのよ」
勘太がその話に参加してきた。
「そう言えば、あの郭公姐さんはとびきりのヘビースモーカーで、両切りのピー缶を毎日ひと缶すっていて、今で言う、COPDだったんじゃないかな」
「なに、そのシーオーピーデーって?」
と植吉が聞く。勘太がばちで煙草を吸う仕草をした。
「わたしもそうだけど、たばこを吸いすぎて、すぐ息切れがして、普通に息をしているだけでも、ヒーヒ―音がして。・・・わたし、いち度だけ郭公姐さんの、
『飛行機』
と言うのを間近で聞いたことがあるんだけど、ヒコーキと言うときに、一瞬息を吸い込んで、そのとき、吸い込んだ空気が、喉で鳴ったような、
『ヒー』
という音がして、そのあとで、深い溜息を吐くように、
『コーキ』
と言っていたような気がしたんだけれど・・・」
土岐が口をはさんだ。
「そのカッコウねえさんが、空を見上げながら、
『弘毅』
と言っていたんですか?」
勘太が土岐の血相に上体を捩じるようにして少し身を引いた。
「いやあ、そんな気がしたと言うだけで・・・」
土岐は、喫茶店〈インサイダー〉で双葉智子と昼食をとったとき、智子が、
「仁美は飛行機が趣味だ」
と言っていたのを思い出した。郭公姐さんと呼ばれた仁美の祖母が、空を見上げながら、
「ヒコーキ」
と叫んでいたのを娘の愛子は聞いていたはずだ。その愛子が何かの折に、娘の仁美にそのことを話したのかもしれない。幼児期のその記憶から、仁美が飛行機に愛着を持ち、それを趣味にしたと考えれらなくもない。
追い込むように土岐が質問する。
「カッコウねえさんの名前は何と言うんですか?」
市松が答えた。
「和子だから、郭公にしたと当時の置屋のお母さんが言ってました」
「姓は?」
市松は首をひねった。土岐は市松を正面に見据えて言った。
「中井和子じゃないですか?」
「あ、そうそう、中井さんだった。娘さんが小学校に上がったとき胸の名札が確か、
『中井』
だったわ。隅田川の土手の桜が満開で。その頃お座敷で一緒になったことがあって、娘さんの父親に報告の電話を初めてかけたら、奥さんが出てきたとか。伝言を頼んだけど、
『その後、一切連絡がないから、たぶん、無視されたんだろう』
って、悲しいような、情けないような、切ないような、そんな感じで、ぼやいていたわ」
隣の宇多が土岐に耳打ちした。
「どういうことだ」
カネを出す自分がツンボ桟敷に置かれていることが不満のようだった。土岐はあわてて説明を始めた。全員がそれに聞き入った。
「中井和子の旦那がたぶん、廣川弘毅だったんです。和子の一人娘の愛子は私生児で、おそらく廣川弘毅の子だったんじゃないでしょうか。確証はありませんが・・・それを苦にしたのかどうか、それも含めた廣川弘毅の女遊びを苦にして、正妻の圭子は自殺しています。そうであるとすれば、中井愛子の娘の見城仁美は廣川弘毅の孫にあたる。見城仁美は長田賢治の孫でもある。この三人が地下鉄茅場町駅で交錯して、廣川弘毅は轢死体となった。現在痴呆状態にある中井愛子はすべての事情を知っている筈だが、そういう状態になったのは、母親の中井和子からの遺伝ということになるのかも知れない。そのことを廣川弘毅は知っていたのかどうか?・・・いや、たぶん、知らなかったんじゃないだろうか。・・・中井愛子が自分の子供であることを知っていれば、廣川ほどの財力があれば、見城仁美になんらかの資金的な援助はしていたはずだ」
座がいっぺんで白けた。勘太が一同に聞いた。
「郭公姐さんはどこの置屋だったの?」
市松が答えた。
「確か、隅屋だったと思ったけど・・・」
女将がそれを補足した。
「隅屋はこの間、代替わりしたばかり・・・先代のおかあさんは一応引退したことになっているけれど、まだ隅屋にいるはず・・・連絡をとってみましょうか?」
女将が少し首をかしげ、土岐の顔を斜め目線で見た。土岐は呑みかけていたコップのビールを膳に戻した。
「お願いします。できたら、話を聞きたいんですが・・・」
「いれば、すぐ来ますよ。この裏なんだから・・・」
と言いながら女将は手を突いて席を立った。それから、十分ぐらいして、髪も化粧も堅気風の老女が現れた。和服の着こなしと立ち居振る舞いは、素人には見えなかった。〈波屋〉の女将が紹介した。
「隅屋さんの先代の徳子おかあさんです。お話は、玄関先で伝えておきました」
土岐がさっそく質問した。
「中井和子さんと廣川弘毅氏のことについてお話しいただけますか?」
徳子はあたりを見回し、主賓と見立てた宇多に軽く会釈して話し出した。
「郭公姐さんは終戦からしばらくして、この街に来て、最初についた旦那が廣川さんでした。廣川さんはとても遊び慣れた人でしたが、薄情で酷薄な人で、それを見抜かれて、
『郭公さん、余計なことを言うようだけど、廣川さんとは深入りはしないようにね』
とわたしの先代のお母さんが年中説教していました。廣川さんはいつも接待される側で、接待する人は入れ替わり立ち替わり、いろんな会社の方が来られました。廣川さんは自腹では一度も来られなかったと思います。あるころから、ぴったりと、来られなくなって、それと符牒を合わせるように、郭公姐さんが愛子ちゃんを生んで、先代のお母さんは、口を酸っぱくして、父親に認知してもらうように説得したんですけど、結局、愛子ちゃんは私生児として育てられることになって、・・・とってもかわいい子で、郭公姐さんがお座敷に上がっている時は、隅屋の茶の間でお勉強したり、テレビを見ていたりして、仲間のお姐さん達のペットみたいな感じて、みんなに可愛がられたんです。愛子ちゃんが中学を卒業するころ、
『愛子ちゃんは愛嬌もあるし、十人並み以上だし、どう、芸者にしてみない?』
って、先代のお母さんが郭公姐さんに聞いたんですけど、愛子ちゃんはその気があったけど、郭公姐さんが断って、・・・それで、愛子ちゃんは高校に進学して、卒業後地元のスーパーに就職して、・・・その頃、廣川さんが不意に現れて、廣川さんの奥様のお兄さんだとか言う敦賀の住職と二人連れで、・・・そのときは、廣川さんがぎこちなく接待していましたね。それから二、三年の間、年に一回ぐらい来るようになって、愛子ちゃんが成人したころ、今度はその住職が一人で来られて、・・・その時以来、廣川さんは一度も見えていません。で、住職さんが愛子ちゃんに縁談があるというので、昼間、隅屋のお座敷でお見合いをしました。お相手が確か、見城という方で、その住職の古い朋輩の息子さんだということで、見城さんのお父さんにとって、住職の方は主筋にあたるとかで、・・・愛子ちゃんがその方と結婚してから、郭公姐さんが少しずつおかしくなって、お座敷に上がれないような状態になって、愛子ちゃんが引き取ってから、見城さんとうまくいかないようになったみたいで、愛子ちゃんにはお子さんが居られたみたいでしたが、離婚されて、郭公姐さんのお葬式の後、どうなったか、愛子ちゃんともお会いしていないんで、分かりません。でも、離婚したのは、郭公姐さんのことだけじゃなくって、愛子ちゃんの旦那の見城さんにも原因があったみたいで、・・・一度だけ、愛子ちゃんから聞いたことがあったんだけど、見城さんは競輪、競馬、競艇、マージャン、花札、チンチロリン、・・・博打なら何でも好きで、働くのは嫌いな怠け者で、ほとんど正業に就くことがなかったみたいで、無頼の人で、生活は愛子ちゃんのスーパーのパート店員の給与だけで・・・そうこうするうちに、郭公姐さんも亡くなられて、・・・わたしは、廣川さんに連絡するように愛子ちゃんに強く言ったんですけど、とうとう連絡もしないで・・・とってもさみしいお葬式でした。会葬者が十人くらいで、・・・」
徳子は声を詰まらせた。座を湿っぽい沈黙が支配した。遠くの座敷から、三味の音がかすかに聞こえてきた。土岐がその沈黙を破った。
「・・・皆さん、中井愛子さんが船橋法典の特別養護老人ホームにおられるのをご存知ですか?」
一同が揃って波打つように首を左右に振った。宇多が徳子に聞いた。
「その中井愛子さんは、ご自分の父親が廣川氏だと知っていたんでしょうか?」
「さあ、当時はDNA鑑定なんていう便利なものはなかったし、郭公姐さんはとうとう最後まで父親のことは愛子ちゃんに言わなかったみたいだし・・・」
こんどは土岐が徳子に聞いた。
「中井和子さんはどうして父親のことを秘密にしていたんでしょうか?」
「これは、わたしの推測ですが、廣川さんのご指名が頻繁にあったころ、いちど、吉野とかいう刑事さんと玉井とかいう刑事さんに呼ばれて、廣川さんのことを根ほり葉ほり聞かれたようです」
吉野刑事と聞いて、土岐の記憶に保木間の碁会所の片隅でグレーのジャージーを着て、サンダル履きで、左手に弁当箱、右手に箸を持って、ぶつぶつ呟いている皺だらけの老人が甦った。同時に、玉井刑事と聞いて、船井ビル八階の玉井企画というレタリング文字のある事務室が思い出された。徳子の話は続いていた。
「それ以来、廣川さんが単なる御贔屓筋ではなくなったみたいで・・・吉野とかいう刑事さんと玉井とかいう刑事さんに何を聞かれたのか、最後まで言わなかったけど、・・・
『郭公さん、廣川さんから、またご指名があったわよ』
って言うと、一瞬顔を曇らせることがあるかと思うと、そのお座敷からの帰りは上機嫌で・・・アンビバレントって言うんですか?そういうの・・・だから、自分はともかく、愛子ちゃんには、廣川さんと関係を持ってもらいたくなかったんじゃないでしょうか?・・・むしろ、廣川さんには認知してほしくなかったのかも知れないですね」
土岐の脳裏には焦点の合わない目をした中井愛子の顔が浮かんでいた。着ている物は紺のジャージに臙脂の薄汚れたちゃんちゃんこ。髪はぼさぼさで、フケが砂を撒いたように散らばっていた。確かな殺意があるとすると中井愛子のようにも思えたが、見た限りでは実行犯の資格はないように感じられた。廣川弘毅が向島から遠ざかったのは、総会屋の表舞台から退場した時期に符合する。それを中井和子は廣川弘毅の心変わりと捉えたのかも知れない。会えない時間が次第に和子の憎しみを蓄積させて行って、ついにそれが娘の愛子に相続され、殺人へと暴発したのかも知れない。しかし、あの痴呆状態の中井愛子にそれは不可能だと思える。あの魂が抜けたような表情が演技であるとしたら、完全犯罪になる。殺人を実行できる精神を持ち合わせていないということが最大のアリバイになる。徳子の話を聞いて、土岐はそれが真実であれば、土岐の精神衛生上には、なんとなくいいような気がした。殺害するのに十分な動機のある人物が犯人であれば、なんとなく収まりが良く、腑に落ちるように思えた。
規定の二時間が過ぎようとしていた。土岐は宇多に合図して、お開きにした。
会計は二人で6万円ほどだった。宇多が接待交際費でキャッシュで支払ったが、土岐には高かったのか安かったのか分からない。土岐と宇多は女将に名刺を渡して、玄関先にタクシーを呼んでもらって、9時ごろ〈波屋〉を後にした。
十月十日
翌朝、激しい二日酔いと喉の渇きで目が覚めた。午前九時だった。どうやって、自宅事務所にたどり着いたのか、記憶がない。久しぶりの痛飲と記憶喪失だった。
頭痛をこらえて、船橋法典の特別養護老人ホームへ電話してみた。
「すいません。ちょっと、お尋ねしますが、そちらに入居している中井愛子さんに、今日面会の予約が入っているかどうか分かりますか?」
少し間をおいて、若い男の声が返ってきた。
「さあ、・・・ここは、いわゆる病院とは違うので、面会される方はいちいち予約はしませんけれど・・・一応、十時から五時の間なら、いつでも入居者と御面会できますが・・・」
「そうですか・・・すいませんが、お名前を教えていただけますか?」
「わたしのですか?」
「ええ」
「竹中と言いますが・・・」
「どうもありがとうございました」
携帯電話を切ると、土岐は階下の合鍵を持って一階の印刷工場に降りて行った。印刷工場の警備員を兼ねることで、月五万円の割安家賃を支払っているが、警備員らしい仕事をしたことは一度もない。時々、近所のスーパーの急ぎのチラシの印刷があると、土曜日も輪転機を動かしていることもあるが、今日はひっそりとしている。
事務室の固定電話で見城仁美の携帯電話にかけてみた。固定電話から仁美に電話するのは初めてだった。その電話番号は仁美の携帯電話には登録されていないはずだった。
土岐は床に落ちていたチラシの紙を送話口に一枚挟んだ。声音を少し高くする。
「あ、見城さんですか?」
「はあ・・・」
疑り深そうな声が返ってきた。
「こちら、船橋法典の特別養護老人ホームですが、今日か明日、こちらに面会に来られる予定はありますか?」
「今日か明日かはまだ決めていませんが、・・・」
「そうですか・・・実は明日は一日中、館内の清掃を行う予定になっておりますので、面会に来られるのでしたら、今日の午後にお願いできればと思いまして・・・」
「そうですか、わかりました。それじゃ、今日の午後に面会に伺います」
「どうも、ありがとうございます」
「失礼ですが、お名前は?」
「竹中といいます」
そう言うと仁美の返事を待たずに土岐は事務室の電話を置いた。仁美が竹中の声を知っていれば見舞いには来ないだろう。二階の事務所に戻ると外出の支度をした。
蒲田駅前のコンビニエンスストアで菓子パン三個とペットボトルのミルクティーを買い込んだ。
蒲田駅から京浜東北線に乗車し、新橋駅で銀座線、日本橋駅で東西線に乗り継いで東陽町に着いたのは十一時ごろだった。
仁美のアパートを横十間川を挟んだ対岸から見ることにした。小さなオペラグラスで川越しの仁美の部屋のベランダがかろうじて確認できた。レースのカーテン越しに丸い蛍光灯の傘がちらついて見えた。土岐は川の欄干に腰を乗せて、パンを食べることにした。左手でオペラグラスを目に当て、右手でパンを口に運んだ。パンをすべて食べ終えて、ミルクティーをすべて飲み干し、三十分ぐらいして、横十間ハイツの304号室に動きがあり、室内の蛍光灯が消えた。しばらくして脇を抱えられた老人と見城仁美が川沿いの通りに出てきた。老人の足もとがおぼつかない。土岐は四ツ目通りの橋のたもとで二人を待ち伏せすることにした。二人は四ツ目通りに出るとタクシーを拾った。タクシーは東陽町駅方向に走って行った。土岐は速歩で東陽町駅に向かった。駅のホームに二人の姿はなかった。次に来た西船橋方面の電車に乗った。
