表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
学僧兵  作者: 野馬知明
3/5

土岐明調査報告書

十月一日


 九月が終わった。十月一日の午前中は、インターネットで船井ビルのテナントの素性を調べることにした。二階と三階に入居している長瀬啓志公認会計士については、簡単な略歴が記載されていた。大正十四年神奈川県生まれ。旧制神奈川中学校卒業。戦後、社会福祉事業大学を卒業している。公認会計士になったのは昭和二十五年、昭和五十五年にセントラル監査法人の代表社員となり、昭和六十年に定年退職後独立し、長瀬啓志公認会士事務所を設立して、八丁堀在住で現在に至っている。

 四階と五階に入居している船井肇一級建築士は、大正十三年長野県生まれ。旧制長野中学校卒業。戦後、早稲田大学理工学部建築科を卒業している。昭和二十七年に、公職選挙法施行後初の第二十五回衆議院議員選挙で初当選。昭和三十年の保守合同以来初の昭和三十三年の第二十八回総選挙に落選し、建築士事務所を設立。以来、大型土木工事の政界とゼネコンを結び付けるフィクサーとして暗躍し、奥沢に在住で、現在に至る。昨年、紫綬褒章を受章している。

 七階に部屋を構える馬田重史八紘物産相談役は、大正十五年広島県生まれ。旧制広島中学校卒業。戦後、慶応義塾大学経済学部を卒業している。昭和二十九年に八紘物産に入社、昭和四十九年取締役、昭和五十五年代表取締役社長、昭和六十三年代表取締役会長、平成八年相談役、平成十二年名誉相談役を経て、成城に在住で、現在に至る。一昨年、紫綬褒章を受章している。

 八階の玉井企画は代表が玉井要蔵で、昭和四年千葉県生まれ。旧制千葉高等学校卒業。戦後中央大学の夜間部を卒業している。ノンキャリアとして警視庁捜査4課を中心に一貫してマル総(総会屋)を担当し、平成元年、定年と同時に特暴連(社団法人警視庁管内特殊暴力防止対策連合会)を中心となって設立し、理事、嘱託を歴任し、現在大手町支部長を務める。神田須田町に在住している。

 船井ビルの四人はいずれも八十歳を超えている。玉井要蔵以外は年代的にほぼ同一だ。以上四人の中で、廣川弘毅と直接関係のありそうなのは玉井企画の玉井要蔵だが、玉井要蔵は総会屋を取り締まる側だったから、廣川弘毅とは対立関係にある。しかし、〈開示情報〉という雑誌に広告を掲載していたということは、何らかの形で利害を共有していたことを意味する。

〈それはいったい、どういう利害の一致なのか?〉

 さらに土岐が不思議に思ったのは、兵歴の紹介のないことだった。玉井要蔵は終戦時に十六歳だから、兵役を記載していない事情は推察できる。しかし、他の三名は戦後それなりに地位のあるポストを歴任しているので、旧制中学と大学の間にあったはずの兵役の記載がない理由が理解できなかった。旧制中学卒業であれば十七歳で高等学校に進学したことになる。終戦時の年齢は、長瀬啓志が二十一歳、船井肇が二十二歳、馬田重史が二十歳になる。玉井要蔵を除き、他の三名は何らかの形で戦争にかかわっていたはずだ。戦時中に大学に進学していなければ、招集猶予がないはずだから、甲種合格か乙種合格であれば、どこかの部隊に招集されていたと思われる。いずれにしても、旧制中学卒業後から戦後、履歴に掲載されるまでの戦中戦後の経歴が欠落している。同じことは廣川弘毅にも言える。廣川弘毅は大正十五年生まれだから、終戦時は二十歳だ。廣川弘毅も戦中戦後の履歴が詳らかでない。

〈すると玉井要蔵を除く、この連中は、戦中か戦後に何らかのつながりを持っていたのか?それが、戦後の現在までどういう関係を維持してきたのか?〉

 考えながら土岐は海野にこの情報を伝えたい誘惑に駆られた。しかし、海野に対する不信感は払拭されていない。とりあえず、海野の名前を借名して、長瀬啓志、船井肇、馬田重史の三名について、現在は高校となっている旧制中学校に卒業後の進路についてメールで問い合わせることにした。最初に海野に断りのメールを送信した。

@海野刑事 調査上の必要から、海野刑事の名前を騙らせてもらいます。廣川弘毅が開示情報を持参して配付していた大手町の船井ビルのテナントについて調査します。メールの内容はのちほどBCCで送信します。 土岐明@

 旧制中学は戦後は新制高等学校として存続している筈だと当たりをつけて、同じ文面でそれぞれの高等学校のホームページのお問い合わせのリンクから同文のメールを送信した。

@突然のメールにて失礼します。現在ある殺人事件について捜査をしております。件名に氏名のある旧制中学校の卒業生について、卒業後の進路についての情報を頂ければ幸甚です。なにぶん、半世紀以上も昔のことなので、お手数をかけることになるとは思いますが、可及的速やかにご返信いただければ幸いです。なお、ご返信は茅場署へではなく、このメールの個人アドレスにいただくようお願い申し上げます。 茅場署警部補 海野元治@

 土岐の経験では、肩書の効果は絶大で、これがどこの誰だかわからない、

〈調査事務所長 土岐明〉

という署名では、まず返信は望めない。海野に情報は漏れるが、この情報を海野が知っているとすれば、海野からのメールが期待できる。しかし、土岐の感触では海野はこの事案から手を引いている筈だった。海野がこの情報に興味を持てば、この三名の老人が廣川弘毅とどういう関係があるのか聞いてくる可能性はある。

 返信がくるまで土岐はインターネットで、

〈株式会社 神州塗料〉

のホームページにアクセスすることにした。IR情報のタブをクリックして、有価証券報告書と決算短信を閲覧した。上場したのは戦後だが、設立は戦前だった。堅実な経営をやっているようで、営業利益と経常利益に目立った変動はない。大儲けもしていないようだが、赤字経営には近年一度も転落していない。古い上場企業がそうであるように、神州塗料の大株主も金融機関や損保などの機関投資家で占められていた。土岐はIR情報画面のお問い合わせタブから、IR室にメールを送信した。

@お手数で申し訳ありませんが、昔、個人的に非常にお世話になった元吹田工場長の坂本茂さんと連絡を取りたいのですが、連絡先をご教授願えないでしょうか。土岐明@

 土岐の経験ではIR室の対応は企業によって天と地ほどの違いがある。すぐ返信をくれる企業もあれば、幾度同じメールで問い合わせをしても、無視する企業もある。もっとも、無視するのは相手がどこの馬の骨とも知れない土岐明だからかも知れない。今日中に返信のない場合は、海野の名前を騙るつもりでいる。

 次に土岐は、吉野幸三が話していた、

〈キャノン機関〉

〈M資金〉

〈隠匿退蔵物資〉

についてネット検索してみた。

〈キャノン機関〉

とはキャノン陸軍少佐が統括していたGHQ参謀第二部直轄の秘密諜報機関のことだった。日本人工作員組織を傘下においていた。廣川弘毅がキャノン機関と関係を持っていたとすれば、日本人工作員組織の一員であったのかも知れない。キャノンは1981年テキサス州の自宅ガレージで銃弾で死んでいる。自殺か他殺かはいまだに不明となっている。この辺の死に方は廣川弘毅に似たものがある。秘密諜報員が犯人であれば、他殺を自殺と見せかけることは、それほど困難なことではないだろう。

〈M資金〉

とはGHQが極秘裏に運用していたとされる秘密資金である。MはGHQの経済科学局長だったマーカット少佐の頭文字である。マーカットは日本銀行地下金庫を押収し裏資金をこしらえた。廣川弘毅が総会屋から足を洗ったのは、時価数十兆円に上るとされる、この資金を流用できるようになったかなのか?

〈隠匿退蔵物資〉

とは最後の戦時内閣、鈴木貫太郎内閣が、本土決戦に準備した時価数十兆円の物資をさす。一部は実際に大物政治家の手に渡っている。東京湾の越中島海底からも膨大な貴金属が発見されている。ヒロポンもその一部である。廣川弘毅がこの隠匿退蔵物資を探し当てて、総会屋から足を洗ったということなのか?

 いずれの事件も土岐が生まれる以前の話である。終戦直後の治安も警察も混沌としていた頃の眉唾めいた物語ではある。しかし、こうした闇事件を背景にその後、政商となり、政治家と結びついて行った実業家も多い。衆議院議員に当選したものの、保守合同以降、政界の裏舞台でフィクサーとして暗躍したとされる船井肇にはその臭いがしないでもない。廣川弘毅もそうした関係を持っていたとしても不思議ではない。

 インターネットでWEB検索を繰り返しているうちに、土岐は次第にこの事件が自分の手に負えないものであるような気がしてきた。徒手空拳で資金もスタッフも協力者もなく、たった一人でやっている個人事務所のしがない調査員が相手にできるような連中ではない。佐藤加奈子次第だが、彼女が調査継続に支障をきたすような注文をつけてきたら、それを理由に土岐はこの調査を断ることを思いついた。おそらく、数十万円程度の調査費用では収まらないような感触が土岐にはあった。

 ブランチをとりながら、土岐はパソコンのメールに目を通し続けた。神州塗料のIR室からのメールが来ていた。

@土岐明様 IR室へのお問い合わせありがとうございます。弊社元社員坂本茂は定年退職後、弊社OB会に所属し、記念事業などに参加する機会があります。なにぶん、個人情報に属することですので、お差支えないようでしたら、土岐様の連絡先を弊社から坂本へお伝えさせていただければ幸甚です。お手数ではありますが、返信メールにて、土岐様の電話番号などの連絡先をお教え願えれば幸いです。神州塗料株式会社IR室 杉田敏子@

 土岐は即座に返信メールで携帯電話番号を送信した。その間に、海野の名前で高校に問い合わせたメールの返信が続々と入ってきた。

@海野元治様 お問い合わせの件ですが、長瀬啓志君の旧制神奈川中学校からの進路先は海軍経理学校普通科練習生となっております。終戦間際のことなので、それから先のことは名簿に記載されておりません。十分にはお役には立てなかったことと思われますが、現在のところ分かることは以上です。 神奈川高等学校教頭 下條真一@

 土岐は早速海軍経理学校をネット検索して調べてみた。

海軍経理学校は海軍主計科要員の養成学校であり、日本中の秀才が受験した。これを卒業すると少尉候補生から主計少尉に任官し、武器、弾薬、食糧などの調達を日常業務とし海軍の予算編成を担当する。従って最前線で戦闘することはなく、その分、戦死する比率が低かった。受験倍率が高かった理由の一つはそこにある。

 長瀬啓志が海軍経理学校を出て、計理士となり、さらに公認会計士となった履歴がこれでつながった。しかし、廣川弘毅との接点がまだ浮かんでこない。廣川弘毅の戦前戦後の履歴を調査しなければ、この二人がどこで交差することになるのか推理はできない。土岐のやらなければならない作業がふえることになった。とりあえず、長瀬の海軍経理学校時代の空白を埋めることにした。それによって、廣川弘毅との接点が見出せるかも知れない。インターネットで、海軍経理学校の同窓会事務所を探しだした。校舎は築地にあったようだ。ホームページにメールアドレスがあったので、問い合わせのメールを送信した。

@海軍経理学校同窓会事務所御中 ある殺人事件で捜査している茅場署の海野という者です。大正十四年生まれで旧制神奈川中学を卒業し、普通科練習生になった長瀬啓志氏と親しかった人をご紹介願えれば幸甚です。 茅場署警部補 海野元治@

 次に開いたメールも高校からだった。

@海野元治様 件名の馬田重史様は旧制広島中学を四年で卒業後、当校の屋上からも遠望できる江田島の海軍兵学校へ入学したと記録されています。そのため、原爆投下にも遭遇せず、戦後は東京証券取引所一部上場の八紘物産の代表取締役社長に就任したわが校屈指の秀才です。詳細については、八紘物産の方へお問い合わせ願えれば幸甚です。広島高等学校校長 川村義純@

 八紘物産に問い合わせれば馬田本人にそのことが知れる。身辺調査は調査される本人に調査されていることを気付かれたら失敗する。馬田が情報の隠滅や周囲に緘口令を敷くこともありうる。身辺調査は搦め手からやらなければならないというのが調査員の心得だ。

 土岐は海軍兵学校についてもネット検索してみた。

海軍兵学校の受験資格は十六歳から十九歳で、旧制中学校四年修了程度の学力が求められ、受験倍率は二十倍を超えていた。他の教育機関では排斥されていた英語教育が徹底的に行われた。

馬田重史が海軍兵学校で敵性言語の英語を学び、戦後その能力を生かして八紘物産で活躍したであろうことは、土岐にも想像できた。一般の教育機関では、英語教育が太平洋戦争突入以降回避されたと土岐の祖父から聞いたことがある。戦後、英語を操れる人材が枯渇する中、馬田重史がGHQと渡り合って、八紘物産の戦後復興に寄与したであろうことは十分想像できる。そうであるとすれば、キャノン機関やM資金や隠匿退蔵物資と最もかかわりのあったのは馬田重史かも知れない。その馬田と廣川弘毅が接触を持ったことから、吉野幸三元刑事の捜査情報に組み込まれた可能性もある。

 土岐は海軍兵学校の同窓会事務所をインターネットで検索し、そのメールアドレスに問い合わせのメールを送信した。

@海軍兵学校同窓会事務局御中 ある殺人事件で捜査を行っている茅場署の海野と申します。大正十五年生まれで、旧制広島中学を四年で卒業し、江田島に入学した馬田重史氏と親しかった人物を探しております。お手数ですが、返信メールにてご紹介願えれば幸いです。茅場署警部補 海野元治@

 三つ目の高校からの返信は、船井肇についての問い合わせだった。

@海野元治様 とりいそぎ、ご返信申し上げます。お問い合わせの船井肇元代議士は、旧制長野中学校の立志伝中の人物で、同窓会の事務局長に問い合わせたところ、船井氏は舞鶴の海軍機関学校に入学したそうです。その後のことについては、東京の船井肇一級建築士事務所にお問い合わせしたらいかがでしょうか。長野高等学校教務主任 松村厚志@

 東京にいる刑事が東京の一級建築士事務所で情報を容易に集められることを長野高等学校の教務主任には想像できないようだ。かりに想像できていたとすれば、これはていのいい情報提供の断りのメールだ。

 土岐は海軍機関学校についてもネット検索してみた。

海軍機関学校では、機械工学や科学技術や兵器の設計など戦後の日本経済の復興を支えたあらゆる科学技術の習得が推進された。いわゆる工学系の軍事教育機関の最高峰にあり、海軍経理学校と海軍兵学校とともに海軍三校と呼ばれ、野暮な陸軍を忌避する当時の軍国少年の憧れの的だった。

メール中の舞鶴という文字を見て、土岐は廣川弘毅が京都生まれであることを思い出した。船井肇と廣川弘毅は京都という地理的な接点を共有している。あとは、廣川弘毅が戦中、どこにいたかが分かればいい。船井肇が海軍機関学校で戦艦や軍艦の設計図を引かされていたとすれば、戦後彼が、一級建築士の資格を取ったという履歴に繋がる。

〈それにしても・・・〉

と土岐は三人が三人とも海軍三校に入学したという共通項が気になった。海軍経理学校は築地、海軍兵学校は江田島、海軍機関学校は舞鶴と場所は異なるものの、それぞれ海軍を代表する幹部養成学校だ。この三人には明らかな共通点がある。とりあえず、海軍機関学校の同窓会にも問い合わせのメールを送信した。

@海軍機関学校同窓会御中 ある殺人事件で捜査を行っている東京の茅場署の刑事の海野と申します。大正十三年生まれで、旧制長野中学校から入学した船井肇氏と親しかった人を探しております。その当時の船井氏と昵懇であったような人がおられたらご紹介願えれば幸甚です。茅場署警部補 海野元治@

 あとは、返信を待つだけだった。戦後の大学在学当時の情報については容易に得られそうな気がした。同窓会組織がしっかりしているし、なによりも大学組織それ自体が健在だ。ただし、三人とも戦争直後の混乱期に大学を卒業している。大学はただでさえマス・エデュケーションで、学生同士のつながりが浅い。当時はだれもが食うや食わずだったので、クラブ活動も活発ではなかったと思われる。大学時代の情報は容易に入手できることが想像されたが、同時にその情報は希薄であることも予想された。

最初に返信があったのは、海軍経理学校同窓会事務所からだった。

@海野元治様 長瀬啓志さんの同窓生のご照会ですが、卒業者名簿を見た限りでは、長瀬さんの名前は見当たりません。当事務所にご本人からのご連絡がないのか、あるいは中途退学か、または入学辞退か、当時のことを知っている人はほとんどおりませんので、当事務所としては不明とさせていただきます。お役に立てなかったことを深くお詫び申し上げます。海軍経理学校同窓会事務所 松野惣一@

 長瀬啓志は紳士録にも名前が記載されている人物だから同窓会名簿を作成するときに、かりに本人が同窓会事務所に連絡しなかったとしても、誰かが代わりに連絡するはずだ。そうでないとしても同期生の代表が連絡のない人物の消息を徹底的に明らかにするはずだ。そうしなかったとすると、長瀬啓志は海軍経理学校を卒業しなかったのではないか。中途退学か、入学辞退かのいずれかだろう。真相を知るのは本人だけだろう。いざとなったら、大手町の事務所か八丁堀の自宅に出向いて直接本人から聞くしかないだろう。

 次にメールが届いたのは、海軍兵学校同窓会事務局からだった。

@海野元治殿 海軍兵学校同窓会の名簿に馬田重史君の名前は記載されておりません。数人の同窓生にあたったところ、記憶にないとのことでした。あしからず。海軍兵学校同窓会事務局長 山本道夫@

 馬田重史が著名人となるのは、八紘物産の社長に就任して以降のことであるから、海軍兵学校の同期生に記憶がなくても不思議ではない。親しかった同期生がほとんど戦死した可能性もある。戦後生き残ったとしても、八十歳を超えてまでの天寿を享受できなかった可能性も大きい。名簿に載っていないということは、意図的に抹消したのか、長瀬啓志と同じように中途退学したのか、あるいは入学辞退したのか、これも真実は本人に確認するしかないだろう。

