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学僧兵  作者: 野馬知明
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土岐明調査報告書

九月二十五日 秋が深まる気配を見せ始めた九月末の金曜日の朝、十時ごろ調査依頼の電話があった。年齢不詳の女の声で、誰かの紹介だと言っていたが階下の輪転機の騒音にかき消された。自宅まで来てくれないかと言うので、その日の午後、依頼者の自宅に向かうことにした。出がけに小さいサイコロをポケットに忍ばせた。マージャン用の象牙のサイコロで、土岐はお守りにしている。瞬時に必要な決断のつかない時、丁半で決める習性があった。自宅兼事務所は京浜東北線の蒲田駅から南西方向に徒歩四、五分ほどの零細な印刷所の二階にある。夜警も兼ねた家賃五万円は妥当だと感じている。一階から地鳴りのように立ち昇る気だるい印刷機のモーターの回転音を聞きながら、外付けの赤茶けた鉄階段を靴音を立てて一時過ぎに下りて行った。依頼者の家は田園調布にある。蒲田から田園調布へ行くには多摩川線の終点の多摩川駅で乗り換えなければならない。渋谷方面に向かう乗客をかき分けて田園調布で降り、土岐は駅の北口から出た。駅前から放射線状に延びた街路を北に向かって登り始めた。どの邸宅もこんもりとした樹木が塀の上にあふれている。ところどころの広葉樹がオレンジがかった淡い黄緑に色づいている。時折、家並みの間を流れる秋風がひんやりと冷たく感じられる。つい最近まで、うんざりするほど暑かった夏がふと恋しくなる。少し歩くと、土塀や築地塀で囲われた広壮な住宅が、僅かずつ小ぶりになってくる。さらに北上すると、緩やかな登り坂が終わり、どこにでもあるような住宅街になるが、その分かれ目に依頼者の住所があった。御影石の表札に楷書体で、〈廣川〉とある。灰色のシャッターの降りた車庫の右端に、プランターに囲まれた数段の上り階段があった。その階段を上り詰めると片開きの鉄柵の低いゲートがある。一メートル程の大谷石の右の門柱に黒いインターフォンが埋め込まれていた。土岐はボタンを押した。

「はい」と言う応答がある。今朝の電話の女の声と同じだ。土岐はすかさず答える。

「ご依頼の件で参りました。調査事務所の土岐と申します」と言う挨拶で、しばらくして鉄製のゲートの施錠が解かれる。カッチという音がした。門扉を押すと、かすかな軋み音をたてて抵抗なく開いた。そこから玄関まで敷石伝いに五メートルほどあった。飛び石の両側に、斑の入ったシマトネリコのこんもりとした潅木が並んでいる。玄関扉は唐草文様の浮彫を施した凝った造りだった。玄関の前に立って土岐がノックしようと拳を構えると、中から待ち構えていたような声がした。「あいています」

 ドアノブを引いて玄関の中に入ると、正面にベージュのスラックスの小柄な女性が立っていた。ビーズとスパンコールで紡がれた黒地に蒼いバラの刺繍のはいったスパニッシュジャケットを羽織っている。体型や顔立ちから四十歳を超えていることは間違いないが、四十代なのか、五十代なのか、薄暗い玄関と厚い化粧で分からなかった。

「どうも、わざわざお呼び立てしてすいません。・・・こちらへどうぞ」

 用意された黒いムートンのスリッパを引っ掛けて、導かれるままに、白い固定電話の傍らの左手の応接間にはいった。部屋を見回した。八畳ほどのスペースに黒革のソファと海老茶のセンターテーブルの応接セットがあり、庭に面した窓の下にSPレコード用のターンテーブルが、十インチほどの黒いスピーカーに挟まれて置かれていた。女は少し遅れて、コーヒーカップとフルーツケーキを持って現れた。ガラステーブルにそれらを並べて、センターテーブルと同素材の段違いで幅違いの褐色の書棚を背に「あらためまして、わたし、廣川加奈子と申します」と土岐に手のひらでソファーをすすめる。

「土岐明といいます」と言いながら、土岐は名刺をさし出した。「で、ご用件は?」

加奈子はすぐには答えない。返答を考えている風情はない。ゆっくりとソファーに腰掛け、足を組む。土岐の前に座って、コーヒーをブラックのままひとくち、口に含んだ。白金のネックレスが縮緬のような輝きを見せて、二重になりかけた顎の下で揺れる。

「・・・じつは、・・・先日、・・・主人が殺されまして」と聞いて、砂糖をいれていた土岐の手がスプーンごと止まった。土岐は改めて綺麗に化粧されて皺の目立たなくなっている女の顔を真正面から見上げた。加奈子が言う。「その犯人を、捜してもらいたいんです」

 土岐は再びスプーンを回し、コーヒーの琥珀にクリ―ムの白い渦を描いた。それからコーヒーを少し口に含み、飲みかけた有田焼のコーヒーカップをテーブルに下ろした。

「すいません。・・・そういうご用件でしたら、警察のほうの領分なんで、・・・」

「それは存じています。でも警察のかたの話では、自殺で処理する方針のようなので」

 土岐はゆっくりと腕を組んで、首をかしげながら、うなだれた。意味がわからない。

「お話によっては引き受けられないこともありますので、詳しく話していただけますか?」

 加奈子は大胆に、卑猥なほど白いなま足を組み直し、グロスで艶やかに光る唇をすこし尖らせるようにして話し出した。声のうらおもてに憤懣が漂っている。

「先週の金曜日の夕方、・・・主人が地下鉄の線路に突き落とされて轢死したんです」

「先週の金曜日の夕方の地下鉄というと、・・・地下鉄東西線の茅場町駅ですか?」

「そうです」

「・・・そういえば、・・・ローカルニュースでやってましたね。・・・帰宅途中の勤め人、数万人の足に影響があったとか・・・そうですか・・・ご愁傷様です」と言いながら、土岐は加奈子の表情を上目づかいでうかがった。ファンーションで皺の目立たない顔には張りがあり、喪中のやつれをまったく見出せなかった。

「・・・で、・・・お引き受けいただけますか?・・・どうでしょうか?」

 土岐は即答できなかった。仕事の絵図がまったく描けなかった。

「とりあえず、もう少しお話をうかがってから。それによって事前調査させてもらえますか?その場合は日当と実費だけいただきますが」と言いながらも報告書が完成した時のイメージを描こうとしていた。死んだ主人の身辺調査、所轄警察署の担当刑事からの聞き取り、報告書には書かないが依頼人の身辺調査など。最短でも、一週間は掛かりそうだった。

「・・・で、・・・今回のご依頼は、どなたかの紹介ですか?」

「ええ、宇多先生の・・・」

〈またか〉と土岐は口中で舌打ちした。宇多弁護士の小ずるそうなニヤケ顔が脳裡をよぎった。警察が自殺で処理しても、民事で殺人をでっち上げて、弁護士料を巻き上げようとしている魂胆が瞬時に見えてきた。加奈子が哀れにも見えてくる。

「・・・とすると、・・・死亡保険金の問題ですか?」

「・・・ええ・・・それに、・・地下鉄の賠償金もあります」

 加奈子はリップグロスで艶めく唇できっぱりと言った。土岐は用意してきた事前調査依頼の契約書を内ポケットから取り出して、テーブルの上に広げた。同じものが二通ある。

「とりあえず一週間、時間をください。来週の金曜日の午後、事前調査報告書をお持ちします。一週間分の日当とかかった経費をいただきます。それから報告書はA4、四十字かける四十行で一頁一万円です。それをご覧になって本調査に進むかどうかご判断ください」

 加奈子の目に険が走る。素早い目付きで、契約書にさっと眼を通した。柔和のように見えていた目がすこし釣りあがる。眼光の鋭さは、専業主婦には見えない。

「・・・日当は、・・・一日一万円で、よろしいんですか?」

〈安い!〉というようなニュアンスがあった。同時に、〈粗悪では?〉という含みも感じられた。加奈子が土岐の差し出したパーカーのボールペンで契約書に署名し、壁際のサイドボードから取りだした印鑑で捺印したのを見届けて、土岐は切り出した。

「・・・それでは、・・・さっそく、事前調査に着手させていただきます。最初に、・・・ご主人がなくなった状況から、なるべくくわしく、お話いただけますか?」

 加奈子は応接間の窓際の格子模様の板天井に眼を泳がせながら話し出した。

「・・・先週の金曜日、・・・主人は仕事を終えて、・・・茅場町の東西線のホームで電車を待っていて、・・・ホームから突き落とされて、・・・轢死しました」

「・・・でも、・・・所轄の警察は、自殺だと言っているんですね」

「そうです。・・・なんか、仕事を作りたくないみたいなんです」

〈主婦にしては穿った見方だ〉と土岐は含み笑いをぐっと押し隠した。

「・・・で、・・・御主人のお勤め先はどちらだったんですか?」

 土岐は濃紺のジャケットの内ポケットから分厚いシステム手帳を取り出した。

「兜町の小さな雑誌社です。開示情報という雑誌の編集をやっていました。・・・長い間そこで社長をやっていたんですが、・・・去年、会長に退いて、・・・それから月曜から金曜まで、・・・だいたい隔日に出社していました」

「・・・ということは、・・・月、水、金・・・ということですか?」

「ええ・・・なにかあれば、火曜日と木曜日にも行っていましたが・・・」

「・・・で、・・・そのカイジジョウホウって、どんな字を書くんですか?」

「開き、示す、情報、と書きます」

 土岐は手帳を開いて、ボールペンで、〈開示情報〉と書き込んだ。

「・・・そうですか、・・・それで、・・・火と木はどうされていたんですか?」

「いろいろです」

「・・・たとえば・・・」

「この近所のお宅に伺うようなこともあったようです」

「・・・この近所というと、・・・田園調布の、ですか?」

「そうです」

「・・・というと、・・・町内会の仕事か何かですか?」

「まさか、あの人がボランティアみたいなことは、死んだってやりませんよ」

「・・・じゃあ、・・・どういうことですか?」

「わたしも、良く知りません。知り合ってからずっと、あの人のすることには詮索しないようにしてきました。それを、あの人が気に入っていたと分かっていたので・・・」

「・・・でも、・・・どんなお宅を伺っていたのか、分かりませんか?」

「さあ、・・・たぶん、古くからおられるという方ではなくって、・・・成功されて、・・・最近こちらに引っ越してこられた方々のような気がします」

「・・・他には、火、木は、どんなことをされていたんですか?」

「町内以外には、あちら、こちら、・・・どこかの会社だったり、お屋敷だったり、・・・わたし、この二年、運転手役でずいぶんと行かされました。行った先で、小一時間ぐらい待たされるので、その間、ずっとカーナビでテレビを見ていました」

 土岐はそこまでの話を手帳にメモ書きし、話を元に戻すことにした。

「・・・で、・・・金曜日の帰宅途中でなくなられたんですか?」

「いえ間違いなく殺されたんです」と言う加奈子の低いハスキーボイスのトーンが少し上がった。吸ってはいないが、タバコの煙が鼻先にプーンとにおって来るような声質だった。

「・・・その金曜日の夜に、御主人のご遺体を確認されたんですか?」

「ええ、・・・茅場町駅の近くの総合病院の地下室で・・・」

「・・・ご遺体は、どんな状況だったんですか?」

 加奈子の返答は少し遅れた。思い出そうとしているのか、思い出すまいとしているのか、分からない。思い出したくないとすれば不適切な質問だったかも知れないと思った。

「恐ろしくって、・・・、『確認してくれ』と言うので、顔しか見られませんでした」

「じゃあ、・・・損傷の具合は確認しなかったんですね」と言いながら、自分でうなずいた。

「海野刑事の話では、・・・遺体は、首と体が、真っ二つだったそうです」

「ウンノ刑事と言うんですか、担当の刑事は・・・どういう字を書くんですか?」

「海に、野原の野、です。・・・ねずみ男みたいな薄汚いハゲで」と加奈子は憎々しげに言う。感情を包み隠せないタイプのようだ。土岐にとって愉快なタイプではないが、その分、分かりやすいというメリットもある。土岐は手帳に、〈担当・海野刑事〉と書き込んだ