西船橋駅で武蔵野線に乗り換えて東陽町駅から三十分ほどで船橋法典駅に着いた。前に来た時と同じように土岐は駅前のスーパーマーケットで花束と菓子折を買った。
船橋法典の特養ホームにたどり着いたのは二時前だった。誰もいない受付の面会者リストに、備え付けのひも付きのボールペンで、
〈時山〉
という名前を記入して、そのまま二階の中井愛子の部屋に向かった。晩秋を思わせる淡い午後の陽光が廊下や階段にセピア色にあふれていた。他愛のない笑い声やしわがれた幼児言葉がどこからか聞こえてきた。白衣の療養士とすれ違ったが誰何しない。土岐は中途半端な愛想笑いを返した。
中井愛子の部屋にドアはない。廊下から中がそのまま見通せる。土岐は部屋の入口に立った。中井愛子はベッドに腰掛け、その向かいに老人が船橋法典ホームの車椅子に座り、見城仁美が入り口を背に立っていた。土岐は声をかけた。
「こんにちは」
仁美が振り返った。ショートヘアの前髪が眉毛をおおう。凍りついたような驚きが、窓から差し込む逆光の中で、土岐の前に迫ってきた。
「時山さん?それとも土岐さん?」
「すいません、土岐です」
老人が皺に窪んだうつろな目で車椅子から土岐を力なく見上げた。
「あんたか、いろいろとわしを探っていたのは・・・」
「すいません、ある人の依頼を受けまして・・・」
「どうだ、調べはついたか」
「ほぼ・・・あとは長田賢治さんの釈明を聞くだけです」
そう言いながら土岐は花束と菓子折をベッドに座っている中井愛子の脇に置いた。
「つまらないものですが、・・・早く良くなってください」
長田が仁美に言った。
「あっちの、サンルームにやってくれるか」
仁美は長田の背後にまわり、車椅子を部屋の外に押し出した。二階のサンルームには面会客のない老人たちが、弱々しい陽光を全身に浴びて、リクライニングシートに寝そべっている。そこだけが、どこかの温泉地か観光地のような雰囲気を醸し出している。
仁美は大きな一枚ガラスの前に車椅子を押してくると、愛子の部屋に戻って行った。土岐は部屋の隅の籐椅子を引き寄せて、長田の斜め隣に座った。
「だいぶ足が悪いんですか?」
「リューマチでね。膝の関節がこわばっている。無理すれば動けないこともないが、痛い。ここ数日、日に日に悪くなっている」
「最近、三重海軍航空隊の記念館に行かれましたよね」
「香良洲か」
「ええ」
「記帳者名簿を見たのか」
「ええ。・・・新生印刷にも行かれましたよね」
「新橋か」
「ええ」
「なんで今頃、と聞きたいのか?」
「ええ。三田法蔵さんとはどういう関係なのか?」
長田は前方の民家の屋根の上で穏やかに照っている太陽を眩しそうに見ている。スズメが無邪気に瓦の上で戯れている。傍らを療養士が足音もなく通り過ぎ、しばらくして、土岐のために来客用の折り畳み椅子を持ってきた。土岐は長田の斜め前に座り直した。長田は遥か遠くを眺めるようにして訥々と語り出した。
「法蔵さんはわしの兄弟子だった。わしは小学校六年の正月に糸魚川から敦賀の法蔵寺に小僧に出されて、筆舌に尽くしがたい困窮の中学生生活を法蔵さんとともに過ごした。和尚は修行に厳しかった。毎朝の勤行、浄土三部経の暗唱、境内や本堂の掃除、朝食と夕食の準備、買い物、葬式、法事、風呂焚き、写経、中学校の予習と復習、自分の時間などまったくなかった。中学の五年間を一枚の学生服と二揃いの下着で過ごした。靴下も下着も制服もつぎ当てだらけで、河原乞食のようだった。学校行事で街中に映画を見に行くときも、カネがないので体調不良と嘘をついて、早引けした。弁当は日の丸弁当だった。あまりに恥ずかしいので、級友に見られないように手で隠して食べた。靴は寺の長男のお下がりで、貰ったばかりのときはだぶだぶだった。靴底は穴だらけで、中に段ボールを敷いて学校に通った。体操着も一着しかなかったから体操の授業が連日あるときは洗った後、庫裡のかまどの煙突に巻きつけて乾かした。冬の寒さは夏の暑さ以上に堪えた。便所に置いてあった北国新聞を下着と体の間に挟んで、一晩中震えながら体を温めた。和尚は酒飲みで、冬の豪雪の夜に、よく酒屋に使いにやらされた。日本陸軍が八甲田山中で雪中行軍で遭難したことに思いをいたしながら、
『法さん、雪の中で遭難死するというのはこういうことなのかなあ』
と法蔵さんと語り合ったもんだ。法事に檀家回りをすると、法蔵さんと二人で行くと、法蔵寺へのお布施とは別に、小遣いをくれる家がよくあった。そのまま持って帰ると大黒さんに取り上げられるので、法蔵さんと二人で、隣の神社の本殿の下の石組みの脇に隠して、貯めておいたことがあった。法蔵さんは捨て子で、実家はなかったので、わしがいつか糸魚川に帰るときの汽車賃にしようと協力してくれていた。しかし、もう少しで往復の汽車賃がたまりかけたとき、このカネが大黒さんに見つかって、全額没収され、その上、寺のカネをくすねたという身に覚えのない嫌疑をかけられてお仕置きを受けた。このとき、法蔵さんがすべての罪をかぶってくれたので、わしへのお仕置きは軽くて済んだ。わしも法蔵さんも何かにつけて大黒さんのいじめにあった。いじめの理由は、大黒さんの息子たちより、わしと法蔵さんの学校の成績が良かったことだ。それに檀家衆の評判もわしたちの方が良かった。時間にもカネにも家庭教師にも恵まれていた息子たちよりも、わしたちの方がすべての点で優れていたことが、大黒さんにとっては我慢がならなかったのだろう。わしたちをいじめることで、そのうっ憤を晴らしていたのだろう。京都の浄土宗の専門学校へは法蔵さんがわしより二年先に行った。法蔵さんは中学を四年で終えた。わしは五年かけて卒業してから京都に行った。京都の生活は敦賀の生活と比べれば天国だった。勤行も学校の勉強もあったが、自分のことだけをやればよかった。敦賀では和尚さんの家族全員の雑用までやらされていた。法蔵さんが海軍に志願した後、香良洲に一度会いに行ったことがあったが、
『賢ちゃん、海軍は京都の寺よりも天国だよ。敦賀と比べるとそれ以上だよ』
と言っていた。当時は食糧難だったから、寺では十分な食事がなくて、一日分の食糧が毎朝一杯のどんぶり飯だけだった。どんぶり飯を朝昼夜に分けて食べようと努力したが、いつも、午前中にはなくなっていた。その繰り返しだった。法蔵さんは、海軍ではお代わり自由で、おかずもたらふく食べられると、本当にうれしそうに話していた。法蔵さんはわしの目にも美男子に見えた。お寺の長女の圭子さんが法蔵さんに恋焦がれていたことはずいぶん後になってから知った。圭子さんは敦賀小町と呼ばれたほどの美人で、おれも心を奪われていたが、所詮高嶺の花と諦めてはいた。この圭子さんが敦賀の住職と朋輩の関係にあった京都の住職の関係で、その京都のお寺の檀家総代だった清和家の次男と見合いをした。このとき、書生としてもぐりこんでいた廣川弘毅と出会っていた。家格が釣り合わないということで圭子さんが破談になった後、廣川弘毅は圭子さんに恋文を送っている。圭子さんは、自分には三田法蔵という心に誓った男が居るので諦めてくれと返事を出した。そういう話を聞かされたのは戦後になってからだ。貴金属の行商で法蔵寺に出入りするようになって、先代の住職が話してくれた。圭子さんが廣川弘毅と結婚したのは、カネの力だったのかも知れない。とにかく廣川弘毅の羽振りは良かった。多額の寄付を法蔵寺に申し出て圭子さんの親である住職も大黒さんも結婚を承諾せざるをえなかったようだ。戦後の農地解放で、大半の小作地を失い、法蔵寺も生活が苦しかった。圭子さんも法蔵さんが戦死してしまったので、親のために結婚を受諾せざるをえなかったのだろう」
長田の口の中が干からびてきていた。声がたびたびかすれて、聞き取りづらくなってきていた。長田の咳払いのやむのを待って、土岐は質問した。
「三田法蔵さんが特攻死ではなく、事故死だと知ったのはいつですか?」
「数年前のことだ。廣川弘毅が戦後すぐ、圭子さんに会いに来た時に、法蔵寺の住職に、
『法蔵さんは特攻死した』
と伝えたので、最近までてっきりそう思っていた。全く疑問を持たなかった。しかし、香良洲には昭和二十年当時、飛行機は一機もなかったということを、何かの本で数年前に読んで、疑問に思い始めた。この八月に香良洲に行ったのは、それを確認するためだった。そこで長瀬啓志の存在を知った。法蔵さんの事故死とその直前の長瀬啓志の赴任に疑問を抱いた。それに長瀬啓志が寄贈した軍刀は骨董品だった。中尉だった長瀬が少将の軍刀を寄贈できるはずがない。名簿で長瀬啓志の住所を調べた。東京の知り合いの骨董商にお願いして、長瀬啓志の家に出入りしている業者がいないかどうか尋ねたら、長瀬啓志は骨董好きで、五十年来の付き合いのある骨董商が居た。長瀬啓志は骨董好きというか、戦後、その骨董商にかなりの貴金属を売却したそうだ。中には国宝級のものもあったそうで、その骨董商は、もう時効だからと、教えてくれたが、戦後、長瀬啓志が骨董商に売りに来たものは、海軍の隠匿物資らしい。あのころは、すべてが乱れていたから、ほとんどの人間にモラルなどなかった。長瀬啓志もヒロポンをやっていたそうだ。しかし話はそこまでで、法蔵さんと長瀬啓志の関係はつかめなかった。長瀬の大手町の事務所に電話して本人に聞いてみたが、三田法蔵なぞ知らないと言う。だがそれはありえない。やつは、戦後、会報誌に法蔵さんへの追悼文を寄稿している。直接面会して聞こうかとも思ったが、その直前に、廣川弘毅の転落事故があって、仁美の部屋にほとぼりのさめるまで隠まってもらうことにした」
長田賢治の話の区切りを待って、土岐は質問した。
「あの日、廣川弘毅とは茅場町駅で何をしていたんですか?」
聞こえている筈だが、その質問には長田は答えない。
「前々から、中井愛子は廣川弘毅の娘ではないかという気がしていた。愛子の存在は法蔵寺の住職から聞いていた。その住職は先代の長男で、わしが中学校に入るときに使い古しの靴をくれた男だ。先代は法蔵さんと圭子さんを一緒にさせて法蔵寺を継がせようと思っていたので、息子の住職は法蔵さんの死を喜んだくちだ。その住職が宗門の東京での会合に来た時、廣川弘毅に嫁いだ妹の圭子さんに世話になったそうだ。そのとき、廣川弘毅が向島につれて行き、お座敷に中井和子を呼んだそうだ。その後、住職は東京に遊びに行くたびに、一人のときでも向島で遊ぶようになり、その都度、和子をお座敷に呼んだ。そこで和子には愛子という私生児のいることを知った。和子は、
『愛子のような私生児でも、もらってくれるような結婚相手はいないかしら』
と酒の席ではあるが住職に頼んだ。わしが法蔵寺に骨董の行商で寄った時に、その話が出た。わしはできの悪い息子の敦の嫁にどうかと持ちかけた。その時にはもうわしは花江とは離婚していたが、敦のことは気になっていたんで、糸魚川の時計屋をまかせていた。しかし、敦は店の商品を持ち出して質入れして、駅前でパチンコをやったり、マージャンの負けを支払っていた。幾度注意しても改まらなかった。糸魚川では放蕩息子の悪名が広まっていて、結婚相手など見つからなかった。そこで、愛子と東京で所帯を持たせ、まっとうな生活をさせようと考えた。愛子にしてはいい迷惑だったかも知れないが、お互いにいわくつきであれば案外うまく行くかも知れないと安易に考えていた。しかし、不幸と不幸は足し合わせたところで不幸にしかならなかった。敦はパチンコ店員や新聞配達や牛乳配達やクリーニング店員や日雇い労務者の職を転々として、賭け事から足を洗えなかった。東京に行商に行くたびに愛子に謝り、愛子に小遣いをやったが、それも敦に巻き上げられたようだ。愛子はそのうち、わしと顔を合わせると、懇願するように、
『おとうさん、どうしても敦さんと離婚させてほしい』
と言い出すようになった。しかし、仁美がすでに生まれていた。わしは、
『敦のことで迷惑をかけて、申し訳ないが、仁美が成人するまでは、我慢してくれ』
と頼んだが、駄目だった。それでも、愛子は、敦と別れる際に、
『女手がないと、敦さんの生活が大変だろうから』
と嫌がる仁美を敦に残して、家を出て行った。仁美は愛子を恨んだことだろうと思う。敦は放蕩無頼の人生を貫徹し、さっさと死んで行った。それから母子二人のささやかな幸せの生活が始まったが、愛子は和子からの遺伝なのか、仁美とのわだかまりが解け始めたころ、若年性の痴呆になった。安い特養を探したが、群馬県の水上の山奥にしか、適当なホームは見つからなかった。それでも、仁美にとっては経済的に重い負担だった。わしも援助したいところだったが、わずかな年金しかない。そこで、愛子が後生大事に持っていた和子と廣川弘毅が向島のお座敷で撮った写真を思い出した。愛子が廣川の娘であれば、仁美は孫になる。廣川はわしよりはるかに経済力はある。娘と孫の窮状を助けても、ばちは当たらない。その写真を仁美に確認させたら、そのじいさんは、
『兜町の路上で、毎日夕方の五時ごろにレクサスを待たせている老人に似ている』
と言うので、そこの会社が開示情報という雑誌を発行し、その会社の会長が廣川弘毅であることを確かめて、あの日、茅場町で会うことにした」
土岐は長田の話を聞きながら、喫茶店〈インサイダー〉での岡川桂の証言を思い出していた。廣川弘毅が中井和子と一緒に撮った古い写真を持った老人が、写真の主が廣川弘毅であることを確認しに、八月ごろ、開示情報社の事務所にやって来たと言っていた。
「廣川が船橋法典の特養ホームを見つけたので、
『地元の責任者に挨拶に行くので、仁美と三人で一緒に行こう』
と言うのであの駅のホームで仁美を待っていた。仁美が来る直前にあの事故が起きた。廣川がステッキを落とし、わしが拾って廣川に渡そうとしたとき、背後から低姿勢で突っ込んでくる男がいた。わしと廣川の間に割り込むようにして倒れ込んできた。わしはとっさに避けたが、廣川は男の肩にぶつかった。廣川はわしが差し出したステッキに手を伸ばしてきたが、わしはステッキをさし出そうとしなかった。未必の故意というやつだ。糖尿病で足の指を切断している廣川は、ホームに踏ん張り切れずに転落した。そのとき、仁美はまだ来ていなかった」
