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学僧兵  作者: 野馬知明
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土岐明調査報告書

九月二十九日


翌朝、起床すると洗面を後回しにして、すぐパソコンを立ち上げた。顔を洗って歯を磨くと、月曜日の出来事を何となく忘れそうな気がした。


〈調査日誌 九月二八日 月曜日〉

  午前十時   蒲田駅より乗車

  午前十一時  茅場町駅下車。開示情報社訪問・岡川桂に聞き取り

  午後一時   有価証券図書館にて資料調査(開示情報)

 午後二時   茅場町駅より日比谷線で六本木駅下車

 午後三時   有限会社アイテイ訪問・長谷川正造に聞き取り

 午後四時   有限会社アイテイ社長・相田貞子に聞き取り

 午後五時   六本木駅より日比谷線で茅場町駅下車

 午後六時   兜テニスクラブにて見城仁美・双葉智子とテニス

 午後九時   見城仁美を尾行・茅場町より東西線で東陽町下車

 午後九時半  見城仁美の住居確認・横十間ハイツ304号室(男と同居)

 午後十時過ぎ 東陽町駅より門前仲町・大門・浜松町駅経由で蒲田下車


日誌を書きながら、脳髄の芯に鈍い疲労がとぐろを巻いているのが感じられた。その理由がなんとなく分かるような気がした。月曜日は、最近になくハードワークだった。先月は全く仕事がなく、毎日テレビを見ながら寝ころんでいた。だらけ切った体が、突然の一日仕事の終わりにテニスにとどめを刺されて悲鳴を上げているようだった。

ディスプレイの時計を見ると、十時を過ぎていた。傍らの携帯電話で運転手の武井孝に連絡をとることにした。携帯電話の電話帳から掛けた。疲労のせいか、親指に力が入らない。呼び出し音が五回以上した。

「はい、武井です」

 相手の様子を伺うような中年過ぎの女の声だった。

「わたくし、開示情報の依頼で、調べごとをしている土岐と申しますが、・・・廣川社長はご存知ですよね」

「え、ええ」

と戸惑うような返事だ。

「で、廣川社長の件で、ちょっとお聞きしたいことがあるんですが、武井孝さんをお願いできますか?」

「主人はいま、休んでいるんで・・・」

「あっ、失礼しました。ご病気ですか?」

「いえ、昨日は勤務日で、朝五時ごろ帰ってきて、六時ごろ食事をして、さっき床に就いたばかりです」

「ああ、夜警か何かされているんですか?」

「いえ、タクシーに乗務しています。今日は明け番なんで・・・」

「何時ごろ、起きられますか?」

「いつも、昼過ぎには起きてきますが・・・」

「・・・それでは、二時ごろお宅にお伺いしてよろしいでしょうか?」

「・・・ちょっと、主人に聞いてみないと、・・・気難しい人なんで・・・」

 そのひと言で、女のどことなくおどおどした物言いに土岐は納得できた。

「・・・それでは、・・・一時ごろ、電話してよろしいでしょうか?」

「一時過ぎなら、いつも目を覚ましています。・・・でも、わたしは、これからパートに出かけるところなんで、・・・おりませんので・・・」

 土岐はその電話を切ると、そのまま双葉智子に掛けた。呼び出し音が四回して、留守番電話に繋がった。

〈勤務中なのだろう〉

と思い、土岐は録音した。

「昨夜、お目にかかった時山です。ちょっと伺いたいことがあります。お時間をいただけるようでしたら、兜町で二人で昼食でもと思うのですが、いかがでしょうか?」

 すぐにでも返信のある予感がした。洗顔と歯磨きをして、菓子パンとインスタントスープの軽い朝食にした。パソコンのワンセグ・テレビでモーニングショーを見ていると、携帯電話の呼び出しメロディーが鳴った。液晶画面に、

〈双葉智子〉

が表示されたが、土岐は、

「はい・・・」

とだけ言って返事を待った。

「時山さんの携帯ですか?」

「そうです。双葉さんですか?」

「ええ」

「留守電に吹き込んだ通りなんですが、いかがですか?」

「あのう・・・二人でって、・・・仁美はいいんですか?」

「ええ、彼女はいない方がいいんで・・・」

「・・・そうですか・・・」

 思案している様子が伺える。周りの音が何も入って来ないので、トイレから電話しているのかも知れない。土岐を警戒していることは容易に想像できた。なぜ、自分に興味を持ったのか、理解できないのだろう。

「たいしたランチもないだろうとは思いますが、・・・兜町の東証裏のインサイダーという喫茶店をご存知ですか?」

「・・・ええ、見かけたことはありますが・・・」

「ランチをご馳走させてください。・・・十二時に行って待ってますので・・・おひとりでお願いします」

「・・・ええ・・・」

 双葉智子はまだ返事を渋っているように思えた。土岐は先に電話を切ることにした。

「それでは、十二時すぎに、インサイダーで・・・」

 次に、佐藤加奈子から聞き出した金田民子の自宅に電話をかけた。すぐに出てきた。

「金田さんのお宅ですか?」

「そうですが・・・」

というかなり低音の中年過ぎの女の声が出てきた。

「わたくし、土岐と申しますが、金田民子さんでいらっしゃいますか?」

「そうですが・・・」

という抑揚のない返事が返ってくる。休めの姿勢で腰に手を当てているような雰囲気のする口調だ。土岐は事務的に話した。

「お父様の廣川弘毅さんのことについて、ちょっとお伺いしたいことがありまして、急ではありますが、今日の午後四時ごろにお話を伺えないでしょうか?」

「電話ではだめなんですか?」

とはっきりと迷惑そうに言う。そのふてぶてしさに土岐は引いた。

「すいません、ちょっと話が込み入っていますもんで・・・」

「トキさんとか、言われましたね。警察の方ですか?」

「いえ、廣川弘毅さんの死因について調べている者です」

「保険会社の方ですか?」

「いえ、ある人から調査を依頼された者です」

「・・・と言うと私立探偵さん?」

「探偵業ではありませんが・・・」

「弟の依頼ですか?それとも、佐藤加奈子の依頼ですか?」

「すみません。依頼者については口外できないことになっていますんで・・・」

「それじゃあ、お断りします」

とそっけない。初対面の赤の他人に対してワンクッションもおかない物言いだ。土岐は滅多に出くわしたことのない電話対応に動揺し、焦った。

「・・・こちらの持っている情報を、かなりご提供できると思うんですが・・・」

 女の口から離れかけた送話器が、口元に戻る気配がした。

「・・・どんな情報ですか?」

「ご迷惑とは思いますが、それについては、お伺いしてから・・・」

 少し間があった。姦計を巡らして、何かを計算しているような間だ。

「・・・じゃあ、四時ごろに・・・」

「どちらにお伺いすればよろしいですか?」

 女は自宅住所を土岐に伝えた。最寄り駅は地下鉄東西線の落合だという。

「それでは、四時ごろに伺います」

と土岐が言い終える前に切れた。情報は可能な限り面談して取るというのが土岐の方針だった。顔の表情の動きや身なりや住居も重要な情報で、言動を観察すれば情報の信憑性もある程度分かると考えている。

つづいて、土岐は廣川浩司の勤務先に電話をかけた。

「白金台高校ですか?」

「はい」

と事務的な女の乾いた声がする。次の言葉を待っている。

「わたくし、土岐と申しますが、廣川先生をお願いできるでしょうか?」

「・・・少々お待ちください」

といい終えると、受話器から乙女の祈りのメロディーが流れる。同じメロディーが三回流れて、しばらくして、同じ女の声で返答があった。

「・・・あいにく、ただいま授業中ですが・・・」

「そうですか・・・何時頃かけ直したらよろしいでしょうか?」

「お昼休みでしたら・・・廣川先生はいつもお弁当なので教員室におられると思います」

「そうですか、それでは、十二時過ぎに、もう一度かけなおします」

 パソコンの時計を見ると、十一時になるところだった。急いで、電気かみそりで鬚をそると、柑橘系の香りの強いシェーブローションをたっぷり塗って、事務所を出た。


 先日と同じルートで電車を乗り継ぎ、茅場町駅を出て、東京証券取引所脇の路地裏の喫茶店〈インサイダー〉についたのは、十二時少し前だった。十ほどあるボックス・テーブルの半分ほどが勤め人の背広で埋まっていた。土岐は中ほどの四人掛けのテーブルにつき、首をのばせば出入り口の見える椅子の方に腰掛けた。座ってから、周囲の二人掛けの小さなテーブルの方が先に埋まっている理由が分かった。土岐がついたテーブルはトイレの出入り口だった。別のテーブルに移ろうとしたら、あとから入ってきたサラリーマンに席をとられた。見回すと、客は男ばかりだった。いずれも同年輩の者同士でホットコーヒーを飲んでいる。仕事の話や上司や同僚の噂話や愚痴が飛び交っている。土岐が黄ばんだメニューをながめていると、チャコールグレーのニットカーデガンを肩に掛けた中年のウエイトレスが疲れた足を引きずりながら注文を取りに来た。とりあえずホットコーヒーを注文し、

「連れが来たらランチを追加注文します」

と伝えた。ウエイトレスの去った後、土岐は廣川浩司に電話をかけた。今度は、つかまった。

「廣川先生ですね。・・・わたくし、土岐と申します。お父様の廣川弘毅さんのことで、ちょっとお伺いしたいことがあるんですが、・・・夕方お会いできるでしょうか?」

 どんよりとした曇り空のように暗く、くぐもった声が返ってきた。

「・・・失礼ですが、・・・警察の方ですか?」

「いえ、廣川弘毅さんのことについて、調査を依頼された者です」

「・・・保険のことですか?そのことでしたら、大野さんに話しましたが・・・」

「いえ、保険会社の者でもないんで・・・」

〈それではどちら?〉

とは聞いてこない。土岐は電話の向こうの声の主に人間的な素直さを感じた。

「・・・六時過ぎでしたら、あくと思うんですが・・・」

「どちらに伺えばよろしいですか?」

「・・・学校のほうに来ていただけますか?・・・正門は締まっているかもしれませんので、通用門のほうから・・・」

「わかりました。それでは、六時過ぎに伺います」

 話し終えても土岐の様子をうかがっているようで、電話の切れるのに少し間があった。

 双葉智子が現れたのは、十二時十分過ぎだった。七分袖の衿ぐりがスクエアカットのブラウスに灰白色のまきスカートで丸い腰を包み、赤茶色の手提げバッグを持っていた。半分笑いかけようとしているが、ぎこちない。どことなく戸惑っている表情だった。

「・・・遅くなりまして・・・」

 土岐は座ったまま、向かいの椅子に座るよう手のひらを向けた。

「すいません。わざわざ呼び出しまして・・・オフィスはこの近くですか?」

「ええ、永代通りと新大橋通りの交差点の角から二つ目のビルにあります。・・・三光ビルの五階です」

 土岐は智子の了解を求めて、その店で一番高いハンバーグ・ステーキ・ランチを二つ注文した。ランチサービスでホットコーヒーがついてくる。

「・・・ミックスの打ち合わせのほうは、うまくいったんですか?」

と言いながら、智子は土岐の顔をまっすぐ見た。なんとなくうれしそうな情感が目元に漂っている。土岐は目のやり場に困った。すぐ、視線をテーブルの上にはずした。

「いやあ、けんもほろろで、・・・どうも、彼女に嫌われたようです。そうでなければ、彼女、アスペルガ―症候群じゃないんですかね」

「アスペルガー症候群って、なんですか?」

「定義そのものが、はっきりしていないみたいなんですが、ようするに、世間の平均からすると少し外れているような人・・・とくに対人関係で・・・」

「変な人とか、変わってる人、という意味ですか?」

「ピカソとか、アインシュタインがそうだったと言う説があるんですが・・・」

「まさか、彼女はそんな天才じゃないですよ」

「まあ、どっちにしても、ぼくは彼女に嫌われたようで・・・」

「・・・そうですか・・・いいペアになると思ったのに・・・彼女、どうも異性は苦手みたいなんで・・・」

「・・・恋人はいないんですか?」

「・・・そうだと、思うけど・・・彼女、自分のことは何も言わないんで・・・合コンに誘っても、あまり行きたがらないし・・・」

 土岐は仁美のアパートの部屋から聞こえてきた男のしゃがれ声を思い出していた。

「・・・一人住まいなんですか?」

「だと、思うんだけど・・・お母さんがいるんだけど、特養にいるみたいで・・・」

「・・・特殊養護老人ホームですか?」

「ええ」

「・・・ということは、介護が必要ということですね」

「・・・だから、一緒に住んでいないんでしょうね」

 土岐は仁美の部屋に男のいたことを智子に言ってみたい誘惑にかられていた。しかし、それを言うと、土岐が月曜日の夜に仁美に対してストーカー行為をしたことがばれる。どういう男なのか、智子に聞く言い方を考えていたが、思いつかなかった。少なくとも智子はその男のことを知らないようだ。いまそれを聞けば、智子は仁美に言うに違いない。土岐と仁美との関係はさらに悪化するだろう。ここでの会話はすべて仁美に筒抜けになるという想定でものを言わなければならないということを土岐は頭に叩き込んだ。

ランチが二つ運ばれてきた。まだらに茶髪の中年のウエイトレスが、カチャカチャと音を立てて紙ナプキンの上にナイフとフォークを並べる。

 土岐は意を決して、核心にはいった。

「・・・見城さんが先々週の金曜日に地下鉄事故を目撃したことを知っていますか?」

「先々週の金曜日?・・・ああ、・・・あの東西線の人身事故ですか?」

「ええ」

「・・・それが、なにか?」

「・・・いやあ、テニス協会の人からちらっと聞いたんですが、・・・それ以来、彼女、PTSDじゃないかって・・・」

 そう言いながら智子の表情を追うが、なんの反応もない。眼が合いそうになって土岐はあわてて少し焦げ目のあるハンバーグの上に目線を落とした。

 二人の食事は、なかなか進まなかった。ナイフとフォークを持った手がたびたび停止する。喫茶店にしては、デミグラスソースがたっぷりかかっていて、それなりに美味しいハンバーグのように見えたが、土岐は質問に気をとられていた。智子も慣れない手つきで上品にカットしたハンバーグを右頬に入れたまま、左頬で話していた。

「・・・そんなような話をちらっと彼女から聞いたけど、あまり話したがらないので、・・・わたしも聞こうとしなかったけど・・・PTSDのようには見えないけど・・・あいかわらず、彼女はカントみたいに正確に会社に来て、定時に帰宅するのを繰り返しているし・・・」