 三人目の船井肇についての返信があったのは、それからしばらくしてからだった。

@海野元治様 船井肇氏の同期生のご照会について、とりあえず現時点で分かった範囲内でご返信申し上げます。舞鶴の海軍機関学校は、昭和十七年に将校制度が改正され、さらに昭和十九年十月に廃止され、海軍兵学校舞鶴分校となった経緯があり、機関学校の名称は横須賀に既設されていた海軍工機学校が改称されて引き継がれたという複雑な歴史があり、同窓会名簿それ自体が不完全なままの状態で現在に至っております。そうした不完全な名簿に当たった限りでは、船井肇氏の氏名は見出すことができませんでした。これは、前述のような事情によるものと思われますが、先ほど、東京大手町のご本人の事務所に電話で確認したところ、入学を辞退したらしいとの秘書の方の話をうかがうことができました。海軍機関学校同窓会世話人 伊藤倉之助@

 これで、三人とも卒業していないらしいことが明らかになった。それでは、終戦まで何をしていたのか?海軍三校にいなかったとすれば、一兵卒として召集されているはずである。しかし、その可能性は考えられない。難関を突破して卒業後は将校になることが約束されていることを蹴って、待遇の悪い一兵卒として従軍することはありえない。とすると、結核かなにかを患って、療養のため中途退学したのか。食料事情も衛生状況もよくないことを斟酌すれば、可能性がなくもないが、三人とも同時に、となれば可能性は遠のく。しかし、船井肇の秘書の話が真実であるとすれば、入学を辞退した理由は何か?いずれにしても、真実は各人に直接会って確かめるしかない。しかし、本人たちが真実を語るという保証はない。真実を語らなければならないという義務もない。海野刑事が聞き込みをすれば、警察手帳が圧力になって多少真実を話すかも知れない。どちらにしても、土岐には自分が出向いて聞き出すことの有効性については否定的に思えた。

 そうこうするうちに、十二時になって、階下の印刷機のモーターが停止した。事務所は嘘のように静かになった。振動もなくなって、別の場所にいるような違和感がある。耳の奥に自らの血流が聞こえてくる。そこに、携帯電話の着信音が鳴った。

「土岐さんの携帯電話でっか?」

 かなりかすれた関西なまりの老人の声だった。

「はいそうです」

「わし、昔、神州塗料に勤務しておりました坂本っちゅうもんですが、先刻、OB会事務局の方から連絡がありまして、なんか、わしに聞きたいことがあるとかで・・・」

「ええ、そうなんですが、いま、どちらからのお電話ですか?」

「自宅です」

「吹田の近くですか?」

「いいえ、定年退職してからずっと、豊中の千里中央に住んどります」

「今週末か来週末にでも、お会いできますか?」

「ええ、・・・なんもすることがあらへんので毎日ぶらぶらしとります」

「それでは、改めて、予定が決まりましたら、ここにお電話させていただきます」

「そうでっか」

と言って切れた。土岐は着信履歴から坂本茂の自宅の固定電話の電話番号を登録した。

 土岐が午後の予定を考えていると、鉄の外階段をカツカツと上ってくる足音があった。軽くノックして土岐の返事を待たずにドアを開けてきた。

「土岐さん、おられますか?」

 大家の印刷工場の主だった。亀のような頭を持つ大原恭史という生真面目な老人だ。

「あ、大家さん」

 土岐には用件は分かっていた。人のいい大家はすまなさそうに頭をかきながら言う。

「・・・分かっていると思いますが・・・」

「すいません。明日の金曜日、調査費用が入ってきますので、・・・明日、コンビニか郵便局から入金しますので・・・」

「まあ、夜逃げしていなければそれでいいんですが・・・こっちも、デフレで、印刷単価切り下げ要求で四苦八苦しているんで、・・・家賃をあてにしているんで・・・」

「本当に申し訳ありません。かならず明日中に入金しますので・・・」

 大家の大原は人のよさそうな目尻を困り果てたように下げて、階下に降りて行った。これまで、入金が数日遅れることは何度かあったが、一週間以上遅れたことはなかった。大原が昼休みに土岐の事務所に家賃の催促に来たのは、たぶん口うるさいヒステリー気味のかみさんにせっつかれたせいだろうと推察した。

土岐は調査報告書の提出を一日早めることにした。廣川弘毅の戦中の行状を調べるために京都に行き、坂本茂に会うために大阪に行くには、調査の継続が必要になる。

カネがない。

佐藤加奈子に電話をかけ、午後五時すぎに自宅を訪問することを連絡した。電話を切ると、土岐は事前調査報告書を書き始めた。


【廣川弘毅氏殺害に関する事前調査報告書】

①見城仁美(殺害現場の目撃者)

目撃証言によると、

「廣川氏が老人と二人でホームの一番前に立っていて、その二人が急に前に倒れ込み、杖をついていた廣川氏が線路に転落し、もう一人はホームに転んでいた。そのホームに転倒した老人がどうなったかは分からない。気がついたらいなくなっていた。二人が倒れこむ直前、列の間に割り込んで通り抜けようとした男がいた。電車が近づいていたから、白線の前を通るのをよけたんだろうと思った」

この証言が一週間後、次のように変更された。

「廣川氏は自分から線路に飛び込んだ」

証言を変えた理由は廣川氏のステッキがホームに落ちていたのを想い出したことで、「後ろから押されたら、ステッキごと線路に落ちるんじゃないか」

ということである。母親の中井愛子が特別擁護老人ホームに入居しており、月払いの入居費の捻出もあり、保険調査員の大野直子とも接触しているようなので、証言を変えたことに疑惑がある。

②田辺(殺害現場の駅務員)

遺体処理時の証言によると、

「廣川氏の顔の表情は、損傷が激しかったが、苦痛にゆがんでいるように見えた」

ということである。

③岡田(殺害時の改札口の駅務員)

事件直後、東西線のホームから老人が階段を駆け上がってくるのを目撃している。この老人が、廣川氏とホームで並んで立っていた老人の可能性がある。この電車は、五時三分発で、見城仁美は勤務先を五時ちょうどに退社しているので、事件を目撃していたことに疑問がある。

④海野元治(事件担当刑事)

殺人事件との確信を持っているが、天の声と保険調査員の大野直子に籠絡されて、自殺で処理した。

⑤吉野幸三(廣川氏担当の元刑事)

廣川氏を総会屋として摘発することを考えていたマル総担当の元刑事で、廣川氏は自殺するような人柄ではないと証言した。

⑥武井孝(廣川氏のお抱え運転手)

廣川氏を必ずしも快く思っていなかった節はあるが、事件当日、タクシー勤務のアリバイを主張している。なお、アリバイは未確認。

⑦岡川桂(開示情報編集発行人)

金銭的に廣川氏を必ずしも快く思っていなかったようだが事件当日、現場まで徒歩五分の事務所にいたが、松井事務員と一緒にいたとのアルバイがある。なおアリバイは未確認で、松井事務員とは男女関係の噂がある。

⑧相田貞子(アイテイ代表取締役)

校歌、社歌、応援歌、結婚式用のラブソング、経済団体の社長で作るコーラスの指導などで、廣川氏とビジネスパートナーの関係にあり、開示情報に広告を出していたが、廣川氏の死の直後、広告をとりやめている。事件当日、城田簿記学校理事長と新宿のフレンチ・レストランで会食していたと証言している。二人の間には男女関係の疑惑がある。なお、アリバイは未確認。

⑨長谷川正造(アイテイ経理部長)

事件発生時、相田貞子と六本木の事務所にいたとのアリバイを主張している。アリバイは未確認。長谷川は相田貞子に精神的に従属している状況にある。廣川氏との関係を清算するために長谷川が廣川氏を殺害した可能性を否定できない。見城仁美が目撃した第三の男は長谷川の可能性がある。

⑩金田民子(廣川氏の長女)

幼少時、廣川氏に溺愛されたが、田園調布の自宅購入時に廣川氏からの預託金五千万円を流用したことから、近年は関係が悪化、遺産を相続させないという遺書の存在を危惧している。しかし、金銭的には離婚訴訟中の金田義明の友人で、建設・不動産を業務としている金井泰蔵と組んで競売物件を中心にかなりの所得があり、廣川氏殺害の動機は弱い。事件当日、自宅にいたというアリバイを主張しているが、一人のため、未確認。

⑪廣川浩司(廣川氏の長男)

姉を溺愛し、自分を疎んじたことについて廣川氏に憎しみを抱いている。事件当日、夕方には自宅にいたというアリバイを主張しているが、妻の桜と一緒だった。脱税用に妻の名義で勝手に口座を開設されたことで姉を蛇蝎のごとく忌み嫌っているが、金銭に対する執着は姉とは比べようもなく、そのことを含めて廣川氏殺害の動機になるかどうかは疑問である。アリバイは未確認。

⑫坂本茂(神州塗料吹田工場の元工場長)

神州塗料のインサイダー取引を巡る事件で、廣川氏と接触をもった。近日中に聞き取り予定。

⑬船井肇(元衆議院議員の一級建築士)

第二次商法改正後も開示情報に広告を掲載している。廣川氏との個人的な関係は不明。

⑭長瀬啓志(公認会計士)

第二次商法改正後も開示情報に広告を掲載している。廣川氏との個人的な関係は不明。

⑮馬田重史(八紘物産名誉相談役)

八紘物産は開示情報に広告を掲載している。船井、長瀬と同じ船井ビルに個室を持っている。廣川氏との個人的な関係は不明。

⑯玉井要蔵(玉井企画代表・特暴連大手町支部長)

開示情報に広告を掲載している。廣川氏との個人的な関係は不明だが、現役の刑事だったころ吉野元刑事と共に総会屋対策を担当していた。

⑰城田康昭(城田簿記学校理事長)

廣川氏と相田貞子を巡って確執のあった可能性がある。廣川氏が作詞した校歌を改ざんしたことや、内閣府賞勲局への褒章の推薦が不首尾に終わったことから、工面した工作費用に関して廣川氏と悶着があった模様。地下鉄ホームにいた老人が廣川氏を突き落としたという目撃証言もあり、その老人が城田康昭である可能性もある。しかし、社会的な地位の高さや高額の収入から考えて、その可能性は低いと思われる。


【今後の調査方針と予定】

茅場署は廣川氏の件を自殺で処理したということなので、民事を念頭に置いた調査が必要になると思われます。今後の調査の方針は、

第一に廣川氏殺害犯の決定的な動機を明らかにすることです。

第二に見城仁美の目撃証言を殺害に誘導することです。

以上の方針から、廣川氏の終戦前後の足取りを京都から調査する必要があります。さらに、廣川氏が総会屋として活動していた当時との絡みで、坂本茂氏の聞き取りも行う必要があります。同時に、開示情報との関係では、船井肇、長瀬啓志、馬田重史、玉井要蔵の各氏について、廣川氏との関係をさらに明らかにする必要があります。見城仁美の目撃証言については、彼女の複雑な家族関係をてこに、当方に有利な証言を民事で引き出すために、個人情報をさらに集める必要があると思われます。


 以上の報告書の末尾に、調査日誌と請求書を添付し、ホチキスで閉じて、クリアファイルに挟んだ。同時に、事前調査費用の領収書と本調査の着手金の領収書も用意した。書類が整ったところで、階下の印刷機が動き始めた。

土岐は有価証券図書館に向かうことにした。季刊になる以前の月刊体制下にあった当時について、地下倉庫に格納されているという、〈月刊:開示情報〉という雑誌を見ておく必要があると思われた。


茅場町の有価証券図書館に着いたのは2時過ぎだった。若い女性の図書館員が対応してくれた。地下書庫に所蔵されている製本済みの番号をパソコンで調べて、〈月刊:開示情報〉という雑誌を閲覧申込書に書き込んだ。

『一度に請求できるのは十冊まで』

と注意書きにあるので十年分十巻をまとめて借り出した。

最初に借り出したのは昭和三十五年から四十四年までの十冊だった。八紘物産の広告は創刊号からあった。馬田重史が八紘物産に入社したのは昭和二十九年だから、広告の掲載について、馬田がかかわっていた可能性がある。船井肇一級建築士事務所も創刊号から広告を掲載している。ただし、八紘物産が全面広告であるのに対して、船井肇一級建築士事務所は半面のB6サイズだ。船井肇が第二八回総選挙で落選し、建築士事務所を開いたのが昭和三十四年だから、開示情報の創刊と歩調を合わせるようなかたちになっている。

次に、昭和四十五年から五十四年までの十冊を借り出した。広告が掲載されている場所は異なるものの、八紘物産が全面広告、船井肇一級建築士事務所が半面広告というスタイルは変わっていない。セントラル監査法人は、次の昭和五十五年から広告主になっている。長瀬啓志がセントラル監査法人の代表社員になったのは昭和五十五年からだから、平仄が合っている。しかも、昭和六十年以降、セントラル監査法人の広告はなくなり、長瀬啓志公認会計士事務所がそれと入れ替わっている。長瀬啓志がセントラル監査法人を定年退職し、個人事務所を開設したのが昭和六十年だから、これも符牒が合っている。玉井企画は平成元年以降、広告を出している。業務内容が観葉植物のレンタル、天然水とコーヒーの宅配、株主総会の資料作成と運営、オフィス用品の受注など、足を洗った元総会屋のおもてビジネスを思わせる。玉井要蔵が警視庁を定年退職したのが平成元年だから、これも時期が一致している。そこまで、調べて土岐は有価証券図書館を後にした。

午後四時ごろ茅場町から地下鉄日比谷線に乗車し、東横線の田園調布駅に向かった。地下鉄に揺られながら、廣川弘毅と八紘物産の馬田重史、公認会計士の長瀬啓志、一級建築士の船井肇、玉井企画の玉井要蔵の五人が、〈開示情報〉という雑誌を媒介として、強い利害関係を継続して保持していたという確信を土岐は反芻していた。しかし、廣川弘毅が長期にわたり、馬田重史、長瀬啓志、船井肇、玉井要蔵の四人から広告料という形で利益供与を受けていた理由が不明だった。

〈それはほかの企業と同じような接待交際の範囲でしかなかったのか。あるいは、特別な意味があったのか〉

 廣川邸には五時過ぎに着いた。加奈子が玄関の門燈を灯して待っていた。一週間目の再訪となるが、土岐にはそれ以上の期間が空いているようにも思えた。加奈子は土岐の来訪が待ちどうしかったようだった。土岐の欲目には喜色があるように見えた。軽い涙目なのか、瞳の中で応接室の照明がきらきらと点滅していた。土岐はソファに腰をおろしながらショルダーバッグからクリアファイルを取り出して事前調査報告書を手渡した。

「・・・とりあえず、そこにプリントアウトした通りです。・・・ざっとお読みください。何か質問がありましたら、その都度、お願いします」

 加奈子の瞳が横書きの事前調査報告書の前で、せわしなく左右の往復運動を繰り返す。唇をキッと結んで、むさぼり読んでいる様子だった。土岐はその間、手持無沙汰を出されたレモンティで紛らわした。加奈子は調査報告書をさっと一通り読み終えて、添付されている調査日誌と請求書をパラパラとめくった。細い指先に塗られたピンクのエナメルが天井のシャンデリアの明かりにきらりと光る。

「・・・で、どうですか?・・見通しは?」

「もう一週間いただければ、目鼻がつきそうな感触を得ています。ある程度の調査結果が得られたところで、宇多弁護士に提示して、追加調査が必要なのかどうか、打診する予定ですが、いずれにしても、着手契約を結ばないと、これで終了ということになります」

「・・・まったく、警察はひとから税金をとるだけで、ちっとも市民のために働いてくれないんだから・・・でも、これで調査をやめたら蛇の生殺しみたいで、・・・事前調査もぜんぶ無駄になるということでしょ」

 加奈子はテーブルの上に右手の指を立てて、ピアノを弾くように爪で音を造り、八分の三拍子のリズムをとっている。決断のつかない様子だった。請求書の金額を幾度も見返している。土岐はポケットの中のサイコロで決断を迫ることを提案しようかと考えていた。ポケットの中でサイコロをいじりながら、

「今回の着手契約は基本的に事前調査と同じで、事前調査との違いは成功報酬だけです」

と加奈子の決断を促した。加奈子は土岐の言ったことを言った通りに理解しようとした。

「・・・と、いいますと?」

「民事で勝訴した場合にのみ報酬を頂きます。それまでは、実費と日当だけで結構です」

「・・・でも、・・・裁判になれば、追加調査が必要になるんでしょ?」

「裁判中の調査は、宇多弁護士の指揮下にはいるので、弁護士事務所からいただくことになります。・・・まあ、お金の出どこは同じでしょうが・・・」

「お葬式で、出費が多かったので、手元がさびしくなってきたし、開示情報の岡川から、会社を畳むような連絡もあったし・・・そうなると、社長の給与も入ってこないし・・・」

「・・・どうですか?宇多弁護士と相談されますか?・・・彼もある程度、証拠が揃わないと、着手しづらいとは思いますよ」

「どうでしょう。とりあえず、着手していただくということで、当面、また一週間後に報告書を頂いて、それを見て、その先どうするか、またご相談ということで・・・」

「一向に差支えはありません。当方はそれで結構です。・・・それでは、そういう契約ということで、事前調査の経費と日当と本調査の着手金をお願いします」

「・・・分かりました。・・・それじゃあ、明日の午前中に、指定された郵便貯金の口座に振り込めばよろしいんですね」

「お願いします。・・・助かります」

 それでひとまず、調査継続の契約を結んだ。事前調査の経費と日当と着手金の領収書は口座振り込みを確認してから、送付することにした。

「・・・それでは、さっそく本調査に入らせていただきます。・・・いまお聞きしたいのは廣川氏の総会屋当時の情報です。ここ二十年以上は、ほとんど活動をされていなかったということなので、強い怨恨関係が形成されにくい状況ではなかったかと思われます。二十年以上前のことが今のところ空白の状態なので、この部分を埋めたいと考えているのですが、何か心当たりはありませんか?」

 加奈子が土岐の頭の後ろにある窓にかかっているビロードの臙脂のカーテンに見るともなしに目をやっている。小じわとくすみを消し、肌のたるみを引き延ばせば、確かに美人の部類に入るであろうことが想像できた。

「この報告書にある船井さんと長瀬さんと馬田さんと玉井さんに会ったような気がします。廣川と一緒になる前、わたしが勤めていた銀座のクラブにばらばらで来たような記憶があります。実際に会ってみないと、確かなことは言えないんですけど・・・」