そこで土岐は、内ポケットの手帳に挟みこんだ海野から受け取った似顔絵を出した。四つに折り畳んだB5の紙を広げながら長田に聞いた。
「その倒れ込んできた男は、こんな顔でしたか?」
長田はその紙を受け取り、目をしかめながら、距離を調整し、目の焦点を合わせようとしている。
「一瞬のことだが、たぶん、こんな感じの男だったと思う。そう言われれば、そうかもしれないと言う程度だ。ただ、廣川がその男を見たとき、一瞬のことだが、
『まさか』
というような顔つきをした。そんな感じがした」
「ということは、顔見知りで?」
「わからん。・・・でも、そうかもしれない」
「・・・で、長田さんが現場から逃走したのはどうしてですか?」
「倒れ込んできた男が、わしを殺そうとしていたのではないかと直感的に思った。そうでなくても廣川についてはいい噂を聞いていない。やくざとも関係があるというようなことも聞いていた。わしが愛子をネタに強請ろうとしていると思い込んで、わしを消そうとするかもしれないという邪推が頭をかすめていた。その恐怖でまず逃げた。仁美と待ち合わせていたので、戻ろうかとも考えたが、巻き込まれたくなかった。わしも叩けばいくらでも埃の出る人生を生きてきた。警察とはかかわりあいになりたくない。いまだに所得税を払ったことがないし、詐欺まがいの骨董売りを幾度も繰り返している。訴えられたこともある。貴金属品の行商でもまがいものをいくつも売りさばいている。そのせいもあって、京都へも湯沢へも小谷へも、足を踏み入れられなくなった。商売をする場所がだんだん狭まって行った。そういう負い目から、仁美に電話をしたものの、現場に戻る気はなかった。どんなかたちであれ、警察とはかかわりをもちたくなかった。その後、あの事件は自殺で処理されて、落ち着いたと言うので、こうして愛子に会いにやって来た」
「廣川弘毅のほかに、誰かに、殺されるかも知れないという心当たりはありますか?」
「ない。わしは馬の骨だ。長瀬啓志や廣川弘毅のように稼いでもいないし、一度でも表舞台に出たこともない。しがない骨董商で、むかしは貴金属の行商もやっていたが、ここ二十年ほどはまったく商売にならない。バブルがはじけた後、年金でかつかつの生活をしている。こんなおいぼれを殺したところで一銭の得にもならんだろう。わしの人生はとるに足らない、つまらん人生だった。あっても、なくても、いいような人生だった」
「あのとき、廣川弘毅を助けようとしなかったのはなぜです?」
「圭子さんが自殺したことが頭のどこかにあったのかも知れない。彼女は法蔵さんを愛していた。わしもそうだった。戦後、小ガネをためて法蔵寺に行った時にはすでに、廣川と結婚したあとだった。それに、戦後間もなく、誰からか噂を聞いて、上野で露天商をしていた廣川に会いに行ったことがあったが、けんもほろろだった。もともと智恩寺にいたとき、ちらりと見た程度の間柄だったが、廣川には打ち解けようという姿勢が全く見られなかった。何人かで一緒に酒を飲んだ時、岩波の文庫を持っていたので、文学好きだと思って、郷里の相馬御風の話をちょっとしてやったことがあった。そのとき、なんとなくそりの合わない奴だとは感じていた。むしろ、わしを避けようとしているようにも見えた。法蔵寺の先代の住職の法事のときでもそうだった。殆ど口をきくことがなかった。そうしたわだかまりは、なくなっていなかった。愛子をなんとかしようという思いは、それとなく伝わってくることもあったが、わしに対しては、赤の他人でいたかったようだ」
「最近になって、廣川弘毅が塔頭哲人の『学僧兵』を読んでいたらしいんですが、どうしてですか?」
「わしが教えたんだ。あの小説ではわしと法蔵さんがモデルになっている。舘鉄人とは智恩寺にいたころ知り合った。妙にウマがあった。小説では、わしと法蔵さんの関係が実際以上に濃密に描かれている。実際はわしのほうが一方的に法蔵さんを崇拝していたんで、法蔵さんはわしに対しては、弟弟子という思い以上のものではなかったと思う。九月初めに廣川に連絡したら、わしのことをよく覚えていなかったようなので、
『戦後、智恩寺と上野駅であんたとちょっと顔を合わせたことがある』
『ずいぶん前のことだが、法蔵寺の先代の住職の法事でも挨拶をしたことがある』
と言ってもほんとうに、思い出さないようなので、
『舘鉄人の『学僧兵』という小説を読んだことがあるか』
と聞いたら、にべもなく、
『そんなもの、読んでない』
と吐き捨てるように言うので、
『わしと三田法蔵さんがその小説のモデルになっている』
と伝えた。顔を合わせたとき、廣川はわしのことを多少覚えていたようだった。舘鉄人の小説については、愛子が実の娘であれば、ひょっとしたら親戚になるかも知れないと思って読んだんじゃないか」
長田は疲れ切ったようだった。体が次第にずり落ちてきて、車椅子から下半身が落ちかけている。その体を自分で元に引き上げる体力もないようだった。土岐は長田の背中に回り、両手を脇の下に差し込んで、体を引き上げてやった。長田は軟体動物のように車椅子の上で背中を丸めた。土岐は車椅子を押して、中井愛子の部屋に戻った。車椅子を押しながら土岐は聞いた。
「中村貞江という名前を知っていますか?」
突然、長田の首がしゃきっと伸びあがった。
「志茂貞江なら知ってるが」
「貞江の貞は、貞淑の貞、江は江戸の江、ですか?」
「そうだ」
「いまから、四十年前、香良洲の近くの善導寺から三田法蔵の骨壷を貰い受けた女性ですが、心当たりありますか?」
「志茂貞江は法蔵寺の檀家の娘だ。母親が志茂法子と言って、その母親が先々代の住職と親密だったという噂があった。大正時代の話だ。今じゃ誰もそんなことは知らないだろう。わしもその話は、戦後になってから耳にした。志茂貞江は終戦前後、まだ赤ん坊だったころに見かけた程度で、その後、一度も会っていない。・・・でも、なんで法蔵さんの骨壷をとりにいったんだろう」
と言ってから、長田は深いため息を吐いた。
「そうか、そうだったのか」
「なにが、そうだったんですか?」
と土岐が聞いても長田は答えない。見開いた目に何も映っていないように見えた。
「なにが、そうなんですか」
と土岐は再び聞いた。長田の耳には届いていないようだった。土岐は聞き出すのを諦めた。
愛子の部屋では、仁美が土岐が持ってきた生花を花瓶に活けていた。愛子はベッドの上で昼寝していた。かすかないびきが部屋の中に流れていた。長田も疲れ切ったようで、口を開けたまま茫然としている。土岐は仁美のこわれそうな背中に語りかけた。
「今おじいさんにすべて聞きました。あなたにはいずれ民事の法廷で証言してもらうことになると思います。あなたが偽証したい気持ちはぼくなりに理解しているつもりです。あなたが物心ついたころからいさかいの絶えなかった御両親、酒乱癖のあったお父さん、家庭内暴力であなたも殴られたことがあったでしょう。そういう家庭環境があなたの幼い心をどれほど傷つけたか痛いほど分かります。お母さんが離婚したのも理解できます。お母さんがお父さんのもとに嫌がるあなたを残したのは、お父さんに対するお母さんの最後の愛情だったのだろうと思います。あなたはその愛情で生まれたんですから。甲斐性のないお父さんのもとでアルバイトをしながらあなたはやっと高校を卒業して、お父さんから精神的に独立しようとした矢先にお父さんが亡くなられた。入院費用や看護でさぞかし、大変なことだったろうと思います。おそらく、恋人を作ることすらできなかったでしょう。そうして、やっとお母さんと二人で幸せな生活を築こうとした矢先、お母さんがおばあさんと同じ病気で老人ホームに預けなければならなくなった。入居費用や面会費用であなたは貯金すらできない状態になった。これまでの人生で、あたなにとって人並みのしあわせを感じたことは殆どなかったんじゃないですか。そのあなたが偽証によってさらに人生の重荷を背負おうとしている。ぼくも偉そうなことは言えない。保険会社と敵対している遺族に雇われている身だ。遺族はただ単に保険金がほしいだけで、地下鉄会社に賠償金を払いたくないだけで、それだけで、あなたの偽証を覆そうとしている。ぼくもその片棒を担いでいる。でも、心の底からあなたには偽証によってこれからの人生を穢して欲しくないと思っている。裁判では本当のことを言ってほしい。・・・まだまだ人生の残りは長い。・・・悔いのないように、生きてほしい」
後ろ向きに花瓶に花を活けていた仁美の肩が小刻みに震えている。花瓶を置いたサイドテーブルに両手を突いて、うなだれた。かすかな嗚咽が聞こえてくる。
「あなたに何が分かるの」
仁美が絞り出すようにして出した涙声の中に誰に対するとも知れない底深い怒りがこもっていた。
「ぼくには何も分からない。あなたがこれまで生きてきた人生は、あなただけのものだ。本当のことはあなた以外、誰にもわからない。しかし、これからあなたが生きて行く人生はあなただけのものではないかも知れない。そばに誰かいれば共有することができる。喜びは二倍に、悲しみは半分になる。子供が二人できれば、喜びは四倍に、悲しみは四分の一になる。過去はもう終わったことだ。振り返って悲しんだり、怒ったりしたって変えることはできない。未来に掛けるしかないじゃないか。・・・裁判で本当のことを証言してくれることを祈っている。ぼくが依頼人から受け取る成功報酬はあなたにあげよう。お母さんの入居費用にはとても足りないかも知れないが、あなたの勇気と将来にぼくはかけたい。それに、あなたのお母さんが廣川弘毅の娘であることがDNA鑑定で立証されれば、かなりの額の遺産が相続できる。私生児にされたことで辛い人生を味わったあなたのお母さんにはその遺産を受け取る権利がある。廣川弘毅の遺族は抵抗するだろうが、DNA鑑定で親子であることが立証されれば、示談に持ち込むことができる。そうなるように、ぼくは全面的に協力するつもりだ」
サンルーム越しに部屋に入ってくる深まる秋の黄ばんだ陽光がほんのりと赤みを帯びてきた。仁美は背を向けたまま、戸惑うように間欠的に鼻水をすすりあげている。
「誰が見てもあなたのこれまでの人生は辛いものであったことは間違いない。しかし、誰だって悲しいことや辛いことは大なり小なりある。自分の経験を絶対化しない方がいい。絶対化すれば、他人の悲しみは否定することになる。自分の周りに塀を巡らせて孤立を招くだけだ。・・・おじいさんの兄弟子だった三田法蔵という人は、捨て子で両親もなく、子供のころから小僧さんとしてお寺で働き、勉強がよくできて、檀家の評判がよかったという理由でお寺の大黒さんに理不尽ないじめられ方をして、わずか二十歳になったばかりで、戦争で死んでいった。彼にはあなたのようにテニスや飛行機のプラモデルで憂さを晴らすというゆとりすらなかった。自分の悲しみや辛さを絶対化すれば永遠に癒されることはない。自分の過去のいやなことは、自分から突き離して見ればいい。そういうこともあった。ああいうこともあった。・・・過去のことは、それでいいじゃないか。・・・これからぼくとミックスでテニスをしよう。楽しいことをいっぱい教えてあげるから・・・」
仁美は絞り出すように小さな声で言った。
「わかったから、もう帰って・・・お花ありがとう」
土岐は仁美に名刺を差し出した。
「ぼくの本名は土岐と言います」
仁美はその名刺を一瞥して、興味なさそうに力なく受け取った。
「知っています。大野さんから聞きました」
土岐は長田に小さく頭を下げて、その部屋を出た。
船橋法典駅に向かいながら、土岐は民事裁判に勝っても成功報酬を諦めなければならないことに多少の未練を感じている自分に気付いた。その未練は仁美の反応次第で断ち切ることができる自信もあった。いずれにしても、今年も自転車操業の調査事務所運営から脱出できそうにないことを予感した。
改札口からホームへの広い階段を下りている時に携帯電話が鳴った。海野からだった。
「あっ、海野だ。これから、五時までに大手町に来られるか?」
時計を見ると四時を過ぎたところだった。
「たぶん、大手町駅にちょうど五時に着くと思います」
「そうか。じゃあ、船井ビルの前で五時五分でどうだ?」
「たぶん、行けると思います」
「待ってる」
海野からの電話は初めてだった。昨日電子メールで海野に送信した調査報告書を海野が読んで、新展開があったのかも知れない。
西船橋駅で東西線に乗り換え、大手町駅まで土岐は頭痛に悩まされた。二日酔いがまだ完全には抜けきっていなかった。
大手町駅に着いたのは五時ちょうどだった。船井ビルまで五分あれば十分だった。
黄昏時の大手町のビル街の狭い路地に海野がたばこをくゆらせながら待っていた。
「おう、ちょうど、五時五分だ」
「今日は、なんですか?」
「ちょっと、八階の玉井企画まで付き合ってくれ。・・・例の調査報告書、読ませてもらった。素人にしてはよく調べてある。まあ、民間で、しかもたった一人じゃ、あれが限界だろうな。ここんとこ、つまらん捜査に駆り出されて、ようやく、おととい解放されたばかりだ。お前さんの調査もあって、この事件の全体像がようやくおぼろげながら見えてきた。・・・今晩、だいたい決着がつく」
二人で、古いエレベーターに乗った。天井が低い。動いているのかどうかよくわからないほど遅い。ワイヤーのかすかな軋み音で、動いているのがかろうじて分かる。エレベーターは八階で、すこしリバウンドしながら停止した。廊下は真っ暗だった。神田駅方向の遥か遠くのネオンサインが、上空数千メートルを夜間飛行する飛行機のライトのように小さく点滅しているのが、廊下の窓からかすかに見える。海野が舌打ちした。
「まだ来ていないか」
「玉井要蔵ですか?」
「そうだ」
暗くて海野の表情が分からない。腹の底から出てくる声がなんとなく不気味だ。土岐はじっと黙っていられないような不安な思いに駆られた。
「今日は土曜日で休みなんじゃないですか?」
「呼び出した」
「どういう名目で?」
「任意の事情聴取だ」
「でも、廣川弘毅の件は自殺で処理されたんじゃないですか?」
「それはそれ、・・・再捜査という名目だ。参考までに、と言ってある。やつも、こっちの手の内を知りたいはずだ」
「わたしが同席していて、いいんですか?」
「同僚ということでお願いする。刑事は、基本的に二人で行動することになっている。脇にいてくれるだけでいい。尋問はおれがやる」