「・・・カント?って、・・・あの哲学者の?」

 土岐は智子の口から出た意外な言葉に聞き返さざるを得なかった。智子はあわてて右手のナイフをテーブルの上に置いて、片手で土岐を拝んだ。

「これ秘密ですよ。課長がつけたあだ名だけど、・・・彼女、カン子って言われているの。時間にとても正確で、朝は始業数分前に来るし、帰宅は、兜テニスクラブのない日は、ちょうど五時に帰宅するの。先々週の金曜日もわたしが五階で湯飲みを洗い終わって、帰り支度を始めようとしていたら、五時ちょうどに席を立って・・・」

「なにか、あるんですかね?・・・アフター・ファイブに?」

「さあ、人と落ち合うでもないし、習い事に行くようでもないし・・・時間通りに行動するという性格なんじゃないかしら・・・だからみんな、さっきのアスペルガ―症候群とは言わないけど、

『変わってる』

って言ってるけど・・・だって、五時を過ぎると、他に用もないのに、みんなとおしゃべりもしないで、ひとりでさっさと帰っちゃうんだから・・・そんな人っていないでしょ。誰だって、

『今日の仕事はどうのこうの』

とか、

『今晩のテレビドラマは何を見るの?』

とか、無駄口を叩いて、だべってから、だらだら帰宅するのに・・・それに、変な趣味があって・・・」

「変な趣味?」

 土岐はそう言いながら、思わずフォークの先に落としていた眼を智子に上げた。

「女の子のくせに、飛行機が好きなのよ。羽田や成田に飛行機を見に行ったり、・・・一度付き合わされたことがあったけど、・・・わざわざ飛行場まで飛行機を見に行って、ランチ食べて、帰ってきて・・・馬鹿みたい。そのうえ、飛行機のプラモデルが趣味だったりして・・・ねえ、変でしょ」

智子は同意を求めているが、土岐はライスをフォークでうまく掬えないことで苛立っている。フォークの背からライスがぽろぽろとこぼれ落ちる。少しいらつくが、口には出さない。

「誰だって、変な趣味はひとつやふたつ、あるんじゃないですかね。・・・それに、さっさと帰って、特養にでも行ってるんですかね?・・・お母さんの」

「いえ、それが、そうじゃないの。彼女、

『平日は行っていない』

って、言ってましたけど・・・なんかとっても遠い所みたいで・・・東京から四時間ぐらいかかるみたいで。・・・それに急いで帰る必要があるのなら、日比谷線のある7番出口から乗ればいいのに、いつもこっちのほうの10番出口からホームに行くんですよ。遠回りなのに・・・」

「・・・と言うと、この喫茶店の前を通って行くんですね。何か理由があるんですか?」

「さあ・・・たぶん、夕方のラッシュでホームが混雑するからじゃないかしら。・・・それがいやで・・・」

「どこから入ったって混んでいるでしょう?」

「いえ、彼女の家のある東陽町の駅の降り口は、最後尾に乗ったほうがいいのよ。だから10番出口からはいるとホームで移動しないで済むの。時間的にはどっちも同じぐらいじゃないかしら。・・・歩く距離は、10番出口の方が遠いと思うけど・・・」

 智子はフォークの背に器用にライスを乗せて口に運ぶ。場違いではあるが、上品な食べ方を楽しんでいるように見える。土岐はライスを思うように掬えない苛立ちを感じながら、海野に見城仁美の家族関係を問い合わせることを考えていた。仁美の他人を無視した突っ慳貪な態度の原因は、彼女の母親にありそうな気がした。それを確認し、そのことを取っ掛かりに仁美の心の中に分け入ることを考えていた。仁美から廣川弘毅の死が他殺であるという目撃証言を確保できれば、佐藤加奈子の仕事も一件落着する。

 よく味わうこともせずにランチが終了した。十二時四十分が過ぎていた。智子が腕時計を見ながらそわそわし出した。土岐は智子を解放した。

〈喫茶店:インサイダー〉

の前で智子と別れたあと、路上で土岐は海野に電話を掛けた。呼び出し音、三回で出てきた。

「はーい」

という鷹揚にふんぞりかえった声がした。

「海野刑事さんですか?」

「そうですが、どちらさん?」

「土岐です。その後、何かありましたか?」

 土岐と聞いて、海野の口調がさらに横柄になった。

「何かって、廣川弘毅のか?」

「ええ」

「見城仁美が目撃証言を変えたぞ」

「えっ!変えたって、どう変えたんですか?」

 脇を宅配のトラックが通り過ぎて、海野の声が少し聞き取りづらくなった。

「廣川弘毅は自分から線路に飛び込んだそうだ」

「先週聞いた話では、傍らにいたもう一人の老人か、背後を通り過ぎた男が突き落としたかも知れないということではなかったんですか?」

「そうだ、・・・かも知れないということだ。ついさっき、午前中だけど、もう一度確認したら、彼女、

『どうも一人で飛び込んだらしい』

というように証言が変わった」

「そんなことって、あるんですかね。何日も経ってから、正しい記憶が甦ったとでも言うんですか?」

「廣川弘毅のステッキがホームに落ちていたのを想い出したと言うんだ。確かに、廣川のステッキはホームに転がっていた。・・・見城仁美が言うには、

『後ろから押されたら、ステッキごと線路に落ちるんじゃないか』

ってことだ」

「そんなことで証言を翻したんですか?」

「大野っていう保険屋に抱きこまれたのかも知れない。どんな鼻薬を嗅がせたか知らんが・・・というわけで一件落着だ。明日にでも、自殺で処理する」

 海野の口ぶりには本意ではないという底意がなんとなく感じられる。

「・・・そんな・・・」

と土岐は嘆息を吐いた。しかし、よく考えてみると、佐藤加奈子は去年の四月から保険料として累計五百万円以上を保険の掛け金として支払っている。死亡保険金が三千万円であるから、二千万円程度のカネを自殺の工作費に使ったとしてもUSライフとしては十分ペイする計算になる。殺人か事故であれば、USライフは掛け金を五百万円ほど受け取ってはいるものの、三千万円の死亡保険金を支払わなければならないので、ネットで二千五百万円程度の支出超過となる。

海野の突き放したような冷たい声がする。

「あいにくだったな。これで、仕事もおじゃんだな。まあ、あとはせいぜい民事で頑張ってくれや」

と人の心を逆なでするような海野の無神経なせりふを聞きながら、土岐は見城仁美の身辺を詳しく調査する必要性を感じていた。

「それは、それとして、見城仁美の家族関係を調べてもらえませんか?」

「住民票とか戸籍程度でいいのか?」

「ええ、まあ、とりあえず、その程度で・・・」

「んなことは、朝飯前だ。明日でいいか?」

「ええ」

 そこで電話が切れた。土岐には海野の真意が図りかねた。他殺という心証を持っているはずなのに、あっけらかんとして、

『自殺で処理する』

と海野は言う。海野は、土岐の仕事がおじゃんになると言ったが、むしろ、警察の資料を覆すことになるので、土岐の仕事量の増える可能性がある。ただし、佐藤加奈子が他殺に執着すればの話だが。


 土岐は茅場町駅の東京証券取引所に近い10番の改札口で駅員を探した。改札の窓口には先日の田辺とは違う男が座っていた。胸のネームプレートを確認すると、ワープロのボールドの印字で、

〈岡田〉

となっていた。

「すみません。ちょっと、お伺いしたいんですが、・・・先々週の金曜日の夕方、轢死事件があったと思うんですが・・・」

 下を向いていた岡田が土岐の顔を見上げた。若い目じりが鋭く吊り上っている。

『それが何か?』

と問いたげだが、黙っている。土岐が聞く。

「下のホームにおられたのは、田辺さんだったと思うんですが、・・・事件当時、この改札におられた方をご存知ですか?」

 岡田は青い顎を突き出し、スリットのような目を更に細めて言う。

「・・・自分ですが・・・」

「・・・事故のあった時間に、何か変わったことはなかったですか?」

と土岐が言うと、岡田はいぶかしそうな目で土岐の顔を見る。土岐はおもむろに内ポケットから名刺を出した。

「こういう者です。亡くなられた廣川弘毅さんのことを調べています」

 岡田はものめずらしそうに土岐の名刺に眼を落す。それから名刺を裏返す。裏は白紙だ。

「変わったことと言っても、・・・五時三分の車両で・・・そういえば、そのエレベーターの脇から、老人が駆け上がってきたような記憶があります」

そう言いながら岡田が指さすほうを土岐は振り返った。スケルトンのエレベーターの脇に階段がある。土岐の傍らをサラリーマン風の男たちが幾人もすり抜けて行くが、その階段を利用する者は一人もいない。下のホームから上がってくる者も降りて行く者もその階段とは反対側のエスカレーターを利用している。土岐が階段とエスカレーターとエレベーターを交互に眺めていると駅員が言った。

「その階段はホームからここまで来るのに非常に遠回りになるんで、使う乗客はほとんどいないんです。・・・ラッシュ時でも皆無だと思います。・・・だから、あのとき印象に残ったんです」

「どんな老人でしたか?」

「さあ?自分は普段から人の顔や服装をじろじろ見る習慣がないもんで・・・老人と言っても、若者ではなかったという程度で、ひょっとしたら中年の男性だったかも知れないです。でも、足を引きずるようにして不格好に駆け上がって来たのが記憶にあります」

「・・・事故があったのは、五時三分発の電車と言いましたよね」

「いえ、五時三分発でなくて、五時三分着です」

「・・・どうもありがとうございました。何か思い出すことがありましたら、その名刺の電話番号までご連絡いただければありがたいんですが・・・」

 岡田が改めて土岐の名刺の電話番号を確認しているのをしり目に、土岐はエレベーター脇の狭い階段を下りて行った。昨夜、見城仁美を尾行した時に使った階段だった。十段ほど降りると異様に広い踊り場に出た。踊り場というよりは通路のような感じで、二十メートルほど進むと、Uターンしてさらに降りて行く階段がある。階段を降りたところは、ホームの日本橋寄りの端だった。降り切った正面はエスカレーターの底面で、天井から斜めにホームまでのびている。その左右のホームは昇降のエスカレーターの着地面の幅だけせまくなっている。西船橋方面の乗車位置は、階段とエスカレーターの間に一か所、エスカレーター脇の狭い所に一か所、エスカレーターを降りたところに一か所ある。廣川弘毅が転落したのは、最後尾の乗車位置あたりだ。かりに、もうひとりの老人が犯人であるとすれば、その老人は廣川弘毅を線路に突き落としたあと、ラッシュ時にもかかわらず、人通りのない無人の階段のほうを駆け上がって逃走したことになる。改札を出るには上りのエスカレーターを駆け上がったほうが早いし、人ごみにまぎれて逆に人目に付かないかも知れない。しかしエスカレーターに乗るには、エスカレーターの昇降口でせまくなっているホームで電車を待っている客をかき分けて行かなければならない。突き飛ばされた客は印象に残るはずだ。とすれば、遠回りになるが、階段を駆け上がったほうが、人目に付かないし、かえって早く改札から外に出られるということになる。

〈その老人が実行犯か?〉

 土岐はもう一度、あたりを見回した。エスカレーターの下に警察の立て看板があった。

〈目撃情報を求めています。九月十八日金曜日夕方五時過ぎにここで死亡事故がありました。事故を目撃された方は茅場署までご連絡ください〉

 素人が造ったような、あまり出来のいい看板ではなかった。事務処理的で、看板作製者の熱意が全く伝わってこなかった。

 土岐はあたりを見回しながら、見城仁美がこの場所にたどり着くまでの経路を想像してみた。永代通りと新大橋通りの交差点の角から二つ目のオフィスビルの五階から、エレベーターのボタンを押して、一階に出る。正面玄関を出て、新大橋通り沿いの歩道を二、三〇メートル歩いて、交差点の入り口から階段を下りて、地下鉄の7番の改札口を通る。その改札からエスカレーターを降りると、西船橋方面のホームの最も西船橋寄りの位置に出てくる。そこから、最も日本橋寄りの乗車位置まで来るにはラッシュ時のホームを人ごみをかき分けながら、ホームの端から端まで歩いてこなければならない。しかし、双葉智子の話では、仁美は10番の入口を使っているということだった。そうだとすれば、

〈喫茶店:インサイダー〉

の前の路地を通って、来ることになる。

〈五時ちょうどに五階のオフィスを出たとして、かりにビルの一階までに一分、ビルの玄関から地下一階の地下鉄の改札まで一分、ホームの端から端まで一分としても、入線してくる五時三分発の電車の事故に間に合うか?智子の言うように、地上を歩いて、10番の出入口から降りて来るにしても、同程度の時間がかかるはずだ。ひょっとして、見城仁美は事故をリアルタイムでは目撃していないのではないか?事故に出くわしたことは間違いないが、間近では目撃していないのではないか?〉

 土岐は逆ルートで、九月十八日の見城仁美の足跡をたどってみた。腕時計を確認し、十二時五十分ちょうどに東西線ホームの最も日本橋寄りの乗車位置から、ホームの反対側の端に歩き始めた。車両は一両が二十メートルある。それが十両編成だから、ホームの長さは二百メートルを超える。土岐の速足でも百メートル一分はかかるから、女の足で、しかもラッシュ時のホームを三分以内で歩ききることは困難に思える。ラッシュ時の女の足を斟酌して、土岐はゆっくりとホームの端から端まで歩いてみた。腕時計で確認するとたっぷり三分掛っていた。それから7番出入口まで階段を上って行くと、地上に出るまでにすでに五分近く掛っていた。歩道を歩き、三光ビルに入る。エレベーターホールでボタンを押す。古いエレベーターで二基あるが、呼び出しボタンがコンピュータ制御されていない。上階にあった二基のエレベーターが一斉に下降してくる。移動位置を示す電光の掲示がエレベーターの昇降速度の遅さを示している。待機時間が一分以上あった。乗り込んでから、五階のボタンを押し、閉のボタンを押す。エレベーターはゆっくりと上昇する。五階に到着した時、土岐の腕時計は十二時五十七分を過ぎていた。そこから逆に、茅場町駅の先刻の乗車位置に戻ったが、普通に歩いた限りでは三分では到着しなかった。

〈三光ビルの五階から走りづめでくれば、ぎりぎり三分あまりで、現場に到着することは不可能ではないが、目撃するようなゆとりがあるとは考えられない。しかし、走りづめでここまで来る理由は何か?確かに、見城仁美の自宅に近い東陽町の1番出入口は電車の最後尾の車両だが、乗車時に最後尾でなければならない理由が何かあるだろうか?これは是が非でも見城仁美に確認する必要がある〉

 念のため、土岐は10番出入口からのルートも確認してみた。確かに、双葉智子が言ったように距離的には遠く感じられた。しかし、ホームの混雑のない分、早く歩けることも確かだった。土岐はそのルートを往復した。往復のたびに、

