土岐明調査報告書
十月六日
翌朝、九時過ぎまでローカル局のテレビ番組を見ながら、シングルベッドの中でごろごろしていた。テレビに眼を向けてはいたものの、放送内容が頭の中に入ってこなかった。土岐の頭の中は三田法蔵についてどう調べたらいいのかということでいっぱいだった。
九時半ごろにチェックアウトを済ませて、バスに乗って浄土大学に向かった。
浄土大学は北大路通と千本通の交差点近くにあった。土岐は広大な正門前で、守衛に聞いた。
「すいません。戦前の専門学校当時の同窓会名簿を閲覧したいんですが・・・」
守衛は口に手を当てて、しばらく考えた。
「・・・それでしたら、・・・交差点の斜め向かいのあの丸いビルに同窓会の事務室がありますんで、そこでお尋ね頂けますか?」
警察官に似た身なりの守衛の指さす方角を見ると、正面が全面ガラス張りの丸いショールームのようなビルが見えた。ガラスにどんよりとした曇り空が映っていた。土岐は交差点を渡り、ビルの中に入った。吹き抜けのエントランスに受付があり、丸い窓口を覗き込むと還暦に近そうな丸顔の婦人が奥の机に座って地方新聞を読んでいた。
「・・・すいません、ちょっとお尋ねしたいんですが・・・」
婦人は老眼鏡をはずして、首だけ捻って土岐を認めると、若草色のカーディガンのボタンをひとつ留めながら立ち上がった。
「はいぃ」
と柔らかな上目使いで土岐の前に来た。腰が少し曲がっている。
「あのう・・・戦前のことで恐縮なんですが、専門学校当時の同窓会名簿はこちらにあるでしょうか?」
「ありますぅ」
「ちょっと、閲覧させてもらえないでしょうか」
「どうぞぅ」
と婦人は受付から出て、土岐を受付わきの別室に案内した。十畳ほどの資料室のようだった。窓の外に裏庭があり、壁の両面に書架と書類棚があった。ドアの手前と中央の机の上には未整理の資料の類が足の踏み場もないほどに乱雑に山積みになっていた。
「あの辺が、専門学校当時の同窓会名簿どす」
と言って婦人は窓際の一番上の書架を指差した。二段の踏み台をその下に置き、
「ごゆっくりご覧ください」
と言い残して部屋を出て行った。校風なのか、土岐に誰何すらしない。
三田法蔵が専門学校に入学したのが昭和十七、八年ごろとすれば、二年間の修学期間を終えずに戦死したとすれば、昭和二十年度ごろの卒業者名簿に物故者として掲載されている筈だった。しかし、昭和二十年度の同窓会名簿は存在しなかった。終戦直後の混乱や紙資源不足で、卒業者名簿どころではなかったのかも知れない。昭和二十一年度の同窓会名簿を見ると、百数十名の名前の中に下にカッコ書きで、
〈戦死〉
という記述の者が多く散見された。あいうえお順にたどって行くと、ま行に、
〈三田法蔵:三重海軍航空隊入隊:戦死〉
という記載があった。ついでに昭和二十二年度の卒業生名簿を見ると、あ行に、
〈長田賢蔵:中途退学〉
という注記があった。一般的に、卒業生名簿には在学中に死亡した者や退学した者の名前は記載されないが、制作したのが仏教系の同窓会のせいか、茶に変色した模造紙の名簿には入学者全員が載っていた。
土岐は資料室を出ると、隣のパソコンルームで、久邇頼道の会社の住所を調べた。
〈久邇商会〉
という一部上場企業の本社は虎ノ門にあった。住所と電話番号をメモした。ついでに、
〈三重海軍航空隊〉
と打ち込んで検索すると、記念館のホームページが出てきた。住所と電話番号をメモし、記念館の火曜日の開館を確認した。東京に戻ると三重に来るのも億劫になるし、交通費もかさむので途中下車で、津市香良洲の三重海軍航空隊址の記念館に立ち寄ることにした。
十一時前の新幹線〈のぞみ〉に飛び乗って名古屋駅に着き、十一時半過ぎの快速〈みえ〉で津駅で紀勢本線に乗り換え、十三時前に高茶屋駅に着いた。駅員に聞くと、香良洲までは徒歩で四十五分とのことだった。土岐は手元不如意で少し躊躇したが、タクシーで行くことにした。十数分で記念館に着いた。忘れずに領収書を受け取った。
〈三田法蔵とは何者か?〉
そういう思いが土岐を地の果てのような松原に導いた。海の近くだった。潮の香りが鼻腔をかすめた。眼前に拡がるのは何もない松林だった。砂地に基地跡の碑が建っているだけだった。近くに二階建ての記念館のあるのが眼に入った。入館してみると、記帳台があり、入り口に老女が座っていた。土岐は本名を記帳した。その右に般若心経の写経台があり、千円の写経を納める箱と献金箱があった。その傍らに線香が積まれていて、ひと束五百円で、脇に入金箱があった。館内には所狭しと、海軍航空基地の記念品が展示されていた。最初に掲示されていたのは沿革だった。
〈軍服〉
〈制帽〉
〈武運長久と大書された日の丸の寄せ書き〉
〈海軍機上練習機白菊の主翼とプロペラの残骸〉
〈水上特攻ボート震洋のエンジンとスクリューの残骸〉
〈ゼロ式戦闘機の残骸〉
〈戦艦・駆逐艦・巡洋艦のプラスチック模型〉
〈航空戦の絵画〉
〈軍靴〉
〈新聞の切り抜き〉
〈集合写真〉
〈手紙などの遺品〉
〈遺影〉
〈遺書〉
などがガラスケースの中に展示されていた。特攻隊員が家族や恋人にあてた手紙を読んでいると、土岐の胸にこみあげてくるものがあった。展示物の多くには、寄贈者の名前が小さく書かれていた。
展示物の一つに軍刀があった。土岐は寄贈者の名前を見て体が硬直し、その場から動けなくなった。寄贈者の名前は、
〈長瀬啓志〉
と書かれていた。寄贈の日付は昨年になっていた。土岐は一階の入り口に座っていた老女に聞いた。
「そこの軍刀を寄贈した長瀬啓志という人について何か分かることがありますか?」
管理人らしい老女は椅子から立ち上がり、土岐が指さした軍刀の前に立った。
「ご家族の方ですか?・・・この方には最近になって大変お世話になっていて、去年多額の寄付もして貰いましたし、館の運営にもアドバイスを貰いました。・・・維持費が大変だろうからって、これを売りなさいって・・・」
と言いながら写経セットと線香を見せてくれた。
「名簿に記載があると思いますよ」
老女が事務所の奥から持ってきたタイプ印刷の古い名簿で、索引を引くと、長瀬啓志の名前があった。肩書と記載を見ると、
〈海軍中尉・海軍手先信号法教官・昭和二十年七月着任〉
とあった。土岐が蒲田の事務所でインターネットとeメールで調べた限りでは、長瀬啓志は昭和十八年に旧制神奈川中学校を卒業して、海軍経理学校普通科練習生となったが、そこを卒業していない。三重海軍航空隊に教官として昭和二十年七月に赴任するまでの履歴は本人に聞く以外は知りようがない。これで三田法蔵との接点は確認できたが、廣川弘毅との接点がまだ見えてこない。しかし、三田法蔵とどういう接点があったのか、具体的には分からない。
ついでに土岐は経年自然劣化の激しい同じ名簿で、
〈三田法蔵〉
を検索した。容易に見つけることができた。肩書と記載は、
〈甲種飛行予科第十五期前期練習生・昭和十九年九月十五日入隊・昭和二十年八月十四日殉職〉
とあった。土岐が聞いてきた情報では、三田法蔵は特攻死のはずだった。
〈殉職というのは、どういうことなのか?〉
土岐は老女に名簿を見せながら、このことを聞いてみた。
「・・・この三田法蔵という人は、昭和二十年八月十四日に殉職となっていますが、・・・特攻ではなかったんですか?」
老女は土岐が開いた名簿を白髪の混じる眉根に皺を寄せて覗き込んだ。
「・・・昭和二十年八月には、この航空隊には飛行機は一機もなかったのよ。殉職というのは、
『戦闘機がなくって、グライダーで飛行訓練していた時だ』
と十五期の会報誌に書いてあったわね。グライダーは本来、飛行機に牽引されて、上空で切り離されて、あとは滑空だけで、滑走路に戻ってくるんだけど、当時、牽引する飛行機もなくて、グライダーの練習は、グライダーをワイヤーでウインチで引っ張って、浮き上がった頃に、ワイヤーのフックを切り離して、滑空することをしていたらしいんだけど、そのフックが外れなくなって、そのまま地面にたたきつけられて殉職したと十五期の人に聞いたことがあるわ。死ぬには惜しい、とても優秀な方だったらしいですよ。
『戦後に三田法蔵が生きていれば・・・』
とここに来られたどなたもおっしゃっていましたね」
そう言って老女は、入り口わきの椅子に戻って、腰を下ろした。土岐はワープロ印字の名簿の三田法蔵の同期で同じ第五班の名簿の中から存命の三名の連絡先を手帳に写した。それぞれ鳥取の自営業で薬屋を営んでいる者、仙台の木材商で有限会社の社長になっている者、名古屋の熱田で無職の者たちだった。他の班員はことごとく物故していた。最後に奥付を手帳に写した。同窓会事務所は新橋にあり、住所は、
〈新生印刷株式会社〉
という印刷会社と同じだった。
「・・・そう言えば、先々月も三田さんのことを聞きに来られた方がいたわ。まだ、蝉が鳴いていた頃だったと思うけど・・・」
土岐は誰何せずにはいられなかった。
「どんな人でした?」
「ご高齢でしたよ。会報誌の記事を読んで、滂沱の涙をながされて、コピーを取ってゆかれました。・・・記事に記録者の名前があったので、その名前で名簿で住所を探されて、メモを取って行かれました」
「そのひと、記帳したでしょうね」
「・・・さあ、・・・普通の人は、入館すると必ず記帳するけど、・・・若い人は、ひやかし半分で入館するので、・・・中には記帳しない人もいますよ」
「先々月のいつ頃ですか?」
「・・・八月末だったと思います」
「曜日は分かりますか?」
老女は考え込んだ。腕組みをして、首を振っている。
「・・・すいていたので、土日ではないと思うんですが・・・」
「すいません、閲覧させてもらえますか?」
「・・・記帳を、ですか?」
〈なんのために?〉
と言いたげに老女は、
「どっこいしょ」
と掛け声を出して億劫そうに立ち上がり、事務室の奥の書類棚から、横長の記帳ノートを出してきた。表に、黒いサインペンで、
〈八月分〉
と書いてあるのが見えた。土岐はそれを受け取ると、八月三十一日分から、記帳された名前に目を通して行った。達筆、悪筆、乱筆、速筆、みみずののたうち、金釘文字、右上がり、かすれ文字、はみ出し文字、まめ文字・・・さまざまな署名が並んでいる。その中の一行に、土岐の目はくぎ付けになった。
〈長田賢蔵〉
という署名は、他の署名と比較すると、老獪さが際立っていた。決してうまい字ではなかった。土岐はその署名を老女に指し示した。
「この、長田賢蔵、という人に記憶はないですか?」
「・・・さあ、・・・会報誌のコピーを取った人の名前ですか?」
土岐は手帳を出し、挟んであった法蔵寺で借りてコピーをとった写真を見せた。
「この黒い法衣を着て、数珠を持った人じゃなかったですか?」
「・・・ずいぶんお若く見えますが・・・」
「ええ、三、四十年前の写真です」
「・・・そう言われてみれば、そうだったような気がしないこともないような・・・」