「こんなところで事情聴取するんですか?」
「任意だから、別に署でやらなければならんという法律はない。玉井要蔵がここを指定してきた。こっちは茅場署でもいいんだが、やっこさん、顔見知りでもいると、いやだということじゃないのか。・・・たしかに、署の取調室は、取り調べる方だって息が詰まるような鬱陶しい部屋だ」
土岐は海野が聞いてこないので、自分の方から話した。
「見城仁美は偽証であったことを民事で吐露してくれると思います。それに現場に廣川弘毅と一緒にいたもう一人の老人は長田賢治で、彼も事件が殺人であることを証言してくれると思います」
「確かか?マスコミが注目しなけりゃいいが、・・・注目されるようであれば厄介なことになる。どっちにしても、示談にせざるをえなくなるだろう。結審まで行かせてもらえないはずだ。いざとなれば、双方の弁護士にもその筋から手が回るはずだ」
その時、八階に停止していたエレベーターが下降し始める音がした。やがて、一階で停止し、再び上昇を始めた。
「来たな。じゃあ、よろしく・・・聞きたいことがあれば、話してもいいが、おれの同僚だということを忘れないでいてくれ。相手は元プロの刑事だからな、気をつけて・・・」
エレベーターが止まり、中からずんぐりむっくりした小柄な男が出てきた。160センチあるかどうかという背丈だ。エレベーター内の照明が光背になって、男の顔が見えない。かろうじて、黒縁めがねをかけていることだけが分かった。
「海野さんかい?」
「そうです。どうも、お休みの所、ご足労をかけます。吉野さんからお噂はかねがね伺っております」
「そっちの若いのは?」
土岐は海野の顔を見た。どう答えていいか分からない。海野が代わりに答えた。
「相棒で、土岐と言います」
「そうかい・・・まあ、中で話そう」
そう言って、玉井要蔵はポケットから鍵の束を取り出した。鍵を選り出して、ドアを開ける。すぐに室内の照明が灯された。入るとすぐ、上半分がすりガラスのパーティションがあり、その奥に四人がけの簡単な応接セットがあった。ソファに腰を下ろすと、玉井要蔵はすぐ聞いてきた。
「で、どういう情報?」
海野は内ポケットから、例の似顔絵を出して、テーブルの上に広げた。玉井はおもむろに背をかがめ、眼鏡をはずして、似顔絵に見入った。それからぽつりと言う。
「なに、これ?」
「ご存じでしょ?金井泰蔵ですよ」
海野にそう言われて、土岐は田園調布の駅前の喫茶店で澤田に見せられたゴルフ場での金井泰蔵、金田民子、金田義明のスリーショットのデジタル画像を思い出した。土岐の記憶にある画像の中の金井泰蔵と似顔絵が重なり合った。玉井はもう一度似顔絵を胡散臭そうに見直す。
「そう言われれば、そう見えないこともないが、・・・こんなもの、証拠能力ないよ。・・・これがどうしたの?」
「目撃されているんです。廣川弘毅の殺害現場で・・・」
「殺害現場?・・・あれは、自殺で落着しているんだろ?」
「まあ、署内的にはそう処理されていますが、民事では、殺人ということになるかもしれません」
「・・・佐藤加奈子か?」
と玉井は民事で訴訟を起こそうとしている人物の名前を言った。海野が答える。
「そうです」
玉井は両手を頭の後ろで組み、ソファにもたれて天井を見る。絡めた太い指がいまにも外れそうだ。白い鼻毛がよく見える。
「民事でも、USライフに勝てないだろう。いや、法廷外の圧力で、勝たせてもらえないだろう。まあ、佐藤加奈子も、提訴すれば、いずれ提訴しなかった方がよかったと思い知るはずだ」
土岐が口をはさんだ。
「四十年前、廣川弘毅が総会屋活動の表舞台からひっこんだのはなぜですか?」
玉井が声の方を向いて目を剥いた。しょぼついていた目が大きく見開かれた。
「あいつは自力では何もしていなかったんだ。財務諸表ぐらいは勉強したようだったが、インサイダー情報はもらっていた。やつが派手な活躍をしてしょっぴかれると、当然情報を提供していた方にも類が及ぶ。それを恐れて、やつに表舞台から手を引かせた。そのかわり、たんまりとはいかないが、それなりの金づるがやつに提供された。雑誌広告がメインだった。一社当たりの金額はたいしたことはないが、上場企業百社ぐらいを紹介した」
「長瀬啓志と船井肇と馬田重史が紹介したんですか?」
「それを知ってどうする。インサイダー取引は時効だし雑誌広告はまっとうな商取引だ」
「廣川弘毅の殺害は時効にはなっていないでしょう?」
と土岐が突っ込む。玉井は憮然とした表情で返答する。
「殺害じゃない。自殺で処理されている」
「証拠さえ上がれば、いつでも殺人で立件されるでしょう?」
「証拠はない」
と玉井が怒気を込めて断言する。海野が脇からそれをなだめるようにして言う。
「これは、仄聞だが、コメントがあればコメントしてもらいたい。多少おれの推理と、脚色も混ざっている。まず廣川弘毅は陸軍中野学校の出身だ。これは証拠も証言もある。戦時中、アメリカの牧師と和平工作をしていた京都の清和家に書生としてもぐりこみ、本土徹底抗戦を考えている陸軍の方針に従って、和平工作の妨害を画策していた。ここまではよくある話だ。吉田茂と中野学校出身のスパイの話は有名だ。こうした類の戦中秘話はごろごろ転がっている。ここからが、どこまでが本当で嘘で単なる噂なのか分からないが、廣川弘毅が二重スパイだったということだ。最初は陸軍のスパイとして養成されたが後に海軍のスパイにもなった。というか、海軍のスパイに協力するようになった。海軍は陸軍中野学校に対抗して、久邇政道少佐をトップに据えて、同じような秘密諜報員養成組織を作った。太平洋戦争に突入してからの話だ。それまでは、スパイは武士道に反するとか、大和魂にそぐわないとかいう理由でそうした本格的な諜報機関は造らなかったが、太平洋戦争に突入するに至ってきれいごとを言えなくなった。そこで、長瀬啓志が海軍経理学校から、船井肇が海軍機関学校から、馬田重史が海軍兵学校から、それぞれ引き抜かれた。他にも何人かいたようだが、戦死したか物故している。海軍の戦略は早期和平工作にあった。もともと海軍は山本五十六を筆頭に日米開戦に反対だった。傷が深くならないうちに和平を結び、戦後の復興にかけるというのが海軍の方針だった。そこで日米和平工作を民間レベルで画策している京都の清和家と東京の久邇家を支援した。両家の間で重要な役割を果たしていたのが、廣川弘毅だった。そのうち、海軍は廣川を長瀬、船井、馬田を補佐するスパイとして利用することを考えた。ただ廣川が中野学校出身であることを知っていたので、裏切らないように目付を置く必要があった。そこで、当時、家庭教師として清和家に出入りしていた三田法蔵に廣川の監視を依頼した。このとき三田法蔵に会って直接依頼の話をしたのが長瀬啓志だ。そのとき長瀬は交換条件として、難関の甲種飛行予備練習生への応募を考えていた三田法蔵に合格を確約した。三田法蔵は廣川が二重スパイであることを見破った。昭和十九年に入って、日本の敗戦は決定的になった。長瀬と船井と馬田は敗戦後の身の振り方を考えた。幸い、諜報活動の資金として、海軍の隠匿物資の所在を知らされていた。燃料、軽金属、銅、コメ、みそ、しょうゆ、いろいろあったが、少人数でも横領可能なダイヤモンドや貴金属や骨董品に目を付けた。それらを隠匿物資とは明かさずにさばくために、久邇政道が久邇商会を設立した。隠匿物資は昭和十九年三月に海軍に接収された慶応義塾の日吉校舎の裏手のマムシダニの地下壕に隠されていた。終戦間際のどさくさに、巨額の隠匿物資を横領し、自分たちの力で戦後の日本の経済社会を立てなおそうと計画を立て、この計画に廣川と三田法蔵を引きいれようとした。廣川は応諾し、三田法蔵の説得を任されたが、三田法蔵は拒否した。三田法蔵は、長瀬啓志に、
『隠匿物資は天皇陛下の赤子たる国民全員にひとしく配分されるべきものだ』
と言ったようだ。これに対して、それを聞いた馬田は、のちに長瀬啓志に、
『国民全員で分配したら、復興の原資になりようがない』
と主張し、仲間の数人で分けることを正当化した。
『一億円を一億人で分配すれば、一人あたりたった一円にしかならない。しかし、この一億円をただ一人の経営者に託せば、企業を興し、やがて数千人、数万人の雇用を生み出し、それが数千万人に波及し、いずれは数兆円の所得を生み出す』
と仲間に説いた。この話は、馬田の自伝に出てくる。もっとも、隠匿物資を横領したとは書いてはいないが・・・。長瀬啓志に依頼された三田法蔵の説得に失敗した廣川は三田法蔵の抹殺を画策する。理由は三つあった。ひとつは、二重スパイであることを知られていること。二つ目は隠匿物資の横領計画を知られてしまったこと。三つ目は、一目ぼれした平井圭子が三田法蔵を愛していたこと。二重スパイであることがばれれば、廣川は中野学校の連中に粛清される。廣川はどうしても三田法蔵を抹殺する必要があった。そこで長瀬啓志たちに、秘密を知っていて共謀に参加しない三田法蔵の抹殺を依頼した。海軍の諜報機関は秘密保持のため、長瀬啓志を教官として三重海軍航空隊に赴任させた。そこで事故を装って三田法蔵を終戦の前日に殺害した。死亡の状況に疑念を抱いた上官もいたようだが、終戦の混乱でうやむやになった。それから、長瀬、船井、馬田、廣川らの海軍隠匿物資の横領が行われた。久邇政道は久邇商会を通してそれらをさばいた。長瀬は終戦の日、香良洲にいたので、横領の実行部隊は船井、馬田、廣川の三人だった。遅れて駆け付けた長瀬は骨董的な隠匿物資を割り当てられ、わりを食った。一番分け前の多かったのが、馬田重史で、馬田は海軍兵学校で学んだ英語力を生かし、八紘物産の中興の祖となった。社長就任当時、政府からさまざまな諮問委員会などの委員就任を打診されたが、ことごとく断った。このことは、新聞に連載した馬田の自伝によれば、
『在野の経営者として政府に警鐘を鳴らす意味からも政府とは一線を画す』
とジャーナリズムからは称賛されたようだが、おれの考えでは、馬田は叙勲の対象となることを避けたんだ。実際、経済団体の中でも重要な役職に就くことをしなかった。政府の各種委員会の委員ともなれば、いずれ政府の方で叙勲か褒章の対象としてくれる。そうなれば、身辺調査が行われる。隠匿物資の横領はとっくに時効だし、戦後のどさくさにまぎれたもので、戦後名を成した多くの実業家が何らかの形で、それと似たような危ない橋を渡っている。馬田が恐れたのは廣川との関係だ。馬田は海外賄賂の裏金作りのために廣川を利用した。八紘物産の取引先や関連会社のインサイダー情報を廣川に流し、廣川に表立たない形で企業から資金を集めさせた。長瀬も監査法人の代表社員の立場で入手したインサイダー情報を情報源がばれないように廣川に流し、廣川に儲けさせた。廣川がほかの総会屋のように、名前を売ったうえで、株主総会に出席し、資金を集めるという表立った活動をせずに、賛助金や広告協力費を集金できたのはこのためだ。船井はそのカネで衆議院議員に立候補し、票を買収し、当選したものの、もともと政治的な野心も理想もなかったので、建築土木利権でカネを儲けることに方針を転換して、一九五八年の総選挙で落選したのを機に、政界人脈を利用して、口利き利権に奔走し、そうした利権に群がって来たゼネコンの賄賂情報を廣川に流し、廣川が総会屋活動をしないでゼネコンから資金を調達する便宜をはかった。こうしたカネのなる木もバブル崩壊と商法改正による総会屋取締強化でしりすぼみとなった。すべては時効の壁の向こうの話だ。そこで玉井さん、あんたの役割は取り締まる側の情報を廣川に流すことだった」
うつむいて聞いていた玉井要蔵が顔をあげて、海野を見上げた。海野は話を続ける。
「同時に廣川も同業の総会屋の情報をあんたに流したから、あんたもそこそこに総会屋を摘発して業績をあげた。ある意味で、持ちつ持たれつだった。しかし、廣川からの情報だと分かるとまずいから、適当にお目こぼしもした。その点は職務義務違反だろう。おれはそういう噂を昔、署内で聞いたことがあった。火のないところに煙は立たない。どんな悪事も、九十九%隠したところで、一%発覚すればそれまでだ。だからあんたは、定年退職後もボランティアで特暴連に協力する形で、悪事が露見されないようにする必要があった。問題は、長瀬啓志が一般推薦で紫綬褒章をもらうことを画策したことだ。久邇頼道を推薦人とし、馬田重史と船井肇を賛同者とした。本人に犯罪歴がなければ受章は間違いない。実際、夏ごろにはほぼ内定していた。そこで登場したのが、長田賢治だ。廣川は長田を知っている。知ってはいるが、深い付き合いはない。人生で出会った多くの人物の中の一人にすぎなかった。しかし、長田の方は廣川が自分の孫娘、見城仁美の母方の祖父ではないかという疑念を抱いていた。DNA鑑定をすれば一発で分かることだが、長田が廣川に打診したところ、廣川にもなんとなく、心当たりがあった。中井愛子の写真を見せられて、自分になんとなく似ていると思った。中井愛子と見城仁美が困窮していると聞かされて、とりあえず、群馬県の水上の山奥の老人ホームから、中井愛子を船橋法典の特養ホームに移動させる手配を船井肇を通じてとった。そのやりとりの中で、長田賢治と三田法蔵が極めて近い関係にあったことを聞かされた。具体的なことは塔頭哲斗の『学僧兵』にモデルとして描かれていると長田に言われて、あわてて読んでみた。小説の中では、三田と長田は一蓮托生の兄弟のように描かれている。そうだとすると、長田は三田法蔵を通じて、廣川弘毅が二重スパイで、終戦末期に、海軍の隠匿物資を横領する計画を持っていたことを知っている可能性がある。長田の狙いは、中井愛子への資金援助ではなく、廣川、長瀬、馬田をゆすることではないのか。特に、廣川からその話を聞かされた長瀬は、紫綬褒章に内定していたこともあり、長田の影におびえた。これはかつて廣川が一部上場企業を総会屋としておびえさせた手法と同じだ。弱みがある相手は、総会屋と聞いただけで、その影におびえ、いいなりの賛助金をだす。長瀬も時効とはいえ、三田法蔵殺害の疑惑と、隠匿物資横領の疑惑が明るみに見出れば、褒章取り消しとなることにおびえた。金井泰蔵はあんたから、その話を聞きつけた。長瀬に恩を売る絶好の機会と捉えたのだろう。廣川が居なくなれば、多少残っている廣川の利権を金井は手にすることができる。同時に、長瀬、船井、馬田に恩を売って、何らかの見返りを期待できる、さらには金田民子と昵懇だったことから、民子を通じて、廣川の遺産を入手することもできる。さらには、褒章の一般推薦ビジネスを独占できる。もともとこのビジネスモデルを考えたのは金井泰蔵だ。金井の知り合いの不動産屋が紫綬褒章を受章したのがきっかけだ。張本という不動産屋だが、人品骨柄のいやしい男で、金井自身、金田にもらした。