〈喫茶店:インサイダー〉

とその隣の開示情報社の入っているビルの前を通った。普通に歩いて、片道五分程度の時間を要した。女の足ならそれ以上かかると思われた。


 土岐は茅場町駅から、廣川弘毅のお抱え運転手だった武井孝の川崎の自宅に向かった。二時近くになっていた。薄日が差していたが、秋風が冷たく感じられた。

武井の自宅は川崎駅東口からバスに乗って三つ目の停留場を降りて、臨港方面の路地にはいったところにある。モルタル造りの町工場の中の工場跡地に小規模のアパートが点在していた。二階建てと三階建てばかりで、高層のアパートは見当たらない。木造のアパートもある。

土岐は路地裏にある人気のない埃っぽい酒屋の前から電話した。

「今朝ほど、奥様に電話した土岐と申しますが、武井さんのお宅ですか?」

「・・・そうだけど・・・」

と無防備な寝ぼけたような声がする。

「急に押しかけてきて恐縮ですが、いま、上州屋という酒屋の前にいるんですけど、お宅はどのへんでしょうか?」

「・・・さっき、かみさんから連絡があったけど・・・突然来られてもね。かみさんもいないし・・・喫茶店は駅まで行かないと無いし・・・」

「すみません。ちょっと、廣川弘毅さんのことでお話をうかがうだけなんで・・・」

 土岐は丁重に詫びながら、武井のアパートまでの道を聞きだした。酒屋で冷蔵の缶ビール6本パックを買って武井のアパートに向かった。その酒屋から一本入った路地の二階建てのアパートの一階中央の部屋の前に小柄な男がグレーのジャージーで立っていた。土岐は、相手に先に挨拶されないように、十メートルほど手前から声をかけた。

「・・・武井さんですか?」

 武井は寝ぐせの付いた頭髪のまま、面倒くさそうに首肯した。

「・・・散らかっているけど、・・・まあ・・・」

と武井は口をとがらせて言いながら、土岐が持参した缶ビールに目を据えて、ドアを開けた。入ったところがダイニングキッチンで、その奥に六畳間が二部屋見えた。武井は、ゴムのサンダルを脱ぐと、食卓テーブルの椅子を引いて、土岐に上がるように指示した。土岐は靴を脱いでそのまま椅子に腰かけた。べニア板の低い天井が土岐を圧迫する。武井は台所を背にぐったりとしたように両腕を垂らして座っている。

「どうも、お休みのところ押しかけてきてすみません。これ、つまらないものですが・・・」

と土岐が缶ビールの6本パックをテーブルの上に差し出すと、武井はさっそく缶ビールをあけて飲みだした。

「・・・で・・・話というのは?」

 武井の上唇にうっすらとビールの泡が付着している。土岐は生唾を飲んだ。

「・・・武井さんが一昨年まで運転手をされていた、開示情報の廣川弘毅さんが亡くなられたのはご存知ですよね」

「へえーっ、いや、それは知らなかった。まあ、八十過ぎだから、大往生の部類かな」

「いえ、それが、事故死なんです」

「へーっ、あの社長が・・・」

「茅場町駅で線路に転落して亡くなられました」

「それは、ご愁傷さまですが、・・・それで、あなたは何を聞きたいんで?」

と言いながら武井は中国製の安椅子を軋ませながら、その上で胡坐を組んだ。胼胝だらけの足の裏がむき出しになっている。

「今回、奥さんの加奈子さんの依頼で、廣川さんが転落した原因を調査しています」

「そんなことは、おれが知るわけないじゃないの」

と腫れぼったい眼で土岐をにらみつける。土岐は少し怯んだ。

「まあ、加奈子さんの考えでは、他殺ではないかと言うんです。・・・で、武井さんに心当たりはないだろうかというお伺いです」

「そう聞かれてもね、こちとらしがない運転手だったから・・・社長と個人的に話をすることは、全くなかったし・・・」

と言いながらゲップを吐き出す。とっさに土岐は鼻先を横に向けた。

「運転業務は、田園調布の自宅と茅場町の会社の間だけだったんですか?」

「いやあ、それだけじゃ、仕事になんないんで、・・・会社の近くの駐車場に車を止めて、雑誌の袋詰めとか、宛名シールの貼り付けとか。・・・本業では、運送業務や、社長のお供で挨拶回りとか雑誌の配布もやっていた。大半の雑誌は日本橋の郵便局から郵送していたが、何部かは大手町の大企業の本社や本店に直接持って行っていた。・・・社長が出てくるまで路上で待っていた」

「企業名はわかりますか?」

「持って行ったところの?」

「ええ。何十社もはないんじゃないですか?」

「さあ・・・何社か雑居しているようなビルだったんで・・・逓信ビルの近くで、その両隣は確か、・・・大銀行と大商社の本社ビルだったと思ったけど・・・」

 土岐には大体そのビルの位置の見当がついた。

「・・・直接持って行ったのは、そのビルだけですか?」

「あとは、新橋の料亭とか赤坂のコリアン・クラブとか中野坂上のイタ飯屋とか築地の鮨屋とか南千住のウナギ屋とか浅草のすき焼き屋とか入谷のてんぷら屋とか六本木の焼鳥屋とか・・・こちとらは、いつも車で待つ身だったけど・・・それから・・・」

 土岐は武井の追憶の腰を折った。

「かりに、廣川弘毅さんが殺害されたとして、心当たりはないですか?」

 武井は腕を組んで頭を垂れた。ざんばら髪を透かして頭皮が光っている。

「社長以外におれが知っているのは、加奈子夫人と会社の岡川さんと松井さんぐらいなもんで・・・雑誌の印刷屋の社長も知ってはいるけれど、・・・社長とどういう関係があるのかはちょっと・・・」

「その、松井さんというのは経理の女性ですか?」

「そう、ぽっちゃりした浅黒いおばさん。岡川さんの話では、社長が昔、手を出したとか・・・出さなかったとか・・・」

「岡川さんと廣川さんの関係はどうだったんですか?」

「まあ、いいとは言えないでしょう。給料が安いって、いつも文句ばかりたれていた」

「岡川さんが、ですか」

「そう。あのおっさん、松井さんに気があるみたいで・・・やだね、いい年こいて、ジジイとババアが・・・」

 武井はそこで缶ビールを一本飲みほした。缶の底に残る最後の一滴を音を立てて吸い出している。隣の六畳間の外に一坪ほどの庭が見えた。低いブロック塀の上から、頼りなげな秋の陽光が畳の上に陽だまりを作っていた。一瞬見とれていた土岐は我に返った。

「・・・武井さんが運転手業務につかれたのは、いつごろからですか?」

「バブルが崩壊して、しばらくたってから・・・バブルの時は官公庁専門でタクシーをやっていた。売り上げが激減したんで、利用客のひとりだった廣川社長に誘われて転職したけど、給料は大して変わらなかった。・・・サブプライム・ローン問題で、あっという間に、会社の売り上げが落ちたのがわかった。それで、お払い箱・・・また、もとのタクシー・ドライバーに戻った」

武井が二本目の缶ビールに手をかけたとき、土岐は財布から名刺を出した。

「・・・これは参考までにお聞きするんですが、・・・九月十八日の金曜日の夕方、どちらにおられたかわかりますか?」

 一瞬、武井の体が硬直したように見えた。土岐の名刺をじっと見ている。名刺を握りしめている右手が小刻みに震えている。

「・・・そういうことを調べるの、この調査事務所ってえのは・・・」

「すいません。覚えておられればで、結構です」

「月水金は出社だから、車を転がしていたはずだ。運行記録をみれば、大体どの辺を走っていたかはわかる。知りたけりゃ、会社に聞いてくれる?港北タクシーってえんだ」

 それを聞いて土岐は椅子から立ち上がった。

「どうも、突然、お邪魔して失礼しました。・・・何か思い出すようなことがありましたら、こちらにご連絡ください。・・・犯人に結び付くような情報でしたら、薄謝を差し上げますので・・・」

 薄謝と聞いて武井は土岐の名刺の電話番号を確認した。武井が期待するであろう薄謝の金額を下回ることは間違いないので、土岐は武井からの情報提供のないことを願った。


 土岐は川崎駅から京浜東北線で品川駅に出て、山の手線に乗り換え、高田馬場駅で東西線に乗った。ひと駅で落合駅に着いた。四時前だった。

金田民子の家は、落合斎場近くのメゾン落合という三階建てマンションの最上階と聞いていた。地上に出てから、早稲田通りを中野方向に歩き、コンビニエンス・ストアを右に折れて、曲がりくねった路地の奥へ進んで行くと三階建の白亜の落合斎場が見えてきた。その左手に三階建ての蔦の絡まる瀟洒な建物があった。正面玄関入り口の金属プレートを見ると、

〈メゾン落合〉

とあった。玄関ホールで三階の郵便受けを探すと、301号室に、

〈金田〉

という表記があった。オートロックのドアの傍らのインターホンで301号室を呼び出した。

「午前中にお電話をした土岐と申しますが・・・」

 土岐はインターフォンの上にある小さなカメラレンズを見つめた。

「・・・どうぞ」

という気だるい返答があって、オートドアが開いた。入るとすぐエレベーターホールがあり、三階に向かった。301号室は、落合斎場に一番近い位置にあった。外廊下からその建物がよく見えた。斎場だと知らなければ、どうということはないが、斎場だと分かってその建物を眺めると、それだけで気分が滅入るように重くなる。

〈金田〉

という金色のネームプレートの下の呼び出しボタンを押すと、

「・・・開いています」

というしわがれた低い女の声がした。アルコープで黒い玄関ドアレバーを引くと、玄関の廊下にやせぎすの女が立っていた。背後からリビングの明かりがさしていて、表情がよく見えない。太いアイラインから厚化粧の様子がうかがえた。

「午前中にお電話した土岐と申します」

と言いながら、名刺を差し出した。女は名刺を手のひらに乗せた。

「・・・土岐調査事務所?・・・何を調査するんですか?」

と言う民子の声にささくれ立った棘が感じられた。土岐は事務的に答えた。

「できる調査であれば、何でもやります」

「・・・浮気調査も?」

 土岐の脳裏に目黒駅近くの大日本興信所のネームプレートがちらついた。

「あまり得意ではありませんが、オファーがあればやります」

「そう、今お願いしているところがあるんだけど、はかが行ってないようなんで、今度お願いしようかしら、・・・料金によるけれど・・・」

 表情を識別できないのは玄関の照明が暗いせいだと思っていたが、そうではないようだった。民子には顔の表情が全くなかった。玄関の薄暗がりのよどみに慣れてきた土岐の目にはそう映った。

「で、廣川弘毅さんのことについて、お伺いしたいんですが・・・」

「そちらは、どういう情報を持っているんですか?」

「警察のほうは自殺で処理するようです」

「そんなことなら、知っています」

「そうですか・・・わたしのほうは、事件の線で調査しています」

「ということは、加奈子に依頼されたのね?」

 民子の声が廊下に響く。ダークブラウンのスラックスにパープルのタートルネックをまとったダミーが話しているような錯覚を土岐は覚えた。

「ご想像にお任せします」

「弟ということはないわね。あいつ、けちだから・・・」

「で、事件だとして、心当たりはありませんか?」

「そんなことは、全部刑事に言ってあるわ」

「海野刑事にですか?」

「そう。あんた、知ってんの」

「海野刑事をですか?」

「そう」

「ええ」

「じゃあ、自殺で処理するというのは、海野刑事からの情報?」

「そうです」

 民子はいら立っているようだった。土岐の名刺を右手の親指と人差し指の間に挟んで、強くこすり始めた。こする音がする。土岐は玄関先に立たされたままだった。

「で、海野刑事に提供された情報のほかに、その後、気付いたことは何かありませんか?」

「あたしが、あんたに情報を提供して、何かメリットはあるの?」

「少なくとも、他殺ということになれば、保険金が下りるし、東京メトロからの賠償金請求はなくなるので、その分遺産相続の金額が増えるかと・・・」

「保険金も、掛け金を実質的に支払っていたのが、父であることが立証できれば意味があるけど・・・父が社長を加奈子に譲って、いまの保険の掛け金は加奈子が社長の給与から払っていたことになっているでしょ。保険の掛け金は加奈子の口座から引き落としになっていたって、保険会社の大野っていう人が言ってたわ。だけど、加奈子がやっていた仕事は、たかだか送り迎えの運転手業務だけでしょ」

「そのへんのことは、いい弁護士を立てれば、民事で勝てるかも知れないですね。ご希望があれば、有能な弁護士をご紹介します。・・・で・・・総会屋関係でご存じのことは、なにかありませんか」

 薄暗がりの陰影の中で、民子の目が光ったような気がした。

「さあ、あたしがもの心ついたころには、父は総会屋から足を洗っていたみたいで・・・証券アナリストの勉強をしたり、相田貞子という音大くずれの女と一緒に、つまらない歌を作っては、どこかに売り歩いていたようだったけど・・・」

「雑誌の仕事はやっていなかったんですか?」

「やってたようだけど、それは岡川というずる賢い小男と、松井というしょん便臭いおばさんに任せていたみたいだったけど、・・・でも、それも最近の話しで、昔のことは、正直言って、興味なかったの、あたし」

 立っているのがだるくなったのか、民子は廊下の白壁に左手をついて、クロス地の壁に体重の何分かをあずけている。土岐は質問を考えた。民子はうんざりしたように顎を少し突き出した。土岐も同じ姿勢で立たされたままで、足が少しだるくなってきた。

「これは、あくまでも参考までにお聞きするんですが、気を悪くなさらないでください。九月十八日金曜日の夕方、どちらにいたか、覚えていますか?」

「アリバイ調べっていうこと?・・・あんた、刑事みたいね。海野刑事より、ましのようだけど・・・」

 民子には語尾をけだるく吐き出すという癖がある。土岐は返答をせかした。

「まあ、覚えていらっしゃればで、結構なんですが・・・」

「当然覚えているけれど、情報はただじゃないのよ。あんたに情報を提供して、あたしにどういうメリットがあるの?」

「いやあ、金田さんが考えられているような意図で、聞いているんではないので・・・」

「それじゃあ、どういう意図で聞いてるの?」

「まあ、あくまでも参考までに・・・」

「ふうん。そうね、痛くもない腹を探られるのも不愉快だから、言っときましょうか。あたしは、この家にいました。証人は猫だけだけど・・・あ、猫じゃ証人にならないか。なら、証猫ならいるけれど・・・」

 口ぶり、立ち姿、人を食ったような表情、どれをとっても素人女には見えなかった。

「どうも、突然伺いまして、お邪魔しました。わたしは、事件の線で調査していますので、何か調べたほうがいいというようなことが出てきましたら、その名刺の電話番号までぜひご連絡ください」

 土岐が頭を下げて、アルコープに退くと、ドアがさっさと閉められ、施錠され、せわしなくチェーンの掛けられる音がした。外廊下はすっかり暗くなっていた。光センサーが作動して、エレベーターホールにスポットライトが悄然とともされていた。