土岐は記帳ノートを老女に返した。老女はそれを元の書類棚に戻し、入り口わきの椅子に座りなおした。老女の傍らに山積みになっている線香の束には、〈飛魂香〉という名前がついていた。土岐はその線香を買い、火をつけて英霊に手向けた。線香のかおりが鼻腔の奥に拡がって行った。特攻者名簿に手を合わせ、その記念館を出た。松風がうるさい程に鳴いていた。土岐の体全体が焦げつくような熱に包まれた。突然、眼の奥に熱くこみ上げてくるものを感じた。松林の向こうの青い海と白い雲の風景が次第に歪んできた。目に溢れた滴がぽつんと落ち、砂地にゆっくりと染み込んで行った。
〈三田法蔵は特攻死ではなかった。ある意味で不名誉な事故死だった〉
土岐は、海で行きどまりになっている広い道路の真ん中で、三田法蔵と同期第五班の名古屋在住で無職の堀田という老人に電話をかけた。呼び出し音、六回で出てきた。
「あ、堀田さんですか?」
「はあ」
「突然のお電話で失礼します。わたくし、東京から来ました土岐と申します。戦時中、三重海軍航空隊で殉職された三田法蔵さんについて、ちょっと、調べている者なんですが、お会いして、お話できないでしょうか?」
「まあ、いまは、年金暮らしだから、時間はいくらでもありますが・・・」
「実は今、香良洲におりまして、これから、名古屋に向かいますので、四時前ごろにはそちらに着くかと、思うんですが・・・」
「それじゃあ、四時すぎに熱田神宮の本宮前でいかがですか?」
「わかりました。うががいます」
JR紀勢本線で高茶屋駅から津駅乗り換えで、近鉄名阪乙特急で近鉄名古屋駅に着き、名鉄名古屋駅から神宮前に着いたのはちょうど四時だった。駅から徒歩三分程度で東門の鳥居にたどり着いたが、そこから本宮までは玉砂利に足をとられて十分近くを要した。夕暮れ前で、晩秋間近の日差しが弱々しく社の森に漂い、ほの暗い黄昏が木々からこぼれる秋の空を稠密に埋め始めていた。本宮前の五、六段の広い石段の中央で焦げ茶のベレー帽を被り後ろ姿でじっと拝礼し続けている老人がいた。土岐は背中から声をかけた。
「失礼ですが、堀田さんですか?」
振り返ると、柔らかそうな銀髪が二、三本、額に乱れ、黒縁の眼鏡の奥から、焦点を合わせるように土岐の顔を捉えようとしている小さな眼があった。
「トキさんですか?」
「はい」
「堀田です。わざわざ、東京から、ご足労です。いま、香良洲から来られたとか・・・」
「ええ、英霊を懇ろに弔ってきました」
〈英霊〉とか〈懇ろ〉という言葉を人生のいつの時点で使ったことがあるか、土岐の記憶にはない。しかし、そうした言葉が無意識のうちに土岐の口を突いて出た。
「そうですか・・・わたしは近くに住んでいるんですけど、最近はほとんど香良洲には行かないですね。もう、同期の殆どが物故したこともあるし・・・」
堀田は本宮に一礼すると、踵を返して、木漏れ日の中を南に向かって歩き始めた。
「お帰りはJRですか?それとも、地下鉄ですか?」
堀田の言葉には境内で聞くせいか、言霊のような静謐さが感じられる。
「新幹線で東京に帰りますので、どちらでも・・・」
「いま、東門から来たんですか?」
「そうです」
「それじゃあ、西門から出ますか。地下鉄があります」
堀田はややO脚気味の矍鑠とした足取りで、玉砂利を踏みしめて行く。土岐は左斜め後方から、堀田の横顔をうかがうように質問した。
「三田法蔵という人を御存知ですよね」
「・・・彼のことは第五班のみならず、隊員すべてが知っている」
「八月十日に殉職されたことを今日知りました。その状況はどうだったんでしょうか」
「ワイヤーのフックが外れずにグライダーが滑走路に叩きつけられて、・・・即死だった」
「事故だったんでしょうか?」
「・・・事故とは考えられない。自殺か他殺だ」
「自殺?」
「・・・まあ、他殺でなければ、自殺ということだ。・・・フックをはずすのは本人だから、フックに異常がなかったとすれば、自殺か、・・・心神喪失状態になっていたとすれば、事故だろうが・・・」
「他殺だとしたら、誰が犯人でしょうか?」
「・・・隊員全員が彼に嫉妬していたから、嫉妬が動機だとしたら隊員全員が容疑者だ。惚れ惚れするような美男子で、・・・ラブレターがよく来ていた。それがよく盗まれたらしい。彼は全く気にしていなかったようだが・・・それに、手先信号、航海術、空中航法、滑空機操縦術、飛行機基本操縦術、航空術、運用術、見張術、・・・六十年たった今でも教科を覚えている。記憶は鮮明だ。戦後のぬるま湯のような人生は薄いベールの掛った様な記憶しかない。・・・彼は何をやらせても満点をとった。それに、特攻志願のアンケートを教官がとった時、彼は何の躊躇もなく、真っ先に志願すると答えた。何の迷いもなく特攻志願する者など、本当は一人もいなかった。特攻志願すれば、間違いなく戦死する。故郷にも帰れないし、両親や兄弟にも、恋人にも永遠に会えなくなる。心の中では、だれもが特攻に志願したくなかったが、それでも一人も特攻を志願しないと答えた者はいなかった」
「三田法蔵は自殺したという可能性もあるんですか?」
「・・・おれは、ひょっとしたら、と思っている。嫉妬だけでは殺す動機としては弱い。それに予備学生がグライダーに細工するのは物理的に困難だ。歩哨の不寝番もいるし、士官はともかく、学生が用もないのにグライダーの近くをうろうろしていたら咎められる」
「教官が容疑者の可能性はないですか?たとえば、長瀬啓志とか・・・」
「・・・動機が見当たらない。彼はどの教官からも好かれていた。どんな問題を出しても満点をとる生徒というのは教官冥利に尽きるんじゃないだろうか?・・・誰しもが、
『三田法蔵は、天才的だ』
と評していたが、おれはそうは見ていなかった。彼は夜中、自転車から懐中電灯を取り外して、ハンモックの中で、毛布をかぶって勉強していたんだ。寝る前に水を飲みすぎて、夜中、たまたま便所に起きたときに、見かけた。朝が白けてくると、彼は廊下や便所の掃除を始めていた。だから、ほとんどの隊員は彼が真夜中ハンモックの中で勉強していたことを知らないはずだ」
右手に築地塀が見えてきた。信長塀と呼ばれているという説明書きがある。
「三田法蔵は、眠くはなかったんですかね?」
「・・・彼は良く、昼休みに居眠りしていた。他の隊員はおしゃべりしたり、手紙の読み書きをしていたが、彼だけは別だった。話が合わなかったということもある。早稲田や慶応の学生は、ご飯の中にコクゾウムシが入っていると、
『気持ち悪くて食えない』
と言って、指でご飯茶わんからつまみだして食べなかったが、彼は、
『コクゾウムシは米しか食べていないから、コメと同じだ』
と言って、喜んで食べていた。入隊して、あまりに激しい訓練で疲れきって食欲をなくし、げっそりとやせてしまった者が多かった中で、彼だけが逞しくなって行った。おれは彼は天才ではないと見ていた。たぐいまれな努力家だと考えていた。それがわかったのは、彼が死んで、遺品の整理をしていた時だ。ハンモックの中から錆びた縫い針が出てきた。縫い針としては使い物にならないほど錆びていたので、最初はなんで彼のハンモックに錆びた縫い針があったのか分からなかったが、すこし血の臭いがしたのと湯灌したときに彼の体中に赤い点々が無数にあったので、彼が縫い針で自分の体を刺していたことが分かった」
「それは、リストカットみたいなものですか?」
「・・・いや、違う。眠気覚ましだ。たぶん、真夜中、ハンモックの中で勉強している時に眠気に襲われると、自分の体を縫い針で刺していたんだと思う」
「でも、なんで、それほどまでして、いい点をとろうとしたんでしょう?」
「・・・たぶん、教官が、学徒兵のモチベーションを高める目的で、
『飛行機が殆どないので、成績の良い者から特攻させる』
と言ったからじゃないだろうか。彼は一番になりたかったんだ」
右手前方に大楠が見えてきた。説明書きに弘法大師が植えたとある。
「でも、ほとんどの人は、特攻に行きたくなかったんですよね」
「・・・だから、彼の優秀さが際立ったんだ。みんな、うっかり一番になったら特攻に行かなければならないと思っていた。勉学に身が入らなかった。勉学の手を多少ぬいても、後ろめたい気持ちにはならなかった」
「でも、三田法蔵さんは、なんでそんなに特攻に行きたかったんでしょうか?」
「・・・奴とは一度酒を飲みながら本音を語り合ったことがある。禁句ではあったが彼は、『この戦争はまちがいなく負ける』
と言っていた。それを聞いた時、一瞬あたりを見回した。特高警察を心配したんだが、軍隊には、密告者はいても特高のいるわけがない。
『飛ぶ飛行機もないのに勝てるわけがない』
とも言っていた。嘆きと言うよりも、冷静な判断だったと思う。
『作戦参謀が、特攻を作戦として取り上げた時点で負けたようなものだ』
とも言っていた。この物言いには多少、作戦参謀に対する怒気が込められていた。
『優秀なパイロットから順に死んでいったら、空中戦で勝てるわけがない』
『山本大将も言っておられたが、近代戦で制空権をとられたら勝ち目はない』
とも言っていた。
『それじゃあ、特攻は犬死か?』
と彼に聞いたら、
『いや、アメリカに、二度と日本とは戦争をしたくないと思わせる効果がある』
『戦争が終わればアメリカは日本を属国にして、懐柔するはずだ』
『敵の敵だから、いまは連合国となっている中国とソ連は、この戦争が終われば、アメリカと敵対し、アメリカに懐柔された日本は心ならずも中国とソ連と敵対するようになる』とも言っていた。八月十四日には、日本が無条件降伏をするらしいという噂が流れていた。誰もが戦争が終わって、晴々したような気持ちになろうとしていたが、彼は逆だったのかも知れない。彼の気持ちを推し量ることはできないが、平和になることを悲観して、自殺したのかも知れない。あの時、彼が生きていた目的は特攻にあった。終戦でその目的が失われる。だから、生きている意味がなくなったのか・・・ようわからん」
柄杓が並ぶ手水舎の脇の鳥居を潜って右手に折れると、西門の鳥居が見えてきた。西門の鳥居をくぐるころには、つるべ落としの陽はとっぷりと暮れていた。神宮の結界の外に出て、土岐は別れ際に尋ねた。
「三田法蔵の遺体はどうしたんでしょうか?」
「すぐに灰にしたと思う」
「というと、この辺で?」
「熱い夏だった。鉄道も混乱していた。敦賀の出身だとかは聞いていたが、確か、一人の教官が、親しかった同期生二人と一緒に大八車で焼場に運んだはずだ」
「じゃあ、香良洲の近くで、ということですか?」
堀田は香良洲の方角を見上げた。
「たぶん、近くの葬儀場だと思う。今でもあるかどうか分らんが、・・・でも、大八車で運んだんだから、香良洲の近くだと思うが・・・」
「焼骨はどうしたんでしょうか?」
「その近くのお寺に預けたとかいうような話を聞いたことがある」
土岐と堀田は地下鉄駅の入り口で別れた。別れ際に土岐は名刺を渡した。土岐はその場で、香良洲に戻ることにした。高茶屋駅に着いたとき五時を過ぎていた。駅員に火葬場の所在を聞くと、香良洲から4キロばかりのところに市営の火葬場と葬儀場があると言う。
「善導寺というお寺が近くにあります」