「まあ、廣川さんが手ずから雑誌を届けていたんだから、そのくらいの付き合いはあったかもしれませんね。・・・総会屋関係のことはどうです?」

「それは、・・・先週も申しあげたように、わたしはほとんど知らないんです」

「それでは、・・・廣川さんの遺品をすこし拝見させてもらえますか?」

「身の回りの物は、まだ整理する気が起こらなくって、主人の部屋にそのまま置いてあります。・・・ただ、金目のものとか、古い写真とかは、

『形見にもらってゆく』

と言って、民子と浩司が何点か持って行きました」

「・・・それでは、その部屋に案内していただけますか」

 二人は応接間を出た。出てすぐ左に、階段があった。階段は小さな踊り場で直角に曲がっていた。加奈子の腰の真後ろに土岐の顔が続いた。階段を上がってまっすぐ廊下を行った突き当たりに一部屋、左側に十畳ほどのフローリングのリビングルーム、その右手に四枚の引き戸があり、その奥が廣川弘毅の部屋だった。畳一枚ほどの床の間に白磁の骨壷がおかれていた。床の間の右に押入れがあり、さらにその隣に、ふすま扉があった。ぬくもりのない殺風景な部屋だった。八畳間の中央に黒檀の卓があり、その上に遺品のようなものが雑然と置かれていた。加奈子は骨壷の前に座ると軽く手を合わせた。

「とりあえず、四十九日までここに置いて、それから京都の菩提寺に納骨する予定です。・・・弘毅の火葬が終わった後のお清めでは、

『早く納骨した方がいい』

と導師の坊さんが言ってましたが・・・」

「・・・四十九日の前にですか?」

「ええ」

「なんでそんなこと言うんですかね」

「骨壷と一緒に生活していると、おかしくなる人が多くなったそうです。とくに、高齢者の場合は、そういう例が多いらしいんです」

「失礼な話ですね。奥さんを高齢者扱いして・・・」

 加奈子は嬉しそうに笑った。目尻に巾着の口のような深いしわが寄る。

「ありがとう。嘘でもうれしいわ」

「・・・それで、菩提寺はどちらですか?」

「京都の智恩寺だと聞いています。一度だけ、・・・もう、二十年以上前になりますけど、主人のご両親の五十回忌の法事に行ったことがあります」

「たしか、・・・あの辺のお生まれですよね、弘毅さんは」

「ええ、・・・でも、実家は人手に渡っていて、そのときは、駐車場になっていました。廣川がさびしそうにしていたのが印象的でした」

 土岐は黒檀の卓の上の物品を物色した。数珠、国語辞典、電卓、爪切り、ボールペン、定規、シャープペンシル、ホチキス、目薬、スティックのり、朱肉、印鑑、消しゴム、虫眼鏡、錠剤ホルダー、ポストイット、ハサミ、ペーパーナイフ、耳かき、メモ帳、ダブルクリップ、扇子、櫛、レコード盤、財布、クレジットカード、ポケットティッシュ等など。たしかに、金目のものは何もなかった。特定の人間との深いつながりを示すようなものも、とくに見当たらなかった。あえて、土岐の目についたのは、区立図書館の貸出カードだった。土岐はそれを手にした。登録した日付が今年の九月になっている。

「・・・廣川さんはそこの区立図書館に行っておられたんですか?」

「いいえ。そのカードはつい最近作ったんですよ。・・・なんでも、絶版の本で、急に読みたくなった本があるって・・・」

 貸出カードの発行月をみると先月になっている。

「・・・その本はどこにありますか?」

「返却日が来てたので、先日返してきました」

「・・・なんて本ですか?」

「小説です」

「・・・作者は誰ですか?」

「さあ、わたし、小説を読む習慣がないもんで・・・」

「・・・タイトルは分かりますか?」

「よく見なかったんですが学僧とか僧兵とか、そんなようなタイトルだったと思います」

「・・・このカードお借りしてよろしいですか?」

「どうぞ、・・・あの子供たちはお金になりそうもないから置いて行ったんですね」

「・・・それから、・・・日記とか手帳とか手紙とかはありませんか?」

「あったと思うんですけどね。・・・見当たらないんで、あの子供たちが持って行ったんですね。・・・アルバムのたぐいは全部持って行きました」

アルバムを持って行ったのはたぶん金田民子だろうと推察した。

〈廣川浩司にとっては、父親の写真はおぞましい思い出だから触りたくもないはずだ。それにしても加奈子からは有力な情報はほとんど得られなかった〉

そのことはとりもなおさず、廣川弘毅とは精神的な繋がりが殆どなかったということを意味する。親子ほどの年齢差があれば心の繋がりを結ぶことが困難なのかも知れない。

「・・・廣川さんの写真はないですかね。できれば若いころの・・・」

「アルバム以外に、ということですよね・・・あっ、パスポートでよろしければ、・・・四十代か、五十代の頃のものだと思うんですけど・・・」

と言いながら、加奈子は床の間の脇のマホガニーのサイドボードの抽斗を開けた。中から、赤い表紙のパスポートを懐かしそうに取りだした。

「これだけは、子供たちも持っていかなかったのよ。金目のものじゃないから・・・」

 土岐は、そのパスポートを受け取ると廣川邸を辞し、図書貸出カードを持って、世田谷区立奥沢図書館に向かった。

図書館には先日会話した品のよさそうな細身の中年女性がカウンターにいた。土岐のことを覚えているようだった。

「・・・あのう・・・このカードの人が最後に借りた本を借りたいんですが・・・」

と土岐が廣川弘毅のカードを差し出すと、図書館員はバーコードを読み取って、貸出履歴をパソコンのディスプレイに出した。

「・・・『学僧兵』という小説をお借りですね」

「・・・それを借りたいんですが・・・」

「・・・登録番号で書架を探してみてください」

と言って、メモ用紙に登録番号を書き、土岐に手渡した。指の先が土岐の手に触れた。ぞっとするほど冷たかった。

 その本は、塔頭(たっちゅう)哲人(てつと)のコーナーにあった。土岐の記憶では、塔頭哲斗は二十年ほど前に肺がんで亡くなっている。土岐はこの本のことをどこかで読んだことがあった。塔頭哲斗の出世作で、何かの賞を受賞した作品だ。内容についての記述は覚えていないが、塔頭哲斗の実体験を基にして書かれているとのことだったと記憶している。土岐はその本を借りて図書館を出た。玄関ロビーのカウンター脇で、見覚えのあるハンチングの男とすれ違った。土岐は踵を返して、その男の肩を後ろから叩いた。

「もしもし、大日本興信所さん」

 土岐の声に、その男はぎょっとしたように振り返った。

「えっ、わたしのことで?・・・人違いじゃないですか?」

「おれが借りた本を知りたいのだったら、この本だ」

と土岐は借りた本の表紙を見せた。男はとぼける仕草をした。土岐はどすをきかせた。

「・・・おれのことはもう調べたの?」

 男はどうやら観念したようだった。しかし、どう切り出すか戸惑っているようだった。土岐はその男の二の腕を握った。

「・・・まあ、同業のよしみで、駅前で一杯どう?・・・情報交換でもしない?」

 その言葉に男は乗ってきた。張っていたひじの力をゆるめ、土岐の誘いに応じた。

「・・・同業って、そちらさんも浮気調査で?」

 男は土岐の顔色をうかがいながら聞いてきた。

「・・・ということは、おれのことはまだ調査していないな・・・そちらさんと呼んでくれてもいいが、こちらは土岐という名前がある」

と言いながら、土岐は名刺を出した。その男もポケットから皺の寄った名刺を差し出してきた。

〈株式会社大日本興信所 澤田英明〉

とあった。土岐はその名刺をショルダーバッグの脇ポケットにしまいながら、駅前の喫茶店に入った。澤田は入り口に一番近いテーブルに先に座った。土岐も向かいの椅子に腰かけながら改めて澤田の顔を見た。頭の形がラッキョウのように見えた。両手を耳に当て、口を大きく開けばムンクの〈叫ぶ人〉を彷彿とさせる。この業界では、尾行や待ち伏せや張り込みの業務があるので、目立つ顔つきは好ましくない。澤田は極端に貧相であるがゆえに好ましくない部類に入る。

澤田があたりを見回して、先に話し出した。

「・・・さてと、どういう情報交換をしますか?」

「等価交換が原則だが、お互いに相手の情報をいくらと評価するかは分からないから、一対一の交換とするか、・・・あるいは、実費計算で価値を測るか・・・」

「まあ、どっちにしても、お互いに利益のあることなので、一対一の交換にしますか?」

「・・・とりあえず、そっちから、ネタを言ってみてくれる?」

 そこに中年のふくよかな女性が注文を取りに来た。ふたりともホットにした。澤田は背中を丸めて、声を低くして言う。

「・・・佐藤加奈子と金田義明の関係、はどうです?」

「・・・金田義明と言うと、金田民子と離婚訴訟で争っている元亭主か?」

「よくごぞんじで・・・そうです。・・・で、そちらのネタは?」

「おれの経歴でどう?」

「・・・おたくの経歴?・・・こちらがどう使うんですか?」

「だって、いま、佐藤加奈子の浮気調査をしているんでしょ?・・・加奈子に近寄った男におれがいた。・・・身上調査をするのは興信所のルーティーンでしょ」

「・・・それは、まあ、・・・そうだけど・・・」

「・・・まあ、おれの身上調査は最低でも一日は要するだろうな。・・・売値としては五万円ぐらいかな?」

 澤田は下卑た含み笑いをする。

「・・・いい線ついてくるね。・・・情報としてはあまりクライアントは評価しないだろが、・・・調査実績として実費は請求できるな」

と言う澤田の話を聞きながら、澤田が土岐が金田民子の落合のマンションに行ったのを知らないことを察知した。民子が澤田の依頼人だとすれば、土岐の履歴には一銭の価値もない。土岐は澤田の話を確認した。

「クライアントが評価しないというのはどうしてだ」

「だって、お宅、廣川弘毅の事件を調査しているんでしょ?」

「・・・それを知っているということは盗聴器か?・・・玄関脇の固定電話だな」

「・・・まあ、想像にお任せしますが・・・」

「いや、おれがこの足で盗聴器を調べに行ったら困るでしょ?」

「・・・それじゃ、自分で自分の首を絞めることになる」

「どうしてだ」

 澤田は小ずるそうなイタチのような眼をさらに細めて言う。

「これから先、こちらの情報がおたくに提供できなくなるでしょ」

「いやあ、お互い様だ。・・・クライアントの利益に、・・・というのがこの業界の鉄則だ。固定電話に盗聴器が仕掛けられているのに、黙っていたら義務違反になる」

「そうかも知れないけど、クライアントが調査上必要なすべての情報を提供しているとは限らないでしょ」

「・・・分かった。盗聴器のことは黙っていよう。そのかわり、佐藤加奈子と金田義明の関係をそっちから先に言ってくれ」

 澤田は再度、あたりを見回した。白眼が異様に大きい。黒目が点のように見える。コーヒーが運ばれてきてウエイトレスの重そうな腰が立ち去るのを待っていた。澤田は必要以上に小さな声で囁いた。

「あの二人はできている」

「男と女の関係ということか?」

「そうなんだけどね、なかなか尻尾を出さない」

「五年間もか?」

「いやあ、この調査は廣川弘毅が亡くなった直後からだ」

「だって、離婚訴訟は五年間やってるんでしょ」

「五年間は別居の期間で、財産分与を巡って裁判を始めたのは去年からだ。金田民子が自己主張が強くて、強欲で、身勝手なことばかり言うもんだから、裁判官を怒らせちゃって、だいぶ心証を悪くしたみたいで、・・・どうしても客観的な証拠が必要だってんで、興信所に依頼したというわけだ」

「・・・内縁関係ではあるが若い後妻と義理の息子か、・・・よくある痴話ばなしではあるが、・・・で、ふたりは本当に男女関係なのか?」

「・・・と、クライアントは言っている。本当か嘘か分からないが、二年前にクライアントが、抜き打ちであの家を訪ねて行ったときに、金田義明が潜んでいた気配がして、帰りがけに、外で張っていたら、しばらくして出てきたと言うんだ」

「それだけじゃ、できていたことにはならんだろう。佐藤加奈子は内縁だが、実質的には義理の母のような関係にあるわけだし・・・」

「それなら、金田民子が訪ねて行ったときに、隠れている理由がないだろう」

「気配がしたというのなら、とっ捕まえれば、よかったんじゃないか?」

 澤田の目はくるくるとよく動く。丸い出目が落ち着きなく動いて土岐の表情から内心をうかがおうとする。

「あのうちの二階の廣川弘毅の寝室、・・・床の間のある部屋、・・・お宅ご存じ?」

「今日、見てきたけど、・・・あんたはいつ見たの?」

「先週、・・・運送屋になり済ましてクライアントと二人で、廣川弘毅の遺品をごっそり運び出した。衣類からアルバムから書籍まで、・・・どれもこれもカネになりそうになかったが、クライアントが加奈子の浮気の証拠があるかも知れないって言うんで・・・」

「盗聴器を仕掛けたのはそのときか?」

 澤田は、土岐の問いに答えない。無視して話を続ける。

「廣川弘毅と加奈子の部屋は、隣同士なんだが、半間はさんで襖の扉が二枚ある。どうしてそういう造りになっているのか、よくわからんが、床の間の右隣に押入れがあって、その右隣に半間の引き扉がある。それを引いてみると半畳の空間があって、さらに同じような引き扉をあけると加奈子の寝室に出る。その半畳の空間の幅はちょうど押入れと床の間の幅に等しい。・・・クライアントがあの家に行って、廣川弘毅の部屋に行ったとき、金田義明がその半畳の空間に潜んでいたらしいと言うんだ。・・・要するに、加奈子と義明の関係の客観的な証拠をつかめば、クライアントにとっては、離婚訴訟でも有利になるし、廣川弘毅の遺産相続でも有利になって、一石二鳥ということだ」

「・・・なあるほど、・・・そうすると、二人の関係は金田民子にとって、そうあってほしいという願望なのかも知れないな」

「いやあ、あながち、そうとも言えない。・・・この情報は、去年のものだが、佐藤加奈子は金田義明とゴルフをしている」

「ゴルフ場にその記録があれば、決定的な証拠になるんじゃないか」

「まあ、有力な証拠になる可能性はあるが、スリー・サムで回っている」

「もう一人いたのか。誰だ?」

「金井泰蔵という金田義明の友人だ」

「菊名で不動産屋とリフォーム屋をやっているやつか」

「さすが、よくご存じで・・・」

「情報提供のお礼に、この情報の出どこを教えてやろう。廣川浩司だ」

「ああ、弟さんの・・・と言うことは、金田民子と金井泰蔵の関係を聞いたんですか?」

 ここで、土岐はかまをかけてみた。

「二人は懇ろだという話だった」

「それは、クライアントにとって不利な情報なので、・・・同業の仁義にのっとって、くれぐれも内密に願います」

 土岐は澤田に感づかれないように、心の中でほくそえんだ。

「分かっている。カネにならないことは黙っているよ。・・・その、金井泰蔵というのは、企業舎弟だとか」

「いやあ、盃は受けていないから、企業舎弟と言えるのかどうか。・・・なんでもダチがどこかの組の若頭をやっているとか・・・気質的には金田民子とそっくりで、だから気があうと言えるんだろうけど・・・」

「気があうと言うのは?」

「ゼニゲバという点だ。今回の浮気調査の契約で、金田民子にしつこく値切られた。こんなクライアントは初めてだ。経費項目の内容を根掘り葉掘り聞かれた。契約書を取り付けるのに丸一日掛った。こんな客はいない。金井泰蔵も似たようなやつで、金になることなら何でもやる。・・・金田民子と競売物件で組んでいるのはお互いに利用しあっているからだ。金田民子は宅建主任の資格を持っている。不動産取引の法律に詳しい。金井泰蔵はダチの組の若衆を小遣い程度で使える。競売物件にやくざが居座っている場合は、手をつけないが、素人が居付いている場合にはやくざのチンピラを使う。そういう競売物件には素人は手を出さないから、濡れ手で粟のように儲かる」

 澤田は手の甲でよだれを拭くしぐさをする。土岐はそれを見て鼻先で笑った。

「・・・そもそも、民子はどういう経緯で金田義明と一緒になったの?」

「廣川弘毅の関係らしい。金井泰蔵は若いころ、総会屋の使いっ走りをやっていた。その関係で廣川弘毅と関係ができて、金田義明はそのポン友だったということらしい。最初は金井泰蔵が民子にモーションをかけたのだが、廣川弘毅に一括されたらしい。

『お前みたいなチンピラに民子はやれない』

だとさ。民子が金田と離婚直前にある状況で、金井の焼け棒杭に火がついてもおかしくない。・・・じゃあ、そろそろ、そちらさんの経歴を話してもらえますか。できるだけ、調査費の掛りそうな情報をお願いしますよ」

 澤田は懐から、少し大きめのメモ帳を取り出した。土岐は聞き取りには慣れているが、聞きとられるのは不慣れなので少し身構えた。嘘を半分、真実を半分混ぜることにした。

「生まれは、昭和四十四年、熊谷市の星川というところだ。兄弟はいない。実家はミシンの販売と修理をやっていたが、親父の死去とともに店を畳んで、今では誰もいない。母も去年老人ホームで死んだ。熊谷高校を卒業して、早稲田の政経を卒業した。就職先は扶桑総合研究所、場所は神田の鎌倉橋のたもとだ。平成十八年に退社した。原因は、親会社同士の合併による配置転換だ。表向きは対等合併だったが、資本は相手先の方が倍ぐらいの規模だったんで、実質は吸収された形だった。同じような業態だったから、相手方にも子会社の総合研究所があった。似たような部門はいらないということで、扶桑総合研究所が解体された。合併時にリストラはしないという密約があったので、扶桑総合研究所の連中は配置転換で、およそ調査研究業務とは無関係な部門に配置転換になった。ようは、自主的なリストラの強要ということだ。おれは、その趣旨に呼応したということだ。・・・以来、扶桑総合研究所の顧問弁護士だった宇多弁護士の世話になっている。・・・ざっと、こんなところだ」

「・・・で、女性関係は?」

「ないこともないが、どれもつまらない話ばかりだ。・・・性格的にさびしがり屋ではあるが、それ以上に人間関係についてめんどくさがり屋だということだ。・・・おれの生き方にあまり干渉しないような、係累のない天涯孤独というような女性となら、同棲してもいいと思うが、・・・なかなかそういう女性とは巡り合わない」