 落合駅で腕時計を見ると、五時近くになっていた。

土岐は、高田馬場駅で山の手線に乗り換え、目黒駅から南北線で白金台駅で下車した。地上に出ると、あたりは夜のとばりと晩秋間近い冷気に支配されていた。白金台高校はそこから徒歩五分の距離にあった。背丈ほどもある鉄柵越しの濃紺の夕闇の中に、教務員室の蛍光灯の明かりが黄色く煌々と浮かび上がっていた。通用門で警備会社の警備員に呼び止められた。土岐が名刺を出して、廣川浩司の名前を告げると、警備員が内線で連絡をとった。教務員室の中で受話器を取り上げる男の姿が影絵のようにぼんやりと見えた。

「・・・土岐さんという方が見えてますが・・・」

と問い合わせる声に、その男がこちらを向いたが、夕闇にたたずむ土岐を確認できないようだった。警備員の指示に従って、教務員室の外を迂回し、校舎の裏口から入ると、先刻の教務員室の中の男が廊下に出て待っていた。

「・・・トキさんですか?」

 薄暗い廊下で、廣川浩司の顔はよく確認できなかった。

「・・・お仕事中、申し訳ありません」

「いえ、今ちょうど終わったところです。こちらへどうぞ」

とその男が招じ入れてくれたのは、教務員室の隣の六畳間ほどの広さの応接室だった。土岐は立ったまま名刺をさし出した。

「土岐と申します」

「すいません。名刺を切らしていまして・・・廣川と言います」

と自己紹介する男の顔を初めてまじまじと見た。細い眼、銀縁の眼鏡、細くも丸くもない顔、中肉中背、七三に分けた髪、四十代から五十代のような背格好。群衆の中に完全に紛れ込みそうな男だった。姿かたちに際立った特徴が何もない。しいていえば、欧米人が想い描く典型的な日本人。後日どこかで遭遇した時に識別できる自信を土岐は持てなかった。

「昼ごろ、電話でも申しましたように、廣川弘毅さんのことについて調査してます」

「・・・姉の依頼ですか?」

「いえ、佐藤加奈子さんです」

と土岐は相手の素直さに引き込まれて、依頼人の名前をうっかり言ってしまった。浩司は軽く頷いた。

「でしょうね。姉は佐藤加奈子の浮気調査をどこかに依頼しているようですから・・・姉が依頼した探偵なら、わたしに会いに来るわけがないですから・・・」

と言いながら、土岐にソファーをすすめる。廣川浩司と土岐は四人掛けの応接セットのテーブルをはさんで向かい合った。

「・・・さきほど、お姉さんのお宅にも伺ってきました」

「落合斎場ですか」

「そうです」

「・・・あのマンション全体が姉の持ちモノなんですよ」

「すごいですね。かなりの資産家ですね」

「父のカネをねこばばして稼いだ資金で購入したんですよ」

「・・・と、言うことは生前贈与ということですか?」

「いえ。父から盗んだんです」

と言いながら浩司は両手を膝の前に組んで左右の親指をせわしなく回転させる。それを凝視しながら土岐は言った。

「・・・親子だから、お父さんが刑事告訴しない限り事件にはならないですね。それよりも、税務署がよく黙っていましたね」

 浩司が小馬鹿にしたような笑いを見せた。

「もう時効でしょ。父が気付いたのは十年くらい経ってからのことですから・・・」

「ということは、あのマンションを買ったのは十年前ぐらいということですか?」

「いえ。バブルになる前に、父のカネでどこかに不動産を買って、その不動産が数倍に売れて、その時知り合った企業舎弟の不動産屋とねんごろになって、それから二十年近く競売物件専門にカネ儲けをして・・・」

「・・・ほう、かなりのやり手ですね」

「というか、カネの亡者なんです」

と浩司は吐き捨てるように言う。土岐は仲の悪い姉弟であることを察知した。

「でも、かなりの金額を盗んで、弘毅さんはなんで十年も気付かなかったんですか?」

「・・・姉は大学在学中に、宅地建物取引主任の資格試験に合格していて、・・・金田という在日三世と結婚した後、その名義を不動産屋に貸していて、・・・その関係で、父が田園調布に家を建てるとき、姉に資金を託して任せたんです。・・・十年ぐらい前、父が支払う住宅ローンを調べてみたら、父の託した五千万円が頭金になっていなくて、そっくりローンになっていて・・・自分が連帯保証人になっていたみたいですが・・・そこではじめて父も気付いたんです。でも姉は知らないとしらを切って・・・実際、何の契約書もないし、かりにそうであったとしても時効だし・・・どっちにしても、動かぬ証拠のない限り、明白な状況証拠があったとしても、しらを切り通す人間です。・・・自分の身内ではあるんですが、会うたびに背筋に冷たいものが走ります」

「とすると、弘毅さんは遺言書でお姉さんには相続させない旨を書いたんでしょうか?」「さあ、佐藤加奈子は遺言書は見ていないと言ってました。かりに、遺言書があったとしても、法定遺留分をよこせと民子は言ってくるでしょうね」

 浩司の口吻に怒気がこもっている。腹の前で組んだ手が細かく震えている。土岐は改めて憤然としている浩司の眼を見た。

「・・・そうですか。その五千万円が生前贈与であるとすれば、現時点での遺産に加算して改めて分与ということになるでしょうから、浩司さんの受け取り分はその分多くなるということですね。・・・しかし、お話を聞いているとお姉さんはその五千万円を生前分与と認めないでしょうし、裁判にしても時効でしょうし・・・で話は変わりますが、わたしはいま、弘毅さんは自殺ではないという方向で調査をしているんですが、・・・それが事件だとして、その真相について何かお心当たりはありませんか?」

「・・・父が遺言を書くにあたり、事前に姉に内容をほのめかしていたとしたら、・・・姉が不動産屋の企業舎弟に殺害を依頼した可能性があります」

「まさか。親子じゃないですか」

「・・・実の娘が実の父親の五千万円を平気でくすねますか?あの女はカネのためなら何でもやる人間です。ばれさえしなければ、脱税だろうと、何だろうとする人間です。数年前の離婚訴訟のとき、呼びもしないのにわたしに会いに来たと思ったら離婚裁判で自分が有利になるように嘘の証言をしろというんだから呆れます。ようするに相手の男が姉の資産の半分を要求してきたんです。結婚後に形成された財産だから夫婦共有の資産だという主張です。そこで、わたしが姉の資産形成に協力したと偽証しろと言うんです。そういう文書まで用意してきて、サインしろと言うんです。わたしは、

『生徒を教える手前、教育者として、そういうやくざな生き方はしていない』

と言ってやりました。先日も、都銀から、わたしの妻あてに、

『特約口座使用料を支払っていないので、期日までに入金のない場合は口座を解約します』

という連絡があって、びっくりしてその銀行に問い合わせたら、わたしの妻の名義を勝手に使って、脱税用の隠し口座を持っていたんです。銀行員に口座開設の申込書の手書きのコピーを見せてもらったら、妻の筆跡をまねてはいたんですが、

『恵子』

の恵の右肩に点が打ってなかったんです。確かに、戸籍も住民票も右肩に点を打たないのが正字なんですが、妻は日常的にかならず恵の右肩に点を打つんです。だから、姉が勝手に脱税用の口座を作ったことがわかったんですが、それを訴えたところで、身内の恥になるから黙っていますが・・・要するにあの人間は身内を食い物にするような人間なんです。父が、姉に相続させないという遺言を書けば、姉は法定遺留分しか相続できない。だから、父を殺害する動機が、じゅうぶんあります」

 土岐は浩司の茶のジャケットの袖口のほつれを見つめていた。身なりと職業だけから判断する限り、決して裕福とは思えない。姉を誹謗する意図は、浩司の金銭的な妬みにあるのかも知れないと推測した。

「・・・でも、それはあくまでも憶測ですよね」

「ええ、証拠はありません。しかし、今日お会いになって、気付きませんでしたか?」

「何に?」

「常識では計り知れないカネに対する妄執のようなものを・・・小学生の頃、姉の好きな科目は理科で、とくに、蛙やフナの解剖が大好きで、車に轢かれた猫を家に持ち込んで、部屋で解剖していたことがありました。それを見たときは気絶するほど背筋が寒くなったものです。わたしの机の中からモノやカネを平気で盗んで、証拠がないものだからいくら問い詰めてもトボケていました。学生の頃の趣味は人体解剖で、ベトナム戦争で虐殺された兵士の内臓が飛び出した写真を食い入るように眺めていました。

『生きた人間の腑わけをしてみたい』

と口癖のように言ってました」

 夜が冷えてきていた。話のせいもあって、土岐の背筋がぞくぞくしてきた。土岐は遺産相続をめぐる兄弟の醜悪な争いをいくつも見知っている。当人にとっては唯一無二の話だが、傍目にはよくある話だ。しかし、それに偽装殺人が絡むとなれば、よくある話ではなくなる。土岐はいとまごいをしようと立ちかけた。そのとき浩司が話し出した。

「・・・さっきの借名口座の件ですが、銀行で出てきた苦情担当者は年配の定年退職した嘱託の人みたいで、・・・わたしがポロリと、

『廣川弘毅は父親だ』

と言ったら、一瞬顔色が変ったんです。そこで、

『振り込め詐欺対策で借名口座を排除している銀行がどうしてこういうことを見過ごしているのか』

と言いがかりをつけようかとも思ったんですが、身分証明の代わりに高校の名刺を出してしまった後なので、ぐっとこらえました。父は、

『元総会屋だった』

と昔、誰かからか聞いたことがあったんですが、人の弱みや、失態や気の弱さに付け込んで、カネにしようという遺伝子はわたしは受け継がなかったようです。むしろ、それは姉がそっくり引き継いだみたいで・・・五千万円ねこばばされたことを父は怒ってはいましたが、・・・子供のころから自分に似た気質を持つ姉のほうをわたしよりも愛していました。・・・そういう意味で、晩年も姉のことを憎からず思っていたようではありましたが、・・・佐藤加奈子にせっつかれて姉を心ならずも遠ざけていたようでもありました。・・・実際、姉のことが話題になると、

『女だてらに大したもんだ』

と自慢することがよくありました。・・・子供のころ、ハムスターを飼っていたことがあって、ある日、その籠を姉が石油ストーブの上に載せて、ハムスターが熱くて飛び跳ねているのを見て楽しんでいて、その姉の非情な様子を父が頼もしげに見守っていたことがありました。わたしが、

『なんでそんな可哀そうなことをするんだ』

と言って姉を突き飛ばしたら、いきなり父に殴られて、部屋の端から端に殴り飛ばされました」

 浩司はおしゃべりには見えなかった。弁舌も滑らかではなかった。どちらかといえば訥弁ではあったが、息せききったように話し続けた。土岐はいちいち頷いた。

「・・・お母さんのことですが・・・ずいぶん昔に亡くなられたそうで・・・」

 浩司は不意をつかれたような顔をする。土岐を見つめる目に薄らと光るものがにじんでくる。

「・・・わたしが高校生の時でした。三月末か四月初めのある夜、電話が掛ってきて、・・・父への電話みたいでしたが、父は留守で、・・・その電話以降、母の様子がおかしくなったんで、電話の相手は父の浮気相手じゃなかったんでしょうか。その父の浮気が原因のようで不眠症と喘息に悩まされていて、・・・医者の見立てでは睡眠薬と喘息の薬を飲みすぎたのが原因だろうということでした。・・・父は無類の女好きで、あっちこっちに玄人の女がいたようです。・・・その頃は、向島かどこかの芸者かなんかだったと思いますけど・・・相田貞子を除けば、素人には手を出さなかったようですが・・・母は敦賀小町と言われたほどの美人で・・・小学生のころ、授業参観に来た母が自慢の種でした。わたしが地区の小学校に入った時、一年生の担任の教師に言い寄られたようで、それで、二年生から越境して、隣の地区の小学校に転校したこともありました。・・・これは、のちに親戚から聞いた話ですが・・・」

 そこで土岐が浩司の話の腰を折った。

「弘毅さんと結婚したのはどういう経緯ですか?」

「母の実家はお寺なんです。・・・今はもう、孫の代になっていますが・・・その寺の檀家総代の知り合いの口利きで見合いをしたそうです。・・・戦後間もなく、父は担ぎ屋とか闇屋をやっていて、かなり羽振りが良かったようです。お寺の方は戦後の農地解放で小作地を失って、先細りになっていたようです。・・・お寺には、子供のころ、母に連れられて祖父の住職の法事に行ったきりです。・・・ほとんど付き合いはありません」

「なんというお寺ですか」

 そう土岐が問うと、浩司は白い石膏ボードの天井を見上げた。

「なんて、言いましたっけ・・・浄土宗のお寺で、・・・たしか、法蔵寺とかいうような・・・」

「ホウゾウジ?・・・どんな字ですか?」

「法律の法に、蔵です」

土岐は手帳に、

〈敦賀・法蔵寺〉

と書き込んで、もう潮時だろうと思いながら立ちあがりかけた。

「夜遅く、仕事場に押し掛けまして失礼しました。最後に、参考までに教えていただきたいんですが、九月十八日の金曜日の夕方、どちらにいたか分かりますか?」

「父の死んだ時刻ですね。・・・その日は、クラブ活動の朝練につきあって、朝が早かったので、夕方前には帰宅しました。・・・妻が証言してくれると思います」

「また何か思い出したことでもありましたら、その名刺の電話番号までご連絡ください」

 そう言いながら土岐は立ち上がって低頭した。浩司は土岐の袖を引くように言う。

「姉と組んで競売物件を漁っているのは金井という企業舎弟です。これも在日三世です。いま、離婚訴訟で争っている金田の知り合いです。・・・東横線の菊名に不動産と建築の店を持っているはずです」