「・・・他に、何か、気づいたことは?・・・その刑事は、何か言ってましたか?」

「滑舌の悪い人でしたけど『多分即死だろう』って。『自殺の本懐を遂げたんだろう』って」

 加奈子の艶っぽい唇が小刻みに震えている。怒りなのか、刑事に対する憎しみなのか、夫の死を悼んでいるのか、土岐には、にわかには推測しかねた。

「・・・その海野刑事は、自殺と断定した理由を、何か言ってましたか?」

「いいえ、何も・・・勝手に何の説明もなく、そう決めつけていました」

「・・・それでは、・・・御主人の死が自殺ではないと思う根拠は、何ですか?」

 加奈子はソファーにもたれていた背中をゆっくりと起こした。腹筋の弱いのが分かる。それから、少し身を乗り出してきた。上目遣いになると、額に薄っすらと皺が寄る。

「・・・だって、・・・朝、会社まで送って行ったとき、『今日の夕方は、どうしますか?』

ってわたしが聞いたら、『迎えに来てくれないか』って、降り際に言ってたんですよ。その日に自殺をしようとする人間が、そんなことを言いますか?どうお思いになりますか?」と加奈子の同意を強く求めるような口調に、土岐は同調しなかった。

「・・・そのこと、担当の海野刑事に言いました?」と土岐は頷きながら聞く。

「もちろん、言いました」

「・・・それに対して、担当の海野刑事はなんて、言ってました」

「会社に行ってから、気が変わったんだろうって・・・」

「・・・御主人が、『迎えに来てくれ』って言ったのは、その日だけだったんですか?」

「いえ、他に用がなければ、いつも迎えに行ってました。・・・あそこは駐車禁止なんで、毎日五時ちょうどに。・・・でも、金曜日の夕方は昼過ぎのテニスのあと、友達と外食することが多くて、・・・その日も迎えには行きませんでした。迎えに行ってたのは雨の日だけのような感じで・・・それに、・・・東西線のホームから転落するはずがないんです」

「・・・はずがないと言うのは、どうして、ですか?」

「だって、・・・帰宅するときは、いつも日比谷線に乗るんです」

「・・・なにか、ご用事でもあったんじゃないですか?・・・どうですか?」

「大手町方面でいろんな人と会うことは、よくあったようですが、・・・反対方向の西船橋方面には、これまで一度も行ったことはないはずです」

 聞きながら、土岐は手帳の地下鉄路線図を開いていた。

「・・・西船橋方面で、誰かに、会う予定だったんですかね?」

「それなら言うはずです。少なくとも『食事はいらない』という連絡は必ずくれてました」

「連絡する前に亡くなられたのかも。それについて刑事は、どう言ってましたか?」

「あの刑事は、『だから自殺なんだ』って。『自殺は心の病だから、非合理的な行動をとるんだ』って・・・。『死を本能的に恐れる人間が、なぜ自殺するのか、それは心の病だからだ』って・・・。でも、『そんな素振りは全然ありませんでした』ってわたしが言ったら、

『家族に言えるくらいなら、自殺はしない』って言うんですよ・・・。『言いたくても言えないから、自殺するんだ』って・・・。なんか、どうしても自殺にしたいみたいで・・・」

加奈子の話し振りが激しくなってきていた。身ぶり手ぶりが大きくなる。肩まで掛かっているボリュームのある髪が揺れる。確認したいことはあったが黙っていた。質問すれば加奈子の感情がますます高ぶるように思えた。じっと加奈子の話に耳を傾けた。加奈子の感情のおさまるのを待った。加奈子に聞こえるようにシステム手帳をパタンと畳んでジャケットのポケットにしまった。ソファーから腰を浮かせようとしたとき加奈子が言った。

「忘れてました。・・・遺体安置所の主人の形相に断末魔の叫びが感じられたんです」

「・・・ということは、・・・病院専属の葬儀社の人間が、ご主人のご遺体の清拭きをする前に、ご遺体の確認をしたんですか?」

「いえ。死に顔は綺麗に拭かれていました。・・・髪もとかしてあって・・・」

「・・・そうでしょうねえ」

 土岐は中腰で浮かせかけた腰を再びソファに沈めた。

「天井の蛍光灯の光で顔が照らされていたときは、そうだったんですけど、死体確認が終わって、主人の顔に布を掛けようとして、天井の蛍光灯の光がさえぎられたとき、穏やかそうに見えた主人の死に顔に、断末魔のクマが浮き上がってきたんです」

「・・・電車の車輪で体が真っ二つになれば、そういう形相にもなるかも知れませんね」

「いえ、・・・あれは、・・・主人を背後から突き落とした犯人に対する深い恨みです。『なんで、突き落とすんだ』と言っているような口元でした」

「・・・死人に口なしか・・・」と言って、土岐は慌てて、口を閉ざした。気まずくなって、ジャケットの内ポケットからシステム手帳を再び取り出して、次の質問を考え出した。

「・・・で、・・・ご主人の生年月日と下のお名前は?」

「大正十五年の三月四日です。廣川弘毅といいます。弘毅は廣田弘毅と同じです」

「廣田弘キ?あのA級戦犯の・・・」と言いかけて、土岐は弘毅の毅の字が書けなかった。「すいません。ご主人の名刺をいただけますか。会社名のはいってるやつを」と言うと、加奈子はさっと立ちあがって応接間を出て行った。一、二分で戻ってきた。その間に土岐は〈1926年三月四日生れ〉と手帳に書き込んだ。加奈子が人差し指と中指に名刺をはさんで土岐の目の前に差し出した。「これでいいですか?会長の名刺が見つからなくって」

 見ると、肩書きが、〈株式会社開示情報 代表取締役社長〉となっていた。あとは名前の〈廣川弘毅〉だけで、たった二行の名刺だった。会社の所在地も電話番号もなかった。

「・・・あ、これで結構です。・・・で、・・・亡くなられたご主人ですが、・・・大正十五年生まれとすると、・・・随分、お歳の離れたご夫婦なんですね」

 そう言うと加奈子はすこし腰をくねらせ、右手を右耳の近くの髪にあてて、しなを作った。土岐は、

〈かんべんしてくれ、年上の中年女の趣味はない〉

という思いで暇乞いのつもりでソファーから立ちあがろうとした。そこで聞き逃したことに気づいた。

「・・・そのお年では、・・・ご主人は、生命保険には、入っておられないですよね」

「いえ、・・・ずっとかけてきた保険は、五年くらい前に満期になって、・・・もうかけられる保険は、ないだろうと思っていたんですけど、・・・会社の方で、外資系の保険を探してくれて・・・。掛け捨てで、社長在任中はかけていたようで・・・」

 土岐が言葉をかぶせて、加奈子の語尾を奪った。

「・・・ということは、個人では、掛けておられなかった、ということですか?」

「いいえ、会長に退いてからは、わたしが、同じ保険会社で掛けていました」

「・・・生命保険会社は、どちらですか?」

「USライフです」

 そう聞いて、土岐はUSライフの良くない噂を思い出した。確証はないが、政府の認可を受けるときに巨額の賄賂で政治家を動かしたとかいう話だった。外資系特有の情を交えない合理的な経営に、なんとなく冷たそうなイメージを土岐は抱いていた。

「・・・死亡時、いくらの生命保険ですか?」

「三千万円です」

「・・・毎月の掛け金は、いくらぐらいですか?」

「月三十万円ちょっとです」

「・・・その金額を、どなたがお支払いで?」

「わたしです。・・・わたしが、銀行口座から自動引き落としで支払っていました」

「・・・たしか、・・・御主人が会長になられたのは、昨年でしたよね」

「ええ、そうです」

「・・・ということは、・・・御主人が会長になられて、すぐ生命保険を掛けたとしても、掛けていた期間は、・・・一年半ぐらい、ということですか」

「ええ、・・・去年の4月からなので、一年は超えていることは確かです」

「それなら、・・・かりに自殺だとしても、保険金はおりるんじゃないんですか?」

「わたしも、そう思っていました。で、葬式が終わって、保険会社に問い合わせたら、契約では自殺の場合、保険加入後、二年以降でなければ免責だと言うんです。・・・契約書を確かめたら、米粒ほどの小さな字で、そう書かれていました。・・・東京メトロからの賠償金の話もあって、・・・それで、あわてて、宇多弁護士に相談したんです」

 冷たくなったコーヒーの残りを含むように呑みながら、

〈かりに殺人だとしても、夫人には動機はない〉

という考えが土岐の脳裡をよぎった。

〈しかし、二年未満の免責に気づいていなかったとしたらどうだろう?〉

そう思ったとたん、土岐は心の中でかぶりを振った。調査報告は常にクライアントの利益にという玉条を思い出したからだ。クライアントにとって不利な発想はしないようにと心がけているが、まだまだプロフェッショナルの域に達していない。かろうじて、加奈子のアリバイを質さなかった程度だ。

クリーム色のレースのカーテン越しに窓から木漏れ日が差している。土岐の不安定な心模様に同調するように、落ち着きなく揺れていた。土岐は立ち上がった。応接間を出ると、薄暗い玄関で、バーゲンで買った自分の靴を探した。空気が澱んでいるような闇に眼を慣らすのに数秒要した。玄関は北向きで、ドアに明り採りがないため、足元は昼でも陰影が濃かった。土岐がかろうじて探し出した自分の靴に片足を突っ込むと、カチッとスイッチの入る音がした。玄関にアールデコ調の照明がともされた。振り返ると加奈子が靴ベラを持って立っていた。土岐はその靴ベラを使わずに靴をはいた。

「・・・で・・・かりに、殺人だとして・・・」

と土岐は玄関に立って加奈子の方に上体だけ向けた。

「殺人です。・・・間違いありません」

と加奈子は凛とした面持ちで強く念を押す。その言葉に強い意志が感じられる。

「・・・失礼しました。殺人の線で調査します。・・・間違いなく・・・」

 加奈子の鋭い剣幕に土岐は慌てて言い直した。そういう自分を何となく情けなく思う。

「・・・で容疑者に、おこころあたりはありませんか?」

 加奈子は足もとに眼を落して、しばらく考え込んだ。応接間で機敏な受け答えに終始していた加奈子の印象から、こころあたりのないことを土岐は察知した。

「しいてあげれば、・・・子供たちかも・・・」

「・・・お子さんがおられるんですか。・・・お子さんのお名前は?」

「長女は金田民子と言うんです。・・・カネの亡者で、・・・落合に住んでいます。・・・長男は廣川浩司といって、・・・白金台で高校の先生をやっています。・・・陰気な男で、何を考えているのか、よく分からないような感じのタイプで・・・」

 悪しざまな言い方から加奈子の実子ではないことを悟った。そのことを確認する前に、

「・・・そのお子さんたちの動機はなんですか?」

と土岐は加奈子の顔色を窺うように聞いた。まともに見ることはできない。

「・・・長女は、おそらく遺産目当てでしょう。・・・昔から、わたしに、子供ができることをひどく恐れていましたから・・・口には出しませんでしたけど・・・」

「財産分与が減るということですか。・・・でも、・・・廣川弘毅さんはご高齢だし、・・・殺さなくても、いずれ遺産は相続することになったんじゃないんですか?」

「それが、カネの亡者だから、早く手にしたかったんでしょう。それに、わたしが、主人の生きている間に財産を処分することを、ものすごく警戒してましたから・・・」

 どうも血の繋がっていない義母と娘の間に相当の軋轢のありそうなことを感じたが、土岐は聞かずにいた。加奈子の方から話し出すのを待つことにした。

「・・・ご長男のかたも、はやく遺産が欲しいということですか?」

「さあ、あの男は何を考えているのか、恬淡としているようだけど、皆目わかりません」

 加奈子が長男を、

〈あの男〉

と言った言い方がちょっと土岐の気にかかった。長女も長男も先妻の子供らしいと確信した。

「・・・それでは、・・・来週の金曜日に事前調査報告書を書きあげて、また参ります。・・・その間、何かありましたら、今朝の電話番号まで、ご連絡ください」


 下膨れの瓜実顔で見送る加奈子の家を出たのは三時頃だった。玄関を出て、軽くドアに向かって会釈した。加奈子が玄関脇の物見の小窓からこちらをうかがっていないのを確認してから、土岐はその家の周りを少し歩くことにした。玄関前の人通りの殆どない通りで濃い鼠色のハンチングの小柄な男とすれ違った。一瞬、その男に場違いな不審な感覚を抱いた。その男の歩き方に目的性をなんとなく感じられなかった。