それを聞いて、土岐は駅前からタクシーに乗った。タクシーは深まりつつある宵闇の中を善導寺に向かった。二十分ほどで、巨大な山門の前についた。土岐はタクシーを降りると山門をくぐり、庫裡に向かった。山門から50メートルほど奥にアルミサッシの玄関が見えた。玄関右わきのインターフォンのボタンを押すと、若い男が出てきた。上下黒のジャージーを着ている。挨拶のあと土岐は聞いた。
「戦後、このお寺に預けられたお骨があると思うんですが・・・」
若い男は、二重瞼の目を大きく見開いた。
「戦後って、太平洋戦争のあとで?」
「ええ」
若い男の短髪が驚きで逆立っているように見える。土岐は深呼吸して話を続けた。
「この近くに、海軍の飛行基地があったと思うんですが・・・」
「香良洲ですか」
若い男がほっとしたように、玄関の板の間に腰をかがめて立膝になった。土岐は男を少し見下ろした。
「昭和20年8月15日の終戦の頃、近くの火葬場で焼いた骨をこちらに預けたらしいんですが、まだ、こちらにあるんでしょうか?」
「随分と古い話で、・・・記録は取ったと思うんですが、その記録がまだあるかどうか、・・・ちょっと住職に聞いてきます」
と言って若い男は奥の廊下の闇に消えた。5分ほどして、その男が古色粗然とした大学ノートを持って戻って来た。そのノートを見開きながら言う。
「お骨を預かれば、当然、読経しているので、記録があると思います」
「お経をあげた記録があるんですか?」
と土岐は間の抜けたようなことを言う。
「先代の住職は几帳面な方で、・・・もう、とっくに亡くなられたんですけど、・・・日記のような形で読経の記録をとっていたそうです。殆どが阿弥陀経で、無量寿経や観無量寿経を唱えることは殆どなかったようですね」
「お経で違いがあるんですか?」
「一番短いのが阿弥陀経で、殆どの場合、このお経しかあげないんですよ。実際、私もそうですが、観無量寿経や無量寿経は長くて、疲れます。会葬者も当然そうだろうと思います。会葬者の多い多少長い葬式でも、焼香のときは、阿弥陀経を繰り返します。最近は、南無阿弥陀仏だけを繰り返すことも多いですね」
そう言いながら、その男は大学ノートをめくり、ある頁を開くと土岐に尋ねた。
「昭和20年の8月15日ごろで、俗名は何というんですか?」
「三田法蔵といいます」
男の目線は土岐を捉えたまま動かない。土岐は補足した。
「三つの田んぼに法律の法と蔵、と書きます」
聞きながら、男の目線が大学ノートの罫線の上を走り始めた。目線を動かしながら言う。
「すごい名前の方ですね」
「といいますと?」
「法蔵というのは、阿弥陀様が菩薩だったときの名前です。名前を付けられた方は熱心な浄土教の信者でしょうね」
「ええ、子供のころは法雄と言ったらしいんですが、僧籍名が法蔵ということです」
男の指が大学ノートの罫線をなぞっている。
「そうですか、それじゃ、その得度をうけたお寺に舎利はとっくに返されているんじゃないでしょうか」
「敦賀の法蔵寺へ、ですか?」
「法蔵寺の方だったんですか」
と言った男の指先が止まった。土岐は思わず近寄って、大学ノートを覗き込んだ。
「ありましたか」
「たぶんこの方ですね。戒名が釈法蔵、となってますね」
「また、こちらのお寺にお骨はあるんですか?」
「いえ、どなたかが、引き取られたようですね」
「誰ですか?」
「敦賀じゃなくって、東京の方ですね」
「えっ、記録があるんですか?」
土岐は大学ノートを見ようと思わず手を出した。男はそうさせまいと、顎の下に大学ノートを引き寄せた。
「お見せしていいものかどうか・・・」
土岐は改めて名刺を取り出し、自己紹介した。
「東京から、三田法蔵さんのことを調査しに来た者です。京都、糸魚川、敦賀、香良洲、熱田をめぐってやっとここにたどり着きました」
土岐は同情を誘うように熱い思いを込めて、哀願した。男は観念したようだ。
「受け取った日付は40年ほど前ですね。東京の巣鴨の方ですね。中村貞江という女性です」
「すいません。住所を教えてください」
男は不承不承で、大学ノートを床に置いた。土岐は、玄関に立ったまま、腰を折って覗き込み、住所と名前と日付を手帳に書き写した。
「でも、この女性と三田法蔵はどういう関係なんでしょうか?」
「さあ、今の住職が知っているかどうか。今の住職が赤ん坊の頃の日付ですからね」
「その御住職はおられますか?」
「今日は、あいにく、通夜がありまして、出かけております」
「骨壷をこの女性に渡したというのはどういうことなんでしょうか?」
「詳細は知りません。御親戚か、なんかだろうとは思うんですが・・・これは想像ですが、寺としては、法事がないような供養料の入らないお骨を預かっていてもしょうがないので、無縁仏のようなお骨については、引き取りたいと言う申し出があれば、お話を伺った上で、お渡ししていたようです。最近は、そういうお話は全くないようなんですが、・・・戦争中の空襲でご一家で亡くなられたような場合は、何年か経って親戚の方が来られた時には、記録だけ頂いて、お渡ししていたようです。身内の方に供養して頂いて、お墓に納めていただくのが一番ですから」
「どうも。後日、御住職に電話でお尋ねすることがあるかも知れませんが、今日のところは、夜分、突然伺いまして失礼しました」
そこまで言って、善導寺を辞した。それから、名古屋駅まで戻り、新幹線のぞみで帰京した。
品川に到着したのは夜の九時ごろだった。そのまま、蒲田駅で降りた。陋屋ではあるが、蒲田の事務所が恋しくなっていた。蒲田駅前で買い物を済ませ、土岐が飛ぶように事務所に戻ったのは九時半ごろだった。すぐにでもビールを飲みたい気分だったが、先に関西滞在中に手帳にメモした調査日誌をパソコンに全部打ち込んだ。最後は今日の分だった。
〈調査日誌 十月六日 火曜日〉
午前九時半 浄土大学にて同窓会資料調査
午前十時半 京都駅より新幹線に乗車
午後一時 高茶屋駅下車
午後一時半 三重海軍航空隊記念館にて聞き取り
午後三時 高茶屋駅より乗車
午後四時 名古屋にて堀田氏に聞き取り
午後五時 高茶屋駅に戻り、善導寺にて聞き取り
午後七時 名古屋駅より新幹線に乗車
午後九時半 事務所帰着
十月七日
翌朝、パソコンを立ち上げて、インターネットの検索サイトで、
〈中村貞江〉
を検索してみた。意味のあるヒットは一件もなかった。次に、
〈久邇商会〉
という専門商社の情報を改めてチェックした。会社概要では設立は昭和十九年で、東京証券取引所第一部に上場したのは、昭和四十四年になっている。主な業務は輸入高級ブランド品や貴金属の販売で、自社ブランドもいくつか持っている。IR情報によると大口の株主構成は、信託口が五つ、大手都市銀行が二行、生損保が一社で、土岐の目を惹いたのは、商社として八紘物産がはいっていることだった。
〈八紘物産経由での輸入品もあるとすれば、資本関係があっても不思議はないか〉
そう思いつつもとりあえずメモした。それから事務所を出て、新橋駅から地下鉄銀座線で虎ノ門駅で降り、文部科学省前の交差点の交番で八紘物産の所在を確認した。
アメリカ大使館前の桔梗会館の五階の久邇商会の本社受付で、名刺を出して、会長の久邇頼道に面会を求めた。大物の場合は予約を取らないのが土岐の流儀だ。事前予約では断られるのが普通だからだ。
受付左の二十平米ほどの豪勢な応接室でかなり待たされた。50インチほどの液晶テレビがあり、それが見やすい位置にカウチソファが配置されている。枕にちょうどよさそうな背クッションがあり、センターテーブルにはキャスターが付いていて、大きな抽斗と空洞になっている収納がある。応接空間と言うよりも、リビング空間と言った方がふさわしい。土岐は三人掛けのソファに腰を下ろした。体が深く沈んだ。やがてやってきたのは、グレー地の三つ揃えを着たオールバックの中年の男だった。土岐が受付嬢に渡した名刺を持っている。
「たいへん、お待たせしました。いま会長は会議中でちょっと、席を外せないので、よろしければ、代わりにわたくしがご用件を伺います」
と言いながら自分の名刺を出してアームチェアに深々と腰かけた。その男の肩書と名前は、
〈久邇商会株式会社 秘書室次長 井上孝雄〉
となっている。土岐はさっそく〈清和カード〉を切ってみた。
「そうですか。実は、会長さんの京都のお友達の清和俊彦さんの紹介で来ました」
「あっ、清和様のご紹介ですか」
男の態度が豹変した。弛緩させ切って座っていた下半身が、一瞬のうちに硬直した。男は深く腰掛けていた腰を少し浮かせて、前方に擦り出した。
「で、ご用件は・・・」
「清和俊彦さんの御祖父さんと久邇会長の御祖父さんが刎頸の友であったと聞きまして、どういうご交際があったのか、お聞きしたいと思いまして・・・」
秘書室次長は両手を膝の前でかしこまって組みながら、少し首をひねる。
「失礼ですが、どういったたぐいのお話でしょうか?」
「話せば長くなるんですが、廣川弘毅という元総会屋、別名松村博之という人物が、戦時中、京都の清和家の書生をしておりまして、当時の当主からの御使いで、こちらの先々代のご当主に頻繁に会われていたようなんですが、どういう用件だったのかお話し願えればと思いまして・・・」
「戦時中?・・・会長は戦後生まれですが・・・」
「ええ、それは存じ上げています。仄聞のかたちで、聞かれたことがないかどうかということだけ、お聞かせ願えれば、ということです」
男の首が捻られたまま、元に戻らない。そのままの姿勢でクロスのボールペンでメモ用紙に土岐の用件を書き込んでいる。
「分かりました。会議が終わり次第、会長に尋ねて、その結果をこちらの名刺のメールアドレスのほうに送信させていただきます。・・・それでよろしいでしょうか?」
「わかりました。それで結構です。・・・それでは、お願いいたします」
土岐はそれ以上粘る気力が失せていた。会長が会議中で席が外せないと言うのは方便だと睨んでいた。
その帰り、山手線で巣鴨に立ち寄った。善導寺で書き写した住所は、国道を挟んで巣鴨地蔵尊とは反対側の雑居ビルにあった。雑居ビルは飲食店のテナントで埋まっていた。隣がラブホテルで、土岐はそこの受付の窓のすりガラスを叩いた。
「すいません」
二三度叩いて、しばらくすると、すりガラスがスライドして、中から老婆が怪訝そうな顔を出した。
「なんですか?」
「あのう、ちょっと、伺いたいんですか、隣の雑居ビルの住所に、中村貞江という人がいたと思うんですが、御存知ないですか?」
「中村?」
「貞江さんです」
「聞いたことがあるような気がするけど、・・・どっちにしても今はいないね」
「どなたか、知っていそうな人はいないですかね」
「さあ」
と老婆は愛想がない。ラブホテルの管理人としては、適任かもしれないが、土岐にとってはありがたくなかった。土岐は、早々に蒲田の事務所に帰宅した。
その日の昼は、事務所にこもって、調査内容の整理にあたった。あばら屋ではあっても、住み慣れた我が家で、くつろいだ気分になれた。しかし、土岐の頭の中は聞き取り情報が錯綜して混乱していた。最初に智恩寺関係でまとめてみた。
(神州塗料粉飾決算)
長瀬啓志(三重海軍航空隊で教官)
(開示情報配付)
三田法蔵(三重海軍航空隊で事故死)
(朋輩)
廣川弘毅 (近隣) 長田賢治(『学僧兵』のモデル?)