 聞きながら土岐はシステム手帳に、

〈企業舎弟、金井、菊名、不動産〉

と書き込んで部屋を出た。帰宅の車中で、闇の中を流れる冷たい街明かりを目で追いなが

ら、浩司の証言には姉に対する積年の憎しみのバイアスが掛っていることに留意しなけれ

ばならないと考えていた。


 土岐はその足で、高田馬場にある城田簿記学校の本部本館を尋ねた。高田馬場駅を降り

て、早稲田通りを小滝橋方向へ二、三分歩いたところにそのビルはあった。煌々とした照

明があふれる正面入口に城田康昭の胸像があり、その隣に城田簿記学校校歌が青銅色のメ

タルレリーフに刻まれていた。しかし、その作曲者は相田貞子となっていたものの、作詞

者は城田康昭となっており、歌詞も、貞子が歌ったものと異なっていた。土岐は受付の若

い女性に名刺を差し出して、城田との面会を求めた。しばらくして、三分刈りの大男が出

てきた。

「土岐さんですか?わたくし、城田の秘書の西川と言います」

と言いながら城田簿記学校のロゴ入りの名刺を差し出した。

〈西川秀介〉

とある。西川に導かれるままに、エントランスホールの隅にある応接ボックスに入った。

四畳半ほどの空間に四角いテーブルがあり、その周囲に椅子が四つ配置されている。土岐

は奥の椅子に腰かけ、西川はドアの前の椅子に座った。

「城田は先ほど帰宅しまして、お急ぎの御用件でなければ、わたくしが伺いますが・・・」

「そうでしょうね、もう7時ですからね。わたしのほうが、遅くに、失礼しました。・・・

用件と言うほどのことではないんですが、・・・先日、廣川弘毅という老人が亡くなられた

のを御存知でしょうか」

「ええ、先々週、城田と御自宅の方に通夜に伺いました。家が隣同士なものですから・・・」

「それで、その城田理事長の御自宅の土地を、廣川さんが周旋したらしいんですが、その

事情を御存知でしょうか」

「詳しくは、存じ上げておりませんが、廣川さんはわが校の最初の校歌を作詞された方で、

理事長とはゴルフ仲間で、友人のようなお付き合いをされていたようです。・・・そういう

関係で、田園調布の土地をご紹介いただいたんじゃないでしょうか?」

「でも、さっき、正面玄関の校歌のレリーフを見たら、作詞者は城田理事長になっていま

すよね」

 西川は顎と鼻を突き出し、高い座高から高い目線で、土岐を見降ろすようにして言う。

「ええ、廣川さんが校歌を作詞されたころは、わが校はまだ全国展開を始めたばかりで、

その後、北海道から沖縄まで、全国に分校を設置した関係で、廣川さんの歌詞の『千代田

の城』はまずいだろう、ということで、城田が地名を消した歌詞を作詞したという経緯が

あります。まあ、『千代田の城』という歌詞には、『城田の造った学校が千代』続くという

含みがあるとかで、城田も未練はあったようなんですが・・・」

「作曲された相田貞子さんと城田さんはどういうご関係なんでしょうか?」

 この質問にたいして、西川は眼光を土岐に向け、眉間にしわを寄せた。

「・・・関係と言いますと・・・?」

「・・・相田さんは、校歌の作曲をされたということだけなんでしょうか?」

「・・・ご質問の意味がよくわかりませんが、・・・相田先生はわが校の本科生のコーラス

部と軽音楽部の顧問をされてまして、・・・城田との関係と言えば、たまにゴルフをする程

度だと思いますが・・・それと、これはまだ企画の段階なんですが、相田先生とはシンガ

ーソングライターサイトの立ち上げでも、ご協力を願っています」

「どういうものですか?」

 西川は土岐の質問の真意を確認するように土岐の眼をちらりと見た。企画段階の情報を

漏らしても問題ないのかどうか、土岐という人間の安全性を値踏みしているようだった。

西川は、改めで土岐の名刺に眼を落した。

「わが簿記学校は最近IT教育に力を入れていまして、・・・そもそも簿記と言うのは数的

情報処理の学問ですからパソコンとは切っても切れない関係があります。パソコンの延長

線上にネット社会があって、わが校も必然的にネット教育に進出してきた次第です。相田

先生の御提案で、作詞家志望の方と作曲家志望の方と歌手志望の方をウエッブサイトでブ

ロッキングさせようということで、その企画が進行しています。ようするに、課金ビジネ

スです。作詞家は出来た歌詞をサイトにアップロードし、それを作曲家がダウンロードし

て作曲し、アップロードする。曲先の場合は、その逆になります。その楽曲を歌手志望の

人がダウンロードし、自分の歌唱をアップロードし、それをリスナーがダウンロードして

聴くというビジネスモデルです。アップロードする時もダウンロードするときも課金する

ので、ヒット曲が生まれれば、作詞家にも作曲家にも歌手にも印税収入が入ってきます。

レコード会社を全く経由しないという革命的な音楽ビジネスを計画しています。いわば、

電子書籍が出版社を全く経由しない革命商品であったように、この商品もレコード会社を

全く経由しない電子楽曲と言うことです」

「その企画に、廣川弘毅さんは参画していなかったんですか?」

「いやあ、あの方は、いまだに歌詞を原稿用紙に万年筆で書くというタイプですから・・・

それに、作曲家志望と比べると作詞家志望の人口は圧倒的に多いんです。レベルはともか

く、誰でも詞のようなものは書けます。しかし、作曲はそれなりのノウハウがないと困難

です。森重久弥もチャップリンも数曲作曲しましたが、鼻歌程度のもので、それを譜面に

したのはプロです。とくに、ネットで曲をアップロードする場合は、コード指定とか、長

調とか、短調といった譜面の状態でファイルを作らないとだめなんで、誰にでも出来ると

いうものではありません。だから、相田先生には、サクラのような形で、アップロードさ

れた歌詞に積極的に曲をつけてもらって、サイトを盛り上げてもらおうと考えています」

 土岐は、この企画を相田貞子が土岐に話さなかった理由を考えていた。企画の段階だか

ら話さなかったのかも知れない。しかし、廣川弘毅と二人三脚で始めた楽曲ビジネスの電

子版から廣川弘毅をはずすとなると、廣川弘毅は黙っていないはずだ。この企画に廣川弘

毅が気づいて、相田貞子とひと悶着あったとすれば、相田貞子やその信奉者である長谷川

正造や相田貞子の浮気相手だった城田康昭に、廣川弘毅を黙らせようとする動機は十分に

ある。土岐の正面に座っている西川も、城田の懐刀として廣川弘毅を排除する手助けをし

た可能性もある。

 土岐は、相田貞子と城田康昭の男女関係に話を戻した。

「新宿とかのフレンチ・レストランで会食することはありませんか?」

「城田が、ですか?」

「ええ」

「どなたと?」

「相田さんと・・・」

「・・・さあ、どうでしょうか?プライベートまでは把握していませんが、先ほども申

しあげたように、相田先生には本科生の音楽クラブの顧問とか新入教職員の校歌の歌唱

指導とか、テレビに流すコマーシャル音楽の総監督とか、音楽関係のことについていろ

いろと御相談にのっていただいているので、そういう意味で城田と接触があるだろうとは

思います。・・・わずかではありますが、相田先生には顧問料を支払っています」

「・・・ごく最近、城田理事長と廣川さんの間に、何かありませんでしたか?」

 そこで、西川はあたりをうかがうように声をひそめた。

「・・・あなたは、調査をお仕事にされている方のようなので、いずれ、知ることになる

と思うので、いいますけど、・・・実は、今年の春に、廣川さんの紹介で、内閣府賞勲局に

城田を推薦していただいたんですが、・・・夏ごろに、内閣府の方から、城田学園が著作権

の問題で訴訟を抱えているという理由と昨年設置した会計専門職大学院の入学者数の虚偽

報告で文部科学省から行政指導を受けたという理由と国家試験の合格者数を水増しして広

報活動に利用したことから経済産業省の是正勧告を受けているという理由で、褒章を見合

わせるという連絡がありまして、城田が推薦者や賛同者に、それに廣川さんにも、だいぶ

お礼をした関係で、それを巡って、多少トラブルがあったようです」

西川の証言から、黒田家の若妻の話を思い出していた。二カ月前、城田邸から廣川が憤

然と出てきた理由はそこにあるのかも知れない。褒章のトラブルと相田貞子を巡って、城田康昭には二重の意味で、廣川弘毅殺害の動機のある可能性があると土岐は思った。

「勲章というのは、政府の方から一方的にくれるものではないんですか?」

「いいえ、勲章ではなくて、褒章です。・・・それが、最近になって、民間からの推薦も

受け付けるようになったようです」

 土岐は最後の質問のつもりで聞いた。

「大変不躾で失礼な質問で申し訳ないんですが、城田理事長先生が二週間前の金曜日の夕

方、どちらにおられたか分かりますか?」

 西川は一瞬、不躾な質問の意味が分からないようだった。次の瞬間、意味を理解したよ

うで険しい表情のまま懐から分厚い手帳を取り出して、該当する日のメモを確認した。西

川の額に刻まれている三筋の皺が深くなる。

「とくに、記入はないですね。・・・ということは、理事長室におられた、と言うことだ

ろうと思います」

 相田貞子は新宿のフレンチ・レストランで城田と会食をしていたと証言していた。西川がそれを知っていたとすれば偽証していることになる。偽証しているとすれば西川が偽証する動機が土岐には分からない。表情を観察する限りでは嘘をついているとも思えない。西川の単なる思い込みなのか?あるいは相田貞子が偽証しているのか?貞子が偽証するとすれば、その動機は何か?彼女自身も言っていたが、偽証だとすれば、調べれば、すぐ分かることだ。そのことの真実を究明することなく、土岐は席をたった。いずれにしても秘書という立場上、西川が城田にとって不利な証言をするとは思えなかった。別れ際に土岐は尋ねた。

「相田さんが廣川さんに知り合ったきっかけが,彼女の高校時代のクラスメートが、廣川さんが証券アナリストの資格試験の勉強をしていたときの先生だったというんですが、その先生はいまどちらですか?」

「いつごろのはなしですか?」

「二十年ぐらい前ということなんですが・・・」

「そうですか」

 西川は思い出すように天井を見上げた。額に深い三本の皺を作りすぐ、目線を土岐に戻した。

「そのころは、教職員全員で、百名もいなかったと思うんで、名前を言っていただければ・・・」

「それは聞いていないんですが・・・当時、最高齢の合格者ということで話題になったらしいんですが・・・」

「いま、うちの教職員は全国で二千名を超えています。当時の教員は殆ど管理職で、全国主要都市の校長か、ここの本部の理事クラスになっています。わたしは、その話の頃はここの受験生で、公認会計士を目指して勉強していました。廣田さんが受験生だったという話は、後になって聞いたことがありますが、廣田さんを教えた教員が誰かは聞いたことがありません。それに、やめて行った教職員も多くて、延べ人数で言うと、一万人は超えていると思います。その教員がアルバイトであったとすると、当然、現在はこの組織の一員ではないので・・・」

 それを聞いて土岐は建物の外に出た。いずれにしても、男と女が一緒に食事することには性的な意味合いがあると土岐は考えていた。土岐の偏見かも知れないが、そういうものを抜きにして、男女が飲食をともにすることは、土岐には考えられなかった。そんなことを考えながら、そのまま帰宅した。

 帰宅してから城田学園が抱えている問題をインターネットで調べてみた。西川が言っていた著作権問題は、簿記学校で使用している教材が会計学の大御所の著作をパックたことから訴訟になっていることらしい。会計専門職大学院の入学者数の粉飾は、文部科学省からの補助金欲しさに、城田学園の職員を入学者名簿に入れたことらしい。国家試験の合格者数の水増しは、実際には城田学園の授業を受けないで合格した受験生でも、パンフレットや試験の模範解答を請求しただけで合格者数に入れていたということらしい。どうやら、大学院は設置したものの、営利追求を旨とする専門学校的体質は変わっていないようだ。

 ついでに、公認会計士の長瀬啓志が城田学園の監査を担当していることを役員一覧を見て知ることができた。


九月三十日


 翌朝、土岐は8時過ぎに起きると、パジャマ兼普段着の紺のジャージー姿のまま、前日の日誌をワープロで打ち込んだ。


〈調査日誌 九月二九日 火曜日〉

  午前十一時  蒲田駅より中目黒経由で茅場町駅下車

  午後十二時  インサイダーにて双葉智子に聞き取り

  午後一時   茅場町駅にて岡田駅務員に聞き取り

 午後二時   川崎駅下車。武井元運転手に聞き取り

 午後三時   川崎駅より品川駅経由で東西線落合駅下車

 午後四時   落合斎場近くにて金田民子に聞き取り

 午後五時   落合駅より高田馬場・目黒駅経由で南北線白金台駅下車

 午後六時   白金台高校にて廣川浩司に聞き取り

 午後六時半  白金台駅より高田馬場駅下車

 午後七時過ぎ 城田簿記学校・本館にて西川秀介に聞き取り  

 午後九時   事務所帰着


 ついでに電子メールをチェックすると山のような迷惑メールの中に海野からのメールが混じっていた。うっかり削除してから気付き、削除ファイルからそのメールを開けて見た。

@調査のほうはどう?順調に稼いでいるか?見城仁美の家族関係だが、仁美は二十九歳で、父親は見城敦で、葛飾区下小松町で生まれ、五年前に五十五歳で死亡している。母親は中井愛子で五十歳、墨田区向島で生まれ、十五年前に離婚して旧姓に戻っている。現在、若年性痴呆で群馬県水上の特養に入居している。したがって見城仁美は戸籍上は父親に付いて行ったことになる。仁美は錦糸町生まれで兄弟姉妹はいない。見城敦の父親、仁美の祖父になるが、名前は長田オサダ賢治で、かなり高齢で、八十二歳だが存命のようで、新潟県西頸城郡糸魚川町大字横町の生まれだ。現在もそこに住民票がある。敦の母親、仁美の祖母は見城花江で、長田賢治と同じ町で生まれている。長田賢治と離婚後、三十年前に五十一歳で死亡している。中井愛子の母親は中井和子で、本所で生まれている。これも二十五年前に五十四歳で死亡している。中井愛子は中井和子の戸籍上、長女もしくは次女といった表記ではなく、女となっているので、非嫡出子だ。したがって、中井愛子の父親は分からない。ついでに、頼まれてはいないが、廣川弘毅の方はすでに調べてあるので付け加えておく。弘毅は京都府左京区田中門前町の生まれだ。正妻の圭子は敦賀の生まれで、旧姓は平田で三十五年前に死亡している。長女が金田民子で五十一歳、五年前に金田義明と別居し、現在、財産分割をめぐって離婚調停中だ。長男が廣川浩司で五十歳、二人とも台東区谷中清水町の生まれで、どっちにも子供はいない。つまり、弘毅に孫はいない。浩司は数年前に藤野桜と結婚している。弘毅と佐藤加奈子との間には子供はいないようだ。佐藤加奈子の戸籍は調べていないが、必要であれば調べる@

 メールを読み終えて、金田民子と廣川浩司の外見の若さに驚いた。土岐はとりあえずお礼の返信をした。

@戸籍調査ありがとうございました。最近は住民票の閲覧も戸籍の閲覧も面倒になったので助かります。ところで、現在までのところ、廣川弘毅と直接関係のありそうな人物を一通りあたってみたのですが、これと言って有力な証言は得られませんでした。総会屋関係の情報も新聞や雑誌などで得ることはできませんでした。廣川弘毅が総会屋として活躍していた当時のことを知っている方がおられたら、ご紹介願えれば幸甚です。また、廣川弘毅の元運転手の武井孝の話では、廣川弘毅が〈開示情報〉を郵送ではなく直接手渡しで配付していた会社が大手町の逓信ビル近くの雑居ビルにあったということですが、これについて何か情報はないでしょうか。どんなささいなことでも、あれば、ご返信いただければ幸いです@