加奈子の家は角から二軒目だった。駅の方角にゆるやかな坂を下って行き、最初の曲がり角を右折した。そのあたりは敷地の広い高級住宅が立ち並んでいる。次の曲がり角で、再び右折した。道路には黄ばんだ落葉樹の葉が散らばっている。もう一度右折すると、加奈子の家の前の通りに出た。その通りが、高級住宅街のブロックと中級住宅街のブロックの境界になっていた。土岐は、ブロックを一回りして、加奈子の家の右隣りのアイボリーのインターフォンのボタンを押した。埋め込みの表札に、

〈黒田〉

とあった。

「・・・はい、どちら様ですかぁ?」

 訪問者の様子を伺うような少し舌足らずな若やいだ雰囲気を漂わせる話し振りだった。

「土岐と申しますが、・・・ちょっと、お伺いしたいことがありまして・・・」

「・・・と、き、さん?・・・どんなご用件でしょう?」

「お隣のご主人の件で、ちょっと・・・」

 土岐はまだるっこしそうに話す。その思いが通じたのか、三十代後半に見える女が、玄関のドアから白い顔をまぶしそうに出した。加奈子より若い女の顔に心の和む思いがした。二人の間には二、三メートルほどの距離しかない。格子の木製の門扉越しに土岐は深々と会釈した。女は意を決したように玄関から出てきて、土岐から一メートルほどのところにたたずんだ。薄いベージュのパンツに淡い色調の草花のプリントのチュニックで、胸の前で軽く白い腕を組んでいる。指が腕に食い込んでいる。

「・・・でぇ、・・・なんでしょう?」

 土岐の背後には秋の北の空が明るく広がっている。まぶしくないはずだが、女は眼をしかめている。眉間に縦じわが走っている。意図的な表情なのか、土岐には分からない。

「すみません、お忙しいところ・・・お隣のご主人が先週、地下鉄の事故で亡くなられたことは、ご存知だと思いますが・・・」

「・・・ええ、・・・弔問客が随分とありました。みなさん、黒塗りの高級車でぇ、・・・おまけに、スモークガラスでぇ・・・」

「こちらに来てから、ずっと、お隣さんですか?」

「・・・いえ、この家は主人の実家でぇ、・・・結婚してからはしばらく、諏訪の工場の方に主人が勤務していたものでぇ、・・・ここに来てからは、まだ五年ほどです。・・・そのときには、もうお隣は今の人がお住まいでぇ・・・」

 甘ったれたような幼い話し方で、語尾の母音を伸ばす癖がある。土岐はなんとなく耳の奥にくすぐったさと苦笑交じりの不快さを感じた。

「そうですか。で、お隣のことで、何かお気づきになったようなことはありませんか?」

「・・・何か、と言いますと?」

「そうですね、たとえば、

『おやっ』

というようなことで、いいんですが・・・」

 女は土岐の質問の意味が理解できないようだった。こぢんまりとした丸顔を自らベストと思い込んでいるアングルに傾けて、急に思いついたように言う。

「・・・あのう、・・・失礼ですがぁ・・・どういうお仕事の方なんですかぁ?」

「あっ、わたしですか。すみません、自己紹介が遅れました」

と言うのは嘘で、自己紹介はしたくなかった。この女が隣の加奈子と日常会話を交わす間柄であれば、こうして聞き込みをしているという情報は間違いなく伝わる。土岐は聞き方に注意することを考えながら、名刺を手渡した。土岐の名刺を物珍しそうに、少し首を突き出して、覗き込むようにして見ながら女が言う。

「・・・調査事務所ぉ?・・・なんの調査をされる事務所ですかぁ?」

「なんでもです。・・・もちろん、できることに限られますが・・・」

「・・・興信所のようなところですかぁ?」

 女は小鼻の脇の黒いほくろに手をやりながら、興味深げに名刺に見入っている。土岐は身分を明かしたので、堂々とポケットから手帳を取り出した。さっそく、パーカーのボールペンの頭をひねって、表札の、

〈黒田〉

をメモした。

「まあ、・・・そんなような仕事をすることもあります」

「・・・へーえ・・・」

 女は先刻の土岐の質問を忘れている。少し口を開けて、

〈なんでしたっけ〉

というような顔つきをする。白痴的に意図的に大きく眼を見開いている。薄いファンデーションの下にジグソーパズルのピースのようなしみがいくつか見える。土岐は問い返す。

「で、・・・何か気づかれたことはありませんか?」

「・・・べつにぃ、・・・まったくお付き合いのないお宅でしたからぁ・・・」

〈ならば、この会話を廣川夫人に言うことはないだろう〉と土岐が手帳をポケットにしまい、礼を述べようと頭を下げかけたとき、女は引きとめるように言った。

「・・・お役に立つ情報かどうか・・・ちょっと、気になったことがあって・・・」

「どんなことでも、結構です。・・・お願いします」

 土岐は再び手帳を広げた。女の小さな口元をじっと見つめた。女の一重の目元に一瞬、喜色が走った。

「・・・去年、・・・いえ、たぶん、・・・おととしの春ごろまでだったとぉ、思うんですけどぉ、毎日、お迎えの黒塗りの車がぁ、朝の九時ごろ来ていてぇ・・・」

「社用車ですね」

と土岐があいの手を入れたが、女は聞いていない。自分の話をまとめるのに夢中だ。

「・・・運転手の人がぁ、かならずぅ、車の外で待っていてぇ、三十分ぐらい待っているのはざらでぇ、長いときは一時間以上も待っていてぇ・・・ある寒い冬の朝だったんですけどぉ・・・窓から偶然見かけたんですけどぉ、・・・運転手の人が車の中でエンジン掛けっぱなしでぇ、待っていたらぁ、亡くなられたご主人が大声で怒鳴っていました」

「なんて言ってたんですか?」

「・・・うろ覚えなんですけど、たぶん、

『運転手の分際で、なんだ!』

というようなことだったと思うんですがぁ・・・とっても寒い朝だったんでぇ、運転手の人がかわいそうになってぇ・・・」

「それがどうして気になったんですか?」

「・・・とくにどうということはないんですがぁ、わたしぃ、こう言うのもなんですけれどぉ、亡くなられた隣のご主人のことぉ、あまり快く思ってなかったんですぅ。たまにぃ、玄関でお見かけしてぇ、こちらからご挨拶してもぉ、いつも見向きもしないでぇ、無視されてぇ・・・それにぃ、運転手の人に対していつも威張っていてぇ、わたしぃ、どんなに偉い人でもぉ、威張る人は虫唾の走るくらい大嫌いなんですぅ」

 女の足元に眼を落とすと、ゴールドのヒールの低いミュールから素足が見えている。内側にそり気味の親指に綺羅入りのピンクのペディキュアが塗られている。

「そうですか。・・・ぼくも威張る人は嫌いです」

 女はおちょぼ口でまだ何かしゃべりたそうだった。薄い上唇で厚い下唇を噛んでいる。話の穂が見つからない風情だった。土岐はそろそろ潮時だと思った。

「どうもありがとうございました。・・・また何かありましたら、名刺の電話にご連絡ください。・・・貴重な情報でしたら、心ばかりの寸志を差し上げますので・・・」

 土岐はそう言いながら女の表情をうかがった。女の眼に、

〈あら、そう〉

というような輝きが一瞬よぎった。土岐は深々と頭を下げて、玄関の前を辞した。すぐ片側一車線の通りを渡り、向かい側の家の前を十メートルほど進んだ。歩きながら、

〈運転手には会う必要があるだろう〉

と考えてそのことをメモした。わずかだが、動機はありそうだと睨んだ。証言は氷山の一角ということがよくある。

土岐は通りを隔てて加奈子の家の向かいから、玄関の方を伺いながら廣川邸に携帯電話をかけた。コール音五回で玄関に照明が点されて、加奈子が出てきた。

「はい、廣川でございます」

 よそ行きのつくり声だとすぐわかる。気取った抑揚だ。

「さきほどは失礼しました。土岐です。いま、お隣で、ちょっと話をうかがったんですが、一昨年まで、お抱えの運転手がおられたとか・・・その方の連絡先は分かりますか?」

 隣家の若嫁との会話は、いずればれる可能性があるから聞き込みをしたことは先にばらした。その方が加奈子との信頼関係にひびが入らない。女の返答まで少し間があった。

「主人の手帳を見れば分かると思うんですが、・・・どこにあるのか・・・会社の方に聞いたほうが早いと思いますので、そちらの電話番号で聞いていただけますか?・・・名前は確か、・・・武井とかいいましたが・・・」

「タケイさんですね。で、会社の電話番号をお願いします」

「よろしいですか?」

 土岐は携帯を録音モードにスイッチした。

「・・・はい、どうぞ」

 加奈子はすらすらと、番号を暗誦した。

「どうもありがとうございました」

と言い終えて、土岐は女が固定電話を置くのを待った。待つまでもなく、すぐ切れた。


加奈子の家の前を狭い通り越しに過ぎると、再び通りを渡って戻り、一軒挟んだ隣の家の前に立った。大きな門構えだった。漆喰の塀が通りの角まで続いている。閉じられた木造の両開きの門扉から内部は全くうかがえない。土岐は郵便受けの脇の黒いインターフォンを押した。チャイムの鳴る音がして、かなり時間が経った後で返答があった。

「・・・はい、なんでしょうか?」

 初老の女の声に聞こえた。

「突然で、失礼しますが、ちょっと、お隣のご主人のことで、お聞きしたいことがあるんですが・・・」

「それでしたら、きのうもお答えしましたが・・・」

 土岐はひるんだ。

〈誰だ?警察か?〉

という問いが土岐の脳裏を駆け巡った。土岐は、思わず、

「いえ、わたしは警察ではないんですが・・・」

と言い訳のような、なさけない物言いをした。

「警察の方は、先週来られました」

「わたしは、調査事務所の者でして・・・」

「ですから、そのことでしたら、きのう、女性の方にお話しましたが・・・」

言外に詮索されたくないというような慳貪な含みが感じられた。

「多分、その女性は、わたしの事務所とは所属が違う方で・・・」

「すみません、取り込み中なので、失礼させていただきます」

 慇懃だが、無礼な寒々とした心根が伝わってきた。

〈無礼なのは自分の方かも知れない〉

と土岐は思った。こういう慳もほろろのあしらわれ方には慣れてはいたが、それでも心に突き刺さる小さな棘にやりきれないささやかな痛みを感じた。

〈こんなことで、僅かであろうとも、いちいち動揺しているようではプロとは言えない〉と自分に言い聞かせた。

〈さっさと忘れることだ〉

と自らを鼓舞するように土岐は弱くなりかけた陽光に色あせてゆく秋空を見上げた。とりあえず、手帳に表札の、

〈城田康昭〉

と書き込んだ。それから、加奈子にもう一度電話した。

「たびたび、申し訳ありません。きのう、誰か、ご主人のことで調査に来た女性がいましたか?」

「あっ言うの忘れてました。ごめんなさい。保険調査員です。大野さんとかいう人です」

「どんな話をされましたか?」

「主人の自殺の動機を聞きに来ました」

「最初から、そんな聞き方をしてきたんですか?」

「いえ、それを聞きたいのが口ぶりで分かりました。話していて不愉快になったので、すぐに帰ってもらいました」

 土岐は携帯電話を切った。携帯電話を着古したジャケットのポケットに突っ込みながら、保険調査員の調査が早いことが気にかかった。


 土岐は田園調布駅に向かって、ゆるやかな坂を下り始めた。最初の角で、右手から薄いベージュのパンツに淡い色調の草花のプリントのチュニックの女が歩いて来るのと出くわした。先刻の女とすぐには分かったが、名前が出てこなかった。土岐は素早く手帳を開いて、

〈黒田〉

という名前を確認した。土岐の方から女の右肩に声をかけた。

「あ、黒田さんですね。さきほどはどうも、・・・これから、どちらへ?」

 女はばつが悪そうに、少し顔をしかめた。口だけで愛想笑いを作っている。

「・・・ちょっとぉ、・・・駅の向こうへぇ、・・・お買い物にぃ・・・」

「そうですか、それじゃ、駅まで御一緒に・・・」

 女は、すぐに開き直って相好を崩した。

「・・・さっきぃ、・・・城田さんのお宅の前でぇ、お話をされてましたよね」

「ええ」

「・・・またぁ、お会いするのがなんとなくぅ、ばつがわるかったんでぇ、・・・少し遠回りして来たんですけどぉ、・・・結局ぅ、またぁ、お会いしてしまいましたね」

「ばつが悪いというのは、わたしとですか?それとも、城田さんとですか?」

「・・・とくにぃ、どちらということもないんですけどぉ・・・」

と女は口を濁した。しかし、話さずにはいられないようだった。

「・・・城田さんとぉ、廣川さんはお知り合いみたいなんですよ」

「奥さん同士で、ですか?」

「・・・いいえ、御主人同士でぇ・・・なんでもぉ、あの家は『廣川さんが城田さんに紹介した』とか、駅前の不動産屋が言ってました。でもぉ、二か月くらい前、廣川さんが城田さんのお宅から、怒ったような顔をして出てくるのぉ、見かけたことがあります」