『どうして、高等小学校しか出ていないあのひひ親父が受章できたのか』
と不思議に思った。調べてみたら平成十五年から褒章の一般推薦制度が始まったことを知った。張本の推薦人は十数年以上後援会長として資金的に援助してきた代議士だ。金井は、『ゆくゆく、これは、ロットこそ少ないものの立派な商売になることはまちがいない』
と踏んだ。そこで、廣川弘毅に話を持ちかけて、廣川の顔を利用して、褒章を受けていない財界人に売り込んだ。ついでに受章後の祝賀パーティと胸像の製作をセットにして一件当たり数百万の利益を生み出した。しかし、こうしたビジネスモデルはすべて廣川のコネクションを利用したもので、その結果、金井自身は収益の半分以下の受け取りで我慢させられた。金井泰蔵は、長田を殺すと見せかけて、廣川を殺害した。あんたらは、金井が長田を殺すところを誤って金井が廣川を殺したと思っていた。長田が生きている限り、長瀬がおそれている影は消えない。ところが、事件後、数日たっても、長田の方から何の連絡もない。ということは、長瀬が恐れた影は、幻影に過ぎなかったと思うようになった。冷静に考えてみると、ここ二十年間以上にわたってダニのように小ガネをせびり続けてきた廣川が死んだことは、長瀬にとっても船井にとっても馬田にとっても、ある意味で清々したところがある。そこで、長瀬と船井と馬田が政界コネクションを使って、廣川の死を自殺で処理させた。これには玉井さん、あんたも一枚かんでいる。その処理で困るのは佐藤加奈子程度で、他には何の影響もない。すべては、丸く収まった。これがおれの推理だ。玉井さん、何かコメントはありますか?」
玉井要蔵は静かに含み笑いを始めた。
「まあ、想像するのは勝手だ。真実は一つかも知れないが、当事者たちの記憶も曖昧になっている。自殺の処理で殆ど誰も困らないのであれば、それはそれでいいじゃないか」
「それは、そうだ。真実を追求しないと職務義務違反になるなどと、おれなんぞ、言える立場じゃないし・・・」
と海野が言うと、土岐が口をはさんだ。
「ぼくも偉そうなことを言える立場ではありませんが、・・・実行犯とされる金井泰蔵はこのままでいいんですか?なんとなく、すっきりしませんが・・・」
海野が土岐を横眼で見た。
「金井泰蔵をしょっ引いて、ゲロさせてどうする?やつは絶対に吐かないぞ。吐いたら、身の破滅だということは分かっているし、吐かなければ、長瀬や馬田や船井から相応の見返りが期待できる。玉井さんも金井が吐かなければ、・・・金井は自分の手下のようなものだから、・・・これまで、泥臭い仕事ばかりで、多少割りを食ってきたが、長瀬や馬田や船井に対して、立場上よくなるし、・・・」
不意に玉井が短い脚で立ちあがった。
「話は以上か?おれとしては何も言うことはない。まあ勝手に想像してくれ。とてつもない事実が明らかになったら、おれに相談してくれ。悪いようにはしない。しかし今日程度の話では、なんらかの申し出があったとしても、まったく応じられないな。今日は天気がよかったし、散歩がてら須田町からやって来たが、まあその甲斐はあまりなかったな。・・・いずれにしても、海野刑事の賢明な判断に期待しているよ。それに来年定年退職だそうで、・・・あてがわれた再就職先に満足していないなら相談に乗ってもいいぜ」
そう言いながら玉井は事務室の蛍光灯を順に消し始めた。
海野は土岐に目配せして、部屋の外に出た。玉井を事務室に残して、土岐と海野はエレベーターに乗った。エレベーターが降下し始めてから海野が言った。
「やっこさん、おれたちがどこへ行くか、確認するはずだ。どうだ、これから八丁堀に行く気力はあるか?」
「八丁堀?」
「ああ、ウォーターフロントの超高級マンションだ」
「長瀬啓志ですか?」
「そうだ。在宅は確認してある」
土岐はエレベーターを降りて、海野に従った。ビルを見上げると、八階の電気がぼんやりと付いていた。海野の読みが正しければ、あのブラインドの隙間から、玉井が二人の行方を追っている筈だ。海野は上から見やすいように歩道を車道寄りに歩いている。
「たぶん、金井泰蔵か、その仲間のような奴が、おれたちを尾行するはずだ。尾行させてやろう。後ろを振り向くなよ」
土岐は黙って海野の脇を歩いた。週末の大手町はゴーストタウンのようだ。東京の中心部であるのは平日だけだ。週末は人がほとんどいない。大手町駅まですれ違う人影がなかった。地下鉄東西線の大手町駅の改札口脇で切符を買いながら、海野が言う。
「歩いても、大した距離ではないが、それでも歩くとなると三十分はかかるだろう」
茅場町駅で日比谷線に乗り換えて八丁堀駅に着いたのは七時前だった。駅を出て、東京湾方面に歩いて行くと、ひときわ目立つ高層マンションがあった。周囲に場違いなほどこんもりとしたLED電飾内臓の植込みがあり、一階全体が煌々とした照明に照らし出されて、ホテルのロビーのようになっていた。エントランスの自動扉を入ると、管理人兼警備員の受付があった。海野が窓口を覗き込むようにして申し出た。
「十七階の4号室の長瀬さんをおねがいします」
そう言いながら警察手帳を見せていた。
「ご訪問ですか?」
「そうです」
「お名前は?」
「茅場署の海野と言います」
「ご用件は?」
「内閣府賞勲局の依頼できました」
警備員は聞き取れない。
「内閣府の?」
海野は繰り返す。
「内閣府、賞、勲、局です」
「少々お待ちください」
と言って、警備員は17階の4号室に電話をかけ、海野の用件を復唱する。しばらく、やりとりがあって、
「どうぞ、お会いになるそうです」
そう言うと、エレベーターホールへの扉が開いた。黒い大理石が一面に埋め込まれていた。間接照明で、足元と天井だけが明るい。行ったこともないくせに、高級クラブの入口のようだと土岐は思った。土岐と海野の姿が鏡のような床や壁に亡霊のように映し出されている。海野はエレベーターの上昇ボタンを押した。
「これだけ警備がしっかりしていれば、外から暴漢に押し込まれることもないだろう」
踏み込んだエレベーターの箱に揺られながら、海野はため息を吐いた。土岐は豪勢な雰囲気に圧倒されている。
「わたしは、どうしていればいいんですか?」
「マスコミ関係の担当と言うことで、話を合わせてくれ」
「マスコミ関係?」
「そっちの方の担当ということだ。イメージとしては雑誌のトップ屋かな」
「はあ・・・?」
と言ったものの、土岐には意味がよくわからない。海野は身震いしている。
「どうもすっきりしないな。なんとなく、胸の座り心地が悪い」
17階はペントハウスだった。吹きさらしのエレベーターの出口から右手の東京湾をとり囲む夜景と左手の銀座の夜景が一望できた。髪を乱す風が土岐の襟元をかすめた。
「へーっ、最上階はエレベーターホールがないんですね」
土岐は感心したようにつぶやいた。4号室はエレベーターを出て、外廊下を左に進んだ右奥にあった。手すりはあるものの道路を走る自動車が豆粒のようで高所の恐怖に足元がわずかにすくんだ。海野がアルコープの奥の黒いインターホンを押した。
「どうぞ、あいています」
と言う落ち着いたしわがれ声が聞こえた。海野はドアを引いた。玄関は三畳間程の広さがあった。エントランスと同じ黒い大理石がはめ込まれていた。靴箱の下に間接照明があり、足元が異様に明るく感じられた。廊下の奥の照明を背に受けて、老齢の男がホームウエアの上にガウンを着て、ムートンのスリッパをはき、両手をガウンのポケットに突っ込んで仁王立ちになっていた。
「茅場署の海野さん?」
「そうです。長瀬さんですね?」
「そうだが、そちらの方は?」
と長瀬が土岐に視線を向ける。
「土岐と申します」
と言いながら土岐は名刺を出した。長瀬は受け取ったが見ようとしない。そのままガウンのポケットにしまった。右手のドアを開けて入って行く。
「どうぞ」
土岐と海野は靴を脱いで、十センチほどの高さのあがり框に足をかけた。長瀬と同じムートンのスリッパが用意されていた。
通された応接間は十二畳ほどの広さがあった。壁一面に百科事典や文学全集が綺麗に並べられていた。書物としてよりも、装飾として置かれている配慮が感じられた。
全員が本革の黒いソファに腰を下ろすと、長瀬がおもむろに口を開いた。
「で、内閣府賞勲局からどういう依頼で?」
「身辺調査です」
と海野が長瀬の顔色を窺いながら言う。
「それは、もう終わったはずだが・・・」
「追加調査です」
「内閣府賞勲局からは、今年の夏の初めごろだったか、
『紫綬褒章に内定したましたが、受諾されますか』
というような連絡があったが・・・それでもう終わりではないのか」
「それは、存じています。新たな件で・・・」
「どんな?」
と言いながら、長瀬がテーブルの上のシガレットケースの蓋をあける。洋モクがケースいっぱいに並んでいる。長瀬は卓上ライターで火をつけた。煙の臭いが土岐の鼻腔を刺した。その紫煙をちらりと眺めながら海野が言う。
「廣川弘毅殺害への関与の疑惑です」
「何のことか、知らないな」
「いやあ、廣川弘毅はご存じのはずです」
「知ってはいるが、自殺じゃなかったのか?」
「金井泰蔵が実行犯です。長瀬さんが金井に廣川弘毅殺害を指示したという疑惑です」
「金井泰蔵とかいう人間は知らない」
「直接は御存じではないかも知れないが、玉井要蔵に廣川弘毅殺害を指示し、玉井要蔵が金井泰蔵に指示した・・・」
「何のことだかわからん」
と長瀬は軽く吸った煙草を深く吸い込まず、煙を吐き出さずに、口を開けたままで、煙が勝手に口蓋から出て行くのに任せている。八十歳過ぎにしては、顔の色つやがいい。その落ち着きぶりが演技なのかどうか、土岐には読めない。海野は話を変えた。
「最近、殺人の時効が撤廃されまして法務省の諮問委員会から、それを更に改正する答申が出される予定です。しかもその時効撤廃の適用は過去の殺人にも及ぶという内容で」
「ばかな。それは憲法上あり得ない。新法や改正法は過去には遡及して適用しないのが原則だ。過去の殺人にも及ぶと言っているのは、まだ時効を迎えていない事案についてのみだ。それだって、まだ解釈が分かれている。改正法を適用して裁判になれば、間違いなく弁護士は控訴審でそれを持ち出すはずだ」
海野がしたり顔でソファに座り直して深く腰掛けた。
「良くご存じで・・・じゃあ、マスコミにリークするというのはいかがですか?」
「言っている意味が良くわからない。所轄の警察が、すでに処理した事案について、
『廣川弘毅の自殺の処理が誤りで、ほんとうは他殺だった』
とリークすることはないだろう」
「もちろんです。この土岐さんが民間調査機関の立場でリークできます」
長瀬が小さくなって畏まっている土岐を睨みつけた。
「だからどうしろと言うんだ?カネか?カネを要求すれば、恐喝になる。二人とも、わたしが告発すれば逮捕される」
海野が右手のひらを自分の鼻先で激しく左右に振った。
「とんでもない。カネなんか要求しないですよ。ただ、真実が知りたいだけで・・・」
「だから、知らないと言っている」
「三田法蔵の件はどうです?なぜ彼を殺害したんですか?」
「あれは、事故だ。かりに誰かが殺害したにしても、六十年以上前の話だ。しかも、刑法ではなく、軍法の対象となるべきものだ。だが、日本海軍はすでに解体している」
「それは承知しています。真実をお話し願えないのであれば、こちらの土岐さん経由で、マスコミにリークして、お話を引き出すという方法もあります」
「それは、名誉棄損になるぞ」
「真実であれば、名誉棄損にはならないでしょう。かりに、名誉棄損で告訴されるということであれば、裁判を通じて真実が明らかになるでしょう」
長瀬がポケットにしまった土岐の名刺を取り出して見た。それからおもむろに細かい縦皺の入りかけてきた口を開いた。
「・・・じゃあ、真実を話そう。昭和二十年七月末、上官の命令で、三重海軍航空隊に急遽教官として赴任した。当時所属していたのは、海軍の秘密機関で、陸軍の中野学校と違って、その記録はどこにも残っていない。久邇政道海軍少佐の特務機関だった。昭和十八年ごろから、日米の早期和平の工作活動を行っていた。七月末ごろ、ポツダム宣言の受諾は不可避的になってきていたので、軍部の暴発を未然に防止するというのが、あらたな任務となっていた。当時、三重海軍航空隊では、一部の若手士官が陸軍と結託して、徹底抗戦を画策しているという情報が入って来た。それで、急遽、香良洲に着任することになった。実際そうした動きを捉えたので、謀議に加わるふりをして、徹底抗戦の計画をつぶしにかかった。三田法蔵は最年少のメンバーの一人だった。結局、謀議の壊滅に成功した。三田法蔵はそのあとの軍法会議での訴追を恐れたのか、あるいは、謀議計画の破綻に絶望したのか、・・・あれが、自殺だとすれば、動機はそんなところだろう。事故だとしても、グライダーは原形をとどめないほどに破損していたから、原因は究明できなかった。もう少し、時間をかければ、あるいは原因を解明できたかも知れないが、終戦直後の大混乱で、うやむやになってしまった。終戦の詔勅のあと、首謀者だった竹前岬は皇居の方角を遙拝して浜辺で割腹自殺している。そういう謀議のあったことを知っている者はいまでは殆どいない・・・廣川弘毅の死については何も知らない」
土岐が床のアラベスク文様の絨毯に眼を落して、ぽつりと言った。
「死人に口なしか・・・戦後の廣川弘毅との関係はどうなんですか?」