「はっ・・・、なんとつまらない人生で・・・」

と澤田は呆れかえったように吐く。土岐は声を荒げた。

「大きなお世話だ。・・・それに、あんたの情報はこっちの調査ではどうもカネになりそうにない」

「カネにするのが、お宅の手腕でしょ?」

「おまけをつけてくれ」

「おまけ?」

「気分的に等価交換の気がしない」

「それは、お宅の気分の問題でしょ」

「そうかも知れないが、これからもお互い有益な情報交換ができるかも知れないんで、イロを付けてくれ」

「どんな?」

「・・・そう・・・金田義明と金井泰蔵の写真を見せてくれ」

「写真?」

「とぼけるなよ。あんたのデジカメか携帯に収まっているやつだ」

と土岐はかまをかけた。澤田は鼻先でフンと返事をして、ポケットから極薄のデジタルカメラをとりだして、レビューモードにする。

「・・・これ、三人がゴルフに行ったところ・・・」

「見ればわかる」

 土岐が液晶画面を覗き込むと、クラブハウスのレストランで金田民子をはさんで二人の男が生ビールのジョッキを傾けている。

「民子の右が金田義明で、左が金井泰蔵だ。義明と民子は別居中だが、ゴルフは一緒にやるんだよな。・・・よくわからん夫婦だ。金井が、かすがいということなのか?」

 金田義明は下駄のような顔をしていた。金井泰蔵は鉛筆のように細い顔立ちだった。あまりに細いので、眼が横に入り切らずに、斜めに吊り上っているように見えた。

「この写真、転送してもらえないか?」

「いや、それじゃ不等価交換だ」

 それを聞いて、土岐はコーヒーをさっさと飲み干し、自分の分の勘定をテーブルの上に置いて、その店を出た。領収書は澤田にあげることにした。

夜の底が凍りついているような晩秋の迫る宵だった。その日の夜、土岐は自宅兼事務所で翌日の旅支度をした。ついでに、調査日誌をパソコンで打った。


〈調査日誌 十月一日 木曜日〉

  午前十時  事務所にて長瀬啓志、船井肇、玉井要蔵、馬田重史についてウェッブおよびメール調査

  午後一時  蒲田駅より中目黒経由で茅場町下車

  午後二時  有価証券図書館にて〈開示情報〉の広告調査

  午後四時  茅場町駅より日比谷線、東横線を乗り継いで田園調布駅下車 

 午後五時  廣川邸訪問

午後六時  世田谷区立奥沢図書館にて図書『学僧兵』借出し

 午後六時半 駅前喫茶店にて大日本興信所の澤田英明に聞き取り

 午後八時  事務所帰着


調査日誌を打ち終えて、同じファイルに、澤田から聞き取った、廣川弘毅に関する新しい人間関係の情報を図に描いた。廣川弘毅以外は、全員が存命で、土岐は金田義明と金井泰蔵にはまだ会っていない。


佐藤加奈子―(不倫)―金田義明

                 (友人)

 (内縁)     (別居)  

     

 廣川弘毅―(長女)―金田民子―(不倫)―金井泰蔵


          総会屋

  









十月二日


 金曜日の朝、インターネットで京都市左京区のビジネスホテル〈大原〉を予約した。

下着二組と『学僧兵』と廣川弘毅の三十年ほど前のパスポートをショルダーバッグに詰め込んで、品川駅の新幹線ホームに向かった。一〇時三七分発の〈のぞみ〉に乗った。品川駅から千里中央の坂本茂に電話をかけ三時過ぎに訪問していいか打診した。差支えないという返答を聞いて新幹線に乗り込んだ。乗り込んですぐ、『学僧兵』を読み始めた。


〈主人公の有部昭夫は昭和元年十二月三十一日に生まれた。実家は糸魚川の横町の半農半漁で、街道沿いで細々と判子屋もやっていた。兄弟は六人で、照夫は下から二番目の四男だった。生まれたとき、長男はすでに家業を手伝っており、昭夫の弟が母の腹の中にいるときに父が村相撲の最中に心筋梗塞で斃れた。数え三歳のときだった。当然、父の顔を知らない。死んだのは昭和四年十月二十四日のニューヨークの株式市場が大暴落した日だった。父の死後、家計は長兄の肩に依存することになった。最大の働き手を失い、父が手がけていた家畜牛のせりの仲買からの現金収入がなくなり、家計は苦しくなった。長女の姉は、西頚城郡糸魚川尋常高等小学校を終えると担任が勧めたのにもかかわらず、高等科に進まず、毎朝、酒屋で一升瓶を仕入れ、港の魚市場で、あらくれの漁師相手に酒の茶碗売りを始めた。次男と三男の兄達も尋常科を終えると家業を手伝うようになったが、田畑も狭く、漁船も手漕ぎの小さな船だったので、生活は一向に楽にならなかった。折から、昭和恐慌が農村や漁村にも広がり、冷害に見舞われたこともあって、家族は生きてゆくのがやっとだった。そういう家計状況ということもあって昭夫はよく母の手伝いをした。学校を終えると級友たちに遊ぼうと誘われても断り、裏山の田畑に母の姿を探し、野良仕事を手伝った。とにかく母を少しでも楽にさせてあげることが昭夫の喜びだった。新潟県西頚城郡糸魚川町糸魚川尋常高等小学校を卒業しようとしていた昭和十三年の暮れ、近所に住む天津神社の宮司から知り合いの敦賀の寺で小僧を探しているという話が持ち込まれた。父の死後、その宮司は何かと世話を焼いてくれてはいた。宮司の紹介で敦賀の浄土宗の古刹の小僧となることになった。六年生の三学期の始業式に間に合うように敦賀に向けて北陸本線に乗り込むことになった。蔵妙寺では先輩の小僧、一歳年上の網田雄蔵と同じ部屋で寝泊まりすることになった。四月から福井県立敦賀商業学校に進み、学年で一番になって糸魚川に里帰りすることだけを夢見る生活が始まった。寺には二歳年上の長男の長蔵、一歳年下の次男の次蔵、二歳年下の長女の恵美、和尚と大黒さんがいた。着いた日の翌日から早朝の炊事と洗濯と掃除、朝の勤行、夕刻の勤行、夕食後の風呂焚き、夜中の浄土三部経の写経という生活が始まった。

 中学校に進学して、網田雄蔵と同じ校舎に通うようになると、彼が開学以来の秀才であることを知るようになる。お寺の生活は過酷をきわめた。慢性的な寝不足で、登校中に歩きながら眠りこけ田んぼに転落することもあった。精神的には、大黒さんの陰湿ないじめがこたえた。自分の子どもたちより、昭夫や雄蔵の成績の方がよく、檀家の評判もいいのが面白くないようで、食事、着物、勤行、小遣いなど、日常生活のあらゆる面で差別された。わずかな粗相でも、厳しく叱責を受け、「お布施をごまかした」とか、何かにつけて濡れ衣を着せられた。そういう苦しい生活の中、雄蔵は昭夫を励まし、二人で力を合わせて理不尽な大黒さんの仕打ちに耐えた。

 雄蔵は中学校を終えると、京都の浄土宗の専門学校に進学した。長男の長蔵は出征した。昭夫は蔵妙寺でたったひとりの小僧になった。しかし、京都に行った雄蔵と日めくりの様な文通が始まる。これによって、二人の人生が同時進行で共有されることになる。

太平洋戦争に突入し、次第に物資が不足がちになり、中学五年の一年間が昭夫にとって一番つらい年だった。この年、あと少しで学年で一番になり、和尚から里帰りが許されるところだったが、大黒さんの意地悪で、何かと用を言いつけられ、欠席が嵩み、学年二番で卒業することになった。卒業後、昭夫も京都の浄土宗の専門学校に進むことになった。京都では、蔵妙寺の和尚の兄弟子が住職を務める知経寺の方丈に寄宿し、再び雄蔵と同居することになった。京都での生活は、敦賀と比べると天国のようだった。知経寺の住職は独身で、寺の作務は九人の僧侶全員で行った。昭夫や雄蔵のような学僧は五人いた。専門学校でも雄蔵の秀才振りは群を抜いており、入学試験が満点であったという話は、すでに伝説のようになっていた。それを聞きつけた檀家総代の境伯爵が子弟の家庭教師にと雄蔵を求めたため、雄蔵と明るいうちに接触できるのは、早朝の勤行と専門学校の昼休みだけとなった。雄蔵は毎晩遅く、境家から帰ってくる日常だった。雄蔵は毎夜、真っ暗な方丈の布団の中で、寝物語のようにその日あったことを、昭夫に逐一話して聞かせてくれた。こうして二人の青春は、重層的に共有されることになった。昭夫が専門学校の二年生になった時、雄蔵は海軍予備学生に応募し、全国第一位の成績で合格し、海軍航空隊に入隊した。再び、雄蔵と昭夫との恋人同士の様な文通が始まる。

境家の家庭教師は昭夫が引き継ぐことになった。境家での家庭教師生活は、物資の乏しくなった終戦間際まで、まるで別世界のように物資潤沢なひとときだった。昭夫は境家の長女に激しい恋心を抱いたが、彼女の心は雄蔵にあった。昭夫は彼女の頼みで、彼女の恋文を持って雄蔵のいる海軍航空隊を訪れるが、雄蔵はすでに、特攻隊に志願したところだった。そのことを彼女に告げると、彼女は境家の当主に泣きつき、雄蔵が特攻隊で死んだら、自分も自決すると迫る。境家当主はかつての学友で海軍少佐の地位にある人物を通して、雄蔵の置かれた状況を確認した。すると、ゼロ戦は払底し、雄蔵が乗れる飛行機は存在しないとのことだった。しかし、雄蔵の期の学徒生には不足していたはずの飛行機が、前の期の学徒生から回ってきたため、終戦直前に雄蔵は沖縄の海に消えて行った。彼女は絶望の果て、闇屋あがりの成金と結婚するが、幸福を得ることはなく、やがて自殺して果てた。戦後、昭夫は雄蔵戦死のいきさつを明らかにしようとするが、何者かが前の期の学徒生を飛び越えて、意図的に雄蔵に特攻を命じたらしいという噂を知ったところで物語は終わる〉


 読み終えた時、新幹線は京都を過ぎたところだった。文通を通じて、二つの人生を個性の異なる二人の若者が、重複的に生きて行くという重層的な特徴のある小説だった。手紙の文面から相手の人生を知り、手紙を通じてお互いにお互いの人生に対して関与して行く。一つの人生に対して、その対処の視点が常に二通りあり、あたかも寄席の二人羽織のような展開が随所にみられた。巻末の年譜で作者の経歴を見ると、塔頭哲斗の本名は舘鉄人、小学校を卒業してすぐ、京都の禅寺、清浄寺に出家している。そこから一門の中学校に通った。病弱であったため、軍隊には行っていない。戦後、一貫して雑誌編集の仕事をし、三十代後半で作家としてデビューし、五十八歳で没している。

土岐は、廣川弘毅がなぜ死の直前、この小説を読もうとしたのか、その理由を考えていた。この小説を読んだのは単なる偶然だったのか。自らの死とは無関係だったのか。なぜ、わざわざ図書貸出カードまで作って、絶版の小説を読もうとしたのか。

小説の舞台となっている糸魚川と敦賀と京都という地名が気になった。著者の塔頭哲斗は、あとがきの年譜によれば、福井県の若狭の生まれである。敦賀は同県ではあるが、主人公の昭夫は糸魚川の生まれ、雄蔵は敦賀の生まれとなっている。

 土岐は糸魚川という地名をどこかに書いた記憶があった。システム手帳をひっくりかして探すと、長田賢治の生地というメモ書きがあった。長田賢治は見城花江と結婚し、その後、離婚し、一人息子の見城敦は中井愛子と結婚し、その一人娘が見城仁美だ。小説を塔頭哲斗の自伝的要素の強い作品として読んでいたが、小説の主人公昭夫のモデルはひょっとして長田賢治と関係があるのかも知れない。塔頭哲斗はすでに亡くなっているので、その確認は長田賢治にとるしかない。土岐は財布と相談しながら、郵便貯金に佐藤加奈子からの入金があれば、敦賀と糸魚川へも足を延ばすことを考えていた。

 新大阪には、一三時二六分に到着した。駅の食堂で昼食を取ってから、地下鉄御堂筋線・北大阪急行南北線で、終点の千里中央に向かった。千里中央駅で降りてから、もう一度、坂本茂に電話した。自宅は、阪急百貨店の裏手のJ棟の七階の714号室とのことだった。土岐は駅ビルの阪急百貨店で菓子折を購入した。

 こんもりと色づいた林の中にその棟はあった。侵食されるように紅葉した緑が公園のように広がっていた。Jというアルファベットが北側の壁に表示されていた。エレベーターで昇り、714号室の前でインターフォンを押すと、べっ甲の老眼鏡をかけた、がたいの大きい、きらめくような白髪の老人がドアノブにもたれかかるようにして出てきた。

「トキはんでっか?」

 土岐は早速名刺を取り出した。

「東京から来ました土岐と申します。・・・すいません。おくつろぎのところ、自宅まで押し掛けまして・・・」

「さあ、どうぞ、お入りください」

 玄関の右手が六畳ほどのフローリングの応接室になっていた。

「おじゃまします。・・・これ、つまらないものですが・・・」

と言いながら阪急百貨店の袋に入れた菓子折をセンターテーブルの上に置き、土岐は応接室の小ぶりの布地のソファに腰かけた。

「まあ、わざわざ、遠いとこを・・・いま、家内が出かけておりますんで、不調法しますわ。・・・で、ご用件の向きは?」

「廣川弘毅という人物を覚えておられますか?」

「ああ、あのペテン師みたいな人・・・忘れようにも忘れられしまへんわ」

「先々週亡くなられたというのをご存知ですか?」

「・・・そうどっか。そうゆえば、わいよりも十近く年上だから、いい年といえば、いい年でんなあ」

「電車の事故で亡くなられたんですけど・・・」

「・・・それは知らんかったわ」

「そのことについて、廣川弘毅の昔のことを調査しているんですが、先日、吉野さんに会う機会があって・・・吉野刑事を覚えておられますか?」

「吉野幸三!それに、玉井要蔵!」

 坂本は怒りとも驚きともつかないような目をむき出して大声で叫んだ。

「忘れたくっても、忘れられしまへんですわ。・・・あやうく、嘘の調書をとられて、犯罪者にされるところでしたわ。

『わいは、ほんまに、なんも知らん』

ちゅうセリフを何萬遍言わされたことか。・・・仕舞には、声がよう出んようになりましたわ」

「その嫌疑の詳細をお聞かせ願えますか?」

「おう、なんぼでも、話したる。いまでも思い出すとはらわたがちょちょ切れるわい。あれは、・・・昭和五十四年の四月ごろのことやった。廣川弘毅が夕方、吹田工場にふらりと現れて、開示なんたらっちゅう雑誌の記事にしたいんでインタビューさせてくれちゅうことで、こちとら、そんな雑誌のことよう知らんけど、中卒のわいに、お話を伺いたいっちゅうんで、まあ、悪い気はせなんだな。吹田で一番高級な料亭で接待されて、いい加減、酔わされたが、てめえの言ったことはよう覚えとる。工場長ゆうたかて、使いっぱしりみたいなもんで、重要な決定はなんでも梅田の本社で、決めて、こちとらは、言われた通りにやるだけのことで、そんなわいを接待してくれたんだから、ええ気分やったわ。そのころ、東証一部に上場したっちゅうんで、本社を東京に移転したと思う」

「・・・で、そのとき、廣川弘毅にどんなことを聞かれたんですか?」

「新製品のことやったと思う。雨ざらしになっても百年は持つっちゅう塗料で、・・・でも、それはもう本社の方で記者発表しておったから、それ以上のことを知りたいのかと、気ィ回して、どうでもええようなことをべらべら話したと思う。・・・他にも、工場内の問題とか、・・・従業員の就業態度とか、・・・出入りの業者のこととか、・・・あれこれ聞かれたが、適当に答えとった。・・・ようするに、重要なことはなんも知らされとらんので、気楽に知っとることをくっちゃべってやったわ」

「・・・で、吉野刑事と玉井刑事の嫌疑はどういうことだったんですか?」

「身になんの覚えもないことで、おなしことを何べんも何べんも、

『不良在庫のことを吹田の料亭でぺちゃくちゃと廣川弘毅に教えただろう』

ちゅうことでしたわ」

「・・・不良在庫というのは?」

「さっきもゆうたように、新製品がでけたもんで、半値以下でも旧製品は売れんようになった。・・・新製品は研究開発の結果でけたもんと違うて、ひょんなことから、偶然でけたもんで、・・・そんなもんでけるとは知らんかったから、旧製品を大量に生産してた。・・・三月初めの棚卸のときは、新製品はまだ発表しとらんかったんで、三月期の決算のとき、旧製品は簿価で評価したらしい。そのことを、吉野と玉井は廣川弘毅に教えただろうっちゅう嫌疑や。新製品の発表で暴騰しとった株価が大量の空売りで、反転大暴落した。それで億単位のカネをぼろ儲けした連中にわいが加担したっちゅうて、拷問みたいな取り調べを受けたわ」

「・・・その不良在庫のことを知っていたのは誰ですか?」

「まあ、取締役はおおかた、知っとったんちゃうか。工場では工員はみんな知っとった。じゃが、それが株取り引きで大儲けの材料になるっちゅうことは、学もない、金もない、わしらみたいな、しがない工員には、知る由もないこっちゃわ」

「・・・とすると、坂本さんが情報を漏らしていないとすると、・・・廣川弘毅が、そのころにインタビューにやってきたというのは、偶然だったんですかね?」

「さあ、知らん。悪知恵のごっつう働く奴らが何考えとるのか、こちとら、学がないから、訳がわからんわ」

「・・・では、外部の人間で不良在庫のことを知っているのは誰だと思いますか?」

「取引先はみんな知っとったんちゃうかな」

「・・・大量にあることも?」

「わいは隠しとったけど、他の工員はぽっろっと漏らしたかも知らんわ」

「・・・じゃあ、大量にあることを知っていた外部の人間は?」

「そりゃあ、会計士は知っとった思うよ。だけど、会計士は内部の人間ちゃうんか?」

「・・・そのときの監査法人はどこです?」

「監査法人?」

「・・・会計士が属していた会社名です」

「自動車の名前みたいな・・・たしか、センチュリーとか言っとったなあ」

「・・・セントラルではないですか?」

「いや、センチュリーだ。自動車と同じ名前だったと記憶した覚えがおますんで・・・」

 セントラルなら、廣川弘毅に結び付くと土岐は考えた。

〈長瀬啓志はセントラル監査法人の代表社員をやっていた。代表社員の立場であれば、自分が直接監査しなくとも工場の製品在庫の棚卸の評価損について知りうる立場にある。その情報を廣川弘毅に漏らして、大量の空売りで大儲けする。いや、わざわざ廣川弘毅に漏らす必要はない。誰でもいいのだ。廣川弘毅が坂本茂にわざわざ情報を取りに来たということは、廣川弘毅が知らなかったからだ。とすると、インサイダーまがいの株取引と廣川弘毅のインタビューは、時期的に偶然だったということか?吉野刑事と玉井刑事は偶然でないと見て、坂本茂を問い詰めた。とすると、坂本茂が嘘をつき通したのか?〉