「なにか、あったんですか?」

「・・・さあ、・・・そこまでは・・・」

 土岐は駅前で、黒田家の女と別れた。その足で、駅前ロータリーの右端の線路向かいに店を構えている不動産屋の物件の張り紙で内部の見えないガラスドアを開けた。店には、どす黒い顔をした中年過ぎの男と事務員のような女が事務机の前に腰かけていた。

「こんにちは・・・」

と土岐が声をかけると、男が立ちあがって、机の前に出てきた。

「はい、・・・どこか、お探しですか?」

 男は黒いソファに腰掛けるように、手で指示したが、土岐は立ったままでいた。

「すいません。ちょっと、お尋ねしたいんですが・・・」

 男は客ではないと察したようだった。はっと、眼やにのついた目を見開いた。

「なんでしょうか?」

「この坂の上の、廣川さんの御主人が先々週亡くなられたのは、御存じですよね」

「ええ。そこの女房がニュースで見たって、教えてくれました」

 男が薄い顎でしゃくった先で、帳簿の整理をしている地味な女が土岐と目線が合うと少し頭を下げた。とび色のプルオーバーがよく似合っている。

「この先の廣川さんの隣の城田さんのお宅は、廣川さんが周旋したと聞いたんですが、・・・こちらが、仲介されたんですか?」

 男は突然にやけて、オールバックの頭の後ろを右手で掻いた。

「そうなら、うれしかったんですけどね・・・」

「城田さんと廣川さんはどういう関係なんですか?」

「良くは知らないんですが、城田さんは日本最大の専門学校の理事長とかで、・・・一代で築かれたとか・・・」

「ああ、あの城田簿記学校ですか」

 そう言いながら、土岐はテレビのコマーシャルやターミナル駅のあちこちに掲げられている、

〈城田簿記学校〉

の看板を思い出していた。話しは、それで途切れた。


 田園調布駅に戻ると、切符売り場の路線図を眺めながら中目黒駅経由で茅場町駅まで行くことにした。プリペイドカードで改札を通りながら、背後に先刻から尾行されているような気配を感じた。階段を駆け上がる。階段の上から下を覗きこむ。それらしき頭髪の薄い男がきょろきょろしながら上ってきた。ハンチングをかぶっていなかったが、加奈子宅の玄関前ですれ違った男のように見えた。明るいグレーの上下が印象に残っていた。土岐は眼の端でその男の動静をうかがいながら、渋谷行きの電車を待つ間に、〈開示情報〉という会社に電話した。ホームの電車到着案内のアナウンスがうるさい。

「はい、開示情報です」

という声だけ若そうな女性の声がした。

「わたくし、先日亡くなられた廣川会長の奥様の依頼で、調査をしている者で、土岐といいますが、会長が社長をされていたときの運転手のタケイさんについて、ちょっとうかがいたいんですが・・・」

「どんなことですか?」

「とりあえず、連絡先をお願いできれば・・・」

 しばらく間があった。送話口を押さえて、事務所の誰かと話し合っているようだった。

「すいません、武井は前社長が会長に退く前に、経費節約で解雇になっています」

「で、現在はどちらにお勤めですか?・・・」

「自宅の連絡先は調べれば分かると思いますが、・・・ちょっと時間が掛かると思いますので、折り返し、掛けなおします」

「いえ、いま、電車で移動中なので、あとで、こちらから掛けなおします」

 そこに渋谷行きの各駅停車の普通電車が到着した。飛び乗る間際に、先刻の男の方を見やると、その男も乗車したのが確認できた。

都立大学前駅、祐天寺駅を経て、十数分で中目黒駅に到着した。そこで同じホームの反対側に停車していた地下鉄日比谷線に乗り換えた。乗客はまばらで隣の車両が見通せる。先刻の男も隣の車両に乗り換えてきた。地下鉄車両のドアが閉じる寸前に土岐は飛び降りた。眼の端で閉じられる隣の車両のドア付近を追うと、尾行の男も飛び降りてきた。

数分して、土岐は反対ホームに滑り込んできた渋谷行き急行のドアが閉まりかける直前に飛び込んだ。人ごみ越しに隣の車両を見ると、男も飛び乗ったようだった。これだけ不自然な乗り降りを繰り返しても尾行している状況を考えると、どうも玄人ではないのではないかと土岐は疑った。

土岐は渋谷で降りると、男の尾行をまかないように、尾行してくるのを目の端で確認しながら、道玄坂方向に歩いていった。

なだらかな坂の右手の行きつけの飲み屋のあるペンシルビルに入ると、エレベーターのボタンを押した。隣に、学生風の茶の長袖Tシャツに赤いチョッキを羽織った男がいた。二人並ぶとエレベーターの入り口はいっぱいになる。六人乗りのエレベーターの扉が開いて二人が乗り込み、土岐がビルの入り口を振り返ると、尾行の男が入り口の前をこちらに流し目を送りながらゆっくりと通り過ぎていった。学生風の男は、五階のボタンを押した。土岐は二階のボタンを押した。二階に止まると、土岐はエレベーターを降り、降り際に閉のボタンを押した。すぐ、非常階段脇のトイレに入った。大便用の個室に入ると鍵を掛け、便座の上に足をかけて、小さな窓を押し開けた。窓の扉は隣のビルの壁に当たって、それ以上開かない。土岐は、その窓の僅かな隙間から、通りの方に眼を凝らした。十センチほどの隙間から道玄坂の通りを見やると、若い男女がひっきりなしに通り過ぎる。誰もビルの隙間の二階のトイレの窓から土岐が眼を凝らしていることに気づかない。ビルの谷間に眼を向ける者は一人もいなかった。土岐は顔を固定したまま、濃いブルーのジャケットを脱いで裏返した。裏はリバーシブルの明るいグリーンのジャケットになっている。ジャケットに腕を通しながら四、五分の間、ビルの間隙を流れる人ごみを注視していると、尾行してきた男の横顔が渋谷駅方向に通り過ぎたように見えた。土岐は便座から降りると、トイレを出て、非常階段から一階に駆け下り、男を追った。小走りに人ごみを掻き分けて進むと、二、三十メートル先に薄い猫毛が頭頂で微風にそよいでいるのが見えた。尾行していた男に間違いなかった。土岐はポケットから度のはいっていないロイド眼鏡を取り出してかけた。歩きながら綺麗に七三にセットしてある頭髪をばらして、額に垂らし、洗いざらしのようなヘアスタイルにした。

男は渋谷駅のコーンコースに入ると、JRの改札に吸い込まれた。土岐が小走りに追いかけると、男は山の手線内回りの階段を上って行くところだった。土岐は二、三十メートルの距離をとって尾行した。階段を上り始めると電車が入線してきた。土岐は残りの階段を一段おきに駆け上がった。ホームに辿り着いて左右を見渡すと、階段の上り口から一両先の車両に男が乗り込んでいた。男は加奈子宅の前で見かけたハンチングをかぶっていた。土岐が乗り込むとドアはすぐ閉まった。

次の恵比寿駅でドアが開くと一旦ホームに出た。男が乗り込んだ車両のドア付近から降車する客を確認したが男はいなかった。土岐は再び電車に乗り込んだ。

次の目黒駅でも、一旦降りて、確認していると、人ごみの中に男のハンチング頭が確認できた。土岐の傍らの階段に向かって歩いてきたので、背を向けて階段の周りを足早に迂回して男の背後に回った。男は駅前のロータリーを横切ると、雅叙園方面に向かって歩き始めた。

駅から二、三分の四階建ての古びたビルの中に男は消えた。土岐がビルの入り口でテナントのネームプレートを見ると、二階と四階の普通の企業事務所に挟まれて、三階に、

〈大日本興信所〉

といういかめしい文字があった。聞いたことのある名前だった。記憶の糸をたどると、

〈浮気調査専門の興信所だ〉

という宇多弁護士の言葉が思い出された。

〈こんな裏通りにあったのか。それにしても、大仰な社名だ。浮気調査であるとすれば、依頼人は誰だ?加奈子が依頼人であるはずはないし・・・〉

とつぶやきながら、土岐は目黒駅に引き返した。そこから都営三田線で大手町に出て、東西線で茅場町に行くことにした。

茅場町駅まで二十分あまりの間、電車に揺られながら土岐は手帳のメモを整理した。


廣川弘毅(大正十五年生まれ、開示情報社会長、昨年まで社長)、九月十八日金曜日夕方、地下鉄東西線茅場町駅で轢死。

依頼人=廣川加奈子(四十代後半?)。

隣家(左=黒田、右=城田)。

昨日、保険調査員大野が調査。

お抱え運転手=タケイ(一昨年リストラ)。

殺人の根拠(当日夕方車で迎えに来いという本人の依頼、自殺とは思えない死相?)。

依頼内容(殺人の証拠集め)。

依頼理由(担当刑事海野が自殺で片付けようとしている。自殺であれば保険金が入らず、地下鉄から賠償金を請求される)。

不明点=日比谷線ではなく、なぜ東西線なのか?人に会うにしてもなぜ大手町方面でなく西船橋方面なのか?


 下車した茅場町駅は閑散としていた。夕方のラッシュがまだ始まっていない。

土岐は、駅事務室に向かった。駅事務所は地下一階の日比谷線ホームと地下三階の東西線ホームに挟まれた地下二階にあった。用のない乗客にとっては、隠し部屋のような雰囲気がある。天井の低い駅事務所のドア近くに座っていた駅員に、土岐は用件を説明し、先週金曜日、轢死現場に立ち会った駅員の話を聞きたいと申し出た。それに対する回答では、当日現場に立ち会ったのは東西線のホームで乗客の整理をしていた田辺という男だった。現在、茅場町の10番出入口近くの改札口に勤務しているとのことだった。話を聞きたいという要望は不承不承に受け入れられたが、

「勤務中なので業務に支障のないようにお願いします。・・・本人はだいぶショックだったようなので、マグロの話は避けてください」

と言う役職駅員の注意の声が足早に立ち去ろうとする土岐の背中に掛けられた。

土岐は、10番出入口近くの改札口に向かいながら、

『マグロ』

が轢死体を意味することを思い出していた。

田辺はブルーのパーティションを背に、改札口の窓口に所在無げにぽつねんと座っていた。自動改札を見守っているだけだった。三十前後の顎の尖ったやせぎすの男だった。土岐は自己紹介し、当日の話を聞いた。田辺はとつとつと語りだした。

「金曜日の夕方で、朝のラッシュほどではないんですが、一番混雑する時間帯でした。キャーっと言う女性の叫び声がして、同時に激しい警笛とブレーキ音が響いて、・・・東西線の西船橋行きが急停車して・・・すぐに人身事故だと察しがつきました。そのとき、ホームの中ほどにいたんですが、電車はそこまで来ていて、運転手が真っ青な顔をしていました。運転手に聞くと、

『人を轢いた』

というので、線路に下りて、車体の下を覗きました。ずっと先の方に、何かが引っかかっているのがかろうじて見えました。確認したら、男性の首から下の胴体でした。損傷が激しくて、散らばった肉片を回収するのに時間がかかりました。それに血糊や体脂肪が車輪と線路に付着していて、ふき取るのに苦労しました。首と右腕と左手はずっと先のホームの端の外壁の方に転がっていました」

 駅員は茫然とした青白い表情で話していた。瞳孔が小刻みに揺れていた。焦点が定まらないようで、正面にいる土岐の顔をよく認識していないように見えた。

「・・・自殺のように見えましたか?・・・どうでした?」

「・・・さあ、・・・初めて見たものなので・・・」

「・・・顔の表情はどうでした?」

「・・・損傷が激しかったんですが、・・・苦痛にゆがんでいるようにみえました」

『電車自殺する人は線路内にうずくまる』

というような話を聞いたことがある。しかし、首と右腕と左手が車輪で切断されたということは、その部分だけ線路内から出ていたということになる。それが軌道内から這い出そうとしていた結果であれば、自殺ではない。それがホームから飛び降りた拍子につんのめった結果であれば、自殺かも知れない。苦痛にゆがんだ表情も、生理的なものなのかも知れない。自殺であれ他殺であれ、生理的に痛いものであることには違いはないだろう。土岐は続けて聞く。