「廣川弘毅は陸軍と海軍の二重スパイだった。やつは戦後も、その影を引きずっていた。おれと馬田と船井は和平工作をやっていた関係で、GHQから優遇を受け、しばらくの間、久邇政道を頭目として防共の諜報活動をやっていた。軍部の隠匿物資を久邇商会を通じて横流ししたが、私的に遊興するためでなく、すべて戦後の日本経済の基礎造りに活用した。廣川弘毅はダニみたいなやつだった。われわれの活動を知って、途中から参加してきた。やつは陸軍の隠匿物資を持ち込んできたので、われわれもやつを利用した。しかし、それが腐れ縁となった。われわれは早々に怪しい活動からは足を洗ったが、やつは総会屋のような裏稼業を始めて、われわれをやんわりと脅すような姿勢を見せた。われわれはやつの影におびえ続けた。そんな折、長田某が突然、現れた。『学僧兵』という小説をおれは読んでいないが、どうもその長田某と三田法蔵をモデルに書かれているらしい。戦時中、二人は兄弟以上の関係にあり、小説の中で、頻繁に手紙のやり取りをしている。それが、真実に近いとすれば、三田法蔵が握った情報は長田某に流れている可能性がある。長田某が、三田法蔵を殺害したのは廣川弘毅だと信じ込んでいることに廣川はおびえていた。小説の中の二人の関係が真実であるとすれば、長田某が廣川弘毅に復讐することは十分に想像されたからだ。・・・これは余談だが、八十を過ぎた今でも、二十代までの記憶は鮮明だ。年を経るごとに直近の記憶は希薄になって行く。殺人の動機が六十年前にあるとしても、何の不思議もない。廣川弘毅の死が殺人であるとすれば、容疑者はその長田某だろう。・・・話はそれだけだ」
うつむいて聞いていた海野が長瀬の顔を見上げた。
「そんなところでしょうかね・・・夜分失礼いたしました。先ほど申し上げたマスコミへのリークについては、たとえ今のお話が、真実の一部であったとしても、
『廣川弘毅の轢死は自殺とせよ』
という警視庁内部の天の声の出どころが解明されていないので、解明されるまでは、こちら側がこれまで得た情報をどこかに漏らす予定です。井戸ポンプの呼び水というやつです。マスコミにリークすれば、どこからか何らかの反応があるはずです。われわれがもう少し納得できるその辺の真実をお話しいただければ、いつでもストップしますので、二、三日中に土岐さんの方に改めて、ご連絡ください。それでは・・・」
と海野は席を立った。土岐もそれに従った。長瀬は憮然として座ったままだ。長瀬は二人を見送らなかった。
二人はそのまま日本橋までぶらぶら歩き、ビルの地下にある居酒屋〈株都〉に入った。土岐はテーブルに着くなり、海野に喰ってかかるように質問した。
「長瀬から連絡があったらどう対処するんですか?」
「連絡なんぞ、ありはしない。連絡したら、疑惑を認めることになる。それに、現金授受で解決し、それがばれたら、おれは懲戒免職で、定年間際で退職金も受け取れない。そんな危ない橋は、おれは渡らない」
「なるほど、どっちにしても共倒れということですか・・・じゃあ、長瀬はどうすると読んでいるんですか?」
「まあ、最悪の場合は口封じだが・・・あんたはともかく、おれを消したら、警察が黙っちゃいない。上が何を言って来ても、現職を始末したら組織を抑えることはできない。同僚がやられて黙っていれば自分もやられるということを意味するからだ。やくざと同じさ。全力を挙げて摘発する。となると、あんただけ始末して、おれに対する警告とするという方法も考えられる。それは、長瀬がおれの反応をどう読んでいるかに依存する。おれがビビると読めば、あんたは危ない。おれがあんたを同僚のように考えていると読めば、あんたを消すことをためらうだろう。しかし、おれがすぐ定年で、組織内で疎んじられ、発言力もなく、影響力もないと読めば、あんたの始末を強行するかも知れない。だが長瀬は三田法蔵については実行犯だが、廣川弘毅については金井泰蔵が暴走したきらいがないわけではない。実際には指示していない可能性もある。そうであるとすれば、身に覚えのないことで、マスコミにリークされ、紫綬褒章を取り上げられるというのも面白くないかも知れない」
土岐はつまらなそうに言う。
「褒章なんて、人を殺してまでして欲しいもんですかね」
「まあ、あんたやおれの場合は、まったく手が届かないから欲しいとは思わんだろうが、ちょっと策を労すれば手が届くとなれば、どうしても欲しいと思うもんじゃないかな。今回の事件のもう一つの発端は平成十五年に褒章の一般推薦制度が始まったことにある。それまでは政府の諮問委員を長くやっていたとか、公職についていたという経歴があると、賞勲局の役人が勝手に推薦してくれていた。政府の諮問委員の手当てなんかわずかなものだから、御苦労さんという側面もあった。褒章の欲しい人からすれば、安い手当てでも諮問委員を率先してやりたいというモチベーションになる。・・・最初に馬田重史が廣川弘毅の画策で、久邇頼道の推薦を受けて紫綬褒章を受章した。戦中戦後のスパイ行為や闇行為は、調べたのかどうか知らないが、結果的に不問に付された。馬田自身は公職を意図的に避けてきたという経緯がある。しかし、自分と比較すると大したことのない財界人が政府委員を委嘱されたという経歴で、受章していることを面白く思っていなかったのだろう。つぎに、船井肇が同じように廣川弘毅が描いた絵図にしたがって久邇頼道の推薦を受けて、紫綬褒章を受章した。商売上、箔がつくという思惑があったのかも知れない。そうなると、長瀬啓志も廣川弘毅にそそのかされて自分も受章して当然と思うようになった。久邇頼道が推薦者となり、すでに受章した馬田重史と船井肇が賛同者となれば、受章は間違いないと踏んだのだろう。しかし、そこで長田賢治が登場し、その影に長瀬はおびえた。そのおびえを玉井要蔵経由で金井泰蔵が察知した」
「どっちにしても、海野さんのおかげで、枕を高くして寝られなくなりました」
「いやあ、おれの読みでは、あんたの口を封じるために、連絡という形をとらない連絡があるはずだ。それは、ここ二、三日のお楽しみだ。どっちにしても、外に出ない方がいいな。連絡とは言えない連絡のようなものがあるはずだから、蒲田の事務所で待つしかないだろう。・・・いまごろ、玉井と長瀬が謀議しているはずだ。さっきまで、尾行していた人間も、この店の前で消えたようだから・・・」
「しかし、三田法蔵の同期の堀田は陸軍と決起する計画があったことは言ってなかった」
と土岐は思い出したように言うが、名古屋の堀田に確認する意味が見出せない。
「・・・でも海野さんは、この事件の解明にはあまり積極的でないと感じていましたが」
それを聞いて海野が自嘲気味に鼻先でくすりと笑う。
「・・・刑事の沽券・・・ということもないが、一応、自分の推理の正しさを確認したかった・・・それだけだ。まだ、多少もやもやは残るが・・・これ以上追及すると、リスクの方が大きくなる。下積み刑事の長年の勘でなんとなく、そう思う。実際に、リスクに直面してからじゃ遅いんで、若干手前で、手を引かざるを得ない。それに・・・」
と海野は話を続ける。話のトーンがしんみりとしてきた。
「盗人にも三分の理がある。犯罪者が犯罪を犯すのは必然だ。しかし、その必然は本人の気質に根ざすものと環境の影響によるものとがある。本人の気質によるものは、再犯の危険性が高いので絶対摘発しなければならない。しかし、環境の影響によるものであれば、環境を変えてやれば再犯は起きない。少年犯罪の場合、それが環境によるものであれば・・・犯罪の性格にもよるが、・・・厳罰に処すよりも環境を変えてやることの方がいい場合もある。これが少年法の精神だ。婦女連続強姦殺人の場合は、明らかに本人の気質によるものだ。そういう遺伝子を背負って生まれ出た本人の不幸もあるが、無辜の被害者の不幸の方がはるかに甚大だから、絶対に見逃すわけにはいかない。知能犯の場合は、人間社会の利益は享受する一方で、その社会の犠牲のもとに己の利益のみを得ようとする。この犯罪も許せない。廣川弘毅はサイドビジネスの所得を殆ど申告していなかった。確定申告時の税理士印が長瀬啓志で、脱税規模も年間数百万程度だから、税務署も見逃していたようだ。こういう気質は長女の金田民子が受け継いだようだ。彼女も不動産の競売物件で得た所得の何割かは税務申告していなかったようだ。しかし、脱税規模は廣川弘毅と同程度だったことと、長瀬啓志の税理士印が確定申告書に押印されていたため、税務調査が後回しにされ、いま脱税で摘発しても、過去の巨額脱税は既に時効になっている。気質的にこの父娘に共通しているのは、他者との情感の交流のないことだ。金田民子も昔、競売物件でひと儲けした時に、その物件にまだ住んでいた債務者から文化包丁で切りつけられたことがある。一般人が持ち合わせている情感がないことが、周囲の人間をいら立たせるようだ。常識的な好意を提供しても、その反応や見返りがあの父娘には一切ない。つまり、ひとの好意はすべて受ける。しかし、その好意に対する感謝も、お返しも、一切ない。むかつく奴ということだ」
「それが廣川弘毅殺害の動機になったということですか?」
「すべてではないが、動機の一つになっているとおれは読んでいる。・・・介護殺人の場合、犯人は介護すべき人間が身内にいなければ、一生殺人犯にならずに人生を終えたはずだ。これは、そういう環境が犯罪の原因となった可能性が七分ほどある。実際の刑事裁判でも、そうした情状は酌量される。・・・廣川弘毅が殺人事件だとした場合、・・・犯人は金井泰蔵の可能性が高いが、・・・金井は在日四世で、・・・本人は在日三世と標榜しているようだが、・・・やつの曽祖父が関東大震災の朝鮮人狩りで虐殺されている。祖父は朝鮮半島に帰る家がなくなって、仕方なく川崎あたりに住んでいたようだが、戦前・戦中・戦後を通じて、一貫して差別を被っている。金井泰蔵が殺人を犯したとすれば、今回が初犯だ。これまで、格別の善行もしていないが、犯歴もない。人間、故のない差別を社会から受ければ、・・・たとえ故のある差別であったとしても、社会に対して反抗的になるもんだ。金井泰蔵の弁護をするわけではないが、廣川弘毅は金井に対して非情だった。ある種の差別感情があったのかも知れない。汚い仕事は一から十まで金井泰蔵にやらせた。その見返りはアルバイト代程度だった。今回の褒章ビジネスも、もともとのビジネスモデルを考えたのは金井だったが、コネクションを紹介したのが廣川だったという理由で、金井が受け取った金銭は実費プラスアルバイト代程度だった。そんな廣川の下で、金井が二十年近くもなぜ仕えたのか?・・・理由は本人に聞かなければならないだろうが、廣川は金井を目いっぱいこき使った。その鬱憤が、あの日の茅場町駅のホームでたまたま爆発したとしか考えられない。どう見ても金井に計画性はない。おれは、おれがもし、金井だったらと考える。おれと金井は生まれも育ちも違うが、二十年間も仕えて利用され続けたら、ある日、ある時、ある状況で、おれも金井と同じ行動をとる可能性のあることを否定しきれない。・・・おれには残された時間がない。これがまだ若いころなら、点数稼ぎで、金井をしょっ引いただろうと思う。・・・もういい。ある意味、おれはこの世界には、うんざりしてきている。刑事被告人に判決を言い渡す裁判官の顔を幾度もまじまじと見てきたが、いつも、
『愛情豊かな裕福な家庭に生まれ、この世の地獄を見ることもなく生きてきたおまえに一体何が分かる。おまえが、ホシと同じ境遇に生まれ育った時、同じ状況に遭遇して、同じ犯罪を犯さなかったと言い切れる根拠があるのか』
と思い続けてきた。だからと言って、金井泰蔵が実行犯であるという確たる証拠を探し出そうとしないおれの行動が正しいことだとは、これっぽちも思っていない」
その晩、土岐は痛飲した。
二日酔いで、翌日は一日中寝込んでいた。
二日目になってようやく起き出し、佐藤加奈子にどういう報告書を書くべきか、思案を始めた。
午前十一時になって事務所のドアの郵便受けをチェックした。月曜日は郵便が少ない。チラシしか入っていなかった。チラシの中に郵便物でない茶封筒がまぎれていた。封もされていないので、中身をすぐ確認すると、使い古したばらばらの一万円札が百枚入っていた。その中に、自殺を思いとどまらせることを目的とするNPOが寄付金集めに印刷したカードが挟まれていた。その薄いピンクの厚手のカードには、
〈命を大切に〉
という印刷された文字があった。土岐は少し興奮して震える指で、即座に海野に電話した。
「一万円のバラ札が百枚、郵便受けに投げ込まれていました。その中に警告で、
〈命を大切に〉
という印刷されたカードが入っていました。どういう意味だと思いますか?」
海野はしばらく考えている様子だった。呼吸音がかすかに聞こえてきた。
「なるほど、そうきたか。警告と現金か・・・」
「どうします?拾得物として警察に届けますか?」
「ばかな!投げ込んできたやつが、のこのこと警察に申し出てくるか。そんなことが新聞ネタにでもなれば、それを読んだ投げ込んだやつが、
『土岐というバカ者は命を大切にしていない』
と受け取るだろう。どっちにしても、古い札とカードの文字だけじゃ、長瀬と玉井まで辿ることはできないだろう」
「じゃあ、どうすんですか?受け取れば共犯になるし、返せば何をされるか分からない」
「マスコミにリークしないだけなら共犯にはならないだろう。百万円は口止め料ということだ。とりあえず、預かっておけ。共同事務所の設立資金とするのはどうだ?」
「分かりました」
「・・・たぶん・・・民事の方は示談でもみ消す方針だろう。あの大野のねえちゃんがまたしゃしゃり出てくるかも知れない。・・・あんたらが提訴したら、裁判にかける前か、裁判長の和解勧告が出る前に、示談に持ち込もうとするだろう。長瀬が恐れているのは、この件が週刊誌やワイドショーのネタになることだ。廣川弘毅の殺害以外、すべてが時効の彼方とはいえ、雑誌やテレビで取り上げられた途端、長瀬の褒章は宙に消える。裁判で審理が行われて、ジャーナリズムに傍聴されることは避けたいはずだ。保険金の支払い自体は、USライフ全体にとっては大した金額ではない。・・・とすると、一番割りを食うのは東京メトロということになるのかな。USライフと殺人で示談が成立したとなれば、賠償金請求を引っ込めるざるをえないだろう」
「賠償金を請求できなくなりますね」
「そうだが、・・・だからといって、東京メトロが遺族相手に、廣川弘毅の自殺を立証して、賠償請求する訴訟を起こすことは考えらない」
「そうでしょうね。そんな話は聞いたことがないですね」