(隣寺)
塔頭哲斗(小説家:舘鉄人)
智恩寺関係では、長田賢治と長瀬啓志が存命で、長田が人間関係の中心にいる。存命の人間は枠で囲んでみた。
三田法蔵は敦賀の法蔵寺からの長田の一学年先輩の朋輩で、三田法蔵が海軍に入隊するまで京都の智恩寺で一緒だった。廣川弘毅は門前の民家に住んでいた。戦後、廣川弘毅と長田賢治は半年ぐらいの間、智恩寺の若僧とその寺男という関係で接触した可能性がある。廣川弘毅と三田法蔵は入れ違いで、三田法蔵が智恩寺に寄宿するころには、陸軍予備士官学校に入校している。しかし、豊橋にいたはずの廣川弘毅は松村博之という偽名で、清和家の書生になっていた。その清和家で令嬢の家庭教師だった三田法蔵と会っている。一方、塔頭哲斗は智恩寺の北隣の清浄寺の小僧として長田賢治と顔見知りだったはずだ。その長田賢治をモデルにして、塔頭哲斗は『学僧兵』を書いた。その絶版となった小説を廣川弘毅は殺害される直前にわざわざ貸出カードを作ってまでして世田谷区立奥沢図書館で借りて読んでいる。三田法蔵は終戦の前日に三重海軍航空隊で事故死し、その教官として長瀬啓志が終戦直前に三重海軍航空隊に赴任している。三重海軍航空隊で三田と同期の堀田は自殺の可能性もあると言っていたが、確証はない。長瀬啓志は廣川弘毅の主宰する〈開示情報〉に最近まで公認会計士事務所の雑誌広告を出していた。しかも、廣川弘毅は郵送ではなく、手渡しでその雑誌を公認会計士事務所に届けている。その関係の起点は、神州塗料の粉飾決算がらみのインサイダー取引にあるらしい。廣川弘毅は神州塗料の空売りで大儲けし、その情報を当時会計監査を仕切っていたセンチュリー監査法人に所属していた長瀬啓志から入手していた可能性がある。しかし、廣川は長瀬とそもそもどうやって知り合ったのか?二人の接点がまだ分からない。『学僧兵』の二人の主人公たちのように、清和家で知り合った廣川と三田が文通でもしていれば、間接的に、廣川が長瀬の存在を知り得た可能性がないではない。
次に、廣川弘毅の偽名、松村博之を中心としてまとめてみた。
清和英彦(書生=松村博之:子女の家庭教師=三田法蔵)
(刎頸の友)
久邇家(戦時中、松村博之が清和家の使いで幾度か訪問)
(資本関係)
八紘物産(久邇商会の大株主:馬田重史が名誉相談役:〈開示情報〉の広告主)
松村博之(廣川弘毅)は肺病やみあがりの書生として昭和十九年に清和家に来ている。松村(廣川)と三田法蔵は清和家で面識になっている。戦時中、清和家と久邇家の当主は刎頸の友で、両家の何かの連絡に松村が使者として働いている。その久邇家の当主は終戦直前に貿易商社を設立し、貴金属、宝飾品等を扱い、八紘物産は久邇商会の大株主になっている。その八紘物産の戦後の中興の祖と言われる馬田重史は、現在名誉相談役となり、〈開示情報〉の広告主となり、廣川弘毅が郵送ではなく、直接雑誌を届けている。
二時過ぎに、久邇商会からメールがあった。
@土岐明様 お問い合わせの件についてご返答いたします。戦時中の久邇家当主の政道と清和家の交流については会長はまったく存じ上げていないとのことです。ただし、当時執事をされていた宮島敦夫様のご子息がご存命とのことなので、ご連絡先をお知らせいたします。久邇商会秘書室次長 井上孝雄@
土岐はメールに記された固定電話番号にかけてみた。呼び出し音が三回鳴って、携帯電話に転送された。さらに、五回呼び出し音が鳴って、男の声が出てきた。
「はい」
「宮島様ですか?」
車のエンジン音がかすかに聞こえた。
「・・・すいません。いま、運転中なので、すぐ掛け直します」
数分して、土岐の携帯電話が鳴った。
「はい、土岐です」
「・・・先ほどお電話をくださった方ですか?」
「そうです」
「・・・宮島ですが、ご用件はなんでしょうか?」
「ええと、失礼ですが、宮島敦夫さんのご子息の方ですか?」
「・・・いいえ、敦夫は祖父で、わたしは孫に当たります。祖父は三十年ほど前に亡くなっておりますが・・・」
「それでは、お父様と連絡を取りたいのですが・・・」
返答がない。土岐は事情を説明した。
「じつは、久邇頼道さんのご紹介で、お電話しています。戦時中の久邇家のことについてちょっとお伺いしたいことがありまして・・・」
「・・・父はいま、入院しておりますが・・・」
「面会できるでしょうか?」
「・・・ええ、重篤ではないので、・・・」
「病院はどちらでしょうか?」
「・・・再生会中央病院です」
「と言うと、田町の?」
「・・・そうです」
「お父様のお名前は?」
「・・・宮島吉昭といいます」
「そうですか。どうも、ありがとうございました。これからお見舞いに伺おうと思いますので、お伝え願えればさいわいです。わたしは土岐と申します」
土岐は携帯電話を折り畳むと、手帳に、
〈宮島よしあき・再生会中央病院〉
とメモした。折り畳んだ電話を再び開いて、病院に面会時間を確認し、京浜東北線で田町駅に向かった。
再生会中央病院は駅から東京タワー方向に1キロほど行ったところにあった。受付で、〈宮島よしあき〉
という名前で照会すると、病室を教えてくれた。消毒臭が鼻をついた。土岐は地下の売店で、菓子折を買った。領収書をポケットにしまった。
宮島吉昭の病室は四人部屋だった。宮島は右奥の窓際でテレビを見ていた。土岐は、ベッドの足もとに立って、自己紹介した。
「失礼します。久邇頼道さんのご紹介で、お見舞いに上がりました。土岐と申します」
宮島は寝ぼけたような目で、上半身を肘の高さだけ起こし、土岐を見上げた。目の焦点が定まっていない。
「・・・どちらのトキさんでしょか?」
「すいません、初対面です。さきほど、御子息に電話した者ですが・・・戦時中の久邇家と清和家の関係についてうかがいたくて、参りました」
と言いながら、土岐は菓子折を宮島の枕元に置いた。先刻電話した宮島敦夫の孫から、土岐の目の前にいるその父親に連絡があったのかどうか、どうもはっきりしない。
「・・・どうも」
と言いながらも、宮島は警戒心を解いていない。息子から連絡がなかったようだ。
「実は、京都で清和俊彦さんにお会いして、戦時中、松村という書生が、清和家の用事で、幾度か、東京の久邇家に伺っているという話を聞きまして、そのことについて、ちょっと伺いたいのですが・・・」
「・・・戦時中ですか・・・わたしは、まだ子供だったので、詳しいことは・・・」
土岐はポケットから、廣川弘毅のパスポートを出し、写真を見せた。
「これは、四十代のときですが、松村という男に見覚えはありませんか?」
手元が暗いようで、宮島は頭の上の蛍光灯のスイッチを入れた。テレビを見ていた銀縁の眼鏡をはずし、目をパスポート写真にこすりつけるようにして見ている。隣のベッドの黄色いカーテン越しに、男のかすかなうめき声が聞こえてきた。
「・・・まあ、その折り畳みの椅子におかけください」
土岐は窓際に立てかけてあった椅子を開いて腰かけた。上半身を腰まで起こした宮島と目線が合った。宮島は土岐の顔を一瞥した。
「・・・たぶん、松村さんに違いないと思います。でも、このパスポートの名前は廣川となっていますね」
「たぶん、松村は偽名だと思います。どうして偽名を使っていたのか分からないのですが、その松村が久邇家で何をしていたかわかりますか?」
「・・・さあ、わたしは、戦後になってから見かけただけで、応接室の方で当主の政道様と話し込んでいたようですが、・・・庭の方から見かけただけなんで・・・」
「戦中ではなく、戦後ですか?」
「・・・わたしは昭和十五年生まれなもんで、戦時中にもお見かけしたことはあったかも知れませんが、・・・松村さんの記憶があるのは戦後だけなんです」
「どんな用事だったんでしょうか?」
「・・・さあ、小学校に入るか入らないかというころなので、・・・ただ、怖そうなお兄さんたち、という印象がありましたね」
「お兄さんたちと言いますと・・・?」
「・・・松村さん一人だけを見かけたことはなかったような気がします。いつも、二、三人でいるところを見たような記憶があります。これは噂ですが、そのころ当主の久邇政道様はGHQと関係があったらしいです。物資も食料も不足していた時代ですが、そのせいか、世間と比べるとずいぶん豊かな食生活をしていました。わたしも、メイドインUSAの缶詰やらチョコレートやら、そのおこぼれを頂戴した口ですが・・・」
そう言いながら宮島は窓の外に眼を泳がせる。
「久邇マサミチさんと清和英彦さんはどういう関係なんですか?」
「・・・久邇家と清和家とは遠い姻戚関係があると、父から聞いていました。でもそれは、江戸時代の話で、・・・その当時の当主同士が昵懇だったのは、昭和初期、たぶん昭和八、九年ごろに同じアメリカの大学に留学していて、そのときに、非常に仲良くなった、というような話を聞いています」
「戦時中、両家の間で書生を使いに出す用件について、なにか心当たりはないですか?」
「・・・これは、わたしの想像ですが、戦後、父から二人ともアメリカ留学中にクリスチャンになったらしい、というような話を聞いたことがあります。二人とも秘密にしていたみたいですが、ひょっとしたらそれと、なんらかの関係があるのかも知れないです」
「アメリカの大学名はわかりますか?」
「・・・ジェーン・エアというイギリスの小説があって、それが映画化されて戦後上映されたんですがその映画でオーソン・ウエルズが演じていた主人公の名前と同じ大学で」
「ロチェスター卿ですか?」
と土岐が助け船を出した。
「・・・そうです、ロチェスター大学の同窓だったそうです。そのロチェスター大学行きを父が政道様と英彦様に頼まれたそうですが、当時の両家の当主が、執事をひきつれてアメリカに行ったら政道様も英彦様も独り立ちできないだろうと判断されて、お二人だけで留学されたそうです。もっとも、父は英語がからきしできなかったから、掃除洗濯の手間は省けたかもしれませんが、買い物も自動車の運転もできなかったので、お二人にとってかえって足手まといになっていたかも知れません。結局、お二人は大学の寮ではなくて、大学病院の法医学の教授になっていた台湾出身の方の邸宅に居候していたそうです。日本語が自由に使えたから、たぶん何の不自由もなかったでしょうね」
そう言って宮島は力なく笑った。土岐の背後で高いトーンの咳払いがした。振り向くと、造り笑顔の看護師が立っていた。
「すいません。もうすぐ、夕食の用意が始まるので、面会は終了です」
土岐は、宮島に低頭して病院を後にした。その足で、田町から山の手線に乗って新橋に向かった。
三重県の香良洲でシステム手帳に写した、
〈三重海軍航空隊同窓会事務所〉
は飲食店街の裏の狭い路地の文房具店の中にあった。
〈新生印刷〉
というレタリング文字が入り口のガラス面にプリントされている。アルミサッシの引き戸を開けて店内に入ると、リノリウムの床が一段高くなっていた。店舗面積は四十平米ほどで、店の奥に二階に上がる階段が見えた。右手前にレジカウンターがあり、四、五十代の女性事務員が座っていた。土岐はおずおずと声をかけた。
「あのう、こちらは三重海軍航空隊の同窓会事務所でしょうか?」
中年の女性事務員は目を見開いて、土岐の次の言葉を待っている。
「あのう、こちらは、何かの同窓会の事務所になっていますか?」