 土岐は改めて坂本の目を観察した。純朴そうな実直そうな頑固そうな目をしている。純朴で実直で頑固だから吉野刑事と玉井刑事の厳しい取り調べにも耐えたと言えないこともない。土岐はそろそろ辞すことを考えた。

「・・・長居をしました。また、なにか思い出されることがあれば、先ほどの名刺の電話番号までお願いします」

 立ちあがって、ドアに向かうとき、サイドボードの上の額縁に収められた褒章が土岐の目に入った。褒章の二文字が隷書体のような書体で書かれ、桜花で縁取られた円形のメダルが、黄色の絹地の様な帯に下げられている。土岐は思わず感嘆の声をあげた。

「・・・ほう、これは何の勲章ですか?」

 坂本がうれしそうに額縁ケースの前の土岐の横に並んだ。

「勲章なら大したもんやけど、これは黄綬褒章です」

「・・・勲章と褒章とどう違うんですか?」

「勲章は政府が一方的にくれるもんで、貰える人も少ないけど、褒章の方はいっぱい貰えて、・・・国民があの人にやろうちゅうて、推薦を受けて貰えることがあるんで、・・・わいは一般推薦でもろたんだ」

「・・・へーっ、大したもんですね」

「大したことないわ。関東の連中のやってるこっちゃ。・・・先代の社長、今の会長さんがわいのこと思うてくれて京都の清和俊彦さんにお願いして、内閣府賞勲局に推薦状を書いてもらたんやわ。・・・会長はなんも言わなんだけど、それなりのお礼はしとるはずやわ。それに、会長自身が賛同書を書いてくれて、いまの工場長も賛同書をかいてくれたわ。それだけで、これもろたわ。なんや、この道一筋の職人みたいなもんが対象らしいわ。清和俊彦さんの推薦状が効いたと会長は言わはっとったわ。なんでも、年間八百人ぐらいもろとるらしいわ。平成十五年から一般推薦の制度がでけて、いまじゃ、それを商売にし出したところもあるっちゅう話や。・・・くれる前に、身辺調査があったらしいわ。・・・犯罪歴のあるもんは駄目やから、わいが吉野と玉井の拷問に屈して、してもない罪をかぶっていたら、もらえんとこやったわ」

 土岐は坂本の話になんども頷いた。

「・・・わたしなんか、無縁の世界ですね」

「んなことないやて。あんた、今の商売、何年目や」

「・・・まだ、五年もやってないですね」

「そうか、・・・なんでも二十年以上、同じ仕事やってたっちゅうのが目安らしい。あと十五年頑張りいや。それか、七十歳以上が条件やから、せいぜい長生きするこっちゃ」

「・・・でも、推薦なんかしてくれる人はいないでしょう」

「そこは、じゃの道はへびやて。わいがもろたんは、今の会長さんが関西の経済団体の役員をしとって、そこそこに知名度があって、それに、会社の知名度をあげて、工場の工員たちの士気を高めるちゅうねらいがあったからや。・・・推薦状は、お礼すれば書いてくれる人が居るっちゅう話や。・・・あと、犯罪歴がないこと、これが肝心やな。こればっかりは、一度、やってしもたら消せんからな。わいはラッキーやった。中卒の何の知恵もないもんが、歳食って、たまたま、理工系の大学院卒の連中を集めた新製品開発チームのとりまとめ役になって、そこででけた新製品が爆発的に売れて・・・それが褒章の理由になった。・・・わいはなんもしとらん。定年間際に、形だけやけど、取締役も二年間やらさせてもろたし、なんもゆうことはないわ。・・・まあ、しいて文句を言えば、受章のお祝い返しで、だいぶ持ち出しになったことくらいかな」

 坂本の話を聞きながらサイドボードの上のブロンズの胸像に土岐は気をとられていた。最初はインテリアかと思って見ていたが、荒削りな印象派風な彫刻が次第に坂本の頭部に見えてきた。土岐は目線で坂本の了承を得て、その胸像に触れた。

「・・・これは坂本さんですか?」

 坂本の顔がだらしなく崩れた。

「えへへへへ、・・・似とりますか?」

「・・・最初は誰だろうと思ったんですが、じっと見ていたら、坂本さんと瓜二つに見えてきました。・・・不思議ですね。抽象的と言うほどでもないけど、・・・ずいぶん荒削りで、・・・えいやって、造ったような感じですよね」

「そうですか。わいもそう思とります。こういうのは、本人と見間違うように造るもんだと思とりましたが、こういうラフな感じの方が、なんとのう、芸術的でんな」

 土岐は胸像の裏の作者の刻印を探した。驚くほど達筆な筆致で、

〈浦野〉

と刻まれていた。

「・・・この浦野というのはどこの人ですか?」

「なんか、東京の芸術大学の助手の方だそうです。いずれ、大家になるだろうから、安い買い物だと言われました」

「・・・誰にです?」

「わいを内閣府に推薦してもろた清和はんです。えらい高い買い物でした。これも入れて、祝賀会やお祝い返しやなんだかんだで、退職金の半分ぐらいが、なくなりました」

 それを聞いて、土岐はそこを辞した。坂本茂の嬉々とした表情が印象に残った。喜怒哀楽は時間を超える。死の直前まで、そうした思いは消えないようだ。廣川弘毅にもそうした生々しい思いが山のようにあったはずだ。

土岐は団地の玄関先で坂本に別れを告げたその足で、千里中央のネットカフェに寄り、センチュリー監査法人をウェッブ検索してみた。該当する件数は少なかった。そのうちの一つが、セントラル監査法人のサイトにあった。その記述は、社史の中にあった。センチュリー監査法人は、昭和五十五年にセントラル監査法人に吸収されていた。

〈確か、長瀬啓志は昭和五十五年にセントラル監査法人の代表社員になっている。これで繋がった。廣川弘毅は粉飾決算を既に知っていたのだ。坂本茂にインタビューしたのは、不良在庫の情報が工場長から流れたと思わせることにあったとすれば辻褄があう。警察はその筋書きに沿って、坂本茂を取り調べた。坂本は吐かなかったが、吉野刑事は嘘をつき通したと思い込んでいる。センチュリー監査法人には手を回さなかった。廣川弘毅は株取引には一切手を出さず、リスクを冒した見返りに、第三者が空売りから得た株式売買益の一部を受け取ったに違いない。その支払い手段は、雑誌広告費か雑誌購読料で、一括払いではなく、長期の支払いにしたのだろう。そうすれば、カネの流れに不自然さがない。廣川弘毅は株主総会に出席する必要も、企業の総務部に恐喝をかける必要もない。長瀬啓志も株取引には一切手を出さず、何らかの形で報酬を受け取ったに違いない。・・・しかし、とっくに時効になっている。おそらく、インサイダー取引規制が厳格になるまで、こうした足のつかないぼろ儲けを繰り返していたに違いない〉


 新大阪に着いたとき、既に三時を過ぎていた。晩秋に追われた陽光は、頼りなげに西に傾いていた。東海道本線で京都に着いたのはちょうど四時だった。ガイドブックで地図を見て、智恩寺の場所を確認した。智恩寺の北には隣接するように、清浄寺があった。

〈もしや〉

と土岐は思い立って、『学僧兵』の巻末の年譜で確かめると、やはり、作家塔頭哲斗が出家した禅寺だった。

市バスで智恩寺に到着したのは、四時半ごろだった。東京や大阪と比べると高層ビルの少ない分、空が広く感じられる。すでにあたりは秋の夜のとばりが降り始めていた。土岐の首筋を比叡山からの寒風がかすめた。土岐が東京からウエッブ予約した、

〈ビジネスホテル大原〉という宿は壱萬遍の交差点を挟んで、京都大学と対角線の位置にあった。先にチェックインをすませ、荷物を置いて、手ぶらになって智恩寺に向かった。東大路通を渡って、駐車場を抜けて山門をくぐって、庫裡の玄関で声をかけた。しばらくして、青みがかった坊主頭の若い僧が洗いざらしの黒い法衣で出てきた。土岐は手帳を見ながら、問いかけた。

「田中門前町の廣川さんのお墓をお参りしたいんですが、どのへんでしょうか?」

「廣川さん言わはっても、仰山おられはりますが・・・」

「実家がこの近くにあって、三十年以上前に人手に渡って、いまは駐車場になっているらしいんですが・・・」

「そうどすか・・・ちょっとお待ちいただけますか?調べてみまひょ」

と言い残して、僧は奥に入って行った。

だいぶ待たされた。

その間、土岐は後ずさりして寺院全体を眺めて見た。墓所は、庫裡の裏手にあるようだった。庫裡と釈迦堂の狭い通路にせり出すように、乱杭歯のように伸びている卒塔婆の林が望めた。

 しばらくして、若い僧は小さなメモ用紙を持って現れた。

「たぶん、北の隅にあるお墓やと思います」

 北方は比叡山の方角だから、庫裡の裏手の左奥だろうと土岐は見当をつけた。釈迦堂の傍らに積まれている桶を取り、通路の水道の蛇口から水を満たし、柄杓を突っ込んで、庫裡の裏手に向かった。伽藍より少し狭めの墓地がひっそりとたたずんでいた。新しい墓石が、目立たないほど、苔蒸した墓石が多かった。秋の彼岸が過ぎたばかりで、真新しい卒塔婆が新芽のように散見された。北の端の北東の角に、廣川家の墓石があった。近年ほとんどお参りに来ていないようで、周囲に枯れた雑草が散らばっている。三段墓の頭には鳥の白い糞が点在している。たそがれの薄暗闇の中で、眼をこらして、

〈廣川家墓〉

の裏の墓碑銘を見ると、納骨されているのは二人だけで、昭和十一年一月八日に廣川滋、昭和十五年五月二十二日に廣川真子と刻まれているのがかろうじて確認できた。廣川弘毅は昭和十五年十二月に太平洋戦争が開戦となる前に両親を喪っていたことになる。

〈それからどうやって生活していたのか?〉

 土岐は墓参を済ませてから、東大路通に出て、近くの飲食店を覗いて見た。

とんこつラーメンを注文して、店のでっぷりとした下膨れの中年女に聞いてみた。

「田中門前町の生徒が通っていた戦前の中学はどこだか分かりますか?」

「・・・戦前?って、六十年以上前の?」

「ええ、旧制中学校で、戦後はたぶん高校になったと思うんですが・・・」

「・・・ちょっと待ってぇ・・・お父はんに聞ぃてみる」

 しばらくして、ラーメンのどんぶりを持った薄汚れた白衣をまとった老人が落ち窪んだ眼をしょぼしょぼさせて出てきた。

「・・・このへんの旧制中学校やて?」

「ええ、いまは何高校になってるんでしょうか?」

「・・・うーん・・・たぶん、門前高校やないだろか、よう分からんけど・・・」

「場所はどのへんですか?」

「・・・今出川通を鴨川に出て、南にすこぉし下ったとろころだす」

 土岐はストレート麺のラーメンをかき込むと、すぐ店を出た。空腹は満たされたが、美食を求めるグルメの心は満たされなかった。秋の夜が古都の町を覆い、店舗の黄色い照明がくっきりと闇に浮かび始めていた。隣の三坪ぐらいの店でたこ焼きを売っていた。薄ら寒いせいもあったが、土岐は体が火照ってくるほどの速足で歩いた。途中、東京でも滅多に見かけることのない城郭のような門構えの銭湯の前を通った。その脇に郵便局があったので、キャッシュディスペンサーで加奈子からの入金を確認した。

 門前高校は鴨川の東側の川端にあった。高校の授業はとっくに終わっているだろうと思った。一階の職員室らしき所に明かりが見えた。正門は閉じられていたが、守衛らしい男が大きな郵便受けから夕刊を取り出していた。土岐は頭を下げながら声をかけた。

「すいません。東京から来たものですが、・・・戦前の旧制中学当時の同窓生名簿を閲覧できないでしょうか?」

 守衛らしい男は目を丸くして、素っ頓狂な顔を造った。

「旧制中学の?・・・どないやろか・・・職員室に聞いてみまひょ」

 守衛が守衛室から職員室に内線をかけ、土岐の申し出について掛けあっている。

「東京から来なはったそうで・・・」

という文句を二度繰り返していた。

「おうてくれはるそうです」

 土岐は職員室の場所を教わって、走るように向かった。黄ばんだワイシャツ姿で、職員室の扉の前に立っている人影があった。初老の教師のようだった。鬢の銀髪がきらりと光った。

「すいません、夜分遅く・・・」

 土岐は職員室の明かりを背景にして目鼻立ちの見えにくい人物に向かって、十メートル手前から低頭した。そのぼんやりとした人影は土岐が近付くと、右に向かって歩き出した。

「あるとすれば、図書室だと思います。わざわざ、東京から来られたそうで・・・」

 図書室は校舎の二階の階段の脇にあった。教師が蛍光灯のスイッチを入れると、書架が真っ暗闇の中に突然現れた。教師は書架の天井に近い場所から、踏み台を使って、古色蒼然とした綴りを取りだした。作業テーブルにその資料を広げながら、

「終戦間際のものは、ないようです。ここにあるのは、太平洋戦争の初期の頃までのもので、昭和十八年が最後です。・・・で、ご覧になりたいのは?」

「大正十五年の早生まれで、廣川弘毅と言います」

「ということは、昭和十七年か十八年卒ということになるんでしょうか?」

 教師は同窓会名簿の卒業生一覧で廣川弘毅を探している。右手に眼鏡を持ち、資料に裸眼をこすりつけるようにしている。

「・・・あっ、ありました。・・・廣川弘毅ですね。・・・昭和十六年度卒業で、豊橋第一陸軍予備士官学校が進路になっていますね」

「すいません」

と言いながら、土岐はその資料を受け取り、他の卒業生の進路先をざっと確認した。豊橋第一陸軍予備士官学校は廣川弘毅以外には見当たらなかった。

おくればせながら、土岐は名刺を差し出した。

「こういう者ですが、また何かありましたら、東京に帰ってからお伺いすることがあるかも知れませんので・・・そのときは、またよろしくお願いします」

「ああ、いま名刺を持っていないんで・・・職員室に戻れば・・・」

「いえ、いえ、結構です。お名前だけお聞かせ願えれば・・・」

「吉川、言います」

「どうも、ありがとうございました」

 そう礼を述べながら、土岐は手帳に、踊るような文字で、

〈廣川弘毅、昭和十六年度卒業、豊橋第一陸軍予備士官学校〉

とメモした。

〈ビジネスホテル大原〉に戻ると、四階の部屋で土岐はシャワーを浴びた。さっぱりしたところで、部屋の中でホテルのパソコンを探したが見当たらなかった。フロントに電話して、インターネットのできるところを聞いてみたら、一階ロビーのフロントの奥にパソコンルームがあるとのことだった。

洗い髪のまま、パソコンルームに向かうと、フロント奥の自販機の前のテーブルに使い込んだ二台のノートパソコンが置いてあった。椅子もないので、立ったままインターネットを立ち上げ、手帳のメモ書きを見ながら、

〈豊橋第一陸軍予備士官学校〉

を検索した。CPUが古く、動作が遅い。あまり出来の良くない彩りの悪いホームページがのっそりと出てきた。卒業生一覧があったので、サイト内検索で、〈廣川弘毅〉という名前を探してみた。一回目は該当なし。廣川を広川に変えて繰り返したが、やはり該当なしだった。土岐は長瀬啓志、船井肇、馬田重史との奇妙な一致に思い至った。

〈しかし、長瀬、船井、馬田は、海軍だ。廣川弘毅は陸軍だ。卒業生名簿に名前がないのは偶然の一致だろう。・・・偶然でないとしたら?〉

 自販機コーナーのようなパソコンルームから出ると、一旦ホテルの外に出て、近くのコンビニで500ccの第三のビールを買い、その晩、ローカルテレビを見ながら、コマーシャルのえげつなさに驚きつつ、ホテルの部屋で酔うまで飲んだ。エアコンの暖房を入れたものの、薄ら寒さの混じり込んだわびしさが、土岐の体を覆い尽くした。


十月三日


 翌朝、首筋のあたりに寒気を感じながら、ホテルの部屋でベッドの中で腹ばいになって手帳に調査日誌を書き込んだ。


〈調査日誌 十月二日 金曜日〉

  午前十時  蒲田駅より品川駅経由、新幹線で新大阪駅

  午後二時半 千里中央にて坂本茂の聞き取り

  午後三時半 新大阪駅より東海道本線で京都駅 

 午後四時半 智恩寺にて廣川家の墓参り

午後五時  門前高校にて吉川教諭の聞きとり

 午後六時  ホテル帰着


〈ビジネスホテル大原〉を十時ちょうどにチェックアウトし、その足で昨夜立ち寄った郵便局で、加奈子からの入金のうち五万円を引き出し財布に入れた。残金の中から五万円を家賃として蒲田の事務所の大家に送金した。

京都駅に着いたのは十一時前だった。北陸本線の特急雷鳥で敦賀まで行くことにして、駅ビルでBLTとアメリカンコーヒーのブランチを取った。

京都を出発したのは十一時四十分だった。

十二時半には敦賀駅に着いた。

敦賀駅のホームに降り立つと、東側に急峻な紅葉の山が迫っていた。日本海からの冷風

に軽く身震いした。駅前のひなびた案内所で、法蔵寺の所在を確認した。駅前からのびる商店街を通って北国街道に出た。街道に出ると北上し、街道沿いの閉店した商家を右に見て、暗い雰囲気の道を気比神宮の方角に向かって歩き続けた。ハンチングに黒いインバネスコートの下はタートルネックといういでたちの土岐は敦賀駅から十五分ばかり歩いて、〈この辺から、寺の境内だ。全部で二千坪ほどあるらしい〉