そう相槌を打って電話を切った後、土岐は札束を事務机の抽斗の中に隠し、鍵をかけた。これだけの現金を手にするのは久しぶりのことだった。
午後三時になるまで、ぼんやりとテレビを見ていた。これからどうするか考えたが、思いが空回りするばかりで、考えがまとまらなかった。とりあえず、テニスウエアに着替え、午後三時すぎにラケットケースの中に百万円を入れて、事務所を出た。
朝方降っていた雨は止んでいた。用心のため折りたたみ傘をラケットケースにしのばせた。茅場署に着いたのは四時過ぎだった。受付で海野を呼び出すと、数分してつま楊枝を咥えて玄関ロビーに出てきた。
「ちょっと、よろしいですか?」
と土岐が言うと、海野は顎で外に出るように指示した。署の建物の外に出ると、
「なんだ」
と海野は振り向きざまに鷹揚に言う。
「ご相談が・・・」
「込み入った話か?」
「例のカネの件で・・・」
「それじゃ、インサイダーに行くか。あんた、これから仁美とテニスやるんだろ?」
そう言われて土岐は頭をかきながら、苦笑した。
喫茶店〈インサイダー〉のテーブルに着くと、
「このカネ、仁美にあげていいですか?」
と土岐は切り出した。
「あんたが受け取ったカネだ。どうしようと、あんたの勝手だ。おれは関知しない」
「すいません。共同事務所の設立資金は、来年の四月までになんとか用意します」
「無理しなくてもいいよ。状況によっちゃ、四月に設立できないかも知れん」
海野は妙にやさしい口ぶりだった。土岐にとっては初めて接する海野の優しさだった。その優しさを確かめるように土岐は聞いた。
「・・・で、長田賢治の件は、どうするんですか?」
「どうするって?」
「いやあ、大学生の目撃証言では、廣川弘毅の転落に杖でとどめを刺したとか・・・」
「あんな証言、あてになるものか。目撃証言は目撃者の心象でいかようにも変わる」
「実行犯の金井泰蔵はどうするんですか?」
「いまさら告発してもしょうがないだろう。一応、やっこさんのアリバイはとった。廣川弘毅が轢死した例の時刻に、
『金田義明と一緒に菊名の店舗にいた』
ということだそうだ。金田も口裏を合わせている。しかし、菊名の店舗の事務員の話では、
『午後5時に店舗を閉めるまで金井さんは午後はずっといませんでした』
ということだそうだ。この証言をぶつけてみると、金井は、
『午後五時を過ぎてから事務員とすれ違いで店舗に入りました』
と言っている。しかし、向かいの中華料理店のバイトのウエイターの話では、
『午後5時以降は、たぶん店舗は閉じられたままでした』
と言う。この証言に対して、金井は、
『店舗奥の6畳間で金田と二人で酒を飲んでいました』
と言う。
『だから表の店舗は閉じたままでした』
ということだ。金田の方は不在証明ではなく、存在証明が被疑者の金井の証言だ。金田が菊名の店舗にいたという存在証明がない。金田の自宅は東武東上線の志木にある。マンションの一室だが、両隣りの主婦にもあたってみたが、彼女らは、
『金田さんが自宅にいたかどうか分かりません』
と口をそろえて言う。ただ右隣のきゃぴきゃぴした主婦が、
『その日の夕方、買い物帰りにマンションから出てくるある女を見かけました』
と言っている。その女は以前、金田の部屋から出てきたところを見かけたことがあるそうだ。その日に見かけたのはマンションの玄関から出てきたところだが、
『多分、それまで金田の部屋にいたのに違いないんじゃないかしら』
と言う。風体を聞くと佐藤加奈子を思わせる。金田と加奈子はなさぬ仲だから、加奈子が合鍵を持っていて一人で金田のマンションにいて出てきた可能性もなくはない。しかし、そのとき金田は自室にいたと見るのが自然だろう。このことを加奈子に雇われている大日本興信所の澤田に確認したが、やっこさん、吐かない。三文探偵ごときが、
『礼状をお持ちにならなければ、クライアントの秘密は守秘義務がありますので』
とほざきやがった。そこで金田が廣川弘毅殺害時刻に自宅にいたとすれば金井泰蔵のアリバイは崩れる。と同時に佐藤加奈子と金田義明の密会がばれる。金田は民子との離婚訴訟で不利になる。加奈子は廣川弘毅の遺産相続で不利になる。お前さんへの調査費用の支払いが困難になるかも知れない。それでもお前さん、刑事告発するかい?」
「刑事告発しようと思うモチベーションはないんですが、何となくもやもやしたものが」
「殺人犯を野放しにしていいのか、てえことか?」
「いやあ、正義の味方を標榜するほど清く正しい人生を生きてきたというわけじゃないんで・・・そんなことは、おこがましくって、つゆほども考えてはいないんですが・・・」
「じゃあ、なんだ?」
「あとで、ぼくや仁美に累が及ばないかと・・・」
「なんだ、保身か」
「保身と言われればそうかも・・・と言うか、このままでいることが最適な選択かどうか、良くわからないもので・・・」
「おれだって、わかりゃしない。そんなことは、後になって分かるものだ。その時々でしてしまったことが、その人間にとってのその時の最適行動ということだ。人間はそういう風にできている。そのことが後になって不都合になっても、過去を変えることはできない。その責任はどうしたって、とらざるを得ない。それでいいじゃないか。かりに民事裁判でそのことが明らかになれば、マスコミが騒ぎだして、警察が動き出すことになるかも知れない・・・しかし、それはおれが定年になった後の話だ。それでいいじゃないか。おれたちがリスクを冒して、柄にもなく正義の鉄槌を下すまでもないだろう。おれたちは取るに足らない一般ピープルだ。ヒーローでもなんでもない。それに金井泰蔵は根っからの性悪だ。おれの手にも、あんたの手にもおえる奴じゃない」
海野は深いため息を吐いた。土岐もしばらく黙りこくった後、コーヒーを一口飲むと、思い出したように話し出した。
「示談が成立しなかった場合、保険の裁判の方はどうなるんでしょうかね?」
「佐藤加奈子はカネが欲しいんだから示談でカネが入ってくるんだったら応じるだろう。保険金は満額支払われるが、訴訟費用の分担でもめる可能性があるかも知れない。示談となれば、宇多弁護士は吹っかけてくるだろうし、USライフの背後の人間がジャーナリズムネタにしたくないと思っていることを知れば、あの悪徳弁護士は相手の足元を見て、示談がこじれる可能性がなくもない。万が一、裁判が始まったとしても、保険屋の大野直子の切り札は見城仁美の目撃証言だから、仁美が証言を翻せば、それで終わりだ」
「保険会社の上告はないでしょうか?」
「どうかな。かりに、二審に進むとしても、その頃には長瀬啓志は紫綬褒章を受章している。長瀬は新聞ネタにならないように傍聴券をアルバイトでも雇って独占するかも知れない。他に目撃者がいたとしても、報道されなければ裁判には気付かないだろう。・・・事件は日々起きている。ジャーナリズムも古いことには興味を持たない。・・・例の男子学生の目撃者はおれが抑え込んでいる。あの証言が使われると、長田賢治が実行犯になりかねない。それは、見城仁美に入れ込んでいるあんたの本意ではなかろう。・・・刑事告訴された場合、長田賢治は未必の故意を問われるかも知れない。くだんの男子学生は廣川弘毅が、
『はっきりとではないんですが、なんとなく杖で突き落としたように見えた』
と言っている。かりに、長田賢治が廣川弘毅を救うために伸ばした杖を引っ込めたとしても、引っ込めたこと自体が未必の故意になる。公序良俗からすれば長田賢治には廣川弘毅を救う義務がある。長田はそれをしなかった。しかも、長田が無二の親友であった三田法蔵の殺害を画策したと思い込み、片思いしていた平井圭子を闇金の力で奪い去られたことに対する恨みという動機がある。担当の刑事や検事が金井泰蔵を実行犯としてストーリーを描くか、長田賢治を実行犯としてストーリーを描くか、・・・それ次第だが・・・ストーリーはいかようにも描ける。金井泰蔵だって、実行の直前で躊躇し、思いとどまった可能性だってある。押したことは押したが、そこに逡巡があった。背中を押した相手が長田賢治であれば、転落しなかったかも知れない。廣川弘毅が転落したのは、足の指がなくて、踏ん張れなかったからだ。あるいは、金井泰蔵は長田賢治を殺害しようとしていたのかも知れない。背後から押そうとした時に、廣川弘毅が杖を落とし、長田賢治がそれを拾おうとして屈んだ。そのはずみで、押そうとした手が、長田賢治ではなく、隣の廣川弘毅の背中を突いた。だから、学生の証言によれば、廣川弘毅は金井泰蔵を確認して、とっさに、
『なぜだ』
というような表情をした。その廣川弘毅のその瞬間の思いは、
『なんで、おれなんだ。殺すのは長田賢治じゃないのか』
ということだったのかも知れない。・・・いずれにしても、その百万円を返却しないのであれば、この事件を荒立てるとすると暗黙の約束違反になる。あんたの身に危険が及ぶかも知れない。われわれと長瀬グループが相互に後ろめたいものを持ちながら、その重さの微妙なバランスを保ちながら、このまま、忘れて行くのが、現時点での最適行動ではないのか?・・・もっともあんたに、そういうことを超越するようなスパーヒーローのような正義感でもあれば別だが・・・あんたはどうだか知らんが、おれはそういう英雄的な行動とは、縁を持たない心の世界でこれまで生きてきた。警察官になったのは、職業そのものが善だから、世渡りに便利だと思った程度のことだ。おれ自身は自分で言うのもなんだが、善ではない。そういう意味では、本当は医者になりたかったのだが、学力が言うことを聞いてくれなかった。おれにはもう、この事件を徹底的に解明しようという打算を超えた気力が残っていない。金井泰蔵を自由に泳がせていることについても、耳垢が詰まっている程度にしか感じていない。害者の廣川弘毅にも寸毫の同情も感じていない。年も年だし、奴のこれまでやって来たことを調べてみたら、自業自得以外の言葉が見つからなかった。いずれにしても民事で勝てば、廣川弘毅の遺産の一部が中井愛子に渡ることなる。そうなれば、彼女の老後は安泰だろう。見城仁美にもやっと人並みの青春が訪れるということになるかも知れない」
土岐は海野の話を聞くだけで疲労困憊した。別れ際に海野が情報を提供してくれた。
「例の、中村貞江の件だが・・・」
土岐は座り直した。
「何か分かりましたか?」
「巣鴨署の地域課に調べさせた。転居届が出ていて、港区広尾に転出している。超高級マンションに転入している。戸主は相田貞子だ。相田貞子の扶養家族になっている」
「えっ、相田貞子と同居しているんですか。ということは、母娘ということですか」
「そういうことだ」
「そうだったんですか!でも、なぜ、相田貞子の母親が、三田法蔵の骨壷を持って行ったんでしょうか」
海野と別れたその足で、土岐は六本木に向かった。六本木の音楽事務所に貞子がいることを祈った。その祈りが通じた。貞子は事務所に一人でいた。長谷川は見当たらなかった。土岐を見て、貞子はモナリザのように微笑んだ。
「やっぱり、来たのね」
「予感がしてましたか」
「優秀な調査員なら、来ると思ってたわ」
土岐は勝手に事務椅子に腰かけた。貞子はメーンソール煙草を取り出して火を付けた。そこに長谷川が入って来た。コンビニのレジ袋に二人分の弁当が入っていた。それを見て、土岐が聞いた。
「いいですか?」
「いいですかって、このままここで話を続けていいかってこと?」
「話をしていいですか?」
「あっ、長谷川のこと?いいのよ、聞かれても、番犬みたいな人だから」
聞かれてもいい、と言われて長谷川の右の目元が緩みかけた。しかし、番犬みたいと言われて、右の口角が歪んだ。土岐は長谷川の存在が気になったが、話を続けた。
「貞江さん、お母さんはお元気ですか?」
「ええ、おかげさまで、最近少し、体力も視力も衰えて、少しボケてきたみたいだけど、病院の検査では、少し糖尿の気があるというだけで・・・」
「三田法蔵の骨はどこにあるんですか?」
「敦賀の法蔵寺に」
「でも、三田法蔵は捨て子で、身内がいないと聞いてますが・・・」
「戸籍上では、そうなっていると思います。でも、法雄さんは、わたしと血が繋がっているんです」
「どういう関係なんですか?」
「私のお祖母さん、志茂法子っていうんですけど、彼女の弟なんです」
と言われて、土岐は家系図を頭の中に描いた。志茂法子の娘が中村貞江、そのまた娘が相田貞子、志茂法子の弟が三田法蔵。
「でも、法蔵寺では、捨て子として養育されたんですよね」
「その辺は、私は何も知りません。全て、母から聞いた話で・・・その母も、祖母から聞いた話で・・・」
「おばあさんの弟、三田法蔵が捨て子になった経緯は?」
「母の話によれば、私の曾祖母、おばあさんのおかあさんと法蔵寺の先々代の住職がねんごろになって、法雄さんができて、そのとき曽祖父は兵役で不在で、姦通罪を逃れるために、法雄さんを捨て子として法蔵寺で預かったと聞いてます。法蔵寺の大黒さんはそのことを薄々気づいていたようで、法雄さんが随分いじめられたと祖母が言ってたようです」
「あなたのお母さんが、三重県の善導寺まで行って、法蔵さんの骨壷を受け取ったのはどうしてです」
「だって、母にしてみれば、叔父だから、あたりまえじゃないですか?」
「でも、今から四十年ぐらいまえだから、なくなってから随分、時間がたってますよね」
「なんで、戦後すぐ、受取に行かなかったか、ということね」
「そうです」
「知らなかったからみたい。戦後、落ち着いてから、善導寺から法蔵寺に法雄さんのお骨をとりにくるようにという連絡があったらしいんですけど、どうも、その連絡を受けた大黒さんが、そのことを握りつぶしたみたいで・・・廣田さんが、『法雄さんは特攻で死んだ』と吹聴していたんで、骨なんかないだろうと祖母も思っていたみたいです」
「それがどうして分ったんですか?」
「母が、四十年前に叔父の供養に香良洲に行ったんです。三重海軍航空隊の記念館の館長さんから法雄さんが特攻死ではなくて、事故死だと聞いて、骨壷が善導寺にあると聞いて、受け取りに行ったんです」
土岐の目の隅に大口を開けて、貞子の話に聞き入っている長谷川の茫然とした顔が見えた。机の上にコンビニ弁当が並べられているが、手をつけていない。
「当然、お母さんは、廣田弘毅の奥さんを御存知ですよね」