「すいません、ちょっと、社長に聞いてみます」
と言いながら、事務員は内線電話をかけた。二階で、椅子の軋む音がして、やがて、階段を下りてくる足音が聞こえた。店の奥から六十前後の短髪の精悍そうな男が出てきた。
「ええと、ご用件は?」
男は両手を前で組み、揉んでいる。
「こちらの住所が、三重海軍航空隊の同窓会事務所という情報を香良洲で見たんですけれど・・・」
「ああ、おやじのやっていたやつですね。もう、ほとんどの方が亡くなられて、おやじが死んだあとは自然消滅のような形になっているんじゃないでしょうか?」
「たしか、同窓会名簿はこちらで造られたはずですが・・・」
「ええ、昭和の終わりまでは、印刷屋だったんですが、パソコンのプリンターが普及しちゃって、いまは文房具の出前で食べてます。社名変更すればいいんですが、めんどくさいし、お金もかかるんで、新生印刷のままでやってます。和文タイピストにも辞めてもらって、いまは女房と二人で、ほそぼそとやっています」
と言いながら、事務員をあごでしゃくる。この妻は夫を人前では社長と呼ぶようだ。
「同窓会の方で、まだご存命の方をご存じないですか?」
「さあ、・・・ご存命かどうか、分かりませんが、わたしが二十代のころ、同期のいろんな方がここに出入りしていたのを記憶してますが・・・」
『同期』
と言う男の言葉に土岐が鋭く反応した。
「公認会計士の方はいませんでしたか?」
「さあ・・・職業まではちょっと・・・。それから、同窓会の方とは違うらしいんですが、先々月でしたか、古い会報誌のコピーをお持ちになって、ある記事を書いた方を知らないかと尋ねて来た方がいました」
「それはどんな人ですか?」
「ご老人でしたよ。八十は行ってたんじゃないでしょうか。記名の記事だったんで、この店にあった古い名簿でその記事を書いた方の住所を紹介したら、
『その住所ならもう確認した。そのひとは、その住所にはもういない』
とかおっしゃってました」
「どんな記事ですか?」
「当時の教官の方が書かれたもので、終戦直前に三田という方が、事故か何かで、亡くなられたのを悼むというような記事でした」
「三田!三田法蔵ですか!」
土岐は思わず大声を出していた。文房具屋の主人は足を一歩引いていた。
「下の名前まではちょっと・・・三田さんというのは確かだったと思います。この近所にそういう地名があるので良く覚えています」
「その老人というのは、長田と名乗らなかったですか?」
「いえ、名前はおっしゃらなかったと思います」
土岐は手帳に挟んであった法蔵寺でのスナップ写真のコピーを取り出した。
「この黒い法衣を着て数珠を持っている男ではなかったですか?」
「こんなに若くはなかったと思いますが・・・」
「これは、三、四十年前のものです」
男は改めて写真を見直している。遠ざけたり、近づけたりしている。
「・・・そう言われてみれば、面影がありますね」
そこに老婆が現れた。二階が自宅になっているようで、長い昼寝でもしていたのか、ゴマ塩頭がぼさぼさだ。寝ぼけたような眼で、何ごとかと土岐の顔を胡散臭そうにじろじろ見ている。店主が声をかけた。
「ああ、お母さん。三田法蔵って人のこと聞いたことある?」
老婆のしょぼついた目が一気に丸くなった。
「聞いたことあるわよ。ずいぶん、昔の話だけど・・・」
そう言いながら老婆は土岐に近寄ってくる。手の触れる距離だ。
「昔は、海軍の集まりに夫婦で良く参加したのよ。わたしのことKAって言うのよね。何のことかと思ったら、かあちゃんとか、かみさんとかの略なんだって。・・・まあ、暗号ってほどのことはないわよね」
土岐が本筋から、はずれ出しそうな話の方向を修正した。
「それで、三田法蔵という人についてどんな話があったんですか?」
「とても優秀な人だったって、みんなそう言っていたわ。惜しい人をなくしたって。それも事故で。中には、殺されたんじゃないかって、言ってた人もいたけど・・・」
「なんで殺されたんですか?」
「嫉みじゃないかって。とっても隊長さんに可愛がられたそうよ。なんでも、お坊さんの出で・・・習慣で、どうしても朝早く目が覚めてしまうんで、何もやることがないから、小僧さんのときそうしていたように、便所や教室や廊下をたった一人で毎朝掃除していたそうよ。それを隊長さんが知って、晩酌によく呼んだそうよ。・・・山海の珍味を御馳走になったようで、それを同級生が妬んで、グライダーに細工をしたんじゃないかって・・・みなさん、殺人以外には考えられない事故だっておっしゃてましたよ。でも、終戦のごたごたで、うやむやになってしまって・・・」
土岐は脇でうなずきながら母親の話に聞き入っている息子の社長に聞いた。
「それで、さっきの老人が尋ねた住所ですが、なんという名前の人でした?」
「なが・・・なが・・・なが・・・」
「長瀬ですか?」
「そうです、そうです、たしか、長瀬でした」
それを聞いて土岐は新橋駅に戻った。
蒲田駅前で買い物をして、事務所に帰着したのは七時ごろだった。その夜は、調査日誌を書いたあと、ひさしぶりにラガービールを飲んでくつろいだ。
〈調査日誌 十月七日 水曜日〉
午前十時半 蒲田駅より京浜東北線で新橋駅下車
午前十一時半 虎ノ門の久邇商会にて秘書室次長・井上孝雄の聞き取り
午後十二時半 巣鴨にて中村貞江についての聞き取り
午後一時半 事務所帰着
午後三時 蒲田駅より京浜東北線で田町駅下車
午後四時 再生会中央病院にて宮島吉昭の聞き取り
午後五時半 新橋の新生印刷にて聞き取り
午後七時 事務所帰着
十月八日
翌朝、インターネットでロチェスター大学を検索し、ホームページから問い合わせメールを書き、ポータルサイトの無料翻訳ソフトで英文に直したものを送信した。若干誤訳があったので、訂正してから送信した。
@ある殺人事件の捜査で、昭和初期にロチェスター大学に留学していたヒデヒコ・セイワとマサミチ・クニの両氏について調べています。どのようなことでも結構ですので、両氏に関する情報を提供していただきたく、お願い申しあげます。警視庁茅場署警部補 モトハル・ウンノ@
メールを送信してから、土岐は、明日の金曜日に佐藤加奈子に提出する調査報告書の作成を始めた。
廣川弘毅氏殺害に関する調査報告書(始十月三日・至十月八日)
①坂本茂(神州塗料吹田工場の元工場長)
昭和五十四年四月に廣川氏と接触。接待されただけと供述。後日、インサイダー情報の提供の容疑で吉野刑事と玉井刑事の追及を受ける。廣川氏には工場の不良在庫情報をもとに神州塗料株の空売りで巨額の利益をあげたとの嫌疑があった。坂本茂は吉野刑事と玉井刑事の取り調べに不快感を抱いたが、そのことが、廣川氏に対する殺害に至るまでの怨恨となった可能性は低い。
②長瀬啓志(神州塗料を監査した元センチュリー監査法人代表社員)
神州塗料に関するインサイダー情報を入手し、インサイダー取引で巨額の利益をあげた疑いがある。廣川氏と当時、接触を持っていた可能性がある。そのことが廣川氏殺害の動機になるかどうかは現在のところ不明。三重海軍航空隊に昭和二十年七月に教官として赴任。最近になって三重海軍航空隊記念館に軍刀を寄贈し、多額の寄付も行っている。神州塗料の社外監査役を務め、会長に示唆して坂本茂に黄綬褒章を受章させている。
③廣川弘毅氏:
旧制京都府門前中学校を昭和十七年に卒業し、豊橋第一陸軍予備士官学校に進学。予備士官学校の卒業生名簿には名前がない。昭和二十年はじめ、松村博之の偽名で侯爵清和家の書生になっている。書生として、幾度か東京の久邇家に清和英彦の使いで行っている。戦後、担ぎ屋をしていたことが、清和家のばあや及川光子に目撃されている。戦後も幾度か久邇家に出入りしている。
④法蔵寺住職(廣川氏の初婚相手の平田圭子が大叔母にあたる)
平田圭子とは殆ど面識がなく、大叔母が自殺したことを恨んで廣川氏を殺害する可能性はほとんどない。
⑤長田賢治(僧籍名は賢蔵:塔頭哲斗の『学僧兵』の主人公のモデルの一人:廣川氏殺害現場の目撃者見城仁美の祖父)
昭和二年生まれ。口減らしのため敦賀の法蔵寺に小僧として、昭和十四年に出されている。昭和十九年に京都の智恩寺に下宿し、浄土宗の専門学校に通い、戦後は退学し、糸魚川、敦賀、京都を中心に貴金属や骨董の類の行商をして生計を立て、現在にいたっている。今年の八月に三重海軍航空隊記念館と同窓会事務所の新生印刷を訪れている。廣川氏との接点は、終戦直後、智恩寺で若い僧と出入りの寺男という関係で存在していた可能性がある。廣川氏殺害現場の目撃者見城仁美の祖父であることは偶然とは思えないが、廣川氏との戦後の関係は不明。
⑥三田法蔵(長田賢治の法蔵寺での朋輩)
昭和十八年に京都の智恩寺に下宿し、浄土宗の専門学校に通い、清和家の令嬢の家庭教師をして、廣川氏(松村博之)と面識を得ている。昭和十九年に三重海軍航空隊に志願入隊し、昭和二十年の八月十四日に事故死している。自殺または殺害されたという噂もある。焼骨は東京巣鴨在住であった中村貞江が四十年前に高茶屋の善導寺から引き取っている。
⑦清和俊彦(戦時中の清和家当主英彦の孫)
廣川氏のことは全く知らない。最近、廣川氏とかつて接触のあった神州塗料の吹田工場長の黄綬褒章の推薦状を神州塗料の会長に依頼されて書いている。その依頼は神州塗料の社外監査役である長瀬啓志の示唆による。
⑧久邇頼道(久邇商会会長:戦時中の久邇家当主政道の孫)
廣川氏のことは全く知らない。久邇商会は昭和十九に設立され、八紘商事が大株主になっている。八紘商事の名誉相談役は馬田重史で、長瀬啓志の公認会計士事務所がテナントとして入っている船井ビルに八紘物産の名誉相談役の部屋を持っている。
土岐が報告書を書き終えて、メーラーをオープンにしたまま、昼食をとりながらテレビのワイドショーを見ていると、英文のメールが届いた。ロチェスター大学からだった。さっそく、メールを開き、英文和訳ソフトで日本語に翻訳した。ところどころに誤訳や虫食いがあったが、補正して読んだ。
@モトハル・ウンノ警部補殿 お問い合わせの侯爵ヒデヒコ・セイワと侯爵マサミチ・クニの二人について、1933年秋学期から1935年春学期までの在籍が確認されました。ただし、二人とも正規の大学生ではなく、科目履修生として、リベラル・アーツの授業について単位認定されています。成績表については、個人情報に関する事項なので、別途正規の手続きが必要です。授業以外の活動としては、長老派のロチェスター教会に所属し、キリスト教に改宗したうえで、日米の友好親睦団体の平和運動のボランティアをしていました。ロチェスター教会の故ジョーンズ牧師と深い親交がありました。ロチェスター大学人文学部事務局 キャロル・ディーン@
次に土岐はアメリカのウェッブサイト検索で、
〈ロチェスター教会 ジョーンズ牧師〉
のキーワードで検索してみた。4311件のヒットがあった。その中で、人物伝と思われるサイトを開けて、日本語翻訳ソフトにかけた。
〈ドナルド・ジョーンズ:1888年~1955年:ハワイ州ホノルル生まれ。父はリチャード・ジョーンズ、母はスミコ・シマブクロ。ロチェスター大学人文学部卒業。1933年にロチェスター教会の牧師となり、太平洋戦争中に日米平和運動活動に挺身する。多くの日本人留学生をキリスト教に改宗させ、彼らの帰国後は秘密結社を組織し、太平洋戦争の早期終結に多大の貢献を果たした〉