「その、きゃーっと叫んだ女性とか、その場にいた乗客はどう証言していましたか?」

「さあ、わたしは事故後の処理に追われていたので、・・・とにかく、はやくダイヤを復旧させることばかり考えていて、そこまで気が回りませんでした。・・・証言を取っているとしたら、警察の方だと思うんですが・・・担当の刑事さんは確か、・・・海野さんとか言ってました。・・・探せば、名刺がどこかにあると思うんですが・・・」

「いえ、結構ですよ。・・・茅場署の刑事さんですよね」

「・・・ええ、・・・そうだったと思います」

 土岐は別れ際に次の質問をした。

「・・・遺族に請求する賠償金は、いくらぐらいですか?」

「・・・さあ、・・・経理に聞かないと。夕方のラッシュ時だったんで、かなり振り替え輸送切符を発行しました。・・・もう他社から回収されているとは思うんですが、集計結果は知りません。・・・大手町方面だったら、徒歩五、六分で日本橋に行けるので、問題はないんですが、・・・西船橋方面だと、都バスを乗り継げば行けないことはないんですが、・・・都バス以外は門前仲町まで出る代替輸送手段がないので、・・・西船橋まで日比谷線経由で秋葉原へ出て、・・・そこから総武線で行ってもらって、・・・さらにそこから戻ってもらうことになるので、・・・かなりコストがかさみます。・・・ダイヤは、一時間近く遅れたし、・・・数万人の足に影響が出たんではないかと思います」

 土岐は名刺を渡しながら、

「何か気づいたことがあれば、この名刺の携帯電話番号まで連絡して欲しいんですが」

と要望を伝えて、壁面の地図で茅場署の位置を確認した。10番出入口から地下商店街を通って、地上に出た。向かった先は、茅場署だった。

午後五時近くになり、早番で帰宅する通勤客が目立つようになっていた。茅場署は茅場町の交差点から、昭和通り方向に一本路地を入ったところにあった。七階建てのオフィスビルのような外観をしていた。

受付の貧相な婦警に海野刑事に面会したいと申し出た。

「たぶん、署内だと思います」

と中年の婦警は笑顔で署内の内線で海野に連絡を取ってくれた。しばらくして、中肉中背で、よれよれの茶のジャケットとカーキ色のチノパンに埃だらけのスニーカーを履いた男が現れた。加奈子がねずみ男と評した人物に間違いないと確信した。受付のカウンターに身を乗り出して、婦警と何か話している。土岐の方から近づいた。

「・・・あのう、・・・海野刑事さんですか?」

 受付の婦警に内線で呼ばれて下りてきたはずなのに、少し驚いたような顔つきをする。ゴマ塩の無精ひげが日焼けした風貌に似合っている。

「・・・えーと、・・・トキさんだっけ」

と言いながら、受付の中年の婦警に同意を求める。婦警はこちらを見ていない。笑っている口だけが見える。背中が小刻みに揺れている。土岐は気を付けの姿勢で言う。

「そうです。土岐と言います」

「で、用件は?」

「先週の地下鉄の轢死について、ちょっと・・・」

 すこし間があった。どう返答するか考えているようだ。土岐と目線が合った。

「・・・あんた、どちらの方?」

「すいません。自己紹介が遅れました」

と言いながら、土岐は胸ポケットから名刺を出した。

「・・・とき、あかす?」

「いえ、・・・とき、あきら、と読みます。・・・鎌倉から江戸にかけてけっこう栄えた一族らしいんですが・・・清和源氏の流れだと、聞いてます。美濃を中心に栄えて、室町から戦国にかけて守護を務めていて、・・・あの明智光秀も一族です」

と言うと、土岐の経験では誰でも興味を示すが、海野はつまらなそうな顔をしている。歴史に興味がないようだ。土岐は話を本題に変えた。

「で、今回、廣川弘毅さんの未亡人に調査を依頼されまして・・・」

「・・・なにを知りたいの?」

「廣川弘毅さんの事件の捜査の状況を教えていただければ・・・」

「そんなこと漏らせるわけないでしょ、報道関係者でもないのに・・・」

「せめて、事故か、自殺か、事件か、だけでも・・・」

 海野は思案している。返答を考えているのではないことはすぐ分かった。

「・・・夕飯を食いながらなら、すこし話してもいいよ。・・・あんた、納税者だからね」

と言われて、土岐は瞬時に手元不如意を案じた。ゲルピンなのは今日に限ったことではない。だから対面調査は、極力、夕方はやらないことを方針としている。情報を提供する側は、夕食の接待を当然のことと思うのが常だからだ。土岐の黒革の財布には一万円札が一枚と、あとは小銭しかない。

「・・・安いとこでしたら・・・」

「なんだ、そんなこと心配していたのか?」

 土岐が即答しなかったので海野はそう察したようだった。小馬鹿にしたような口調だ。

「・・・大丈夫、日本橋に安い居酒屋があるから・・・」

と言いながら、薄ら笑いを残して海野は歩き始めていた。土岐は後ろに付いて行った。

 海野は昭和通りに出ると、京橋方面に向かった。足が速い。土岐はすこし遅れて付いていた。海野は振り返ることをしない。両手をポケットに突っこんだまま、どんどん歩き進んでゆく。

〈この刑事には、アスペルガー的な気質があるのかも知れない〉

と土岐は思った。

二、三分で目的地に着いた。何の変哲もないオフィスビルの正面玄関の脇に地下に下りて行く階段があり、その傍らの入口の脇に、

〈居酒屋:株都〉

という極彩色のど派手な看板が出ていた。

途中に狭い踊り場のある石造りの階段を駆けるように下りながら海野が言う。

「ここは、昼間はラーメン屋なんだ、・・・チャーシューメンの専門店で。・・・夕方五時から、居酒屋になる。ビール瓶なら一人三本まで、お銚子も一人三本まで、生ビールジョッキなら三杯までしか出さないから、財布の底が抜けることはまずない。サラリーマン客の回転で稼ぐというビジネスモデルだ。いつも満員だが、待っていればすぐあく」

 店内は、LED照明がすこし落ちていた。天井の高い古い酒蔵のような造りだった。壁一面に日本各地のラベルの付いた酒瓶がずらりと五十本以上立ち並んでいる。

海野は使用済みの酒樽を利用したレジ近くの三人がけの壁面沿いのテーブルに座った。客はまだ、五、六人しかはいっていない。壁一面に造りつけの椅子があって、満席になれば五十人以上は入りそうな店だった。すぐ蝶ネクタイのウエイターが注文伝票をもってやってきた。海野は生ビールとおつまみを適当に頼んだ。土岐も同じものにした。

「酒はどれも五百円、つまみもどれも五百円。・・・これを三セットしか注文できないから、勘定は三千円を超えることがない。・・・どう?安心した」

 人懐っこそうな濁った丸い眼の奥で笑っている。額と頭に境目がない。土岐は第一印象で、海野をアスペルガー的気質と評価したことを訂正した。

しばらくして、ジョッキの生ビールと枝豆とお通しが、それぞれ二つずつ出てきた。

「あ、忘れてた。突き出しも五百円だ。消費税込み・・・さあて、三千五百円分の情報提供をしようか。・・・安いもんだ。これじゃ、賄賂にもならん」

 土岐は丸い板テーブルの上にスペースを作って、汚れのないのを確認して、そこにシステム手帳を広げた。それを海野は蔑んだように下目使いで見ている。

「まあ、とりあえず、乾杯しようや」

「では、お近づきのしるしに・・・」

 海野は一口生ビールを含んで、口の周りを泡だらけにして話し出した。

「・・・あれは、殺人だ。・・・間違いなく、ホームから突き落とされた。・・・切断された遺体、顔の表情、断末魔の指の形、未亡人の証言、勤め先からの情報、目撃者の証言・・・どれをとっても自殺に結びつくものはない」

「・・・でも、地下鉄の駅員の話では、・・・遺体の損傷が激しくて顔の表情は良く分からなかったらしいということですが・・・」

「まあ、顔の表情というか・・・口の歪み具合かな」

「・・・廣川弘毅だというのは、すぐ分かったんですか?」

「財布に本人名義のクレジットカードやキャッシュカードがあったし、名刺もあった。かみさんを呼んで、遺体の確認もしている。そのへんはぬかりない」

「・・・で、・・・未亡人の話では、警察は自殺で処理する方針だとか・・・」

「そうだ」

「それは、事件の揉み消しになりませんか・・・」

「なる」

「それじゃ、職務義務違反じゃないですか・・・」

 海野は再びジョッキを口にあてる。一息飲んでから、足を組み、枝豆を手に取った。

「業務を予算の範囲内に納めるのも義務だ。上からの予算節約の締め付けがうるさい。・・・上半期いろんな事件があって、予算を前倒しで消化してしまった。・・・キャリアのおぼっちゃん署長は、捜査は素人だが、予算管理にはいっぱしの口を聞く。・・・警察も組織だから、多少の疑問はあっても、おれみたいな下っ端のぺいぺいはトップの言うことには従わざるを得ない。・・・責任を取るのはトップだ。おれなんぞ、なんの責任も持たせてもらえない。気楽と言えば、気楽だが・・・自殺で処理すれば、これで一件落着だが、事件となると捜査本部を設置して、人とカネを割かにゃならん。・・・死んだ人間の背景から判断すると事件化した場合、かなりの経費を食いつぶすのは間違いない。実際、自殺は年間三万件ほどあるが、そのうちの何割かは事件のにおいのするものもある。しかし、本人自身が社会的に影響力がない場合、たとえばホームレスとか年金暮らしの身寄りのない老人とか、多少事件の疑いがあったとしても、自殺か事故で処理される場合が多い。逆に、自殺の線が濃厚であったとしても、本人自身や身内が社会的に影響力のある場合、事故と事件の双方を念頭に入れて慎重に捜査されることが多い。・・・ある意味で、社会的に影響力があるということは、それだけ税金を多く納めているということだから、受益者負担の逆の論理が成り立っていると言えないこともない。つまり、多額納税者はそれだけ多くの公共サービスを受益するということだ」

 土岐は生ビールを呑むのも、枝豆を口に入れるのも忘れて、海野の話に聞き入った。海野の饒舌な話が滔々と続く。

「死んだ廣川弘毅は叩けば、おそらく、そこいらじゅうが埃だらけになる人物だ。古手の株屋で奴を知らない者はたぶんいないだろう。五十代より上の証券マンにとっては伝説上の人間だ。あまりに遠い伝説なので忘れ去られていると言えないこともない。殺人だとすれば、容疑者は五万といる。ただ、総会屋を排除する商法の改正が昭和五十六年と平成九年に二度行われて、とくに平成九以降は徐々に廃業の方向にあったから、動機があるとしたら、十年、二十年、三十年、四十年、五十年以上も昔の話だ。・・・時効に引っかかっているとしたら、くたびれ儲けだ。とてもじゃないが、おれ一人で捜査できないから、捜査本部を立ち上げなきゃならない。・・・過去に廣川弘毅にマッチポンプをやらせて金庫がわりに利用した長老政治家もいる。まあ、どっちもどっちだ。お互いに利用しあった。高齢の経営者もそうだ。関係のあった政治家は殆どは物故しているが、潤沢な資金を相続税なしで相続し、地盤を世襲している二世、三世の議員さんも多い。二代目や三代目の社長も先代の醜聞は消したいところだろう。これで事件化されなければ、臭いものに蓋ができたと思うお偉いさんが多い。・・・与党の大物長老議員からか、財界の老齢大御所からか、検察か警察庁経由で、坊ちゃん署長に圧力が掛かったかどうかは知らない。しかし、その圧力に従うことは、坊ちゃん署長にとっては出世の足がかりになる。有力者との秘密の共有というわけだ。本人は貸しを造ったと思っているかも知れない。とりあえず、この事件でパイプが一本できたというわけだ。あるいは、どこからかそれとなく自殺で処理するようにとの示唆があったのかも知れない。・・・だいたい、それとなく匂わすというのがポイントだ。どこにも証拠が残らない。文書にもなっていない。言質もない。いわば、阿吽の呼吸だ。この阿吽の呼吸をうまくかぎとれるかどうかが、組織内での出世の要件だ。上司の意向を、いちいち確認せずにくみ取る・・・これが出世の極意だ。お偉いさんの空気を読むっていうやつだな」