「ええ、私はあったことはないんですが、女の母の目にも吸い込まれるような美人だったらしいです」
「だから、電話したんですか?」
「電話?だれが?だれに?」
「あなたのお母さんが、廣田弘毅の奥さんに・・・」
「それは、知りません」
「でも、三田法蔵が特攻死ではなかったと教えたんじゃないんですか?」
「さあ」
「そのことを電話で伝えられて、廣田弘毅の奥さんは自殺したんですよ」
「どうして、そのことが自殺の原因になるんです?」
「廣田弘毅の奥さんは、三田法蔵を死ぬほど愛していたんです。戦後、農地解放で実家の法蔵寺のやりくりが大変になり、廣田弘毅に特攻死だと知らされて、いやいや結婚したんです。彼女としてみれば、廣田弘毅がなんで、三田法蔵の事故死を特攻死と嘘をついたか、問い詰めたでしょう。廣田弘毅は三田法蔵殺害に加担していたから、真相は言えなかった。本当は事故死だったと言ったところで、嘘をついたという事実は変わらない。女の直感で、廣田弘毅の犯罪に気づいたのかもしれない。それが、自殺の理由です」
「でも、母は子供の頃、廣田さんの奥さんには可愛がってもらっていたみたいで、自殺に追い込むようなことは伝えなかったと思いますけど・・・」
「それは、そうかもしれない。しかし、真相は伝えなければという思いだったのかもしれない。だから、あなたのお母さんは、あなたを使って廣田弘毅に復讐を謀ったんでしょう」
「まさか」
と貞子が強く言ったときに、土岐の背後で、長谷川が事務椅子の足を軋ませた。土岐は穏やかに聞いた。
「廣田弘毅にはあなたの方から接近した。城田簿記学校で廣田弘毅を教えた講師が高校時代のクラスメートだったというのは嘘だ。あなたは廣田弘毅を教えた講師に廣田弘毅を紹介させた。・・・しかし、あなたにとって、廣田弘毅は直接の怨恨の対象でないから、ミイラ取りがミイラになった」
「どうして、そんなふうに、お話を作るのかしら」
「これは、城田簿記学校の理事長の秘書を通じて確認している」
と土岐はかまをかけた。
「でも、かれはあの当時、アルバイトだったから、いまは城田簿記学校とは縁がないはずで、・・・だから確認も取れないはずだけど・・・」
「そうだけど、あなたが出た高校は女子高だったという確認は取れている。いや、あれは中学校のクラスメートだったと言い直しますか」
貞子が静かに笑った。観念したようだった。
「そう、あなたのゆう通り。最初は、興味本位で、母が復讐したいと思う老人がどんな人物か確認しようとしたの。あってみたら、お金持ちで、インテリで、作詞家で、顔が広くて、・・・あの頃は何をやってもうまくいくような気がしていて・・・信じられないほどもてて・・・デートの時間割を作ったほど。付き合っていた男が、いつも五、六人いたかしら。おまけに、音楽賞で新人賞ももらって、できないことは、何にもないような錯覚を抱いてて、・・・でも、それに気づいたのずっとあとのことで・・・今思えば、あのときがわたしのピークだったのね。それから、ずっと、こんなはずじゃない、こんなはずじゃない、の繰り返し」
「あなたは、廣田弘毅と二人三脚で仕事をしている間に、廣田弘毅のパシリをしている金井泰蔵と親しくなって、廣田弘毅を排除しようと、金井を焚きつけたでしょう」
「金井さんは知っているけど、そんな殺人教唆じみたことはしていません」
再び、土岐の背後で長谷川の事務椅子が激しく軋んだ。土岐は一呼吸置いてから話を続けた。
「もちろん、あなたは犯罪者ではない。でも、廣田弘毅を排除したいという思いを金井にに匂わせた。金井はそれを察知した。意図的に殺害しようと思わなくても、きっかけさえあれば、そうしてもおかしくないように、金井のマインドをコントロールした。廣田弘毅の排除という点では、あなたと金井の利害は一致している」
と土岐がそこまで話したときに、長谷川が土岐の背後に立ち上がった。
「すいません、そろそろ授業の準備をしますので、お帰り願いますか?」
長谷川の声が怒りに震えている。貞子は不貞腐れたように、メンソール煙草をふかしつづけている。土岐は辞すときと悟った。
貞子と別れ、兜テニスクラブに着いたのは六時過ぎだった。ロッカーに百万円をしまった。ビジターフィ―を支払ってコートに出た。朝方の雨のせいかコートが湿っぽい。厚化粧の双葉智子が声をかけてきた。
「まあ、時山さん。おひさしぶり」
妙になれなれしい。土岐が手首の関節を回し始めると、リストサポーターをはめながら、智子が近くに寄って来た。
「あなた、本当は土岐さんって言うんでしょ?仁美に全部聞いたわよ」
「全部って?」
「仁美のストーカーやってること」
そう言いながら、コートに入って来た仁美に胸のあたりで小さく手を振る。
前回同様、三十分ばかり準備練習した後、ゲームを始めた。メンバーは前回と同じだった。違ったのは仁美の態度だった。自分がミスをするとパートナーに謝り、パートナーがエースを決めると、弾んだ声で、
「ナイスショット」
とほめた。土岐には全く別人に見えた。薔薇の棘のように体中から突き出ていたよそよそしい態度が、ビロードのような温かで滑らかな態度に変わっていた。顔も体も一週間前と全く変わっていないのに、土岐の目にはこの上もなく愛らしい女に見えた。
練習が終わった後、土岐は仁美を喫茶店〈インサイダー〉に誘った。双葉智子も付いてきたので、店の前で目配せして、帰ってもらった。
仁美がバッグを小脇に抱えて、フード付きの撥水コートを着たまま席に着くと、
「九時までですけど、いいですか?」
と中年の女店員が聞いてくる。
デジタル時計を見ると、八時半になるところだった。アメリカンコーヒーを注文して、店員が去ると、土岐は百万円の入った茶色の紙袋を仁美にぎこちなく差し出した。
「これを受け取ってほしい」
仁美は、
「なあに?」
というような眼をして、顎を引いて、紙袋の中を覗き込む。仁美の視線が瞬きをした後、硬直した。
「こんなもの、受け取れません」
と責めるような目線で土岐を捉える。土岐は縋るような面差しで言う。
「お願いだ。受け取ってほしい」
仁美はやんわりと断る。土岐を傷つけないようにという思いやりが感じられる。
「受け取る理由がありません」
土岐には仁美の思いが分かる。分かってもなお、言わずにはいられない。
「だって、民事裁判で、事故の現場を目撃していないと証言したら、USライフからの介護保険金は停止するでしょ。船橋法典の特養ホームの入所費用が払えなくなるでしょ」
「大丈夫です。こんなものを貰わなくても、裁判では本当のことを話します。母は特養ホームから出して、引き取ります」
仁美が躊躇しているのはカネの出所らしいことは土岐にも推測できる。しかし、土岐にはそれが言えない。カネの出所を言わないで仁美に受け取らせることは困難だと土岐は感づいてはいるが、言えばなおさら仁美は受け取らないだろうと思う。
「引き取るって、あなたが会社に出たらだれが面倒をみるんです?」
「祖父が見ます」
「おじいさんだって、リウマチで身動きできないんでしょ」
「糸魚川の家を処分して、バリアフリーのアパートを借りて三人で暮らします。祖父と母の年金とわたしの給料で何とかやっていけます。・・・それに祖父のリューマチはそれほどの重症ではないんです」
と言う仁美の口調にはこれまでの人生の苦難と持って生まれた利発さがにじみ出ている。そう言う仁美に土岐は抱きしめたくなるようないとおしさを覚える。
「そんなことを言わないで、受け取ってくれ。あなたには受け取る権利がある」
土岐の申し出を仁美は聞いていない。
「・・・それに、母が廣川弘毅の娘であることがDNA鑑定で分かれば、少し遺産を分けてもらえるかも知れないし・・・」
「それは、お母さんの当然の権利だ。DNA鑑定の手配はぼくにまかせてくれ」
そこにコーヒーが運ばれてきた。コーヒー豆を焙煎したアロマが、土岐の鼻の奥をくすぐる。仁美は店員の姿が見えないかのように、ストッププモーションのように土岐に向かって横に首を振り続けた。それを制止するように土岐が言う。
「わかった、それじゃ、このカネで、おじいさんの骨董品を買わせてもらおう。それなら、いいでしょ?」
仁美はなにも答えない。土岐はポケットからサイコロを取りだして、仁美に見せた。
「いいかい。これから、このサイコロを振る。よおく、見といてくれ。もし、偶数が出たら、黙ってここで、この百万円を受け取って、おじいさんに渡してくれ。
『糸魚川の店にある掛け軸でも壺でも、なんでもいいから百万円分売ってくれ』
と伝えてくれ。もし、奇数が出たら、これまでのことは一切なかったことにしよう。ぼくは、ぼくの依頼人の佐藤加奈子のために民事で勝訴を得るために全力を尽くす。君は君で君のやりたいようにしてくれ。君の周りからぼくは完全に消え去ろう。・・・いいね」
と言いながら土岐は、仁美の瞳を覗き込んだ。仁美は土岐の言っている意味を理解できないようで、うろたえている。
「・・・そんな・・・」
と言うのがやっとのようだった。
「よし、サイコロを振るぞ」
と言って、土岐は中腰になって、傍らの窓を開けた。右の掌の中にサイコロを封じ込め、軽く振る。カチカチと二つのサイコロが触れ合う音がする。窓外には兜町の闇だけがうごめいていた。土岐は窓の外の暗夜に向かって、思いっきり、サイコロを投げつけた。投げる手に、打算に流されやすい自らの生き方を戒める思いも込められていた。サイコロが道路に落ちて、かすかにカチンカチンと軽く乾いた音が聞こえてきた。遠くから、大通りを駆け抜ける自動車の排気音が聞こえてくる。仁美は、いま走って来たかのような荒い吐息をもらしている。首をのばして、土岐が投げつけた暗闇の方角に眼を凝らしている。冷たい夜気が窓から徐々に侵入してきた。土岐はぞくっとして、おもむろに窓を閉じた。
「どう、サイコロの目を見に行くかい?」
仁美は黙って土岐の顔を凝視する。土岐も仁美の眼を凝視する。土岐の本心を教えてくれと訴えている眼だ。土岐はまどう思いを断ち切るように自信ありげに言う。
「ぼくは、サイコロの目は偶数だと確信する。・・・君はどう?」
仁美は黙っている。今にも泣きだしそうな目で土岐の次の言葉を待っている。
〈もっと仁美をじらしてみようか〉
と仁美の潤みかけた眼を覗き込みながら土岐は言う。
「自分の運命のサイコロの目は自分で造るものだ。相手や周囲に流されていたらきっと後悔する。自分の選んだ道の結果がどうであれ、自分で選んだことに意味がある。自分で選んだことに責任を持てば、たとえ結果がどうなろうとも、後悔することは絶対にあり得ない。・・・君も偶数だと思う?」
仁美の瞳孔が激しく揺れている。土岐は身を乗り出して、仁美の肩に手を置いた。
「・・・どう・・・偶数だと思う?」
仁美は、肩に置かれた土岐の手のぬくもりに促されるように小さくうなずいた。セミロングの髪が頬をおおう。土岐は仁美の肩を軽く揺すった。
「それじゃ、この封筒をおじいさんに届けてくれ。いいね」
土岐は百万円の入った封筒を、仁美の目の前に置いた。仁美はその封筒の上に目を落とす。土岐はテーブルの上に眼を伏せている仁美の黒髪に声をかけた。
「君がこれまで恋人を作らなかった理由は、おばあさんとお母さんが認知症だったからじゃないのか?自分もそうなると思い込んでいるんじゃないのか?君は相手の人生を不幸にしてはいけないと勝手に思い込んでいる。しかし、おばあさんとお母さんが認知症であることが知れたときに相手の男に捨てられることを恐れている自分を認めようとしていない。認知症になるとしても五十を過ぎてからでしょ?そうならないかも知れない。二十年も三十年も愛情をはぐくめば、たとえそうなったとしても、恐れることはないじゃないか。かりに、認知症のことを知って、その男が逃げて行ったとしても、それはそれでいいじゃないか。そんな男は本当に君を愛しているとは言えない。むしろ、そのことがリトマス試験紙になるじゃないか。相手の男の本心を知りたければ、おばあさんとお母さんの話をすればいい。君を本当に愛していない男なら尻尾を巻いて逃げて行くさ。少なくとも、ぼくは逃げて行かないけど・・・ぼくは君の認知症も愛したい」
そう言いながら、土岐は身を乗り出して、仁美が座席の横に置いた大きなリボンのついたバッグの中に百万円の入った封筒をしまってやった。
甘酸っぱい沈黙が流れた。うつむいている仁美の眼の真下あたりのテーブルの上に間欠的に熱い滴が落ちてきた。滴はテーブルの上に落ちると、室内を漂うわずかな明かりのすべてを吸い取って、思いのたけを話したげに、きらきらと輝く。仁美は下を向いたまま、薄いアイボリーのレースのハンカチを取り出して、瞼を閉じ、涙を押しだすようにして眼のあたりを拭う。こみあげてくるようなグスンという鼻音がハンカチの中でくぐもる。涙声をこらえて仁美が言った。
「わたしも、お願いがあるの」
仁美はうつむいたまま、ハンカチをテーブルの上に置き、コーヒーに砂糖とクリームを落として、スプーンで小さな円を描いている。ときどきスプーンがカップの縁に触れて、仁美が言いだすのを励ますような音がする。土岐には歳の差以上に仁美が可愛く見える。
「なに?」
と土岐は身を正して、うれしそうに聞く。前髪で隠れている仁美の顔を顎の下に手を差し伸べて、見つめたい衝動に駆られる。土岐は仁美の前髪に軽く手を触れた。そうされるまま、甘えたい戸惑いを隠して、仁美は呟くように言う。
「わたしとミックスを組んでくれない?」
「もちろん」
とやさしく言いながら土岐はスプーンを持つ仁美の手をとって、強く握りしめた。
「さあ、笑って。口を横に引くだけでいい。顔は心を映し出す。相手の笑顔を見たければ、自分も笑顔を見せないと。相手の笑顔で自分の心も笑顔になる。その自分の笑顔が、さらに相手の笑顔をひきだす。笑顔と笑顔の連鎖だ。2枚の鏡のように、相手の笑顔が自分の心に笑顔を映し出し、その笑顔がまた相手の心に笑顔を映し出す。そうやって、無限の笑顔が映し出されるとき、心の中がしあわせて、満ち溢れる」
土岐は歯の浮くような思いで、自分の言葉に酔っていた。仁美の眼も土岐のセリフに酔っているように見えた。
土岐の背後から、
「お客さん、すいません。閉店です」
と喫茶店〈インサイダー〉の中年のウエイトレスが無粋に叫んだ。