送信した後、海野のメールを読んだだけでは人間関係がいまひとつよく把握できなかったので、土岐は調査結果も含めて、存命中の者を枠に入れて簡単な図を描いてみた。

見城仁美の家系の複雑な様子が一目で分かった。両親も父方の祖父母も離婚し、母親は非嫡出子で特別養護老人ホームに居住している。仁美の他人に対して極端に閉鎖的な態度が家族関係に根ざしているであろうことが容易に想像できた。自らの生い立ちのありようをそのまま外部に対して何の取り繕いもせずに、オブラートに包むこともなく、むき出しにして生きているということは、それだけ精神的にはまだ子供ということだろうか。それとも、廣川弘毅の轢死を目撃したことが本当にPTSDをもたらしたということだろうか。土岐にとって、見城仁美が最も気になる存在に思えた。















十時ごろ、土岐がおそい朝食をとっていると、内部を伺うように事務所のドアを控えめにノックする音が聞こえた。

「はい、少々お待ちください」

とドアに向かって言いながら、あわてて事務所の応接セットの上に脱ぎ捨ててあったパンツとジャケットを隣の部屋に投げ入れて引き戸を閉めた。ドアを開けると見知らぬ女が立っていた。若い女の来訪は滅多にないことなので土岐は不調法に小さく頭を下げた。

「どちら様で?」

 女は鼠色のデニムのパンプスで事務所に足を一歩だけ踏み入れて名刺を差し出した。

〈USライフ保険株式会社 外務調査員 大野直子〉

とあった。

「こういう者ですが、少々お時間よろしいですか」

 身長は160センチ足らずだが、肉感的で、その分大きく見えた。土岐は惹きつけられるように、そのボディラインを眼でなぞっていた。

「・・・どうぞ」

と言いながら、土岐は押し込まれるように大野直子を事務所に招き入れていた。直子は机の上の食べかけの食パンを目ざとく見つけた。

「あら、お食事中でしたの。ごめんなさい」

「ちょうど、終わったところで・・・」

 直子は土岐に勧められる前に黒い合成革のソファーに腰掛け、短めのグレーのタイトスカートの足を大胆に組んだ。男に与えるその効果を十分に熟知している所作だった。ピンクのラムスキンジャケットの前ボタンをおもむろにはずす。白いタートルネックが胸のラインに卑猥に食い込んでいる。直子が余裕ありげに言う。

「・・・調査のほうはいかがですか?」

「調査のほうって?」

 土岐は無意識のうちにとぼけていた。直子は眼だけで快活に笑った。

「あらやだ、とぼけているんですか?それとも守秘義務のつもりなんですか?」

 土岐はボディラインがはっきりしている直子のどこに目をやっていいのか戸惑いながら、彼女の向かいのアームチェアに座った。

「海野刑事が扱っている事案のことですか?」

「いいえ、佐藤加奈子さんに依頼された件です」

「同じことじゃないですか」

「いいえ、海野刑事はもう事案を抱えていません」

と直子はきっぱりと滑舌さわやかに言う。土岐は改めて直子の顔を見た。あまり見かけないほど四角い顔だ。目と口が大きい。その割に鼻はそれほど大きくない。くっきりとした二重瞼。大きめの唇がグロスで艶やかに光っている。窓の明かりが瞳に反射してキラキラ輝いている。その瞳がよく動く。土岐はすべてを見抜かれているような威圧感を覚えた。

「・・・で、ご用件は?・・・」

「すみません。その前に、お水を頂けるでしょうか?」

「お水でいいんですか?お茶かコーヒーでなくって・・・」

 直子は言葉を飲み込むようにして笑う。

「いえ、そこのキッチンを見た限りでは、ポットが見当たらないので、お茶もコーヒーも時間がかかりそうに見えたので・・・」

「冷蔵庫に缶コーヒーがありますが、冷たいのでよろしければ・・・」

「ええ、それで結構です」

 土岐は冷蔵庫の中から缶コーヒーを出して、コップに注ぎ、テーブルの上に置いた。

「・・・来客はほとんどないんで、こんなものしかないんです」

「ありがとうございます。・・・昨日、海野刑事と祝杯をあげたので、少し、二日酔い気味で、のどが乾いちゃって・・・」

「日本橋の地下のラーメン屋ですか?」

「あら、ご存じなんですか、あのお店を。・・・海野刑事も警察が斡旋してくれた中規模マンションの管理人の職じゃ、不満みたいで、・・・うちの会社で調査員をやりたいと言うんで、わたしが口利きをすることになったんです」

と言いながら、直子は缶コーヒーを一気に飲み干した。

「・・・自殺で処理したお礼ということですか?」

 直子は空になったコーヒー缶をアクリルのセンターテーブルの上にコツンと置いた。

「いえ、そういう因果関係はないんです。元刑事であれば、うちの会社としても警察情報が入手しやすくなるんで歓迎だし、なんと言っても、捜査のプロでしょ。・・・給与に見合う仕事が期待できますよね」

 土岐の頭の中でパチンと何かが弾けた。少し興奮気味に話す自分を抑制できなかった。

「・・・見城仁美はどうやって買収したんですか!」

「そんなことしてませんよ」

 直子は顔の前で手のひらを大きく左右に振り、激しく否定した。顔の大きな造作と比べると、小ぶりの手だ。大根役者の下手な芝居のような否定の仕方だ。不自然なほど大仰なしぐさに見えた。土岐は胃の中から不快感がおくびのようにむかむかとこみあげてくるのを感じていた。

「見城仁美は最初の証言では殺人現場を見ていたと、海野刑事は言ってましたが・・・」

「そうですか。人の記憶なんて曖昧で、思い込みでゆがむこともあるし、むしろ、後から冷静になって論理的に記憶を構成した方が真実に近いことが多いんです」

「そんなこと、聞いたことないですね」

と言いながら土岐のこめかみを、

〈強姦でもしてやりたい〉

という凶暴な思いがかすめた。直子はそれを知らぬげに小鼻をひくつかせて、平然と話す。

「ともかく、警察のほうは自殺で処理したので、あなたがいまの仕事を長引かせようと頑張ると、民事で争うことになりますね。・・・ちなみに、宇多弁護士とうちの会社の顧問弁護士は研修所で同期だったというのはご存じ?」

「それがどうかしたんですか?」

「先日、昼食を一緒にする機会があって、そのとき佐藤加奈子さんから着手金を受け取ったら、裁判に持ち込まないで、早々に示談で済ませることに話がついたみたいですよ」

「それは、弁護士の職務義務違反じゃないんですか?・・・宇多弁護士のやりそうなことだけど、・・・ということは、宇多弁護士はあなたの会社からもいくらか貰うということですか?・・・そんなの、ばれたら、弁護士資格剥奪でしょ」

「だって、刑事で自殺と処理された事案を、民事で事件にしようとひっくりかえすのは、困難だと判断すれば、合理的な示談じゃないんですか?佐藤加奈子さんだって、無駄な弁護士費用を払わなくて済むし、・・・むしろ宇多弁護士が悪徳弁護士だったら、勝ち目のない裁判をだらだら引き延ばして、弁護費用をたくさん頂こうとするんじゃないんですか?」

言外に、

〈どうですか〉

と得意げに言いたげな直子の滑舌によどみがない。頭の動きと舌の動きがシンクロナイズしている。土岐は興奮気味で、直子と言い合ったら勝ち目がないという自覚から、どもり気味になる自分を苛立たしく感じていた。

「・・・で、ご用件はなんですか?」

 土岐はもう一度同じ質問をした。直子は肩をすくめた。

「・・・というわけで、佐藤加奈子さんにもこうした事情はすでに説明しました。わたしの説明にはまだ完全に納得はしていないようでしたが、・・・金曜日までには、納得していただけるかも知れません」

「だからなんですか?」

 土岐は興奮してくる自分を抑えきれなくなっていた。土岐の興奮の高まりに応じて、直子の態度が調子づいて来るように見えた。

「彼女が金曜日にどのような判断をしようとも、あなたが今作成している報告書をわたしの方で買い取らせていただきたい、というのが用件です」

 直子の言っている意味の真意を理解しようと土岐は彼女の良く動く瞳を覗き込んだ。

「手を引けと言うことですか?」

 土岐は怒気を込めて言ったが、直子にたじろぐ様子はない。しらっとしている。

「いえ、そういう意味ではないんです。おそらく、あなたの報告書の結論は、廣川弘毅さんの死について事件性はない、ということになると思うんです。でも、あなたとしては、事件性があるとしないと、仕事がなくなるわけで、その補償をこちらでしましょうということです」

「・・・だから、事件性はないという結論にしろ、ということですか?」

「いえ、そんな、・・・買収しようというのではないんです。結論の分かったことで、無駄な裁判をするのはやめて、お互い、裁判費用を節約しましょうということなんです。裁判になれば、喜ぶのは弁護士だけじゃないですか」

 土岐は知らず知らずのうちに直子を睨みつけていた。直子の表情に血の気を帯びてくる土岐におびえるような様子が一瞬見られた。

「誰の指図も受けない。俺は俺のやり方で調査をやる。だからこうして、誰とも徒党を組まないで、一匹狼でやっているんだ。金だけがほしいんだったら、こんな儲からない方法で仕事はしていない」

 土岐はつい本音を言ってしまっていた。大きな直子の目がさらに大きくなっていた。瞳孔が白眼の中央で蠕動していた。土岐の剣幕に少し唖然としている様子がうかがえた。

「悪い話ではないと思います。いつでも調査報告書を買い取りますので、名刺の電話番号までご連絡ください」

と言いながら直子は立ち上がっていた。直子が前かがみになったとき、ボリューム感を出したパーマの髪にスプレーされた香料が土岐の鼻先をかすめた。土岐は思わず直子に飛び掛って押し倒そうとする衝動に駆られた。階下では印刷機が回転する騒音が土岐の事務室の足音を消している。直子が多少叫んでも、耳を聾する輪転機の傍らに立っている高齢の工員には聞こえない。土岐はかろうじて暴力的に下腹部から突き上げてくるような衝動を抑え込んだ。

 直子が去った後、土岐はドアを力任せに思い切り蹴飛ばした。つま先に鋭い疼痛が走った。腹の虫は多少おさまったが、つま先の痛みが土岐の浅慮を後悔させた。一回りほども年下の若い女に足元を見られ、軽くあしらわれた情けなさに、悔しい思いが腹の底にとぐろを巻いていた。

十一時になっていた。ジャージーを脱いで、デニムパンツとジャケットに着かえていると、携帯電話のメール着信音が聞こえた。メールを開けると、パソコンからの転送メールだった。

@廣川弘毅の総会屋当時のことを知る人物だが、吉野幸三という元刑事だ。昭和ひとけた生まれで、定年退職してからかなり年がたっている。もうぼけているかも知れないが、足立区の保木間に住んでいる。住所は保木間署で聞いてくれ。保木間署の電話番号は以下の通り@

 メールは海野からだった。メールを読みながら、海野が定年後の就職先について土岐と大野直子に二股をかけていることを確信した。生命保険会社なら高給が保証されるが、自由はない。調査事務所なら低給で、しかも毎月定日に給付されるという保証もないが、自由がある。海野は恐らくその選択で悩んでいるはずだ。土岐は海野の迷いを責める気にはなれなかった。同じ迷いは土岐も経験したからだ。土岐は安定的な高給よりも、不安定で低給だが、自由を選んだ。生活に窮すると、その選択をうっすらと後悔することがなくもない。大野直子のように保険会社の外務調査員なら、高給を得ることは可能であろうが、そういう選択をすれば、過去の自分の選択の正しさを否定することになる。自らの人生の選択の一貫性を肯定し続けることが、今の土岐にとっては心の支えだった。

 土岐は保木間署に電話して、定年退職した吉野幸三元刑事の連絡先を聞き出した。教えてくれたのは携帯電話の番号だった。その番号に電話すると老女の声が出てきた。

「はい、吉野です」

「突然すいません。海野刑事の紹介で電話している土岐と申します。吉野さんにちょっとお話を聞きたいことがありまして、電話したんですが、ご主人はご在宅でしょうか」

「あいにく主人は出かけております」

「何時頃お帰りになるでしょうか」

「今日はお弁当を持って行ったので、夕方にならないと帰らないと思います」

「お弁当持参と言うと、釣りかなんかに出かけられたんですか?」

「いえ、囲碁です。町会の会館の碁会所に出かけたんです。ぼけ防止だと言って、毎日のように出かけております。まあ、それはそれで、家でごろごろされるよりはいいようなもんですけど・・・」

「ご主人は携帯電話をお持ちですか?」

「持ってません。持ってくれるといろいろと便利なんで息子夫婦が買ってくれたんですが、

『仮釈放中の前科者がGPSを持たされているようなもんだから、携帯電話は携帯しない』

って言い張って、持ち歩かないんです。これがその電話なんですけど・・・」

「急な連絡はどうすればとれますか?」

「町会の会館に電話すれば・・・呼び出しのような感じになるんですけど・・・」

「すいません。その町会の電話番号を教えていただけますか?」

 土岐は電話番号を控えて、一旦携帯電話を切り、町会に掛けた。町会の事務員のような老人が咳払いしながら出てきた。

「はい、保木間町会会館です」

「ちょっと、呼び出しをお願いしたいんですが、碁会所の吉野幸三さんをお願いできますか?保木間署の紹介で、土岐と申します」

「吉野さんね。はい、ちょっとお待ちください。トキさんですね」

 電話を待っている間、ジュピターが流れていた。冒頭の数小節が繰り返し聞こえてきた。二、三分待たされて、先刻の老人の声が出てきた。

「すいません。いま対局中で、手が離せないというんで、用件だけ聞いといてくれとのことですが・・・」

「そうですか・・・それじゃ、お昼頃そちらにお話を聞きに伺うと伝えてください。お弁当を持っているということで、夕方までそちらにおられると思いますんで・・・」

「分かりました。そう伝えます。トキさんでしたよね」

「そうです。海野刑事の紹介です」

 土岐は十一時過ぎに蒲田駅から京浜東北線の快速に乗った。

上野駅で日比谷線に乗り換えて、竹ノ塚駅で降りた。そこの駅員に保木間の町会会館の場所を聞いた。東口から日光街道に出て、交差点を渡った先が保木間になる。バスを使えば数分の所と聞いたが、あえて歩くことにした。

駅前はどこにでもあるような商店街だったが、遠ざかるにつれて住宅が増えてくる。しかし、町工場のような建物や、中継基地の倉庫のような設備があり、ところどころに商店があったりして、特徴のはっきりしない町だった。