「そういう指示があったんですか?」

「だから言っただろ?具体的な業務命令はない。課長からは、ただ二言だけだ。

『早く上げてくれ』

『別の事案の人手が足りない』

とこれだけだ。署長あたりにはたぶん本庁から、

『廣川弘毅の事案は自殺で片付きそうか?』

というような問い合わせが入ったんだろう。この問い合わせの言い方がポイントだ。

『廣川弘毅の事案は自殺で片付けてくれ』

とは絶対に言わない。そう言えば業務命令になる。現場を知らない人間が意図的に捜査を歪めたことになる。外部に発覚しなくても大問題だ。そもそも、廣川弘毅の事案という、現場がまだ捜査もしていないようなことについて、本庁から問い合わせがあった時点で、署長はその意図を察知しているはずだ。・・・出世できないような署長や入庁したての若い奴は額面通りに受け取って大目玉を食らう。おれもかつては、そうだった。・・・

『みなまで言わすな。阿吽の呼吸で理解しろ』

ということだ。言ってしまえば証拠が残る。言わなきゃ証拠は残らない。万が一、ことが発覚しても責任追及は現場で終わる。今度の事案で言うと、将来的に廣川弘毅殺害の動かしがたい証拠が出てきた場合、責任をとるのはおれ一人だ。おれの職務怠慢、懈怠ということになる。そのかわり、組織はおれを守ってくれる。おれは退職金を満額受け取って、円満退庁ということだ。逆におれが、他殺の線にこだわって、勝手な捜査を続け、挙句の果てにマスコミに話題を提供したとなると、組織はおれをつぶしにかかる。何年か前のおれの立ち小便みたいな軽犯罪をリークしたり、セクハラやパワハラをでっちあげて、警察庁の極悪人に仕立て上げる。・・・警察だからみんな品行方正と思ったら大間違いだ。悪い奴やずるい奴は世間並みの割合で存在してる」

 これを聞いて土岐は二つのことを考えた。ひとつはうまくやれば、調査が長引きそうで、したがって、土岐調査事務所にとっては、かなりの収入源になりそうだということ。今年になってから、宇多弁護士とその法曹仲間からの下請け調査が減少している。僅かばかりの預金残高も減少が続いている。今回の依頼は干天の慈雨だ。もうひとつはこの事件の闇が深ければ真実を知った段階で裏社会の手が伸びて自分の身に危険が及ぶかも知れないということだった。二年前の調査で、一度そうした恐怖を経験している。普通に生活していればかかわりあいになることのない闇社会が存在している。仕事の性格上、そうした社会の人間と遭遇することが多い。手に負えない事件になりそうな予感がした。

「・・・でも、未亡人は総会屋の話はぜんぜんしていなかったですね。・・・むしろ、ふたりの子供たちに、殺人の動機があるようなことを言ってました」

「それはまったくの的外れだ。・・・動機があるとすれば、むしろ佐藤加奈子の方だ。・・・総会屋の話については、加奈子が廣川弘毅と知り合ったころは、廣川弘毅は伝説づくりの裏舞台から退場し始めたころだ。三十年ぐらい前の話だ」

海野が佐藤加奈子と言うのを聞いて、土岐は、

〈佐藤は旧姓か?〉

と聞こうとしたが、海野の話の腰を折りたくなかったので黙っていた。海野の話は続く。

「佐藤加奈子はリアルタイムで廣川弘毅の活動を目撃はしていないだろう。・・・それに、あの女は、カネそのものには興味があるが、そのカネがどういうルートで流れてきたかということには、あまり興味をもたないというか、詮索しない性格のようだ。この性格は長女の金田民子とは正反対だ。廣川弘毅が総会屋の第一線から退いた後も、そこそこの収入があったはずだが、あの女は、純粋に開示情報からの雑誌発行の収入だと思って、疑いを持たなかったようだ。・・・そういう大らかなところ、悪く言えばパッパラパーなところが廣川弘毅の気にいられたところかも知れない」

「・・・それで、自殺で一件落着ということですか?」

 そこで土岐は初めて大ジョッキの生ビールを口に運んだ。ジョッキのクリーミィーな白い泡が殆ど消えていた。少し苦味がはしる。海野はジョッキ越しに土岐の目を見た。

「自殺であれば、八十を過ぎた、表向きの収入があまりない老人が、先行きを悲観して、ひっそりと死んで行ったということで、胸をなでおろす老齢の財界人や長老の政治家が多い。・・・みんな、かなりの高齢で、引退したりして、一線は退いてはいるが、隠然たる権力を持っていて、妖怪みたいな連中だ。・・・彼らにとって幸いなのは廣川弘毅が活躍したのは、主に昭和四十年代から五十年代にかけてだから、奴のすごさをリアルタイムで知っている雑誌記者や週刊誌のトップ屋は、ほとんどいないことだ。まさに、廣川弘毅は完全に忘れ去られた伝説上の総会屋だ。実際、担当のおれを訪ねに来たのはあんたが一人目だ。・・・いや、二人目だ。・・・一人目は保険屋のおねえちゃんだった。彼女も自殺で納まれば大喜びするくちだ」

「刑事さんのところにも来ていたんですか、大野とかいう・・・」

「保険屋のねえちゃんか?」

 そういった拍子に海野の節くれだった右手の指先から枝豆の緑が飛び出してテーブルの上に転がった。土岐はその緑豆を指ではじいて、床に飛ばした。

「ええ、未亡人の自宅近辺をかぎまわっていたようです」

「そうか、なかなかやるじゃないか、あのねえちゃん。裏を取っていたというわけだな」

「ウラ、というのはなんですか?」

 そう言う土岐の顔を海野はまじまじと見つめた。

「あんたの依頼人ね。あんまり頭は良くないようだけど、ただものじゃないよ」

「・・・廣川加奈子のことですか?」

「ほう、そう名乗ったのか。本名はさっきも言ったように佐藤加奈子だ。廣川弘毅とは永い間、内縁関係にあったことになるのかな」

「・・・じゃあ、籍に入っていないんですか?」

 それで土岐は加奈子の長女と長男についての話し方の不自然さに合点がいった。

「そう、・・・だから、先妻の子どもと遺産相続でもめ始めている。・・・それにどうも、間男がいたようで、そいつが加奈子をたきつけているようだ。・・・殺人だとしたら、間男にも動機がないと言えないこともない。・・・なんせ、八十過ぎの老人だ。加奈子は間男でも作らなきゃ欲求不満でやってられなかったんだろう、という先妻の子どもたちの話だ。やつらは興信所に、加奈子の間男の調査を依頼しているようだ」

 そう聞いて、土岐は自分を尾行していた男がその興信所の調査員で、自分を間男だと思ったのではないかと疑った。おそらくどこかでデジタルカメラで顔写真を撮られているに違いない。とんだお門違いではあるが・・・。

「・・・その興信所というのは、大日本興信所ですか?」

「んなことは、知らんが、・・・先妻の子どもは、長女が金田民子、長男が廣川浩司と言うんだが、長女のほうは、最初は自殺かも知れないと思っていたらしい」

「どうしてですか?」

「持病の糖尿が悪化して、右足の親指を切断しているし、下のほうの粗相も多かったようだ。・・・実際、死体は脱糞していた。ひどく臭かった。・・・会社の方も商法改正以降、ジリ貧で、うまく行っていなかったようだし、加奈子も下の世話を嫌って、あまり献身的ではなかったようだし、・・・なんせ、糞尿を頻繁に垂れ流す歩行の不自由な旦那の送迎よりも、お友達と若いコーチとのテニスと、そのあとの飲み会の方を優先していたくらいだから・・・自殺しても無理はない。・・・とりあえず、死んでくれたので遺産を貰おうと思ったら、保険金の受け取りは加奈子になっているし、契約してから二年以内の自殺では保険金が入らないということが分かったし、自殺なら地下鉄会社から賠償金を請求されるということが分かったし、今の雑誌会社は債務超過で、数百万程度の金額ではあるが、銀行からの借り入れが廣川弘毅の個人保証になっているし、・・・そうすると、他殺の方が有利と考え始めているようだ」

「遺言書はなかったんですか?」

「廣川弘毅は遺言書を弁護士に預けるということはしなかったようだ。・・・加奈子が必死になって探しているようだが、まだ見つからないらしい。あったとしても、自分にとって不利な遺言であれば、加奈子は処分しただろうし、どっちにしても先妻の子どもたちには遺留分がある。・・・昔はともかく、今は加奈子に内縁関係の実態がなく、間男がいて、しかも遺言書がなければ、遺産は全額子どもたちに行く可能性もある。昔はあったとしても、いまは内縁関係がなかったとすれば、間男のいる加奈子はただの同居人でお手伝いさんのようなものだったということになるんだろう。・・・加奈子は零細雑誌会社の名ばかりの社長で、その給料をお手当てのような感じで受取っているし、民事になったとき、裁判所がその辺をどう判断するかだが・・・」

「加奈子はいまいくつなんですか?」

「五十はとっくに過ぎている。化け物みたいな女だ。どう見ても十以上は若く見える。・・・まあ、水商売上がりだから、なかなか老け込まないということなんだろう。・・・数万円の化粧水でも使って、駅前のエステに通って肌の手入れも丹念にやっているみたいだし・・・水商売をやっていなければ休む時間はたっぷりあるだろうし、酒を呑みすぎなければ肝臓も傷めないだろうし、・・・よく寝ているみたいだし、自由が丘の美容サロンにも足しげく通っているようだし・・・」

海野が加奈子の歳の話で土岐が軽く驚いたような眼をしているのを見てにやりとした。

「・・・あの女、あんたにも色目を使っただろ。・・・あの女にとっちゃ、あんたの年の男ぐらいまでは十分、射程距離のつもりなんだ。・・・おれにも色目を使ったが、あれはどう見てもおれを利用しようとする色目だな。・・・あの女は色目をいろいろ使い分けて、それだけで生きてきたような女だ。・・・とんだくわせもんだ」

 土岐にとって、あまり愉快な話ではない。その話には土岐はのらなかった。

「・・・先妻とは離別ですか?・・・それとも死別ですか?」

「死別だ。聞いた話では自殺したらしい。二十年以上前の話だ。弘毅本人よりはるかに盛大な葬儀だったらしい。・・・その後、加奈子が押しかけてきて、先妻の子どもたちは、大学を卒業して就職と同時に、あまり年の離れていない加奈子に、新築した田園調布の家から追い出されたような形だ。・・・その頃の加奈子はいい女だったろうし、その女が同じ家で父親と乳繰り合っていれば、居づらいのは人情だろう。・・・先妻の子どもたちは、母親を自殺に追いやった父親も加奈子も憎んでいたことだろう。・・・長命で、なかなかくたばらない父親に対して殺害の動機があったとしても不思議はない。・・・遺言書を書いていないと分かった時点で、加奈子にそそのかされて書く前に、早く始末しようと思ったのかも知れない。・・・でも、まあ、動機としては弱いかな」

「・・・ふたりの子どもたちはいま何をしているんですか?」

「長女の金田民子はバツイチもどきで、不動産管理をやっている。平たく言えばワンルームマンションの大家だ。・・・長男の廣川浩司は、一つ年下で、低偏差値高校で公民の先生をやっている。・・・どういう連中かは良く知らない」

 そこで、海野は二杯目の生ビールを注文した。おつまみは冷奴だ。土岐はまだ半分ぐらい残っている。そのとき、五、六人のサラリーマン風の連中が店になだれ込んできた。常連のような馴れ馴れしい態度だった。傍若無人に大声を出している。土岐と海野の追加注文を待って遠巻きに待機していた店員たちが、一斉にかれらの周りに群がり寄って行った。土岐はそれを無表情に眼の端だけで追っていた。