と駅の観光案内所で聞いたことを呟いて復唱した。気比神宮の前に出ると街道から左に折れ、西に向かった。古色蒼然とした大きな山門に、

〈法蔵寺〉

という額が掲げられていた。赤や黄色の枯れ葉の散乱した参道が五十メートルほど続いていた。右手は路地裏道で、左手は墓地になっていた。薄っすらと積もった落ち葉を踏み締めて土岐はショルダーバッグに手をかけて、黙々と歩いた。境内を時折吹き抜ける敦賀湾からの寒風に背を丸め、コートに両手を突っ込んで、前のめりになっていた。駅から三十分近く歩いていた。本堂まで来ると右手に折れ、庫裡に続く細い砂利道を落ち葉を蹴散らすように進んだ。庫裡の小さな硝子窓からけたたましいテレビの音声が漏れていた。土岐は庫裡の引き戸を開けて土間に入った。

「こんにちは、どなたかおられますか?」

と大声で叫んだ。庫裡の引き戸を後ろ手で閉め、自宅事務所より一メートルほども高い土間の天井の昼の闇を見上げた。外の冷気が遮断され、自分の呼気の暖かさに、ほっとする思いだった。出てきたのは四十代の恰幅のいい、赤ら顔の坊主だった。

「突然すいません。わたくし、こういう者です」

と言いながら、土岐は一歩踏み出して名刺を手渡した。坊主は立ったまま名刺に見入っている。

「ご用件は?」

「・・・廣川弘毅という人をご存知ですか?」

「お名前は聞いたことがあります。確か大叔母のお連れ合いの方じゃないでしょうか?」

と言いながら坊主は玄関と廊下の境目につま先を立てて座り込んだ。土岐は土間に立ったままだった。

「・・・ということは、こちらのご住職さんですか?」

「そうです」

「・・・廣川弘毅さんが亡くなられたことはご存知ですか?」

「いいえ、存じ上げませんでした。・・・そうでしたか・・・廣川さんとは、大伯母が亡くなってから、まったくお付き合いが無くなってしまって、・・・疎遠になってしまって」

「・・・大叔母の平田圭子さんと廣川弘毅さんのことについて、何かご存じのことはありませんか?」

「廣川さんとは、先々代の祖父の葬儀のときに一回だけお会いしたことがあるだけで、・・・まだ子供だったんで、怖そうなおじさん、という印象しかないです」

「・・・その葬儀のときのスナップ写真のようなものがありませんか?」

と土岐が聞くと、坊主は重そうな腰を浮かせた。

「あると思います。ちょっと時間がかかりますが、ご覧になりますか?」

「・・・ええ、ぜひ、お願いします」

 そう土岐が言うと坊主は奥に引っ込んだ。

待っている間、土岐は上り框に腰かけた。

四、五分して、坊主がスナップ写真を一枚持って現れた。

「右が廣川弘毅さんで、左が永田賢蔵さんです」

 廣川弘毅はパスポートの写真とあまり変わらない。永田と説明された男は、黒い法衣をまとい、数珠を持っていた。肉づき、背丈、姿勢、顔の輪郭が廣川によく似ていた。兄弟と言われても、疑いようのない感じだった。

「・・・ナガタケンゾウというのはどういう字を書くんですか?」

「永い田んぼ、賢い蔵と書くと思います」

「・・・この写真、コピーを取らせてもらえますか?」

「いいですよ。駅前に、斎藤写真館というのがありますから、そこで複写されて、現物はそこに置いといてくだされば、後日、ついでのときに取りに行きますので・・・」

「・・・どなたか、廣川夫妻のことを知っている人はいませんでしょうか?」

「さーあ、六十年近く前の話ですからね。・・・ただ、一度だけ、・・・父からは大恋愛だったというような話は、ちらりと聞いたことがあります」

「・・・大恋愛?」

「というか、廣川さんが略奪したというか、・・・祖父はあまり賛成ではなかったとか、・・・むしろ反対だったとか、・・・そんなような話です」

「・・・反対という理由は何だったんですか?」

「たしか、戦時中、宗門の集まりで、祖父が京都に行ったとき、大叔母はある侯爵家の末の子息と見合いをしたそうです。大叔母はたいそうな美人だったもので・・・。後で分かったことですが、その侯爵家の書生が廣川さんだったとか。天涯孤独の身の上で、

『廣川というのは、どこの馬の骨ともわからんやつだ』

と祖父は廣川さんを毛嫌いしていました」

「・・・戦時中は、廣川さんは陸軍にいたんじゃないんですか?」

「さあ、そのことは聞いていません」

「・・・その侯爵家というのは京都ですよね」

「そうです」

 土岐の頭の中で事件の核心に迫りそうな疑問の渦が回転し始めた。

「・・・その、侯爵家というのは、どちらですか?」

「清和家です」

「・・・まだ、京都におられるでしょうか?」

「さあ・・・どれもこれも、聞いただけの話なんで、どこまでが本当で、どこからが作り話なのか・・・六十年以上も前の話ですから・・・」

「・・・どうも、お忙しい所、ありがとうございました。また何か、思い出されるようなことがありましたら、名刺の電話番号まで、ご連絡いただければ幸いです」

 法蔵寺を辞して、駅に戻りながら、住職が記憶の糸をたどるようにして言った、

〈清和家〉

という名前を土岐はどこかで聞いたような気がしていた。どこで聞いたのか、どうしても思い出せなかった。

土岐は駅前の斎藤写真館で先刻のスナップ写真のコピーを依頼した。出来上がったコピーを手帳の間に挟んだ。次に、インターネットカフェを探した。見当たらないので、観光案内所で聞くと、旅館の一階の喫茶室にインターネットの設備があるとのことで、土岐はその旅館に向かった。

〈北国〉

というその旅館は、駅前商店街の中ほどにあった。先刻その前を通過していた。その時は、土産物屋だと思っていた。旅館の小さな立て看板が出ていたが、玄関の手前が土産物売り場になっていた。喫茶室は玄関の右手にあった。フリーの客が相手ではなく、投宿している客を対象としている店のようだった。旅館の浴衣とスリッパをはいた客が二人、コーヒーを飲んでいた。パソコンは十分百円になっていた。

〈豊橋の陸軍予備士官学校に入学したはずの廣川弘毅が、なぜ京都の侯爵家の書生になっていたのか?〉

とつぶやきながら、土岐は仲居のような店員にコーヒーと千円札の両替を頼んだ。

インターネットの紳士録のサイトで、

〈清和 侯爵 京都〉

という言葉をキーワードとして検索してみた。ヒットしたのは、

〈清和俊彦〉

という人物だった。そこで土岐はやっと思い出した。

〈坂本茂の黄綬褒章の推薦書を書いた人物だ〉

文化団体とか、NGOとか、市の委員会とか、カネとあまり縁のなさそうなお飾りのような肩書がずらりと並んでいた。交友欄に久邇商会会長の久邇頼道という名前があった。本職は、駐車場管理会社の代表取締役のようだった。土岐はその会社に電話をかけ、夕方四時過ぎに面会の予約をとり、京都に引き返すことにした。

三時過ぎの特急サンダーバードに乗り込んだ。

京都に着いたのは四時過ぎだった。駐車場管理会社の事務所は新京極方面の駅前ビルの裏手の狭い路地の二階にあった。受付の女子事務員に面会の予約を告げると、隣室に通された。八畳ほどの応接間だった。ブラウンのソファに勝手に腰かけて待っていると、しばらくして馬面のどこか間の抜けた五十代後半のなで肩の男が出てきた。土岐は名刺を出して挨拶をした。

「・・・どうも、お忙しい所、お時間をいただきまして恐縮です」

 清和俊彦は不潔なものを触るような手つきで名刺を受取り、能面のようなしかめつらで文字を読んでいる。鼻先で読んでいるような印象だった。

「土岐はんと言わはれると清和源氏の・・・」

「・・・そうです。むかしから、そう言われています」

 清和俊彦の顔がだらしなく綻んだ。眉先が目尻に着きそうになっている。土岐は自分の名前に感謝した。電話で、トキはどういう漢字かと聞かれて、四苦八苦することが多く、自分の名前にはこれまで得したという思いがなかった。

「何百年か辿れば、どこかで、あんたはんと繋がるかも知れないどすな」

「・・・いやあ、わたしの方は、どこの馬の骨だか・・・明治維新のとき、勝手に土岐を名乗ったのかも知れないです」

「そうでっしゃろなあ」

と俊彦は侮蔑するような笑みをもらす。

「・・・今日お伺いしましたのは、戦時中、清和家で書生をしていた廣川弘毅という男のことでして・・・」

「戦前の話!」

 俊彦のしまりのない顔が、びっくりしたように歪む。

「わたくしは生まれとりません」

「・・・太平洋戦争のころの清和家のことなんですが、なにか、ご存じのことはありませんか?」

「その頃の当主英彦は祖父で、祖父は昭和初期に米国に留学したことがあってアメリカ人の知己が多かったと聞いております。昭和天皇さまと親しかった東京の公爵家に刎頸の友がいて、そこの方とはわたくしも東京に行った折、会食することが、ままあります」

「・・・さしつかなければ、お名前を教えていただけますか?」

「どうでっしゃろ。・・・先方はんにお聞きしてみないと・・・勝手に紹介したとなると、折角のいいお付き合いに水が差されますので・・・」

 勿体ぶったような言い方に、小さくふっくらとしたまぐろの赤味のような唇が盛り上がっている。ものほしげなニュアンスを土岐は感じた。しかし、土岐は土産を何も用意していない。

「・・・じつは、戦時中、敦賀小町と呼ばれた女性が、清和家のご子息とお見合いをされたようでして、・・・そのとき、廣川弘毅という人物が、書生をしていたようでして、その廣川弘毅が戦後、その敦賀小町と結婚し、・・・つい最近、電車の事故で亡くなられたんです。・・・その事故がどうも殺人の疑いがあって、調査しています」

「と言わはれますと、土岐はんは警察の関係のお方ですか?」

と言いながら俊彦はセンターテーブルに置いた土岐の名刺を見返す。

「・・・いえ、ある人の依頼で調査しています。殺人となると容疑者がいるはずで、その容疑者がどうも、昔関係のあった人物ではないか、ということで、調べています」

「でも、その敦賀小町とかいう女性がお見合いをしたのは叔父ではないでしょうかねえ。敦賀には知り合いの華族さんはおられなかったと思います。わたくしの父は、公家同士で結婚していますから、敦賀のお人とお見合いをすることはなかったと思います。・・・で、わたくしの家族も容疑者の一人ということですか?」

 陽に焼けた俊彦の顔が情けなさそうに笑っている。土岐はゴルフ焼けだと見立てた。

「・・・とんでもない。容疑者になるような人についてお聞きしたいということです」

 そう話しながら敦賀の旅館で検索した紳士録の項目の中に交友関係という項目に久邇頼道という名前のあったのを思い出していた。清和俊彦が東京で会食しているというそれらしき人物である可能性があった。

〈久邇頼道〉

という名前が土岐の喉元まで出かかったが、土岐はそこでの聞き出しを諦めた。清和俊彦の気分を害したくないという思いがあった。

「そうゆえば、その頃、奉公していた及川光子いうばあやが、北白川に隠居しているはずどす。・・・そこでしたら、ご紹介できます」

と言いながら俊彦は秘書を呼び、年賀状を持ってこさせた。俊彦は一枚一枚差出人を確認している。

「律義なばあやで、わたくしの父が亡くなった後も、わたくし宛に年賀状を出し続けています。・・・五十年以上も・・・」

 俊彦は、目当ての年賀状を探し出し、差出人の住所と名前と電話番号を読み上げた。土岐は手帳に速筆でメモした。

「・・・どうも、貴重なお話をありがとうございました。今日は、急に清和家の話が出ましたもので、突然伺ってしましました。また、京都に来ることがあると思いますので、そのときは何か東京の名物でも持参させていただきます」

 そう言うと俊彦の顔つきは柔和になった。心の動きが馬鹿正直に表情に出る男のようだった。

「・・・ところで、話は違いますが、以前、神州塗料OBの坂本茂さんの黄綬褒章の推薦状を書かれたとか・・・」

「ああ、あれは神州塗料の会長はんに頼まれたんどす。会長はんは、東京の社外監査役で、長瀬はんとかゆう公認会計士の入れ知恵だとか、言わはってましたけど・・・でも、実際に説明に来たのは東京の金井はんとかゆうお人で・・・」

 長瀬という名前と金井という名前に土岐の耳が反応した。長瀬は今でも神州塗料と関係を持っているようだ。土岐は金井について確認した。

「・・・金井というのは、金井泰蔵のことですか?」

「探せばどこかにお名刺は有ると思うんですけど、・・・下のお名前まではちょっと・・・眼ぇの鋭い人で・・・面立ちはなんとのう、昔の華族さんのような感じどしたけど・・・でも、ちょっと、お品のないようなお人どした」

「・・・それから、坂本さんに、浦野さんの胸像の購入を勧めたとか・・・」

「浦野はん?」

「・・・東京の芸術大学の方だとか・・・」

「ああ、あれどすか。あれは、金井はんに紹介されて、坂本はんに勧めました。わたくしは、直接浦野はんゆうお人は知りませんし、彫刻の現物も見ていませんが・・・」

〈紹介料をいくらもらったのか〉

と土岐は聞きたいところだったが、我慢した。

土岐は外に出るとすぐ、清和家のばあやだった老婆の家に電話した。本人が出てきた。九十歳近い高齢のはずだが、しっかりした口調だった。最初は土岐を警戒していたような雰囲気だったが、

「清和俊彦さんの紹介で」

と言うと、その警戒が解かれた。

土岐は市バスで北白川に向かった。バスのなかで、金井泰蔵と長瀬啓志と廣川弘毅の関係について考えてみた。金井と廣川は昔総会屋だったころのボスと手下の関係らしい。長瀬と廣川は雑誌の主宰者と広告主の関係だ。土岐にはどう考えてもピンとこなかった。

老婆の家は京都大学の東隣あたりにあった。しもた屋風の古い民家だった。屋根が低く、玄関の敷居が頭にぶつかりそうだった。玄関に入ると、板の間に老婆が正座して待っていた。土岐が挨拶すると、老婆は玄関わきの四畳半ほどの茶の間に土岐を招じ入れた。畳が波打つように歪んでいた。

「狭い所で、お茶ぐらいしかありませんが・・・」

「・・・どうぞ、どうぞ、お構いなく・・・突然訪ねてきまして申し訳ありません」

「いえ、いえ、何もしないで、年金でほそぼそとお上に暮らさせてもらっていますんで、退屈しのぎになります」

「・・・早速ですが、終戦間際の清和家の書生についてお聞きしたいんですが、・・・そのころ廣川弘毅という人がおられたと思うんですが、その人について何か思いだすことがありましたら・・・」

 老婆は急須を傾けながら、首をひねる。目が皺だらけで、考えているのか、眠っているのか判然としない。

「お二人ばかりいらはりましたが、・・・太平洋戦争勃発前後は、河村倉之助はんゆう方で、すぐ徴集されはりました。次に来られたのは、松村博之はんゆう方で、この方は、肺病やみで除隊されはった方なので、

『この男は肺病病みだから、召集されはることはないので書生によろしい』

とご当主が言わはれまして・・・たしか、昭和十九年だったと思います。女中頭の木村麻子の親戚のご紹介だとゆうことどした。だから、身元は確かだろうゆうことで・・・」

と話しながら、老婆はスーパーマーケットの広告の裏に持つのがやっとという短い鉛筆で二人の名前を書いた。土岐はそれを手帳に写した。

「・・・廣川弘毅という名前に聞き覚えはないですか?」

「いらはれたとしても、書生はんではないんと違いまっか?三田はんゆう家庭教師の方はおらはれましたが・・・でも、この方は通いで・・・」

 老婆は、ぼけているようには見えなかった。土岐は黒いショルダーバッグから廣川弘毅のパスポートを取りだした。

「・・・この写真は、五十代のものですが、清和家の書生のときは二十歳前ですけど、・・・どうです、・・・見覚えはないですか?」

 老婆は茶箪笥の引き出しから、底の厚い老眼鏡を取り出した。顔中の皺を深く刻んでパスポートの写真に見入った。

「うーん。・・・松村はんの面影があるような気ぃがします」

「・・・その松村さんというのは、戦後どうなりました?」

「とっても良く奉公してくれはったので、ご当主が、親切心から、

『いまは就職難だから、就職の世話をしてやろう』

とゆうのを振り切って、出て行かれました。よく奉公してくれはったゆうのは、たぶん戦時中、幾度も東京にご当主の御使いでゆかれたことなのだろうと思います。・・・その後、京都駅で一度だけ見かけたことがありました。

『松村はん、松村はん』

って、何度も呼びかけても振り返らないので、追いかけて行って、袖を引っ張ったら、ニヤニヤ笑って、

『いま、担ぎ屋している』

ゆわはって、

『これから夜行で東京や』

ゆうてました。それ以来、一度もおうとりまへん」

「・・・東京のどちらへ行かれたんですか?」

「さあ、わたしなんかには・・・」

 そこで土岐はかまをかけてみた。

「・・・久邇家ではないですか?」

「どうでっしゃろ。久邇家はんとはとても懇ろやったので、・・・でも、電話はようしてはりましたが・・・」

 土岐の憶測がヒットした。清和家が東京で昵懇にしていたのは久邇家だったようだ。

「・・・どうです、もう一度よく見てもらえますか。その松村という男に間違いないですか?」

「わたしの知ってる松村はんを歳とらせたら、こないな顔になるとは思いますけど・・・でも、道でおうても、気ぃつかへんかも知れまへんなあ」

「・・・他に、分かりそうな人はいませんか?」

「どうでっしゃろ。・・・みぃんな、いなはらんようになってしもうて・・・ご当主も、奥様も、お坊ちゃまも・・・生きていて、もどうでもいいような、わたしだけがこうして、生きさせていただいて・・・」

 茶の間はいつの間にか黄昏に染まっていた。老婆が空になった湯のみを持って膝を立てた時、土岐は立ち上がった。玄関の板の間が激しく軋んだ。その土岐の足を老婆が引きとめた。