駅から十五分ほど歩いたところで保木間会館に着いた。三階建てのモルタル造りで、廃屋になった縫製工場のような雰囲気があった。薄暗い正面玄関を入ると受付があったが、誰もいない。一階は待合室のような造りで、新聞や雑誌が閲覧できるようなスペースがあり、全体で十坪ぐらいあった。右わきに階段と身障者用の小さなエレベーターがあり、上の方から人の気配がうかがえた。土岐はあたりに人影を求めながら、階段を上って行った。左右の丈夫なステンレスの手すりにつかまりながら、二階に上がると、全フロアが碁会所になっていた。よく見ると、将棋をさしているグループもあった。二〇人ほどのうち、三分の一ぐらいの人が弁当やパンを食べながら対局を見物していた。囲碁のグループは八人が対局していた。土岐はそのグループの中で一番階段に近い場所で見物している黒いジャージーの老人に声をかけた。

「すみません。吉野幸三さんはおられますか?」

 その老人は怪訝そうな目つきで土岐の顔を見上げると、おにぎりを持った手で、窓際の方を指示した。

「あそこで、弁当を食っているよ」

 みると、グレーのジャージーの上にフリースの紅いチョッキを着て、サンダル履きで、左手に弁当箱、右手に箸を持って、ぶつぶつ呟いている皺だらけの老人がいた。歯がないのか、顎がひしゃげている。無精ひげが薄いもみあげとつながり、頭髪が薄茶の苔のように頭皮にへばりついていた。土岐は近づいて声をかけた。

「お食事中、すいません。吉野さんですか?」

 老人は即答しない。いぶかしげに土岐を見上げる。右手の箸が宙に浮いたままだ。

「・・・そうですが、どちらさんで?」

 入れ歯のせいか、大きな飴玉を口の中で転がしているような話し方だ。

「茅場署の海野刑事の紹介で、お話をうかがいに来た土岐と申します」

 そう言いながら、名刺を渡した。海野刑事の名前を聞いて、老人は箸と弁当箱を空席になっている碁盤の上に置いた。

「茅場署だって?海野はそんなところに飛ばされたのか、・・・もう十年ぐらい会ってないけどね」

「もし、お時間を頂けるようでしたら、お食事が終わり次第、伺いたいことがあるんですが・・・」

「食事ね。とっとこの餌みたいなばあさんの弁当なんか、食っても、食わなくってもどうでもいい」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        

と言いながら、吉野は隣の碁盤をはさんで向かいに座るように土岐にうながした。

「すいません。廣川弘毅の件で、ぜひ、お話をうかがいたいんです」

 吉野はアルミの弁当箱のふたを閉じ、箸を箸箱にしまって改めて土岐の顔を見上げた。

「やっぱりそうか。・・・廣川弘毅のことなら、海野に全部話したけどな」

「たぶん、吉野さんが話されたことは、海野刑事から先日伺わせてもらったと思うんですが、それ以外に聞きたいことがありまして・・・」

 吉野は土岐の名刺を眼から離したり、遠ざけたりして見ている。老眼鏡をはずして、名刺を鼻にこすりつけるようにして見ている。

「・・・土岐調査事務所?・・・何を調査しているの?」

「廣川弘毅の死因を調査しています」

「死因は轢死だろう?」

「ええ、事件の疑いがありまして・・・」

「そりゃそうだ、あいつが自殺するわけがない。・・・そんな玉じゃない」

「しかし、海野刑事は自殺で処理したようで・・・」

「よくある話だ。俺が若いころはざらだった。重大事件が勃発すると、事件の疑いがあっても手が回らないんで、自殺で処理されることがよくあった。定年でやめるころは、そうもいかなくなってきてはいたが、・・・しかし、下山事件ですら最後は自殺で処理された。というか、そういうキャンペーンをはったのは毎日新聞で、警察は結局、うやむやにしてお宮に入れた。轢死という点では、同じだな」

 滑舌がよくないのは入れ歯のせいらしい。高齢にもかかわらず、話には張りがあった。土岐はおもわず背筋を伸ばして聞いていた。

「・・・で、この数日間、関係者に聞き込みをしたり、古い資料を当たったりしているんですが、事件だとして、容疑者の当たりが全くつかない状態で、・・・動機を持っていそうで、まだ手の付いていないのが、廣川弘毅が総会屋であった頃の関係者で・・・その辺のお話を伺えたらと思いまして・・・」

「あいつは広い意味では総会屋と言えるかも知れないし、会社ゴロと言えるかも知れないが、ちょっと、いわゆる総会屋とは違うんだな。だいたい、あいつは株主総会には一度も出ていないし、株付けもしていない・・・上場企業の株式も持っていないはずだ」

「じゃあ、どういう形で収入を得ていたんですか?」

「それがよくわからんのだ。たしかに開示情報とかいう雑誌を発行し、広告やら購読料やらを集めてはいたが、問題になるほど法外な金額ではなかった。若干高いかなという程度だ。広告を出していたのは一部上場を中心とした百社程度で、年間一社当たり十万円として、必要経費は購読料で賄うとすれば、年間一千万円程度の純益があったはずだ。しかしこの一千万円という金額は当時の大物総会屋と比較すれば決して大きな金額ではない。少ない金額ともいえないんだが、株式を持っていないんだから、昭和五十六年の改正商法でも摘発できなかった。そもそも恐喝の実態がない。企業からの告発もない。まあ、大企業にしてみれば年間十万円程度は大した金額ではない。ことを荒立てて、ブランドに傷の付くのを恐れたということもあるだろう。まあ、これはうわさ話だが、やつが大企業から会費のような金を引き出した源はキャノン機関がらみだとか、M資金関係だとか、軍の隠退蔵物資だとか、いろいろあった。どれも高度経済成長期を迎えたころ雲散霧消した単なるうわさだ。四、五十年前の話だ。あの頃は日本の社会全体が騒然としていて、魑魅魍魎が跋扈していた」

 吉野の話を聞きながら、土岐は手帳に、

〈キャノン機関、M資金、隠退蔵物資〉

とメモした。あとで事務所のパソコンで検索することを考えていた。吉野に聞いてもよかったが、話の腰を折りたくなかった。調べてみればわかることをいちいち聞くのは調査事務所長としての土岐の沽券にかかわった。

吉野の話が続く。

「商法改正以後、特に平成九年の第二次改正以降、月刊だった開示情報を季刊に縮小し、社歌ビジネスを始めた。あいかわらず、株付けはしなかったから、狭義の総会屋の範疇には入ってこなかった。その辺をもう少し突っ込みたかったが、定年になってしまった。一応後任にはそのことを伝えて警察手帳を返還したが、海野もそのうちの一人ではあったが、あいつはどうも腰が定まっていないようで、刑事気質は持ち合わせてはいるんだが、要領よく立ち回ろうとする姿勢もあって、昔っからぶれの激しい男だった」

 土岐は話題を海野から開示情報に戻した。

「そもそも、開示情報という雑誌を発刊する契機は何だったんですか?」

「それがよくわからない。いずれにしても、顔の広い男だった。顔の広さはやつの該博さにもよっていた。とにかく話題が豊富だった。国内の政治経済、世界の政治経済、文学から科学までよく知っていた。一部上場企業の社長の興味に合わせて、何時間でも話のできる男だった。とても高卒の俺なんか、足元にも及ばなかった」

「そういう男が伝説の総会屋と呼ばれる理由は何だったんですか?」

「・・・伝説の総会屋?・・・初耳だな」

「海野刑事がそう言ってました」

「そうか、やつのことをよく知らない連中が勝手につけたあだ名だな。そもそも、昭和五六年の第一次商法改正以前は、総会屋とは、株主が株主総会で株主権の濫用によって、ほかの株主の発言や議決権の行使を妨害する者、という規定があった。つまり、総会屋は株主でなければならなかった。それが、第一次商法改正では、利益を供与する会社側も刑事上の制裁を受けることになった。それでも総会屋はなくならなかった。最大手の銀行や最大手の証券会社が商法改正後も総会屋と付き合いのあったことは、世間周知の事実となって事件化した。そこで、平成九年の第二次商法改正で、

『会社はなんぴとに対しても株主の権利行使に関し財産上の利益を供与してはならない』

と規定された。この条文の中の、

『なんぴとに対しても』

というのは、株主に限らないということを意味している。これで、廣川弘毅も網にかかるだろうと思っていたら、やつは開示情報を月刊から季刊に切り変えた。広告を出しているのも一〇数社に激減した。やつの資金源はこれで断たれた。ついにやつに縄はかけられなかったが、法律の脅しで、おとなしくさせることができた。それを見届けて刑事をやめたが、廣川弘毅は、ほそぼそと幻の総会屋を続けていたということだな。最後は無残な死に方をしたが、本望じゃないか。やつはやりたいことを、やりたいようにやってきたんだから・・・」

 話の途中で吉野の口から飯粒が飛んで出た。土岐は見て見ぬふりをした。

「最後まで残った十数社というのは廣川弘毅とどういう関係なんですか?」

「それは知らん。定年退職後の話だ」

「最後に、・・・廣川弘毅を殺害する容疑者に心当たりはないですか?」

「殺害するのならとっくの昔にやっているだろう。今さら殺しても誰の利益にもならないんじゃないか?・・・よくわからん」

「容疑者なき殺人ということですか?」

「さあな。おれもここ二十年近く廣川弘毅とは会っていないんで分からんが、自殺かも知れないな。正直俺も、体のあっちこっちの具合が悪くって、生きているのがめんどくさくなることがある。・・・もう十分生きた。この世に大した未練もないし、かかりつけのやぶ医者に、

『手術しないと余命がない』

と言われても、なんの気負いもなく、

『ああそうですか』

と答えるだけだ。無駄な手術なら、かみさんに多少金を残してやりたいんで、断ろうかと思っている」

 隣の対局が終ったようだった。対局者が白と黒の目を数えている。白が勝ったようだ。勝った方が吉野に声をかけた。

「吉野さん一局やるかい?」

「おう」

と吉野は答えた。土岐は席を立った。午後一時を過ぎていた。土岐が階段に向かいかけたとき、吉野から声が掛った。

「一つだけ、記憶に鮮明に残っている事案がある。あれは、昭和四十年代だったかな。インサイダー疑惑の事案に廣川弘毅が絡んでいた可能性があった。神州塗料という当時大阪が本社だった東証一部上場企業が棚卸で粉飾決算をした疑いを総会ででっち上げた野党総会屋がいて、紛糾の揚句、後日臨時総会を開催することになって、その間、空売りで神州塗料の株価が暴落し、数億円の金が動いた。当時はインサイダー取引はざらだったし、借名口座も横行していたから、証取法での摘発はできなかった。棚卸の粉飾の情報がどこから漏れたか、俺は捜査していたが、どうも、吹田工場の工場長らしいということがつかめた。総会直前に工場長と飲食していたのが、廣川弘毅だ。その工場長は、

『そういう情報はいっさい廣川弘毅には漏らしていない』

と言い張った。かりに、工場長が漏らさなかったとしたら、廣川弘毅は棚卸の粉飾があるらしいという情報をどこから得たのか?あるいは、偶然だったのか?そもそも廣川弘毅自身は粉飾決算の事実を知らなかったのか?それにしても廣川弘毅は工場長となぜ総会前にわざわざ飲食したのか?・・・これを契機に似たような事案を玉井刑事と一緒に、廣川弘毅がらみで追及していたが、どれも限りなくクロに近かったが、当時の商法や証取法や捜査体制や慣行に阻まれて、ついにしっぽがつかめなかった。天からの声も結構あった。ということは、事案が政界がらみだったということだ。そうこうするうちに、やつの影はやつの高笑いとともに遠ざかって行った。・・・こんなことで参考になるかな」

「・・・それで、その工場長というのは、なんという人ですか?」

「坂本茂とか言った。・・・俺より少し若かったから、まだ息災かも知れないが、とっくに定年を迎えているだろうな」

「しげるというのは、長嶋茂雄の茂ですか?」

「そうだ。そいつについては、玉井要蔵の方が詳しいかも知れないが、玉井要蔵はいまどうしているのかな。とっくに定年退職している筈だが・・・」

 土岐はさっそく手帳に、

〈神州塗料・吹田工場長・坂本茂 玉井ヨーゾー元刑事〉

とメモし、吉野の背中に礼を言って、碁会所を後にした。

 土岐は竹ノ塚駅から日比谷線で北千住駅で乗り換えて、千代田線の大手町で降りた。

逓信ビルの近所で、雑居ビルを探した。元運転手の武井孝が言っていたビルらしい建物がすぐ見つかった。御影石の定礎のプレートに、

〈船井ビル:昭和五十五年竣工〉

と刻まれてあった。いかにも安普請のビルが預金残高で日本第一位の都銀の本店と売上高で日本第一位の八紘物産の本社の巨大ビルに挟まれて、周囲の繁栄から忘れ去られたようにひっそりと建っていた。中途半端な敷地だったため、バブル経済の盛りに地上げに遭わなかったようだ。

正面玄関からエレベーターホールを抜けて、そのまま裏手の通用口のメールボックスの前に行った。八階までテナントがふさがっていた。一階が短資会社の事務室、二階と三階が公認会計士事務所、四階と五階が一級建築士事務所、六階と七階が八紘物産の第二総務部、八階が玉井企画の事務室になっていた。メールボックスのネームプレートを見ながら、土岐は不意に心臓の鼓動が速くなるのを覚えた。土岐はもう一度確認した。公認会計士事務所のオーナーは長瀬啓志、一級建築士事務所のオーナーは船井肇、玉井企画の代表は玉井要蔵になっていた。土岐は保木間で吉野元刑事の聞き取りでメモした手帳を開いた。

〈玉井ヨーゾー元刑事〉

という書き込みがあった。吉野とともにマル総担当の玉井要蔵がなぜこのビルのテナントになっているのかという理由が皆目見当がつかなかった。そもそも同一人物なのかどうか。

土岐は、奥沢の大田区立図書館と茅場町の有価証券図書館で、〈開示情報〉という雑誌の広告でこのビルのテナントの名前を見たような気がした。広告では、〈アイテイ〉に目を奪われていたが、長瀬啓志公認会計士事務所も船井肇一級建築士事務所も玉井企画も、散発的に、〈開示情報〉という雑誌に広告を掲載していたという記憶がある。廣川弘毅がこのビルに運転手を伴って、〈開示情報〉という雑誌を持ってきたとしても、それが広告主であれば何の不思議もない。しかし、なぜここだけ郵送でなかったのか?兜町の開示情報社から車で五分程度の距離だから、わざわざ郵送にしなかったという理由は成り立つかも知れない。しかし、そうであるとすると他にはなかったのか?大手町には一部上場企業の本社や本店がひしめき合っている。第二次商法改正で、そうした大企業への定期購読のとりつけが困難になったとしても、なぜこのビルに広告主が集中しているのか?八紘物産は東証一部上場の大企業だが、公認会計士事務所と一級建築士事務所と玉井企画は上場企業ではない。