この記事を読んで、土岐は調査報告書を書き足した。
⑨清和英彦(太平洋戦争中の清和家の当主)
久邇政道とともに米国留学し、クリスチャンに改宗し、帰国後は久邇政道とともに戦争終結のための秘密活動を行っていた可能性がある。廣川氏は松村博之の偽名で、その活動の手足となっていたと推察される。
⑩久邇政道(太平洋戦争中の久邇家の当主)
清和英彦とともに米国留学し、クリスチャンに改宗し、帰国後は清和英彦とともに戦争終結のための秘密活動を行っていた可能性がある。久邇商会を昭和十九に設立している。廣川氏が戦後も、久邇家に頻繁に出入りしていたところを執事の息子宮島吉昭氏に目撃されている。
【今後の調査方針と予定】
いまだに殺人犯の確証は得ていないもののだいたいの目星はついている。容疑者は長
田賢治と事件現場を通りかかった男のいずれかに絞られている。通りかかった男につ
いては戦中の人間関係を戦後に延長することで、行き当たるものと考えられる。十分
な状況証拠を積み上げたうえで、長田賢治と見城仁美の聞き取りを行う予定であり、
数日中には見城仁美の目撃証言が偽証であるとの結論が得られことを想定している。
また、事件との関係は不明だが、三田法蔵の骨壷を三重県の善導寺から持ち去った中
村貞江の行方も確認する必要があると思われる。
調査報告書の末尾に調査日誌を添付し、交通費、宿泊費、お土産代などの実費一覧と日
当および調査報告書作成費の請求書を作成した。請求金額は二十万円を超えていた。
調査報告書を作成したあと、土岐は海野に電話し、日本橋のオフィスビルの地下の居酒
屋〈株都〉で午後六時ごろに再会する約束をとりつけた。まだ三時前だったので、廣川弘
毅が戦後になって居を構えたと思われる台東区谷中清水町に行くことにした。地図をネッ
ト検索すると、谷中清水町は町名変更で池之端になっていた。
蒲田駅から京浜東北線で上野駅で降り、上野公園を突っ切って、東京芸術大学前を通り、
上野桜木沿いに言問通りに向かった。
途中に、郵便局があったので、立ち寄ることにした。半地下の郵便局には客の老人が二人いた。二十平米ほどのスペースの中央に高い丸テーブルがあり、カウンターの向こうに四名の局員が座っていた。土岐は、誰もいないカウンターに立ち、声をかけた。
「すいません。局長さんおられますか?」
「はい」
と言って椅子から立ち上がり、こちらに向かってきたのは四十歳前後の貧相な男だった。
土岐はそれを見て、高齢の局長を想定して用意していた質問を切り替えた。
「この辺で、戦時中のことに詳しい方はおられますか?」
「この辺といいますと、上野桜木町ということですか?」
「いえ、町名変更になる前の、谷中清水町です」
「谷中清水町は、通りをはさんで根津側の一帯なんですが、・・・すぐそこに、谷中清水
町公園が名残でありますけれど・・・」
「どなたか、ずっとこの辺に住んでおられる方はいませんか?」
「戦前のことは、おそらく知らないと思うんですが、・・・ここの大家さんの白川さんな
ら、多少ご存じかも知れません」
「その白川さんはどこにお住まいですか?」
「この時間だと、たぶん隣の写真館におられると思います」
土岐はそう言われて郵便局を出た。狭い路地を挟んで右隣に、
〈白川フォトスタジオ〉
という看板を立てたガラス張りの小さな店があった。ショーウインド―もなく、看板がな
ければ、喫茶店のようなたたずまいだった。観音開きの分厚いガラス扉を引いて店内に入
ると薄暗い事務室のようなレイアウトの部屋に茶のセーターに濃紺のデニムのズボンをは
いた白髪の老婆が座っていた。顔を見ると、おかっぱの髪型のせいか、五十代にも見える。
土岐は低頭した。
「こんにちは」
老女は立ち上がった。半ば茫然として、土岐の次の言葉を待っている。
「この辺のむかしのことをちょっとお聞きしたいんですが・・・」
老女はまん丸の眼できょとんとしている。土岐は相手の目を見て確認した。
「すこし、よろしいでしょうか?」
やっと反応があった。
「あっ、写真じゃないんですか?」
「すいません。・・・この辺の谷中清水町に、戦争直後から何年か住んでいた人なんですが、・・・廣川弘毅という方をご存じじゃないでしょうか?」
老女の首がかしげられ、瞳が不安定に動いている。土岐は質問を続けた。
「奥さんの名前は圭子、お子さんは姉が民子、弟が浩司といいます。わたしは見たことがないんですが、奥さんはとてもきれいな人だったという話です」
おもむろに老女の口が動いた。
「ああ、圭子さんね。お人形さんみたいな人だった。わたしより十歳ばかり年上の人だったけど、色が白くって、細面で、当時の時代劇の御姫様みたいな人だった。いつも着物を着ていて、高価な指輪とか、ネックレスとか、時計とか・・・それが、全然嫌味に感じなかった人だったわ。この店の前の通りをはさんで、こちら側が上野桜木町、あちら側が谷中清水町で、この店の前がパーマ屋で、その奥に豆腐屋があって、その間に廣川さんが住んでいました。わたしは子供だったけど、夏の蒸し暑い夜はどこの家も窓を開け放っていたから、夜中によく廣川さんの家の二階からマージャン牌をかきまぜている音が聞こえました。お酒を飲んで軍歌を歌っているのもよく聞こえてきました。賑やかなお宅だったことを覚えています。それにお金周りがよくって、この辺で、一番最初にテレビを買ったのは廣川さんでした。わたしも、何度かテレビを見せてもらったことがありました。力道山が全盛のときで、あと栃錦と若乃花が活躍していたころで、放送が始まる時間になると、近所の人が廣川さんの家の一階の居間の窓の外の欄干に、鈴なりになって見てましたよ。マイカーを最初に買ったのも廣川さんでしたね。当時は車庫証明が必要じゃなかったので、路上に止めていて隣の豆腐屋と年中もめてました。・・・でも、奥さんはどこかはかなげで、子供のわたしの目にも薄倖そうな感じがしました。引っ越して行ったのは、昭和四十年ごろでしょうか、・・・しばらく空き家だったんですが、そのあと、玉井という警察の方が引っ越してこられました。・・・近所じゃ、これで治安は大丈夫というんで、みんな安堵してました・・・」
老女の次の言葉を土岐が抑え込んだ。
「玉井要蔵という人ですか?」
「さあ、下の名前まではちょっと・・・先代の郵便局長だったら覚えていただろうと思うんですが・・・その人も、隣の御屋敷のご主人が亡くなられて、相続税の物納で、土地を納めた関係で、そこがいまある公園になったときに引っ越されて、・・・その後、その家は取り壊されて今は小さなマンションが建っています」
土岐は確認のため廣川弘毅の法蔵寺での写真を見せた。
「廣川弘毅さんは、この右の方ですよね」
「ええ・・・この、左の方も幾度か上野駅で見かけたことがありますよ。たしか、終戦直後、上野駅前で高そうな貴金属の露天商をやっていたと思います。でも、そのとき子供だったから高級品だったと思い込んでいたけど、本当は、安物だったかも知れないですね。わたし、浮浪児の靴磨きの隣に座って、商品を何時間も眺めていたから、この人のことよく覚えているんです。何とも言えない、頼りないような、情けないような、ほっとさせるような、癒し系の顔なんですよね。そのとき廣川さんも近くにいたような記憶がうっすらとありますが、同じ日だったのか、別の日だったのか、はっきりしません」
「廣川さんも露天商をやっていたんですか?」
「廣川さんは、京都から運んできた縫物の針とか糸を売っていました。木のコマに巻いた糸とか、ボール紙のカードに巻いた糸とか・・・そのときが廣川さんを初めて見たときで、そこに住んでいると知ったのは、かなり後のことで、・・・それ以来、廣川さんが露天商をしているのを見たことはありません」
「失礼ですが、お生まれは何年ですか?」
「昭和十五年です」
「そうすると、上野駅の露天商を見たというのは、六歳か七歳のころですか?」
「そうです。小学校に上がったばかりの頃だと思います」
そこで土岐は名刺を出した。
「すいません、自己紹介が遅くなりました。ご存じかも知れませんが、廣川弘毅さんが先日地下鉄の事故で亡くなられて、そのことでちょっと調査している者です」
「廣川さん亡くなられたんですか。ニュースを見ていてひょっとしたらと思っていましたが、やっぱり、あの廣川さんだったんですか。でも、ここを引っ越されてから、もう四十年以上経つんじゃないでしょうか」
「どうもありがとうございました」
その写真館を出て、土岐は忘れないうちに手帳にメモを書いた。
〈終戦直後、上野駅で露天商=長田賢治・廣川弘毅。廣川弘毅が引っ越した後の家にマル総刑事の玉井要蔵が転居?〉
土岐はそこから上野駅に引き返した。
途中、東京芸術大学の美術学部に立ち寄った。上野駅に向かって歩いて行くと、道路を挟んで左手が音楽学部、右手が美術学部になっている。土岐は美術学部の校門左手の第一守衛所を覗き込んだ。
「すみません。浦野先生はおられるでしょうか?」
「浦野先生というと、彫刻科の助手の?」
「ええ、若い方です」
そう土岐が言うと、守衛が軽く笑った。守衛は内線をかけた。プッシュボタンを押しながら土岐に聞く。
「そちらさん、お名前は?」
「土岐と言います」
「トキさんというかたですが、・・・そちらに伺ってよろしいですか?・・・御用件は?」
と守衛は送話口を押さえて、制帽のつばの下から土岐に聞く。
「ちょっと、お尋ねしたいことがありまして・・・」
受話器を置いて、守衛が守衛所からよたよたと出てきた。校門右の建物を指差す。
「この美術館の左隣が、美術学部の中央棟で、その奥の、さらに左隣が、彫刻棟です」
と言って、守衛は守衛所に戻ろうとした。土岐は引きとめた。
「何階の何号室ですか?」
「ああ、棟の前に出て、待っているそうです」
土岐は、浮世離れの空気が漂うキャンパス内をきょろきょろしながら歩いて行った。彫刻棟らしい建物の前に髭面でカーキの作業服を着た土方の若大将のような男が腰に両手をあてて立っていた。土岐に声をかけてきた。
「トキさんですか?」
土岐は5メートル手前から頭を下げて近づいて行った。
「浦野先生ですか?はじめまして・・・」
「御用件は?」
「お忙しい所すいません。大阪の坂本さんの紹介で伺いました」
「大阪の坂本さん?」
「あれっ、御存じないですか?去年か一昨年、坂本さんの胸像を造られましたよね」
「ビデオで造ったやつですかね」
「ビデオってなんですか?」
「金井という人が、ビデオを持ち込んできて、それで胸像を造ってくれって、頼まれたことが、幾度か、ありますが・・・指導教授の紹介なんで、断れなくって・・・」
「幾度か?といいますと・・・」
「もう、十ぐらい、いや、それ以上、制作していますが・・・ビデオを見ながらなんで、出来は良くないと思いますが・・・」
「いつ頃からですか?」
「平成十六年頃からです。・・・そのころはまだ、大学院生でした。・・・去年やっと助手に採用されて・・・」
「失礼ですが、ひとつ、おいくらくらいで受けたんでしょうか?」