「そうゆえば一度だけ、廊下を歩いていたときに、立ち聞きしたんどすが、ご当主が東京へ出かけようとしている松村はんに、

『久邇さんによろしゅう』

とゆわはってたのを思い出しました。でも、東京に行ったついでに、

『よろしゅう』

とゆうことなのか、久邇様の御宅にうかがって、

『よろしゅう』

とゆうことなのか、よう分かりまへんが・・・そんとき、たしか、三田はんもご一緒だったような・・・」

「三田さん?」

「松村はんの御友達のような人で、ほんま眉目秀麗な賢そうな顔した人どした。別嬪の御嬢はんの家庭教師やらはっていて・・・でも、戦後になって、

『特攻でなくならはった』

って、さっきの京都駅で、松村はんに聞きました」

その声を背中で聞いて土岐は外に出た。

〈三田というのは、『学僧兵』の網田雄蔵のモデルかも知れない〉

という思いがした。六時近くになっていた。今出川通に出て、昨夜泊った〈ビジネスホテル大原〉に予約の電話をしてみた。割高だが、ダブルなら空きがあると言うので、仕方なく予約した。割高と言っても、普通の旅館の半額程度だ。

夕食を今出川通の京都大学近くの食堂でとって、ホテルに向かった。途中のコンビニでビールとスナックを買った。

〈及川光子の言う松村博之が廣川弘毅と同一人物であるとしたら、なぜ偽名を使ったのか?陸軍予備士官学校に入学したはずの廣川弘毅がなぜ京都で書生をしていたのか?〉

考え込みながらホテルに着くと、昨夜と同じ、赤いチョッキのホテルマンが出迎えた。部屋に入るとショルダーバッグをベッドの上に投げ置いて、一階のパソコンルームで、紳士録から清和俊彦の交友録をもう一度チェックした。久邇頼道の肩書は、ブランド物の専門商社である〈久邇商会〉という商社の会長になっていた。土岐はそれを手帳にメモした。

 部屋に戻ると、備え付けの小さな机の上で早速、手帳に調査日誌を書いた。


〈調査日誌 十月三日 土曜日〉

  午前十一時 京都駅より北陸本線で敦賀駅下車

  午後一時  法蔵寺住職の聞き取り

  午後三時半 敦賀駅より北陸本線で京都駅下車

  午後四時  京都駅前にて清和俊彦の聞き取り 

 午後五時  北白川にて及川光子の聞き取り

 午後六時  ホテル帰着


十月四日


 翌朝、土岐は十時にチェックアウトを済ますと駅ビルでBLTとアメリカンコーヒーのブランチを取り、十一時過ぎの特急北越5号で糸魚川に向かった。長田賢治に会うのが目的だった。見城仁美の父方の祖父になる。廣川弘毅が死ぬ直前に、区立図書館で貸出カードを作ってまでして読んだ絶版の塔頭哲斗の小説『学僧兵』の主人公と同じ出身地ということが気になっていた。今回の調査のカギとなる目撃者である見城仁美の証言を搦め手から覆すための材料を仕入れるのも目的だった。

 列車は北陸の秋の弱い日差しの中の殺伐とした刈り入れ後の田園風景を走り続けた。進行方向の右手に迫りくる白い帽子をかぶった山肌に圧迫されながら、左手に日本海を垣間見て安らぎを覚えた。

糸魚川駅には三時過ぎに到着した。海側に開けた駅前広場には、高層ビルが全くなく、この町の経済力がうかがい知れた。改札を出て右手に開いていた観光案内所で、横町への道順を教えてもらった。まず、駅前商店街を港方向にまっすぐ行った。商店街は五十メートルほどですぐ途切れた。店の外で客が待つ老舗の蕎麦屋の前を通り過ぎて、国道に突き当たってから、左手に折れた。コンクリートの防波堤の向こうから潮の香りが鼻を突いてきた。国道の海側には海岸線しかない。陸側には夏には海の家になる民宿が点在しているだけだった。町全体がひなびた白埃にうっすらとまみれている。時代の発展から取り残されたという印象がある。十分ほど親不知方面に歩くと、電信柱の住居表示に、

〈横町〉

と書かれた看板があった。たしかに、海岸線と平行に街並みが横になっていた。家並みの中に梁の少し傾斜した酒屋があったので、のれんをくぐった。十坪ほどの店舗だった。壁際に酒瓶と味噌樽が並び、中央にスナックやつまみの類が平積みになっている。商品の透明の袋に薄らと灰色っぽい埃がかぶっていた。地響きを立てて時折通りすぎるトラックのタイヤを見て、その埃が国道から舞い上がってきたものだと想像がついた。土岐は二、三分、漫然と店内を見渡していたが誰も出てこなかった。しびれを切らして、

「すいません・・・」

と奥に続く土間の暗がりに向かって声をかけた。しばらくして、ゴマ塩頭の顔のどす黒い老人がどてらを羽織ってでてきた。

「はい、何か?」

 土岐は三合瓶の日本酒〈美山〉を手に取った。見たことのない銘柄だった。

「これを包んでもらえますか?」

「おつかい物で?」

「いえ、何か袋に入れてもらえますか?」

 紙袋を取り出す老人の背中に土岐は質問した。

「このへんに長田賢治さんがおられると思うんですが、お宅はどの辺ですか?」

「ああ、長田さんだったら、その先の路地を左に入った左手の骨董屋さんです」

「どんな人かご存知ですか?」

「わしより、だいぶ年上なんで、こまいことはよう知らんけんど、戦前の若いころはお寺の小僧さんだったらしくて、戦後になってから、骨董屋を始めたと聞いとります」

「その、小僧さんだったというのは、どこのお寺だか分かりますか?」

「いやあ、寺の名前までは知らんけんど、敦賀だか京都だかとか聞いたことがあります」

敦賀と京都という地名が土岐の頭の中で鳴り響いた。それだけ聞くと土岐は酒瓶の首を鷲掴みにして店を出た。言われた通りに行くと、酒屋から五、六軒先に、玉砂利の道沿いにそれらしい民家があった。よく見ないと通り過ごしそうな特徴のない住宅だった。骨董屋らしいと思えるのは、通りに面して防犯用の鉄柵の奥のガラス越しに、いかにもまがい物然とした古いだけの壺が二つ、並んでいたことだった。その展示ウインドから、薄暗い家の中を覗いても、人の気配がしなかった。とりあえず、玄関で声をかけて見た。

「こんにちは、・・・長田さん。・・・おられますか?・・・」

 屋内からの反応を待ったが、一、二分しても返答はなかった。土岐は、その家の裏手に回った。隣は住宅を改築したような民宿で、骨董店の裏手は、

〈民宿:美山〉

という大きな看板のある駐車場になっていた。ブロック塀越しにつま先立ちで家の中をうかがうと、池のある壺庭が見えた。その庭に面して居間のような部屋が見えたが、人の気配はなかった。

「すいません。・・・長田さん、・・・おられますか?」

 土岐はもう一度声をかけた。ブロック塀越しに骨董店の屋根を見上げていると、民宿の二階の物干し場から中年女の声が掛った。

「長田さんだったら、おられんみたいですよ」

 どことなく、関西の訛りが聞き取れた。そこはかとなく関西圏の文化の匂いがした。土岐は声の方向に顔を上げた。

「何時頃、帰ってこられますかね」

「どうだか・・・ここ何週間か、見かけんけど・・・」

「どちらに行ってるか分かりませんか?」

「ちいと、待っとりんさい。家のもんに聞いてみっから・・・」

 土岐が4台ばかり停められる民宿の駐車場で、枯れかけた雑草を踏み潰していると、駐車場に面した民宿の裏口から、着古した木綿の着物を着た猫背の老婆が出てきた。

「あんさんかい、長田の父ちゃんに用がありなさるんは・・・」

「ええ、東京から来た者です」

 老婆は右手のひらを耳の後ろに添えながら、土岐が言った、

『東京』

という言葉に過敏に反応した。

「まあ、急がんようなら、上がって行きんさい」

と言いながら、老婆は片足を裏口の玄関に踏み入れている。土岐はその言葉に従った。

 裏口から入った駐車場に面した部屋に通された。客室のようだった。八畳ぐらいの広さがある。夕刻が近づいた秋の陽光が、すりガラスを通して弱々しく室内に落ちていた。ささくれ立った畳表が竹林のような文様に見える。老婆が湯呑を土岐の前に置いた。

「まっ、ひとつ、お茶でも・・・」

 土岐は手に提げていた日本酒を、茶卓の上に置いた。

「これ、よろしかったら・・・」

 老婆は眼をむいて、酒瓶を手に取った。

「長田さんとこへ持ちんさったもんでしょ?」

「ええ、まあ」

 老婆は、ポットのお湯を急須に入れて、湯のみ茶碗に番茶をさした。

「長田さんは、ずっとこちらにお住まいなんですか?」

「そう、先代からだから、もう、八十年を超えとる。わしが歳をとるわけだ」

「見城花江という人と結婚されたんですよね」

「そうそう、三反田のね。長田の父ちゃんが一の宮のけんか祭りで見染めんさって・・・家同士の折り合いが悪かったんで、・・・いつだったか、別れんさった」

「長田さんはずっと、骨董商をやっていたんですか?」

「終戦のどさくさが収まってから、しばらくして、時計屋を始めんさったけんど、客が来んので、十年ぐらいでやめんさって、それから、時計とか指輪とか腕輪とか首輪とかの貴金属の行商を始めんさって、その古物も扱っていなさったから、骨董商の免許を取りんさって、骨董屋も始めんさって、壺だとか、掛け軸だとか、玉だとか、香炉だとか、・・・うちもいっぱい買わされた。・・・ほれ、この床の間の掛け軸も長田さんに買わされたもんだて。安かったから、たぶん、偽もんだろうけんど・・・」

 客室の造りの悪い京壁に南画風の掛け軸が掛っていた。壁のところどころの剥げ落ちて色変わりしている景色と掛け軸の偽物風の景色とが妙に調和していた。

土岐は離婚後の長田に女がいたかどうかを尋ねた。

「見城花江さんと別れてから、ずっと、長田さんは一人なんですか?」

「いいや、敦ゆう、でけの悪い一人息子さんがいなさって、・・・店の商品を持ち出しちゃあ、へたなマージャンで身上をつぶしんさって・・・時計屋を閉じたのはそのせいだとか言っておった。・・・いつごろだったか、・・・四十年ぐらい前だったか、とうとう勘当して、・・・それからその息子さんは東京に出て行きんさった。・・・それから、一度も見かけん思たら、還暦になる前に亡くなりんさったとか」

 土岐はお茶をすすりながら手帳を開いて、見城仁美の家系図を見ていた。老婆は土岐の『一人で』

という問いかけを、

『一人住まいで』

と聞き取ったようだった。土岐は改めて、長田が離婚後、独り身でいたかどうかを聞きただすことをやめた。

「その見城敦さんは、東京で中井愛子さんと結婚されたんですよね」

「それは知らん。・・・でも、ここ数年、孫だゆう、可愛い女の子がちょくちょく、・・・まあ、ちょくちょくゆうても、年に一回ぐらいだけんども、見かけることがあった。・・・長田の父ちゃんはえらいかわいがっとった」

「見城仁美という女性ですか?」

「そう、ひとみちゃんとか、ゆうとったわな」

「長田さんは今回のように年中家を留守にしていることが多いんですか?」

「うん、しょっちゅうだ。昔っから。・・・花江さんと別れたもう一つの理由がそれだ。家をしょっちゅう留守にするもんで、花江さんは舅と姑と三人で、大変だったようよ」

「なんで、そんなに留守にしたんですか?」

「時計屋だけじゃ食えないゆうて、行商もやっとりんさった。湯沢や小谷の温泉場の旅館で女将や仲居や芸者を相手に、指輪やら時計やら掛け軸やら壺やらを売り歩いていなさった。業者仲間の骨董市にもあっちこっち顔を出しとるって、東京にも行っとると、自慢げにゆうとったわな。・・・そのうち、小谷のしょんべん芸者と出来ちまって、それが引き金になって、別れたらしい」

「話は戻りますが、戦前の長田さんは何をされていたんですか?」

「ようは知らん。ここに越してきんさったのは戦後で、戦時中は三反田の方に住んどったらしい。先代のばあちゃに聞いた話では、五男がおなかにおったときに先代のとんちゃがのうなって、兄弟が六人おって、長男のあんちゃが、父親がわりやっとったけんども、生活が苦しいんで、一番学校の勉強がようでけた四男を一の宮の禰宜の世話で、敦賀か京都のお寺に小僧さんに出したらしい。それが、そこの骨董屋の父ちゃんで、長男は早うに脳溢血でのうなって、・・・次男は三重の久居に養子に出して、・・・三男は満州からソ連に抑留されて、かたわになりんさって帰ってきておった」

 老婆は巾着の口のような唇をすぼめてお茶を飲んでいる。陽はとっぷりと暮れていた。窓の外から、冷気が徐々に部屋の中に侵入し始めていた。湯呑み茶碗を持つ手元の影が濃くなってきた。土岐は少し大きめの声で聞いた。

「賢治さんが小僧に出されたお寺の名前は分かりますか?」

「さあ、・・・一の宮の先代の禰宜の孫が、そこの神社の宮司でいなさるんで、聞いて見たらどないかな」

「ここから、近いんですか?」

「近い、近い、一里もない」

と老婆は梅干のような眼を見開いて、その方角を指差す。土岐は上がらない肩の下で、手首だけを蛇の鎌首のように持ち上げている老婆の指先を眼で追った。

「その、先代の禰宜の方の名前は分かりますか?」

「高野、ゆうたかいな」

 土岐は、今夜の宿をこの民宿に求めることにした。

「この部屋は、今夜あいていますか?」

 意外な質問だったらしい。老婆は、部屋の外に声をかけた。

「紀子さん・・・紀子さん・・・」

 先刻、物干台から土岐に声をかけた中年女が、薄桃色のエプロンで手を拭きながら部屋の外に現れた。老婆が聞く。

「今夜、この部屋、あいとる?」

「ええ」

 土岐は、泊る旨を伝えて、夕食まで、一の宮の神社に宮司を訪ねることにした。民宿の若女将に聞いた話では、一の宮の神社は山の方向に一キロあまり行ったところにあるとのことだった。一本道だから、迷うことはないとのことだった。舗装されているのは道の中央だけで、路の両端は砂利だった。時折、車が通るたびに、砂利道の脇の用水路に落ちそうになりながら、夕暮れの田舎道を急ぎ足で、十分以上歩いた。なだらかな登りになっていた。右手に小学校の校庭を見て、突き抜けたところに、こんもりとしたブナの林があり、その先に幽玄な社が薄暗がりの中に見えてきた。右手に飯場のような社務所があり、明かりのともっているプレハブのような引き戸の前で、土岐は声を出した。

「すいません。どなたか、おられますか?」

 すぐに、黄ばんだ白装束の若い男がのっぺりとした顔で出てきた。

「はい、なんでしょうか?」

「ちょっと、・・・戦前のことで、恐縮なんですが、高野さんという禰宜の方が、こちらのお社におられたかと思うんですが・・・」

「ええ、祖父です。もう、とっくに亡くなっていますが・・・」

 土岐は嫌な予感を覚えた。背後に迫る寒々とした夕闇が土岐の思いを暗くした。

「そうですか・・・実は、そこの横町の骨董屋さんが子供の頃、高野さんに連れられて、敦賀か京都のお寺に小僧に行ったということを聞いたんですが、そのお寺は何というお寺か分かりますか?」

「さあ、・・・祖父は戦前、副収入のため、とくに、昭和初期の不況のときは女衒みたいなこともしていたみたいで、・・・戦後も、中卒の金の卵をだいぶ東京に連れて行っていたみたいですが・・・」

と言いながら宮司は顎に手をあてて、一重瞼を細め、首をひねる。土岐は宮司の返答を促した。

「長田という、骨董屋さんのことなんですが・・・わかりませんか?」 

「小僧さんに行かれたというお寺の名前は、ちょっと、分かりませんが、祖父は、糸魚川市のお寺の檀家総代をしておって、そのお寺は浄土宗なんで、たぶん、小僧さんに連れて行ったお寺も浄土宗のお寺だと思います。ここ糸魚川のお寺は今もそうですが、昔から農地もあまり持っていなかったようで、檀家数があまり多くないので、たぶん、連れて行ったお寺は戦時中は小作がいっぱいおったような、檀家数の多いお寺じゃないですかね。ここの住職は糸魚川高校の同窓生なんでちょっと、電話して聞いてみましょう」

 そう言って宮司は社務所の奥に消えた。土岐は薄ら寒い戸口で、四、五分待たされた。耳の奥が痛くなるような静寂が漂っていた。

しばらくして黄昏の社務所の奥から宮司が目じりを下げて、にこやかに出てきた。

「住職は、敦賀のお寺じゃないかと言ってました。敦賀なら、戦前、住職が係累だった法蔵寺じゃないか、という話でした」

『法蔵寺』と聞いて、薄暗闇の中で眼の焦点が合って来るような思いがした。簡単な礼を述べて、土岐はそこを辞した。真っ暗な夜道を民宿に帰りながら、穏やかな疲労と空腹を覚えていた。

〈これで『学僧兵』とつながった〉

と幾度も繰り返し呟いた。

日曜日の夜のせいか、民宿〈美山〉に土岐のほかに泊まり客はいなかった。温泉ではなかったが、何年振りかに、大きい湯船につかることができた。風呂からあがって、自分で土産に買ってきた日本酒で晩酌をすることになった。一泊二食付きで、京都のビジネスホテルの素泊まりと同じ料金だった。


十月五日


 翌朝、土岐は干物と海苔と卵とたくあんの朝食後に、番茶をすすりながら前日の日誌をつけた。


〈調査日誌 十月四日 日曜日〉

  午前十一時 京都駅より北陸本線で糸魚川駅下車

  午後三時半 糸魚川市横町の酒屋で聞き取り

  午後四時  糸魚川市横町の民宿で聞き取り

  午後五時半 糸魚川市一の宮の神社で聞き取り 

 午後六時半 民宿〈美山〉に投宿


午前十一時半の特急〈はくたか〉で富山まで行き、富山で三十分余りの待ち合わせで、

特急〈しらさぎ〉に乗り継いで、敦賀まで行くことにした。時間が余っていたので、駅前の観光案内看板を見て、とぼしい観光資源の中から駅に近い一の宮にある〈相馬御風記念館〉で時間をつぶすことにした。