土岐はビルの様子を偵察してみることにした。一階の短資会社の事務室はディーリングルームではなく、ディーリングの事後事務を集中して処理しているところのようだった。一九九八年の外為法改正以降に二、三社の短資会社が合併してできた会社であることが社名から推察できた。土岐は非常階段を二階に上った。二階は公認会計士事務所の応接室らしいことがドアの様子から推測できた。ワンフロアのスペースは一五〇平米ほどしかない。三階は資料室とスタッフの待機場所らしかった。四階は一級建築士事務所の応接室、五階は資料室と設計室に充てられているようだった。六階は八紘物産の第二総務部の事務室で社員が事務を取り行っている雰囲気があった。七階は八紘物産の名誉相談役室になっていた。

〈馬田重史〉

というネームプレートがあった。八階は玉井企画の本社事務所になっていたが、ドアの表示には、

〈玉井企画〉

という会社名のほかに、

〈特暴連大手町支部〉

1階短資会社

(事務室)

2階公認会計士事務所

(応接室)

3階公認会計士事務所

(資料室)

4階一級建築士事務所

(応接室)

5階一級建築士事務所

(資料室・設計室)

6階八紘物産第2総務部

(事務室)

7階八紘物産名誉相談役室

8階玉井企画

特暴連大手町支部

という記載もあった。土岐はそれらをすべて手帳にメモした。












メモした後で、この情報を海野に携帯メールで伝えるべきかどうか土岐は逡巡した。海野が既に大野直子の手に落ちているとすれば、この情報を大野直子に漏らす恐れもある。この情報が廣川弘毅の事件とどういう関係があるのか、今のところ全く分からないが、大野直子に先手を打たれる危惧がある。実際、見城仁美と海野刑事は大野直子に取り込まれたようだ。しかし、一匹オオカミの土岐にとって唯一協力を恃める海野が使えないとなると、その損失は大きい。

土岐はとりあえず、しばらくの間は海野への情報提供を見合わせることにした。

 船井ビルを出てから、群馬県水上の特別養護老人ホームの電話番号を携帯ウェッブで調べて電話してみた。若い女の声がすぐ出てきた。

「はい、水上ホームです」

 大手町か水上か、いずれかの電波の状態が悪いのか、声が途切れている。

「中井愛子さんに面会したいんですが、面会時間はどうなっているんでしょうか」

 女の声のトーンが急に暗く変わった。

「中井愛子さんは先週末、退室しましたけど・・・」

 一瞬、土岐は言葉に詰まった。

「・・・どちらへ行かれたか分かりますか?」

「船橋法典とかいうところのホームです」

「千葉県の船橋ですか?」

「よく知らないんですが、そのあたりだと思います」

「どうも・・・」

 土岐は船橋法典の特別養護老人ホームの電話番号を調べて掛けてみた。若い男の声が息を弾ませて出てきた。

「はい、船橋法典ホームです」

「あのう、中井愛子さんという方が、最近来られたと思うんですが・・・」

「ええ」

「面会したいと思うんですが、面会時間を教えてもらえますか?」

「中井さんはいわゆる重篤なご病人ではないので、受付の開いている時間でしたら、いつでも結構なんですが・・・」

「受付時間は何時から何時までですか?」

「朝の十時から、夕方の五時までです」

「そうですか、それじゃあ、これから伺います」

「はい、構いませんが・・・」

と言って二、三秒で切れた。

 中井愛子が水上から船橋に移動したことは土岐にとっては幸いだった。水上であれば一日がつぶれる。交通費もばかにならない。船橋法典ならば半日もかからない。

 大手町の地下の穴倉のような飲食店街でラーメンを食べて、東西線に乗り込んだのは二時過ぎだった。


東西線の終点の西船橋駅で武蔵野線に乗り換え、船橋法典駅に五十分ほどで着いた。跨線橋の上に駅舎があった。駅員に特別養護老人ホームの所在地を聞くと、

「通りを隔てたスーパーマーケットの裏手にある」

と言う。駅員の指さす方角を見ると、駅舎の二倍ほどの規模のスーパーマーケットの広告塔が間近に見えた。

 土岐は白いペンキの擦り切れた横断歩道を渡り、スーパーマーケットで見舞い用の花束と洋菓子を購入した。花屋でプレゼントカードを貰い、

〈時山〉

と記名して花束の中に差し込んだ。総額五千円の出費だが、レシートは薄くなった財布にしっかり保管した。花屋の女性店員に土岐は尋ねてみた。

「そこに、特別養護老人ホームがありますよね」

「ええ」

「見舞客は結構来るんですか?」

「ええ、ここでお花を買って行かれる方が多いですよ。でも、お花をお花と分からないご老人もいるみたいで・・・まあ、都心に近いんで、入居待ちの人が多いみたいですよ。行政の補助が手厚いんで、都心に近い割には料金が安いみたいで、・・・でも、入居するのにあっちこっち手を回さなければならないみたいで、そのお金が結構かかるみたいですよ」

 特別養護老人ホームが駅に近い必要はない。国や地方自治体から補助金を給付されるような施設は辺鄙な地価の安い場所に立地されるのが一般的だ。駅に近ければ通常、不動産価格が高くなる。

スーパーマーケットの駐車場の裏手にその老人ホームはあった。駅前駐車場の緑灰色の金網越しに、黄土色の地味な建物が見えた。地価の安そうな要因がいくつかあった。ひとつは崖っぷちにあることだった。崖の下には武蔵野線が走っている。騒音と振動が絶えないはずだ。もうひとつは狭い道路の突き当たりにあることだった。たぶん救急車も消防車も進入できないような道路だった。火災が道路をふさげば逃げ道がなくなる。

 三時近かった。正面玄関のガラス扉をはいると目の前にバーのカウンターのような受付があった。

〈御用の方は呼び鈴を押してください〉

という小さな立て札があった。その傍らに面会希望者名簿があり、面会者の名前と面会時刻と面会希望者の名前を記入するようにとの指示があった。土岐は、

〈面会者=時山明・面会希望者=中井愛子〉

と記入して、ベルを押した。しばらくして奥から白衣の療養士が出てきた。小柄な二十歳そこそこに見える若い女だ。

「中井愛子さんに面会したいんですが・・・」

と花束と菓子折りを抱えた土岐が言うと、女は目を見開いて、ほほ笑んだ。ほほ笑みの意味が土岐には分からなかった。女は先に歩きだした。

「こちらへどうぞ」

 土岐は導かれるまま、丈夫な手すりの階段を上って、二階のサンルームに通された。南側に嵌め殺しの大きなガラス窓があり、五、六人の老人が、車いすに座ったまま、晩秋にいざなわれた弱々しい陽光を浴びながら窓の外を茫然と眺めていた。どの老人の目もうつろだ。生気がない。窓外の景色を認識しているようには見えなかった。かれらの目の窓から、かれらの心の所在を感知することができなかった。

 先刻の女性療養士が中央の老婆の耳元で叫んだ。

「中井さん!男の方が面会ですよ!」

 面会室はサンルームの隣にあった。扉も窓もない八畳程の広さの板張りの部屋だった。療養士が車いすを押して、その部屋に中井愛子を連れてきた。土岐はテーブルの上に花束と菓子折を置き、椅子に腰かけた。

「それでは、ごゆっくり」

と言って、療養士は去った。おびえたような目つきをした老婆が残された。中井愛子はまだ還暦を過ぎていないはずだ。海野の調査によれば五十代そこそこのはずだ。土岐には七十歳を超えた老婆のように見えた。目の周りが痩せこけて、深く窪んでいる。目の奥の瞳孔が、落ち着きなく細動している。目線は土岐に向けられているが、焦点は土岐に合っていなかった。

「中井愛子さんですね。わたくし、時山と言います。見城仁美さんとは懇意にさせてもらっています」

 土岐が大声で、はっきりと、

『見城仁美』

と言ったとき、目の奥がきらりと反応を見せたように思ったが、土岐の錯覚かも知れなかった。土岐は愛子の澱んだ瞳の中を射抜くように覗き込んだ。

「具合はいかがですか?」

 皺だらけの唇が一瞬動いたように見えたが、声は発せられなかった。髪はグレーで、くしけずった様子がなく、寝起きのままで、頭髪がばらばらになっている。顔の皮膚はかさかさで、目じりやほうれい線の皺が深く、頬や首周りにしみやいぼが数多く散見される。化粧気が全くなく、髪や肌の手入れをしている形跡の全くないことが、中井愛子の姿かたちを実年齢よりもふけて見せている理由かも知れなかった。

「これ、そこのスーパーで買ってきたものですけど・・・」

と言いながら、土岐は花束と菓子折を愛子の手元のテーブルの上に置いた。愛子ははじめて視線を動かし、手元の花束に眼を落とした。土岐は無意識のうちに、去年亡くなった自分の母親と愛子を重ね合わせていた。灰白色のだぶだぶの上下のジャージーに、赤いフリースのちゃんちゃんこを羽織っている。ちゃんちゃんこには毛玉やごみが模様のように付着している。皺だらけでつやの全くない手が、花束の上に伸ばされた。その手は、花束の十センチ手前でこわばって止まった。土岐は声をかけた。

「見城仁美さんはよく来られるんですか?」

 ふたたび、土岐が愛子に対して発した、

『見城仁美』

という言葉にかすかに反応したように見えた。しかし、目も首も顔も肩も手足も、硬直したように動かない。次第に秋冷えが土岐の足元から脛の中に侵入してきた。

 中井愛子の悄然と脱臼しているようななで肩に彼女の非嫡出子としての辛い人生が象徴されているような気がした。見城敦と結婚し、仁美をもうけたが、離婚の際にはその仁美は見城敦の親権の下に去った。見城敦が五十五歳で死んで、どういう経緯からか、今は仁美の世話になっている。若年性痴呆となっているのでは、仁美の世話になっていることすら理解していないのかも知れない。幸いなことに先週末、水上の山奥から、仁美のアパートに比較的近い場所に転居してきた。しかし、そのことも認識できていないのかも知れない。ただ、世話をする仁美にとってはありがたいことに違いなかった。

〈だが、なぜ、タイミングが先週末なのか?〉

という疑問が土岐の頭の中をよぎった。

 なにも反応を示さない中井愛子と向かい合って、土岐は黙って観察するだけだった。

〈ここの費用は誰が出しているのか?身内と言えば仁美しかいない。しかし、OLの仁美が負担できる金額なのか?〉

 土岐は療養士の姿を探していた。サンルームを巡回していたさっきの療養士と目があった。土岐は少し頭を下げた。療養士が近寄ってきた。

「中井さん、きれいなお花よかったですね。それにお菓子も。あとで、食べましょうね」

と言いながら、花と菓子折を愛子の膝の上に置いた。

「面会はもうよろしいんですか?」

と土岐に聞く。土岐は力なく頷いた。療養士は、愛子の車いすをサンルームの反対側の個室に押して行った。土岐もついて行った。入口にドアがない。二葉の浅黄色の長い暖簾があるだけだ。個室は四畳半ほどの広さで、壁際にベッドがあり、入り口の脇にトイレがあった。ベッドの下に収納があるだけで、あとは何もなかった。殺風景な終の棲家だった。こういう生活が自分にとって幸か不幸か認識できないことは、愛子にとってはむしろ幸せなのかも知れない。

 療養士は菓子折をベッドの上に置き、花束を持つと、

「このお花は、食堂の花瓶に生けましょうね」

と愛子に語りかけた。愛子は何も言わない。療養士は背後の土岐に言った。

「よろしいですか?」

「どうぞ。みんなで見ても減るというものでもないですから・・・」

と土岐は答えた。

〈父の最期のさみしさもこんな風であったのかも知れない〉

と思うと、土岐の胸に込み上げてくるものがあった。

 療養士は花束を奥の食堂に持っていくと、しばらくして戻ってきた。

「夕食まで、みなさんとサンルームにいましょうね」

と愛子に囁くように言って、先刻の大きなガラス窓の前に車椅子を押して行った。その背中に土岐は、

「ちょっと、聞きたいことがあるんですが、一階の方でよろしいですか?」

と願いを言った。

「すぐ行きますので、一階でお待ちください」

と療養士が答えたのを聞いて、土岐は一階に下りて行った。土岐が一階の受付で面会時間の終了時刻を記入し、待っていると、しばらくして療養士が下りてきた。

「お待たせしました」

 療養士が、受付の脇の長椅子を勧める。二人は隣同士に腰かけた。

「先週末転居してきたということですが、付き添いは御嬢さんの見城仁美さんだけでしたか?」

「いえ。もうひとかた、見城仁美さんのおじいさんという方も一緒でした」

「長田賢治という人でしたか?」

「さあ、お名前までは伺いませんでした。どっちにしても、群馬県の新潟県との県境の山奥から、御嬢さん一人で、あのお母さんを連れてこられるのは無理だと思いますよ。身の回りのものもありましたし・・・」

「支払いは、どなたがされているんですか?」

「このホームは入居一時金をとらないんです。入居一時金をとるホームだと、入居者が長生きすればするほど、利益が減るんですよね。こう言ってはなんですが、だから、入居者の健康管理にあまり積極的でないところが多いんですよね。そのせいか、ここのホームはウェイティング・リストに何十人も名前があります」

「・・・月々いくらぐらいですか?」

「まあ、人によってまちまちなんですが、中井さんの場合は月額十五万円ぐらいじゃないでしょうか。ここは一応、都心にも近いので、前の水上のホームよりは五万円程度高いんじゃないでしょうか」

「で、中井さんの場合は、ウェイティングの順番がきたということなんですか?」

「さあ、ここのホームは船橋市の第三セクターが運営しているので、そういう管理は市の方でやっています」

 感情表現の乏しい女だった。こうした話を喜怒哀楽豊かに語るのも不自然だが、それにしても感情の起伏のないしゃべり方だった。痴呆老人たちの世話で、豊かな情感をスポイルされてしまったような印象を土岐は受けた。


 土岐が夕食を蒲田駅前の中華料理店でとって、事務所に帰宅したのは六時過ぎだった。十月分の部屋代を入金しなければならなかったが、調査費の原資が枯渇してきたので、見合わせることにした。これまでも、何回か前家賃の入金の遅れたことがあったので、大家の寛大さに甘えることにした。いずれにしても土岐の手元には十月分の家賃五万円と数千円しかなかった。土岐は寝る前に調査日誌をパソコンで打ち込んだ。


〈調査日誌 九月三十日 水曜日〉

  午前十一時 蒲田駅より上野駅経由で竹ノ塚駅下車

  午後十二時 保木間会館にて吉野幸三に聞き取り

  午後一時  竹ノ塚駅より北千住駅経由で大手町下車、船井ビル調査

 午後二時  大手町駅より西船橋駅経由で武蔵野線船橋法典駅下車

午後三時  船橋法典特別養護老人ホームにて中井愛子および療養士に聞き取り

 午後四時半 船橋法典駅より武蔵野線で新木場駅下車

りんかい線で大井町駅経由で蒲田駅下車

 午後六時  事務所帰着


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