「なにぶん、指導教授と違って、まだ、美術年鑑にも名前がないもんで、ほとんど実費です。アルバイト程度です。まあ、ぼくも勉強にはなるんで、引き受けているようなもんです。しかし、業績にはならないんで、ありまり力を入れて造ってはいませんが・・・」
浦野の話を聞きながら、
『退職金の半分ほどを使った』
と言っていた坂本の情けなさそうな顔を土岐は思い出していた。土岐はその退職金の半分と浦野が掛けた実費の差額が、金井の懐に入ったものと断定した。
〈しかし、不動産屋の金井がなぜ、彫刻の斡旋をしていたのか?〉
土岐の心中はその疑問でその日の天気のように曇天模様だった
東京芸術大学を出て上野駅まで灯ともし頃の上野公園を突っ切って5分ぐらい歩いた。頬を撫でる風が怜悧なナイフのように感じられた。
地下鉄銀座線で日本橋駅で下車し、海野と以前行ったことのある居酒屋〈株都〉に着いたのは六時少し前だった。店内を見回して、海野がまだ来ていないことを確認し、出入り口に一番近い席についた。二、三名の先客がいただけで五十名以上は十分に収容できる店舗からすると閑散としていた。手持無沙汰の店員が早速オーダーを取りに来たが、土岐は、
「相客が来るまで待ってくれ」
と伝えて、手帳を広げた。手帳には関西と北陸での調査メモがはみ出しそうなほどに書き込まれていた。今年の上半期と比較すると、よく仕事をしているという充実感があった。
六時を少し回ったところで、海野が飄々と現れた。
「よう」
と人懐っこいような、馴れ馴れしいような挨拶をする。初対面からそういう人間であったことを土岐は思い出していた。
「ごぶさたしています」
「どう?調査の方は」
「混乱しています」
「こっちはもう完全に片付いた。おれはいま、おみやさん担当だ」
「おみやさんと言うとコールドケースですか?」
「そう。まあ、緊急の初動捜査や人手の足りない時には駆り出されるが、いまのところ警察組織の威信をかけるような重大な事案がないんで、それ以外は、昔の書類の閲覧だ。はなぶくちょうちんで居眠りばかりしている。まあ定年まであと半年もないから、安楽死というか、重要な事案は引きずらないように、というお偉いさんのありがたいご配慮だ」
注文取りが来たので、海野は前回と全く同じものを注文した。土岐はどうでもよかったので、海野にまかせた。土岐は待ちきれないように話し出した。
「見城仁美の証言で自殺に処理されたようですが、偽証であることが証明できます」
「ほう。それはたしたもんだ」
と言い放って、海野は土岐の説明を待っている。土岐は躊躇している。土岐の情報がUSライフの大野直子に筒抜けだとすれば、民事で隠し玉として使えなくなる。
「言ってもいいんですが、大野直子の話がちょっと気になっていまして・・・」
「会ったのか、あの色っぽいねえちゃんに・・・」
「彼女が言うには、海野さんはUSライフの嘱託に内定したとか・・・」
「そのことか・・・まあ、内定は被雇用者が蹴っても企業側は損害賠償請求はできないという判例がある。・・・彼女に対して、おれが内定に承諾したと思わせる受け答えをしたというのが正確なところだ」
「と、言うことは・・・」
「おまえは人を見る目がないな。おれがこの年でなんで警部補だか、まったく理解していない。定年間際で、いまだに警部補なんていう刑事はまずお目にかかれないぞ。懲罰的な意味合いで警部補に留めおく、というケースもあるが、おれの場合は最後までとうとう組織になじめなかったというケースだ。警察に入ったころから、上司の意向にはことごとく反抗してきた。とくに自分の手柄を立てようとする上司には徹底的に逆らった。部下のやったことを自分の手柄にして、上役にアッピールし、出世を画策し、部下をどこまでも利用し、平気なつらをしている奴を見ると反吐が出た。一将功成り万骨枯るだ。そういうおれがUSライフのような組織になじむと思うか?嘱託であれ、正社員であれ、組織に属すれば、命令に従わなければならない。・・・それに、あのねえちゃんにUSライフの嘱託を了承したと思わせとけば、保険会社の情報も入手できる」
土岐は聞きながら幾度も納得したように頷いた。
「で、どんな情報が入手できたんですか?」
「おまえの情報と交換で話してやろう」
そこで海野は運ばれてきた生ビールを一口飲み、付け出しに箸をつけた。
「USライフとしては、廣川弘毅が自殺であれば、死亡保険金三千万円を支払わないで済む。だから見城仁美を抱き込むことは理解できないことではないが、そのやり方が少し度を超えている。まず、認知症の見城仁美の母親を費用の安い水上の山奥から、仁美の自宅に近い船橋法典の地方自治体の第3セクターが運営する特養に移転させた。このとき、鼻薬をかがせて、地元の市議会議員に斡旋を依頼した人物がいる」
「誰ですか、それ」
「・・・誰だと思う?」
海野はにやりと笑う。土岐はかぶりを振って、生ビールのジョッキを口に運んだ。
「長田賢治ですか?」
「あんなフ―テンにそんな政治力はない。・・・船井肇だ。船井はいまは一級建築士事務所を構えているが、かつて衆議院議員だったときの人脈が太く残っている。船井は議員であり続けるよりも、この人脈を使って公共事業の箱物行政を食い物にして私腹を肥やすことを選んだんだ。カネはUSライフから出ているが、その圧力は大株主から出ている」
「大株主って、USライフは非上場企業じゃないですか?どうして分かったんですか?」
「非上場企業だが、有価証券届出書提出会社だ。一億円の社債を発行しているんで、有価証券報告書を提出する義務がある。EDINETで閲覧したら、大株主に八紘物産の名前があった。八紘物産からの圧力があって、医療介護保険を捏造し、中井愛子を被保険者とした保険契約を偽造した疑いがある。そうでなければ、安月給の仁美に月額二十万円近い特養の入所費用が支払えるはずがない。そういうリスクを冒してまで、仁美に偽証させるとなると、三千万円の死亡保険金の支払いをけちるというストーリーがやや弱くなる。カネだけの問題じゃない。保険契約書の偽造という罪を犯している。ばれれば、USライフは金融庁から何らかの行政処分を受ける。ダメージは三千万円どころではないだろう。とすれば、それ以上の何かがあるということになる。廣川弘毅を自殺とすることで生じる三千万円を超える何かが八紘物産絡みであるはずだ」
土岐は海野の真剣な顔と生ビールの泡を交互に見つめていた。海野のしみやいぼだらけの老醜にまみれた真面目な表情を凝視することは土岐には耐えられなかった。土岐はきりだした。
「それじゃあ、わたしの方からも決定的な情報を・・・仁美の目撃情報は物理的にあり得ないという結論です」
「ほう」
と海野はジョッキを傾ける。
『聞いてやるから、言ってみろ』
というような風情だ。海野は顔を少しはすにして、右耳を土岐の方に傾けている。
「廣川弘毅を轢いた電車は五時三分発なんですが、その時間に見城仁美が現場にいることは不可能だった」
「どうして?」
「同僚の双葉智子の証言では、仁美は五時ちょうどに三光ビルにある会社の部屋を出ているんですが、男の足で走っても五分以上かかるんです、現場に到達するには」
「だから、五時三分発の電車に轢かれた現場を仁美は目撃することはできなかった、という論法か」
「そうです」
「それはちょっと弱いな」
「なんでです?」
「ラッシュの時間帯のダイヤは、平気で二、三分の遅れが出る。乗客が扉の締まる寸前でドアに掛け込んで挟まれただけで、数十秒の遅れが出る。それが、何駅も続けば一、二分の遅れはざらだ。それだけじゃない。線路は一本しかないから、ダイヤの遅れは一番遅れた電車と同じになる。だから、ラッシュの時間帯には、駅の電光掲示板で次発の発車時刻は出さないことになっているんだ」
「じゃあ、その電車は遅れていたというんですか?」
「かも知れない。公判で覆される惧れがないとは言えない」
「そうですか・・・」
土岐は肩を落として生ビールを喉に流し込んだ。仕方なく、もうひとつの玉を出した。
「それじゃあ、こういうのはどうです。廣川弘毅が開示情報という雑誌を郵送ではなく、自ら手渡ししていた所があるんですが、その中の一つに、八紘物産の第二総務部があります。さっきの、USライフの大株主の話と繋がりませんか?」
聞きながら海野は考え込んだ。腕組みをしているが、腕が短く、しかも太いので、組んだ腕がほどけそうになっている。海野は自問自答するようにつぶやく。
「現金授受の目的で、開示情報を直接、総務部に運んでいるとすれば、その関係を断つために廣川弘毅を殺害したか?・・・いや、それは、ありえないな。他殺であることがばれれば、そのリスクは広告掲載費じゃ、おいつかないだろう。とすると総務部が自殺を偽装するためにUSライフに手を回したとすれば、その動機は何か?・・・自らが手を染めていない他殺を隠すためにわざわざUSライフに圧力をかける理由はなんだ?」
海野はおつまみにも生ビールにも手をださずに、考え込んでいる。土岐は海野がUSライフに籠絡されていないことを信じて、手の内を見せることにした。
「じつは大手町の高層ビルの谷間に船井ビルという雑居ビルがあって、このビルに最近まで開示情報に広告を出し続けていた広告主の事務所があって、ひとつは今話した八紘物産の第二総務部、それからビルのオーナーの船井肇の一級建築士事務所、もうひとつは長瀬啓志公認会計士事務所、最後が海野さんの同業者だった玉井要蔵の玉井企画。こいつらを取り調べれば事件の全貌が間違いなく明らかになると踏んでいます。ただ、いまのところ有無を言わせないような証拠がないので、直接、調査することをためらっています」
そう土岐が言っても海野はまだ考え込んでいる。土岐は手帳を広げて、さらに続けた。
「ついでに言うと、このビルには八紘物産中興の祖と言われる馬田重史名誉相談役の事務所もあって、この馬田重史と船井肇と長瀬啓志はそれぞれ、海軍兵学校、海軍経理学校、海軍機関学校に入学しているんですが、三人とも卒業していないんです。さらに言うと、廣川弘毅も陸軍予備士官学校に入学しているんですが、こちらも卒業した形跡がありません。しかも、廣川弘毅は、入学した一年後に京都の清和家の書生となって、松村という偽名で終戦を迎えています」
海野が目を細めて、ぽつりと言った。
「ひとりで、よく調べたな。おれが警察組織を使って調べたこととあまり違いがない」
「あまり?・・・と言うと?」
「廣川弘毅は陸軍中野学校に引き抜かれたんだ。両親も兄弟もいなかった。よっぽど予備士官学校の入学の成績が良かったんだろうな。格好の人材だ」
「・・・と言うことは、廣川弘毅はスパイだったんですか?」
「たぶん、清和家の書生としてもぐりこんだのは、京都の清和家と東京の久邇家の日米和平工作をつぶすのが目的だったんだろう。終戦間際の陸軍は徹底抗戦の方針で、本土決戦を企てていた。和平推進派の清和家と久邇家は陸軍にマークされていた」
「じゃあ、そのことが、殺害の原因だったんですか?」
「六十年以上も前の話だ。どんな悪事もすべて時効になっている。無関係とは思わないが、それが直接の原因だとしたら、廣川弘毅はもっと早く殺されていただろう」
二人の間に沈黙が訪れた。サラリーマン客が増えてきて、酒場独特の喧騒が飛び交い始めた。周囲の雑音が二人の黙考を際立たせた。
「・・・見城仁美の口を割らせる材料はないだろうか?」
とひとり言のように土岐が言うと、海野が応じた。