表の固定看板に月曜日休館とあったが、その日は別の日の振り替えでたまたま開いていた。時間をつぶしながら土岐は自分の無知を知らされた。早稲田大学校歌『都の西北』や日本初の流行歌『カチューシャの唄』や童謡『春よこい』の作詞者が相馬御風であることを初めて知った。土岐自身、『都の西北』は早慶戦でも同級生の結婚式でもコンパでも、何回となく歌っている。さらに、戦前の新潟県を中心とした二百校あまりの小中高等学校の校歌を作詞していることに仰天した。作詞した校歌の校名一覧には圧倒された。そればかりではない。七十を超える流行歌や百を超える童謡や四十あまりの社歌・団歌など、おびただしい数にのぼる。土岐が生まれるはるか前、昭和二十五年に亡くなっていることを知って、土岐は自らの無知を慰めた。

記念館を出る際、土岐の記憶に何か引っかかるものがあった。じっと立ち止まって思い起こすと、相田貞子のヒーリングの歌声が耳の奥を流れた。

〈そう言えば廣川弘毅も同じようなことをしていた。糸魚川出身の相馬御風と京都出身の廣川弘毅、昭和二十五年に没した御風と昭和二十五年以降、伝説の総会屋として活躍し始めた弘毅・・・どこかに繋がりがあるのか?〉

 二人の共通点は校歌や社歌や団歌しかない。土岐は偶然だと考え、事件とは無関係だと断じ、記憶の抽斗にしまい込んだ。


 敦賀に到着したのは午後三時半ごろだった。夕暮れが近付いていたので、土岐は急ぎ足で、法蔵寺に向かった。昨日と同じ庫裡の玄関で、土岐は声をかけた。

「こんにちは、どなたかおられますか?」

 しばらくして、昨日の住職が、腫れぼったい顔で現れた。昨夜、精進落としの会席でもあったのかも知れない。住職は、数秒で昨日の土岐を思い出した。

「また、なにか?」

「すいません、たびたび・・・実は、昨日、お聞き漏らしたことがありまして・・・」

 住職はあくびを噛み殺しながら、土岐の次の問いを待ち受けている。

「長田賢治さんについてなんですが・・・」

「オサダケンジ?」

「戦前、こちらに小僧さんでおられたとか・・・」

「オサダケンジという人は、知りませんねえ。永田賢蔵さんではないんですか?」

「いえ、長田賢治さんを糸魚川からこちらへ、小僧さんとして連れてきた禰宜の身内の方に聞いてきました」

「どういう字を書くんですか?」

「長短の長い田んぼ、賢く治める、という名前です。昨日、永田賢蔵という人の写真をコピーさせてもらいましたが、その人はひょっとして長田賢治さんではないんですか?」

「そうですか、そう言われるなら、そうかも知れませんね。長田賢治という名前が、出家する前の名前だとすると、永田賢蔵の賢蔵は出家した時の名前で、永田という姓はわたしの記憶違いかも知れないです。・・・この寺では、僧名に蔵を付けるのがしきたりで、・・・長田賢蔵さんは、還俗されて、もとの賢治という名前に戻したんですかね。わたしは、先々代の葬儀のときに、・・・まだ小学生でしたが、たった一度しか会ったことがないんです。そのときに、長田を永田と記憶したんでしょうかね」

「・・・賢蔵さんは、こちらには、いつごろまでおられたんですか?」

「戦前は、浄土宗の大学がなかったんで、たぶん、終戦前後に、京都の浄土宗の専門学校に行かれたんじゃないですかね。その頃は、京都の同門の寺の智恩寺の方丈に寝泊まりして通ったんじゃないですかね。わたしも、僧侶の資格を大学院で取りに、京都に行ったときは智恩寺にお世話になっていました」

「智恩寺というと壱萬遍の・・・」

「そうです。よくご存じですね」

 土岐は『学僧兵』のストーリーを思い出していた。たしか、京都の専門学校に行ったのは主人公の有部昭夫ひとりではなく、もう一人、網田雄蔵もいたはずだ。

「もうひとり、後か先か、賢蔵さんと同じように京都に行かれた方はおられましたか?」

「ええ、いたようです。戦争中に亡くなられたんで、わたしは一度もお目にかかったことはないんですが、たしか、三田法蔵という人です。出家する前は法雄と言ってたようです。とても優秀だった人みたいで、その方が書かれた香偈(こうげ)三宝(さんぽう)(らい)三奉請(さんぶじょう)懺悔偈(ざんげげ)、十念、開経偈(かいきょうげ)など、勤行で使われた写経を今でも使っています。本堂に掛けてある南無阿彌陀佛というお軸も、三田法蔵さんが書かれたものと先代の住職から聞いています。よろしかったら、ご覧になりますか?」

「・・・掛け軸を、ですか?」

「・・・本堂にあります」

と言いながら、住職は手のひらを土岐に向けて、玄関から上がるように促す。土岐は、何かの役に立つかも知れないという思いで、住職に従った。

「・・・ミタホウゾウはどう書くんですか?」

「三つの田んぼに、このお寺と同じ、法の蔵です。先々代の祖父は、彼を非常に高く買っていたようで、ゆくゆくは大叔母と結婚させて、この寺を継いでもらおうとも考えていたようです。残念ながら、京都の浄土宗の専門学校在学中に海軍航空隊の予備生徒に志願して、終戦の直前に特攻で亡くなられたと聞いています」

 回廊を歩いて薄暗い本堂に入ると住職は本堂右奥の抹香くさい壁にかかっている〈南無阿彌陀佛〉という掛け軸を指し示した。土岐は深くうなずきながら薄暗がりの中で手帳に、

〈三田法蔵〉

という名前を書き込んで、そそくさと住職に別れを告げた。


 京都へは、敦賀発一六時四二分発の特急〈雷鳥〉に乗って、一七時三九分に着いた。

京都駅で、すでに二泊しているビジネスホテルの予約をとった。予約掛のフロントは土岐の名前を覚えていた。シングルがとれた。近くまで市バスで行った。

 土岐は夕食を一度行ったことのある壱万遍の中華料理店で取ることにした。見覚えのある中年のでっぷりした下膨れの女が注文を取りに来た。他に客はいなかった。土岐のことを覚えているようだった。土岐は前回と同じとんこつラーメンを注文した。

コップに水を入れて持ってきた中年女に聞いてみた。

「そこのお寺の前に駐車場がありますよね。あの土地をむかし持っていた廣川というお宅のことをご存知ですか?」

「いつごろのことでっしゃろう?」

「・・・終戦直後だから・・・六十年ぐらまえかな」

「そんな昔のはなし・・・お父はんに聞いてみないと・・・」

と言って女は縄暖簾をかき分けて調理場に入って行った。しばらくして、ラーメンどんぶりを持った老人が薄汚れた前掛けのまま出てきた。

「こないだの方やな。東京の人でっしゃろ?」

「・・・終戦直後のはなしなんですけど、戦前からそこの駐車場の土地を持っていた廣川さんというお宅を御存じないですか?」

「なんとのう覚えてます。戦時中はだれも住んでおらんかったようだったけど、終戦直後、廣川のあんさんが帰ってこられて、しばらくおられはったと思う。裏のお寺の寺男のようなことをしておられた」

「・・・どんな仕事ですか?」

「戦時中はひとが仰山亡くなられはったんで、お骨を持って舞鶴港から引き揚げてこられる方も仰山おられて、お寺は連日のように葬式やら、法事やらで、忙しかった。昭和二十二年の農地解放まで、お寺も小作地を仰山持っておられたし、えらい景気がようどした。・・・廣川のあんさんは、たぶん昭和二十三年ごろまで、智恩寺の寺男みたいな仕事をされはっていたと思います」

「智恩寺に戦時中、三田法蔵という人がいたんですが、ご存じないですか?」

「さあ、あのお寺には仰山若いお坊さんがおらはったような記憶はありますが、お名前までは、ちょっと・・・」

「そうですか、・・・それじゃあ、長田賢治という人、賢蔵と言っていたかも知れませんが、・・・御存じないですよね」

「長田はん?・・・同じ人かどうか分からしまへんけど、他のお寺の人が、

『賢蔵はん』

って呼ばはってた人から、ようお菓子をいただきました・・・戦後のことどすけど。賢蔵はんはその後もようみかけました。仏教関係の骨董品とか、観音様の焼き物とか、純金の指輪や腕輪とか、時計とか、高価なお数珠とか、盂蘭盆や檀家の念仏の集まりのあるときに大きなバッグをもって行商に来なはってた。わたしもそこの檀徒なんで、糸魚川産の翡翠のお数珠を買うたことがあります。・・・四条河原町あたりにそうしたお店が昭和四十年代ごろ、仰山でけたころから、しだいに、賢蔵はんは来なはらへんようになりました」

 土岐はショルダーバッグから、廣川弘毅のパスポートを取り出して、写真を見せた。

「・・・この人が、廣川弘毅という人です。四十歳すぎの写真ですが・・・」

「ええ、たしかに、少しお年をとらはってるようですが、廣川はんどすな」

 ついでに、敦賀駅前の斎藤写真館で複写した写真も見せた。

「・・・ここに写っているのが、廣川さんと賢蔵さんですよね」

「そうどす、そうどす。なんと、なつかしい。・・・これはどこで撮った写真です?」

「・・・敦賀の法蔵寺です。四十年ぐらい前でしょうか・・・」

 話に夢中になってラーメンがすっかりのびていた。少し固めに茹であがっていたストレート麺が太めのそうめんのように柔らかくなっていた。

 飲食店を出てからその裏手にある智恩寺の庫裡に向かった。夜の底がすっかり冷え切っていた。庫裡の窓からは室内の照明が境内にそこはかとなく漏れていた。入り口で声をかけると、先日の若い僧が出てきた。土岐の顔を覚えているようだった。

〈また、何か?〉

というような顔付きをしていた。

「・・・先日、廣川家の墓参りに来た者ですが、今夜は、こちらに寄宿されていた方について、ちょっと、お伺いしたくてまいりました」

〈どんなことか?〉

と若い僧は土岐の質問を待ち受けて、こめかみの血管をひっくつかせて、神妙な顔付きをする。土岐は、若い僧の背後に漂う霊的な薄暗闇になんとなく不安を感じながら、

〈こんな若い僧では、戦前の話は知らないだろう〉

と質問するのを一瞬ためらった。

「・・・実は戦時中のことで・・・」

「へえ、どんなことどすか?」

「こちらに三田法蔵という人と、長田賢蔵という人が寄宿されていたと思うんですが」

「長田賢蔵はんは存じ上げませんが、三田法蔵はんは知っております」

「・・・特攻で亡くなった方ですけど・・・」

「そのことは存じませんが、本院ではとても高名な方どす。お見せしまひょう」

と言って、若い僧は土岐に框に上がるように促した。乞われるままに土岐は若い僧の後に付いて行った。庫裡から本堂への渡り廊下は冷え冷えとした板が歩くたびに軋んだ。本堂の天井に薄明かりがともされると、仄かな明かりの向こうの須弥壇の中央に鈍い金色の阿弥陀如来が座しているのが浮かび上がった。

若い僧が解説する。右の脇士に観音菩薩の立像、左の脇士に勢至菩薩の立像、右の脇壇に高祖善導大師の木像、左の脇壇に宗祖法然上人の木像が蒼然としてまつられている。その傍らに極太の墨痕鮮やかに、〈南無阿彌陀佛〉の掛け軸があった。法蔵寺で見たものより、蝋燭の煤で焦げ茶に変色していたが、土岐には同じ手のものに見えた。

「このお軸を書かれはったのが三田法蔵はんどす。六十数年前、裏の墓所の卒塔婆の梵字を全部書き直したのもそうどす。今でも勤行のとき使っている経典を写経したのもそうどす。その当時は専門学校でしたが、今の浄土大学に入学試験で満点で合格したのもそうどす。それ以前にも、それ以後にも、満点合格の入学者はいないそうです」

 土岐は話題を変えた。

「このお寺の北に禅宗の清浄寺がありますが、お坊さん同士で、交流があるんですか?」

「とくに、ないどすけど、墓所が垣根ひとつでつながっとりますので、朝の掃除のときなど、顔を合わせることはありますけど・・・」

〈それが、なにか?〉

と疑問符のある顔付きで若い僧は土岐を見る。

「・・・もう亡くなられたんですが、作家の塔頭哲斗が戦時中、そこにおられたというのをご存知ですか?」

「へえ、聞いたことありますな」

 その先を土岐は知りたかった。若い僧が気付きそうになかったので、土岐はしびれを切らして問うた。

「その当時のことを詳しくご存じの方はおられませんか?」

 若い僧は考え込んだ。

「知っているとすると、八十以上の方どすね。・・・うーん・・・ひょっとしたら、うちんとこの出入りの花屋の御隠居はんなら・・・」

「・・・その花屋はどこですか?」

「壱萬遍の交差点の角どす」

 それを聞いて土岐は智恩寺を辞した。歩きながら、交差点の向こうの角に、花屋らしき店のあるのを思い出していた。秋の彼岸も終わり、さびしげな店先だった。花立てを店の中にしまい、店内に動きまわるスペースがないように見えた。半分照明が落とされていた。土岐は、草花の青臭いにおいを鼻腔に感じながら、

〈大渕花卉店〉

と金文字で書かれているガラス扉を開けて店の外から声をかけた。

「今晩は、どなたか、おられますか?」

 三十前後の女が、座ったまま店の奥の茶の間に続く引き戸を開けて、首だけ出した。

「はあ、なんどすか?」

「・・・そこの智恩寺で、聞いてきたんですが、こちらに八十歳ぐらいの御隠居さんがおられるそうで・・・」

 女は細面の一重瞼の紅いおちょぼ口で言う。

「へえ、智恩寺はんで・・・大隠居なら、ここにおりますが・・・」

「・・・夜分すいませんが、すこし、お話を伺えませんでしょうか?」

 えらの張った銀髪の老人が、女が引き戸に掛けた手の下から、皺だらけの顔を出した。

眠そうに見えるが、瞼が垂れ下がっているだけのようだ。

「智恩寺はんがなんどすか?」

「すいません、ちょっと、戦時中のことで、お聞きしたいことがありまして・・・」

 そう土岐が言うと、老人は耳に右手を添えて、猫のように左手で手招きした。土岐は低頭しながら、黒い強化プラスティックの花立てをかき分けて、店の奥に入った。菊花の謹厳な生々しい香りが鼻をついた。

「東京の方どすか?・・・まあ、お茶でもどうどうすか?」

 土岐が茶の間を伺うと、先刻の女がベージュのスラックスの小またを切り上げて立ち、茶箪笥から湯呑を取り出していた。老人に招かれるままに、土岐は茶の間のすり減った縁に腰かけた。

「・・・実は、ちょっと事情がありまして、戦時中に智恩寺に寄宿していた三田法蔵さんについて調べています」

「三田法蔵!」

「・・・ご存知ですか」

「ご存じも何も、法さんと、うちのかみさんを奪い合ったのよ。・・・まあ、男のわいも惚れ惚れするようないい男はんやった。おまけに、勉強がようでけた。・・・それが、海軍予備生徒に合格して、詰襟の第二種軍装の純白の軍服で来たもんだから、うちのかみさんはイチコロよ。それだけじゃない、街中を歩くだけで、若い娘たちが遠巻きに、

『きゃあ、きゃあ』

ゆうとった。いまでゆう、アイドルやった」

女が土岐の前の畳の上にお茶受けを置き、その上の茶碗に急須を傾けた。

「へーえ。おじいはん、そんな話、初めて聞くわぁ」

 老人は得意げに話を続ける。

「智恩寺の檀家総代に江戸の御代に庄屋さまだったお宅があって、そこの旦那はんに頼まれて、わいがほの字だったおなごの家庭教師に三田法蔵を紹介したのよ。そしたら、そこの若奥はんと三田法蔵がでけてしもうて、旦那はんにばれる寸前で、海軍に行ったからよかったものの。わいは、娘の方が目当てだったから、密会の茶屋の手引をしたり、あれや、これや、やったもんよ」

「長田賢蔵という人も、智恩寺に一緒におられたと思うんですが・・・」

「ああ、賢蔵はんね。まあ、三田法蔵と比べると影の薄い人やったけど、・・・戦後もずうっと、・・・還俗されはって、この界隈に貴金属やら骨董の行商に来られはっとったな、一時期やったけど・・・」

「それから、向かいの駐車場に住んでおられた廣川弘毅さんは御存じないですか?」

「弘毅はんね。・・・文学好きな人やったな。・・・いつも、円本や岩波の文庫をポケットに隠して持たれはっとった」

「では、作家の塔頭哲斗はどうですか?そこの禅宗の清浄寺の小僧でいたそうですが」

「そうらしいのう。当時は知らなんだ。本名は確か、舘鉄人どしたな。あのお寺は別の花屋が出入りになっとるんで・・・清浄寺とは、近こうおますけど、あんまり縁がのうて・・・。戦後、ようカストリを一緒に呑んだのは、弘毅はんと賢蔵はんと・・・まあ、ほんのいっ時やったけど・・・いや、弘毅はんはひと月ぐらいしかいなはらへんかったから、賢蔵はんとは一緒に呑まへんかったかも、知れまへんな。・・・法蔵はんとはついに一度も呑まなんだな。ひょっとしたら、塔頭哲斗はんとも一度か二度、一緒に呑んだことがあったかも知れまへんなあ。まあ、あの当時は若かったし、無茶苦茶やっとったし、いつも、一人か二人、弘毅はんか賢蔵はんのお友達らしい人がおったわ」

 左目が白内障のようだった。入れ歯が齟齬をきたし、言葉つきも怪しい。しかし、記憶は鮮明のようだった。土岐は礼を述べて花屋を去り表通りのコンビニで下着を買った。その裏手にひっそりとたたずむ〈ビジネスホテル大原〉に帰還したのは八時すぎだった。

 ホテルにチェックインしてから、シングルベッドルームの照明をすべてオンにして、調査日誌を書いた。


〈調査日誌 十月五日 月曜日〉

  午前十時   相馬御風記念館見学

  午前十一時半 糸魚川駅より北陸本線で敦賀駅下車

  午後三時半  法蔵寺で住職の聞き取り

  午後四時半  敦賀駅より湖西線で京都駅下車 

 午後六時半  田中門前町の飲食店で聞き取り

  午後七時   智恩寺にて聞き取り

  午後七時半  花屋にて聞き取り

午後八時   ホテル到着






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