「・・・茅場町駅の駅員の田辺の話では、女の目撃者がいたそうで・・・」

「・・・証言してくれそうなのは、その一人だけだが・・・」

 土岐は割り箸を置いて、様子を窺うようにして海野に聞く。

「きゃーっと叫んだ女性ですか?」

「きゃーっと叫んだかどうかは知らないが、・・・他の乗客は振替輸送でさっさと現場を立ち去ったが、その女性は現場にずっといたそうだ。・・・見城仁美というコケティッシュなOLだ。東陽町に自宅アパートがあるんで、ダイヤが復旧するまで待っていたそうだ。・・・なんでも、老人が二人一番前に立っていて、年齢不詳の男が通り過ぎたあと、その二人が急に前に倒れこんだそうだ。杖をついていた一人が線路に転落し、もう一人はホームに転んでいたらしい。そのホームに転倒した老人がどうなったかは、分からんそうだ。気がついたらいなくなっていたらしい。・・・これが彼女の連絡先だ」

と言いながら海野は携帯電話番号の書いてある市販の手帳のページを指をなめて開いた。土岐がそれを自分の手帳に写そうとすると、海野は手帳をあわてて引っ込めた。ヤニ色の格天井を見上げ、しばらく黙り、目線をぎょろりと土岐に向けた。

「ちょ、ちょっと、待ってくれ。これはまずいな。情報がおれから漏れたことがばれる可能性がある。・・・これまでも随分捜査情報を民間に漏らしたことはあるが、いまはちょっと微妙なタイミングで・・・退職金が満額もらえるかどうかという瀬戸際なんで、あんまりリスクは冒したくない。名前だけで、・・・連絡先は勘弁してくれ」

 土岐は落胆して、素早く手帳に、

〈見城仁美・東陽町〉

とメモすると、パーカーのボールペンをテーブルの上の割り箸の横に置いた。

「・・・と言うことは、そのもう一人の老人が実行犯ということですかね」

と海野の皺深い眉間を見た。

「それがね・・・さっきも言ったが、二人の老人が倒れこむ直前、列の間に割り込んで通り抜けようとした年齢不詳の男がいたらしい。・・・まあ、電車が近づいていたから、白線の前を通るのをよけたんだろうと思ったそうだ。・・・それは、そうかも知れない。・・・彼女も、そういうことが起こるとは、当然予期していないから、・・・週末の仕事疲れでぼーっとしていたんで、そのへんの記憶がはっきりしていないそうだ」

「まあ、そうでしょうね。事件が起こりそうだと身構えていれば別ですが・・・目撃証言も必ずしも正確とは限らないですからね・・・。で、・・・捜査の方はこれからどうなるんですか?」

「いちおう、おれの担当になっているんで、おれが自殺で処理すればそれで終わりだ」

「・・・そうするんですか?」

「・・・そうしたくないから、悩んでいる。・・・殺人事件と断定されれば、大々的に他の目撃者探しのキャンペーンをはれるんだが・・・いまんとこは、現場に目撃者探しの立て看を一枚だけ、置いてあるだけだ」

「・・・タイムリミットのようなものはないんですか?」

「おそらく、別の事件が起きて、そっちに駆り出されるようになれば、そのときには上げなければならないだろう。・・・いずれにしても、幸か不幸か、マスコミは全くこの事案について注目していない。・・・上げるんなら、今かも知れない」

「・・・自殺として・・・?」

「そう、自殺として・・・それが、上の意向だ・・・ちょっと、情報を提供しすぎたかな。・・・これだけの情報は、三千五百円では集められないだろう」

「助かりました。・・・今後とも宜しくお願いします」

「・・・と、言われてもあんたにそれほどの接待交際費の予算があるとも思えない。・・・土岐明調査事務所というのは個人事務所なんだろ。・・・場所は蒲田だし・・・とても大々的に商売をやっているようには見えない」

「恥ずかしながら、その通りです。・・・年中、自転車操業です」

「そこで、どうだ。ものは相談だが・・・このまま行けば、自殺処理をやんわりと強要される。しかし、おれは他殺とにらんでいる。いずれ、他の事件が起これば、このままなら担当は間違いなくはずされる。直属の上司自らが、自殺で処理するだろう。そうなるまえに、あんたに協力してやろう。・・・警察の情報網を利用させてやろう」

 そういいながら、海野は初めてじっくりと土岐の眼を捉えた。土岐は察した。

「・・・条件はなんですか?」

「・・・条件ということではないが、来年の四月に共同事務所を開かないか?」

「・・・こんなちんけな仕事をしようというんですか?」

「来年定年で、いま、高層マンションの管理人の内々定をもらっているんだが、業務を聞いたら、マンション二百二十戸のゴミの整理と、外廊下や外階段の電球の交換や宅急便や宅配便の取次ぎや、管理組合のお世話とか、居住者の苦情処理とか、共有サロンの利用申し込み受付とか、レンタサイクルの管理とか、要はていのいい用務員の仕事だ。・・・ノンキャリの警部補あがりにはこんな話しか来ない。・・・収入も安値安定で、気楽でいいかも知れないが、おれの性には合わない。・・・おそらくあんたとの共同事務所じゃ、左団扇とは行かないだろうが、性には合っている」

「・・・調査員が二人なら、受けられる仕事も増えるだろうし、・・・なによりも刑事さんの人脈と信用が利用できるので、願ったり叶ったりです」

「よし、決まった」

と両手を叩き、海野はジョッキを持ち上げて乾杯を求めてきた。

「・・・じゃあ、とりあえず、海野警部の携帯番号を登録させてください」

「警部じゃない。警部補だ」

土岐は番号を登録しながら、そろそろ蒲田に帰ることを考えた。海野との共同事務所の設立については海野が本気かどうか、半信半疑だった。


 その夜、蒲田の自宅兼事務所に戻ると、すこし酩酊気味の頭で、海野から得た情報を忘れないうちに手帳にメモすると机のパソコンの前にその手帳を置いた。調査報告日誌のパソコンでの打ち込みを翌日にして、隣の寝室でベッドの上に倒れこむように横になった。

調査報告日誌の書き込みは、日当と交通費を請求するためにどうしてもやっておかなければならなかった。かつては、調査がひと段落してから、調査報告日誌をまとめていたが、記憶の欠落することが多く、かえって作成に時間を要することが多かった。どんなに二日酔いがひどくても、翌日には日誌を作成することを土岐は自分に課していた。


九月二十六日


土曜日の昼近く、寝ながら見ていた枕元の19インチのテレビを消すと、土岐は事務室のパソコンに向かった。


  〈調査日誌 九月二五日 金曜日〉

  午後一時半  蒲田駅より乗車

午後二時   田園調布駅下車

  午後二時過ぎ 廣川弘毅邸到着。加奈子夫人より業務依頼

  午後三時   廣川弘毅邸退去。黒田邸・城田康昭邸にて聞き取り 

午後三時半  田園調布駅より乗車

午後四時   渋谷駅下車

  午後四時過ぎ 渋谷駅より乗車、目黒駅下車、尾行者の身元確認(大日本興信所)

  午後四時半  目黒駅より乗車

午後五時   茅場町駅下車

午後五時過ぎ 茅場町駅にて田辺駅員より聞き取り

  午後五時半  茅場署および居酒屋において海野刑事から聞き取り

  午後七時   茅場町駅より乗車

午後八時   蒲田駅下車


それだけ打ち込むと、ワープロファイルを格納し、ブランチをとった。食事をしながら土岐は総会屋について何も知らない自分に気づいた。昨夜、駅前の商店街で買ってきた菓子パンとトマトジュースを事務机に広げると、すぐ総会屋を検索エンジンで検索した。総会屋の定義、歴史、分類、法規制などの項目が検索できた。菓子パンをかじりながら、改めて読んで確認してみても、意外な記事はとくになかった。土岐が意外に思えたのは、数人の大物総会屋の履歴が詳細に紹介されていることだった。暴力団と同じように、顔も名前もわれているというのが意外だった。しかし、暴力団と同じように顔と名前で稼ぐのであれば、それはそれで当然のことのようにも思えた。それでも、そうした著名な総会屋の中に、廣川弘毅の名前はなかった。

『伝説の総会屋』

と言っていた海野の言葉が思い起こされた。伝説とはどういう意味だったのか、海野に聞きたださなければならないと思った。菓子パンを食べ終えてから、土岐は、海野に電話した。

「土岐です。昨夜はどうも。・・・お休みのところ失礼します」

「そうなんだよな。失礼なんだよな。電話を掛けるほうは、その態勢でかけているからいいけど、受けるほうは、いつでも、突然だからな」

 海野は寝ていたようだった。声が寝ぼけている。腕時計をみると、十二時はとっくに回っていた。海野に電話を切る気配を感じたので、あわてた。

「昨日、株都という居酒屋で、廣川弘毅のことを伝説の総会屋、と評してましたよね。いま、インターネットで検索しているんですが、他の総会屋のサイトは結構あるんですが、廣川弘毅の記事はぜんせんないんですよね。・・・これはどういうことですか」

「おれも、よく知らん。伝説の総会屋というのはマル総の連中からの仄聞だ。ネットで記事が見つからないというのなら、伝説というのは、良く知られていないという意味なのかも知れんな」

「そうですか・・・お休みのところおじゃましました。また何かありましたら、電話しますので・・・」

「こっちもな」

と言い捨ててすぐ切れた。

改めて廣川弘毅でネット検索すると、たった一件しかヒットしなかった。

〈有限会社 開示情報会長〉

となっていた。加奈子からきのう貰った名刺で、

〈株式会社 開示情報 代表取締役〉

を再確認した。株式会社の資本金引き上げの商法改正時に、資本金を増資しないで、有限会社にとどまったものと推測した。つまり、そのときには業務はすでに斜陽になっていたということだろうと推察した。いずれにしても、インターネットでたった一件しかヒットしなかったことから、かつては隆盛を誇ったらしい廣川弘毅の寂しい晩年が想像された。インターネットが普及し始めた頃には既に第一線を退いていたようだ。

 土岐は、もう一度、

〈総会屋〉

を検索してみた。ヒット件数が2万6431件あった。最初のほうにヒットした記事を丹念に読んで行った。


昭和五十六年と平成九年の商法改正で、1980年代に六千人いた総会屋は三百人程度に減少している。現在でも残っているのは暴力団関係者が多く、その他は外見上は企業と取引関係のある正業についている。正業についている者はもはや総会屋とは言えないが、いつでも豹変する要素を持っている。企業側も過去半世紀近くにわたって秘匿した企業の醜聞や人間関係を熟知しているので、無碍に与党総会屋を完全に切り捨てることができなかったようだ。企業関係の正業としては企業がアウトソーシングした業務が多い。例えば、夜間の警備、文房具類などの備品調達、天然水やコーヒーの供給、植栽のレンタル、フロア・トイレ清掃、文書・貨物の配送、手形取立、クレーム処理、業務調査などがある。総会そのもののアウトソーシングとしては、総会の司会や会場警備およびプレゼンテーション用のパワーポイントの作成のようなものもある。従来と同様の業態としては、新聞屋と総称される雑誌発行、業界新聞の発行、企画出版物の発刊などがある。〈開示情報〉という雑誌はまさに、この業態に属する。手口としては雑誌の買い上げや広告出稿や裏広告と呼ばれる広告賛助金などだが、相場よりはるかに高額な支出は、商法で禁じられている利益供与と認定されるリスクがあるので、相場並みとせざるをえない。暴利が得られないため、これで食べて行ける人数が減少したのは当然のことだろう。とすると、法律の範囲内でこうした業務を営んでいる連中はもはや総会屋とは呼べないのではないか。しかし総会屋は壊滅してはいない。毎年のように、警察に摘発されている。廣川弘毅はついに摘発されることなく総会屋で全うしたが、最後に殺害されたということなのか。その他の大物総会屋も少なくともネット上の記事では既に物故している。

土岐も株主優待のある企業の単元株主になって、お土産目当てに株主総会に出席している。社長である議長が提出する議題採決の際に、大声で、

「異議なし」

と叫んだり、議長が、

「賛同される株主の方は拍手をお願いします」

と要請すると、前列に陣取って我先に強く拍手喝采する連中や、ろくな質問もせず、マイクを独占して、長々と企業経営に賛辞を述べたりする連中は、社員株主にまぎれた総会屋の残党なのかも知れない。いずれにしても、やくざ風や右翼風の株主を土岐は株主総会で最近見かけたことはなかった。

ネット上での業界団体の総会屋との絶縁宣言も平成九年以降見られないので、総会屋の活動は商法改正の趣旨通り、現在では下火になっているのかも知れない。


 午後になってから、インターネットで区立図書館の所蔵資料を調べた。古い新聞記事や雑誌記事はネット検索で出てこない可能性があった。土岐が見ようと思ったのは、〈開示情報〉という雑誌と、日本経済新聞の縮刷版だった。奥沢の世田谷区立図書館でヒットした。蒲田にも大田区立図書館はあったが、漫画や小説や娯楽雑誌や音楽CDや映像DVDが中心で、土岐が見たい資料はいつもなかった。