「もう一人の目撃証言が得られた。自殺で処理した後だったけどな。あんな安看板でも役に立った」
土岐は海野の無精ひげに包まれた口元を凝視した。海野はその口をおもむろに開いた。
「男子学生だ。アルバイトの帰りだったと言ってる。
『親に内緒で、大学をさぼってやっていたから、ずっと迷っていた』
だとさ。証言内容は仁美の最初の証言によく似ている。本人はエスカレータ脇の狭い乗車位置で、壁に寄り掛かっていたそうだ。前の日に大酒を飲んで二日酔いでバイトをしたんで、ひどく疲れていたそうだ。前に老人二人が並んでいた。人の流れはエスカレーターを降りてホーム中央に向かうので、そこに人通りは殆どなかったそうだ。学生と老人の間に空間があった。学生は列を詰めて並んでいなかった。そこに電車が入線してくる警笛がした。そのとき小柄な男が学生と老人の間をすり抜けようとして、よろめいた。正確には、よろめいたように見えた。学生はホームの端を歩いていた男が、警笛にびっくりしてホームの内側に歩く方向を変えた拍子にバランスを崩したんだろうと思ったそうだ。その直前に廣川弘毅が杖を手から滑らせて、隣の老人がその杖を拾った瞬間、よろめいた小柄な男が、廣川弘毅に接触し、ホーム前方にさらによろめいた。隣の老人が杖を差し出して、廣川弘毅はそれをつかもうとしたが、隣の老人が杖で突き押すようなかたちでホームに転落した。学生は茫然とその情景を眺めていたが、気付いたときには隣の老人もよろめいた小柄な男もいなくなっていて、自分好みのOLが気が抜けたようにそこに立っていたそうだ。そのOLは騒然とするホームに立ち続け、ずっと携帯電話をしていたそうだ。おれの勘では、そのOLが見城仁美だ。学生に仁美の写真を見せたら、似ているとのことだった」
「そうすると、そのよろめいた小柄の男が殺人犯ということですか?」
「それが事故だとすれば、もう一人の老人は逃走する必要はないはずだ。学生の記憶では、廣川弘毅が落とした杖で線路に押し出したように見えたということだ。その老人は普段誰も使用しない階段を駆け上がって改札を出て行ったと駅員が証言している」
「あ、岡田という人ですね」
「そうだ。・・・しかし、よろめいた小柄な男の方は目撃されていない。少なくとも、目撃者はほかに現れていない。たぶん、エスカレーターの周りを一回りして、ホームの反対側までゆっくりと歩いて、日比谷線の階段を上って行ったんだろう。ラッシュの時間帯じゃ、だれも気付かない。ましてや、人々は事故のあった日本橋寄りのホームに注意をとられている。・・・参考までにこれがその男の似顔絵だ。学生は横顔しか見ていないと言うので横顔の似顔絵になった。原画を縮小してある。原寸よりも縮小した方がリアリティがあるのが不思議だ」
と海野は懐からB5に縮小された似顔絵のコピーを取り出した。斜めにつんのめっているような男の右の横顔がクロッキーで描かれていた。頬骨が突き出て顎骨のえらがはり、眼窩の窪んでいるのが特徴だった。とうもろこしのように細長い顔立ちを土岐はどこかで見たような気がした。あまりに顔が狭いので眼が顔に収まりきらず、斜めに吊り上っている。
「これに似た顔をどこかで見た覚えがあります。・・・これ頂けますか?」
「ああ、やるよ」
土岐は似顔絵を四つ折りにして内ポケットに仕舞った。
「・・・その学生と仁美を対決させてみてはどうでしょう」
「仁美がそうでないと言い張ればそれまでだ」
「母親の特養移転の経緯の線はどうでしょう」
「有力ではあるが、民事では民間保険会社に対して捜査権がない。警察の方では廣川弘毅は自殺で処理されているんだ。養護医療保険を偽造したとすれば、連番の契約書番号で偽造の証拠をつかめるかも知れないが、むこうはプロだ。時期的に都合のいい中途解約した番号を使えば、契約書が連番であったとしても、偽造の証拠をつかむのは容易ではない。民事で廣川弘毅の死を他殺とするには膨大な状況証拠を積み上げるしかないだろう。それを裁判官がどういう心証で捉えるかだ。宇多弁護士は悪名高いから、裁判官の心証はよくないだろうな」
海野の宇多弁護士評に土岐は思わず頷いた。土岐は自分の推理を吐く。
「現場から逃走した老人は、長田賢治のような気がするんです。・・・糸魚川の自宅にはしばらくいないようなので、たぶんそうじゃないかと思うんです。・・・彼が殺人犯でないとするならば、真相を話してくれそうな気がするんですが・・・」
「なぜ、逃げたかだ。名乗り出てもこない。見城仁美からなんらかの情報は伝わっている筈だ。なんせ、祖父と孫の関係なんだから・・・」
「見城仁美のアパートの家宅捜索をできないですかね」
「あそこに長田がいることは調べがついている。しかし、捜査令状はとれない」
「任意同行はどうですか?」
「だから言っただろう。警察の方は自殺で一件落着している。いろんな事情はあるにせよ、警察はそうしたいんだ。そういう意志がどこかで働いているんだ」
「玉井要蔵のルートですか?」
「玉井要蔵はとっくに定年退職している。特暴連の大手町支部の支部長を務めてはいるが、支部というのは消防団みたいなもんで、NGOだ。そんな下っ端の意思じゃない。もっと上だ」
「・・・と言うと、キャリア組の茅場署長の上ということですか?」
「なんの証拠もないがな。おれの勘だ。組織には意思がある。女の素振りと同じで、示された結果で、意思を推測できる。廣川弘毅の事件はほじくれば、いくらでもほじくれるが、早々に上から自殺処理の意思が示された。おれみたいな末端のペイペイにはいかんともしがたい」
「公認会計士の長瀬啓志の口を割らせれば、事件のおおよその輪郭がつかめるような気がするんですが・・・」
「どういう理由でしょっぴくんだ。・・・長瀬啓志はただの公認会計士じゃないぞ。監査法人の代表社員をやっていた頃は日本を代表する一部上場企業と太いパイプを築きあげた。定年で個人事務所を開いてからは、政界の大物の税理業務を一手に引き受けている。なん社もの大企業の社外監査役もやっている。おそらく、元衆議院議員の船井肇や八紘物産相談役の馬田重史の口利きだろうと思うが・・・本当の権力を握っているやつらは表に出てこないんだ。おれにしたって、お前にしたって、やつらにしてみりゃ護摩の灰以下だ。しかも、最近紫綬褒章の推薦を受けている。推薦者は久邇頼道だ。しかも、賛同者は馬田重史と船井肇だ。これだけの大物が推薦したとなると、受章は間違いない。・・・この夏、内閣府賞勲局からの依頼で、形式的な身辺調査をした。・・・ばりばりの現役刑事はこんなガキの使いみたいな仕事はしないが、おれは定年間際の警部補だからな。まあ、相応な仕事ということなんだろう。・・・長瀬啓志の犯罪歴は駐車違反程度しかない。所轄の八丁堀の超高級マンションに数年前に引っ越してきて住んでいるが、初代のマンション管理組合理事長を務めたそうで、住民の評価は高い。悪い噂はまったくない」
「なにか突破口はないですか?」
「見城仁美しかないだろう。それに同居している長田賢治。・・・おれはかみさんが居るから駄目だが、あんたチョンガーだろ。・・・見城仁美はおれの好みではないが、目撃者の男子学生がぞっこんみたいだったから、蓼喰う虫も好き好きってことかな。・・・あんた、仁美を攻めてみたらどうだ」
「そんな、他人ごとみたいに・・・仕事と情は別です」
「いやあ、そういう意味じゃない。たまたま仕事と情が一致することもあるだろうという意味だ」
土岐はなんとなく割り切れない思いだった。仕事のために仕事以上に重要なものを犠牲にはできないという思いだった。海野は土岐に諭すように言う。
「いずれにしても、馬田重史、長瀬啓志、玉井要蔵、船井肇の線は、とてもじゃないが、おれたち風情では太刀打ちできない。・・・かりに真実が分かったとしても、週刊誌ネタになる程度で、・・・ひょっとしたら実行犯が検挙できるかも知れないが、警察組織にとっては、おそらくキャリア組にとっては、なんの手柄にもならない事案だ。実行犯はトカゲのしっぽで、おそらく本陣には到達できないだろう。かりに、本陣が見えたとしてもすべては時効のはずだ。・・・こういう事案は五年とか十年に一度、お目にかかれるが、大体いつも幕引きは同じだ。・・・うやむやのうちに終わる」
土岐は海野の話を半分聞きながら、仁美に対する自分の感情を吟味していた。
「見城仁美を落とすにしても、彼女はけんもほろろで、とりつく島がないんですよ」
「そりゃそうだ。・・・おまえさん、相手を落とすには、相手が一番欲しがっているものを与えなきゃだめだよ。・・・あの子はものほしげな、そういう顔をしている」
「カネですか?」
「それもあるが、・・・おまえさんにはないだろう」
「じゃあ、ぼくには落とせないということですか?」
「愛情だよ。これはカネに代え難い。彼女は愛してやるに値する。どんな女でもそうだ。誰だって愛してやるに値する。ただ、一人の男が愛して落とせるのは一人の女だけなんだ。だからおれにはできない。しかし、おまえにはできる」
土岐は生ビールの底を見つめた。もう一粒の気泡も浮かび上がってこない。自分の心に聞いてみた。
〈見城仁美を愛せるか?民事での成功報酬を除外してでもできるか?〉
見城仁美に同情することはできそうな気がした。決して恵まれた生い立ちではない。実父の家庭内暴力が原因で両親が離婚し、母親に捨てられて、父親の世話をすることになった。その父親は肝硬変で死に、行方不明だった母親が痴呆症で現れる。祖父の長田賢治も助力はしただろうが、すでに高齢だ。母親の入所費用にカネがかかる。結婚資金などためられるはずがない。そして今回の事件だ。皮肉にも偽証することで、母親の特養ホームを自宅アパートの近くに変えることができた。それと引き換えに偽証という重い十字架を背負うことになった。それは負の足かせとなって一生ついて回る。
〈そんな女の一生を救い出すのであれば、自分の人生を提供する価値があるか?〉
土岐が思案していると、海野が生ビールとおつまみを片づけ始めた。店は次第に混雑してきた。海野が、おあいそをしたがっている雰囲気を土岐は感じ取った。
「成功報酬が佐藤加奈子からいくらとれるか分からんが、おれは協力するぞ」
そう言って海野は立ち上がった。土岐は海野を信じることにした。
「これまでの調査報告書を添付ファイルで海野さんのアドレスに送信しますので、それを見たうえで後日コメントをください。それから中村貞江という女を知っていますか?」
「知らんな。誰だそれ?」
「三田法蔵の骨壷を香良洲の善導寺から持ち去った女です」
「いつのことだ」
「四十年ぐらいまえです」
「どこの女だ」
「当時の住所は、巣鴨です」
「じじいばばの銀座か」
「とげぬき地蔵のいるとこですよ」
「住所のメモをよこせ。調べといてやろう」
「おねがいします」
と言いながら、土岐は手帳の一ページに住所と名前をメモして、海野に渡した。
土岐が学生の頃、こうした類の居酒屋に若い女性客は見られなかったが、〈株都〉には数人のOLがいた。その嬌声に背中を押されるように二人はその店を出た。冷たい風がビルの谷間を吹き抜けていた。
帰りの電車の中で土岐は、見城仁美の身辺を再調査することを考えた。蒲田の事務所に帰宅したのは八時ごろだった。気分のよくない酔い心地だった。