 土岐は灰色のジャージーに着替えて、蒲田駅から多摩川線に乗って、目黒線に乗り継いで奥沢駅で降りた。

奥沢の世田谷区立図書館は、受験生らしい中高生が数名いるだけで、閑散としていた。予算が潤沢なようで、業界雑誌や高価な企画全集ものが完備していた。〈開示情報〉という雑誌は雑誌の書架の一番下の一番端の一番見づらい場所にあった。書架の表に最新号の秋季号があり、その裏の棚箱に新春号から夏季号までのバックナンバーが三冊積まれていた。土岐は最新号を手に取り、自宅のものよりも座り心地のいい黄土色のソファーに深々と腰掛けて、目次に眼を通した。百数十ページの大半がある企業の特集記事だった。それ以外は、シリーズの企画物の企業比較と連載物の中小型成長株の注目企業の分析だった。特色がありそうに思えたのは、企業のIR活動の評価と即時情報開示の一覧だった。即時情報開示は証券取引所のウェッブサイトからも閲覧できるが、この雑誌にはコメントが付されていた。土岐には、即時情報開示の重要性が企業ごとにウエイト付けされていることに価値がありそうに見えた。どうでもいい情報開示にはC、株価に影響を与えそうな重要な情報開示にはAのランク付けがされていた。とりあえず、奥付の中央区日本橋兜町の住所・電話番号と編集・発行人の氏名にあった、

〈岡川桂〉

を手帳に書き込んだ。電話番号は、加奈子から聞いた番号と同じだった。

 B5サイズのその雑誌を手にとって見ながら土岐はなんとなく雑誌としての違和感を覚えていた。その違和感がなんであるのか、雑誌を幾度もパラパラとひっくり返して確認した。二、三度それを繰り返して、土岐はやっと気づいた。本文中に広告がないのだ。表4のうら表紙には、

〈アイテイ〉

という企業のイメージ広告があり、その裏の表3の上半分に、

〈長瀬啓志 公認会計士事務所〉

の広告があり、その下の下半分に、

〈船井肇 一級建築士事務所〉

の広告があった。おもて表紙の裏の表2には一部上場企業である、

〈八紘物産〉

という商社の全面広告こそあったが、本文中には一切広告がなかった。本文中が全て記事で埋められている目次レイアウトに土岐は息の詰まる思いを感じていた。閲覧する者にゆとりを与えない閉塞感が土岐に違和感を覚えさせていたのだ。

雑誌社の財政は雑誌売上と広告収入の二本柱で主に成り立っている。取材費用はほぼ固定費だから、部数が伸びれば印刷単価は下がるので、利益が増える。さらに、部数が伸びれば、広告料の営業単価を引き上げられるから、さらに収益が増える。広告がないということは広告収入もないことを意味するから、収入の大半は雑誌の売上のみとなる。しかし、それほどの部数がある雑誌とも思えないから、印刷製本費の節約には限界がある以上、取材費用を極限まで絞っているとしか考えられない。かりにそうであるとしても、限られた発行部数で、広告収入が僅少の雑誌経営が成り立つはずがないという思いを、土岐は強くした。いずれにしても、来週早々にでも、〈開示情報〉という雑誌社の会社事務所に行く必要があると思った。

 次に土岐は図書館の検索用パソコンで、

〈開示情報〉

というキーワードで雑誌の所蔵バックナンバーを確認した。昭和三十五年に第3種郵便物認可を得ているから、創刊はそのころだが、図書館所蔵は平成九年からだった。平成九年は総会屋関連の二度目の商法改正のあった年だ。

土岐は受付カウンターの女性に質問してみた。

「すみません。この雑誌はどういう経緯で所蔵されることになったか分かりますか?」

青いエプロンをかけたショートヘアの細身で品のよさそうな中年女性が答えた。

「・・・さあ、・・・いつからの所蔵になってますか?」

「・・・平成九年からです」

「・・・わたしがここにいるのは平成十八年からなので、事情はまったく分かりません・・・雑誌は、基本的に区民からの要望があった場合に、区が有識者に選書をお願いして、所蔵するか、お断りするかを決めています・・・これが申込書です。・・・今年から、図書館のウェッブサイトからも申し込めるようになりました」

と言いながら、女性はカウンターにあるB6サイズの申込用紙を見せた。それは、土岐も知っていた。図書館のWEBサイトからは幾度も購入申し込みをしたことがある。多くは、高価で特殊な本だったため、

『他の区立図書館に所蔵があるので取り寄せます』

という返答が多かった。

 受付の女性が補足説明する。

「・・・雑誌の場合は、基本的に継続購入になるので、・・・予算的に、小説や単行本とちがって、・・・とくに選別が厳しいようです」

 土岐は諦めた。廣川弘毅が住民として、所蔵を要望したように思えたが、確認の手だてはなさそうだった。

次に土岐は日本経済新聞の縮刷版を見ることにした。以前閲覧した記憶のあるレファレンス・ルームの棚を探したが、見当たらない。先刻のカウンターの女性に聞くと、スペースを取るので全てCDとDVDになったという話だった。CDとDVDの棚の場所を教えてもらい、パソコンで閲覧することにした。昭和四十年代と五十年代のCDで、〈廣川弘毅〉

を検索してみた。何かの誤りでないかと、二回検索してみたが、ヒット件数はゼロだった。過去、総会屋として名をはせたという海野の話は誇張だったのかという疑念が浮かんだ。それとも、徹底して闇の世界で暗躍していたのか。海野の話が嘘でないとすれば、マスコミには一切登場せず、裏の世界で隠然たる勢力を維持していたのかも知れない。逆に、ジャーナリズムに名前が出るようでは一流とは言えない知る人ぞ知るという世界に棲息していたのかも知れない。そうであるとすると、新聞記事から殺人の動機となりそうな過去の遺恨がありそうな事件を検索するのは困難ということになる。

次に、

〈開示情報〉

という雑誌名で検索してみた。これは、かなりの数がヒットしたが、平成八年までは正確に一年につき十二件で、すべて新刊雑誌の発刊広告だった。場所は、朝刊一面の下の右から四番目に決まっていた。平成九年以降は一年に四件しかヒットしなくなった。月刊から季刊になったようだった。それ以外に、検索するキーワードが浮かんでこなかった。肩すかしをくらったようで、夕方前に土岐は奥沢図書館をあとにした。

蒲田駅前のコンビニエンス・ストアで唐揚げ弁当と菓子パンと牛乳を買って帰宅すると、とりあえず調査日誌をパソコンに打ち込んだ。


 〈調査日誌 九月二六日 土曜日〉

  午前十時  事務所出勤 パソコンで情報収集(総会屋・廣川弘毅など)

  午前十一時 海野刑事に電話

  午後一時  蒲田駅より乗車、

午後一時半 奥沢駅下車、世田谷区立奥沢図書館到着、資料閲覧(開示情報)

  午後四時  世田谷区立奥沢図書館退去、奥沢駅より乗車

  午後四時半 蒲田駅下車、事務所到着


九月二十七日


 翌朝、土岐はカレーパンをかじりながら、インターネットで、

〈見城仁美〉

という名前を検索した。ヒットが五件あった。二件はテニスのドロー表で江東区テニス協会主催のものだった。あと二つはピアノの発表会で名古屋市になっていた。もう一つは通信教育の絵画教室の入選者名簿だった。土岐は手帳に書いてあった、

〈見城仁美・東陽町〉

というメモを見ながら、江東区テニス協会主催のドロー表のものが、海野が言っていた目撃者らしいとあたりをつけた。それ以外の見城仁美は同姓同名と断定した。次に土岐は、

〈江東区テニス協会〉

を検索してみた。黄色い背景の素人っぽいセンスのないベタのホームページが最初に出てきた。連絡先の携帯電話番号があったので、さっそく電話してみた。かなり待たされた。やっと出てきた。

「・・・はぁい」

「江東区のテニス協会の方ですか?」

「ええ」

 聞き取りにくい声音だった。屋外らしい。

「先日、テニス協会主催の大会で審判をした者ですが、・・・」

「それがなにか?」

「そのときゲームをしてた参加者のラケットを誤って持って来ちゃったんですが、連絡先は分かるでしょうか?」

「どなたのですか?」

「見城仁美さんのだと思うんですが・・・」

「ちょっと待ってください。名簿を見ますから・・・」

 ポーン、ポーンというテニスボールを打つ音と嬌声が聞こえてくる。江東区のどこかのテニスコートでテニスをしているようだ。のどかな雰囲気がテニスボールを打つ音から伝わってくる。

「すみません。ちょっと、バッグの中にないみたいで・・・ペアのかたの電話番号なら分かるんですが・・・」

「ペアって?」

「いつも女子ダブルスで組んでいるパートナーです。あなた、審判やってたんなら、見ていると思いますが・・・」

 土岐に不信感を抱いていることが声のニュアンスで伝わってきた。女子ダブルスの審判は原則的に女子がやることになっているのかも知れない。土岐はとっさにパソコンの検索画面を見た。見城仁美のパートナーは、双葉智子になっていた。

「・・・ああ、双葉さんですか・・・」

「・・・じゃあ、電話番号、言いますけど、・・・いいですか?」

「はい、お願いします」

 土岐はパソコン脇に広げた手帳に双葉智子の電話番号を書きとめた。念のため復唱して、電話を切った。その指ですぐ、双葉智子に電話を掛けた。呼び出し音、三回で出てきた。

「はあーい」

と誰かを待ち受けていたような声を出す。

「双葉さんの携帯電話ですか?」

「そうですけど・・・」

と詮索するような声音に変わる。

「いま、見城仁美さん、どちらにいるか、分かりますか?さっきから、携帯電話に掛けているんですけど、通じなくって・・・」

「あら、さっき、電話してたんだけど、・・・」

「じゃあ、番号言いますんで、あってるかどうか、確認してもらえますか?」

 そこで、土岐は先刻の江東区テニス協会の番号を言ってみた。

「・・・あらやだ、それテニス協会の玉田さんの番号じゃないの」

「そうですか、じゃあ、見城さんの番号を教えていただけますか?」

「いいですけど、・・・あなたは、どちらのかたですか?」

「友人の紹介で、今度、彼女とミックス組むことになった土岐と言いますが・・・」

「へえー、彼女また、ペア代えるの・・・もてること・・・ええと、いいですか?」

 土岐は弾む心で見城仁美の電話番号をメモした。

「それで、いま、彼女どこのコートにいるか分かりますか?」

「さあ、地元の江東区のコートじゃないかしら・・・あ、これ秘密ね。わたし、江東区の在勤・在住じゃないのよ」

 江東区テニス協会に所属する条件のことを言っているようだ。双葉智子は在勤・在住でないのにもかかわらず、見城仁美と江東区テニス協会主催の大会に出場している。そのことを手帳にメモしながら、

「どうも、ありがとうございました」

と言って切った。その指で、土岐は見城仁美の携帯電話に掛けてみた。十回ほど呼び出し音がして、留守番電話に切り替わった。土岐は声色を変えてメッセージを入れた。

「・・・こちら、・・・茅場署の海野と申します。・・・非常に重要な連絡がありますので、・・・折り返し至急、・・・こちらの携帯電話まで・・・連絡をください」

 あとは、見城仁美からの連絡を待つだけだった。ひとまず、見城仁美の携帯番号を土岐の携帯電話に登録した。それからパソコンをログオフにして、事務所の電気コンロで水をあたためた。小鍋の水の沸騰するのが待ちきれなくて、ぬるま湯の段階で、粉末の味噌汁を投入した。薄茶色い粉末がだまになって、水面に浮いている。土岐は、プラスチックの箸でだまを溶いた。やがてお湯が沸騰してきて、だまが溶けた。電気コロンのスイッチをオフにして、冷蔵庫から小ぶりの卵を取り出し、小さな鍋に割っていれ、卵をかき混ぜた。筋状の卵白が固まり始めたところで、鍋をパソコンの机の上において、レンゲで味噌汁を飲みながら、メロンパンをかじった。パソコンのスイッチを入れ、ワンセグのテレビを見た。画像が粗いが、土岐は内容が分かればいいと思っている。事務所のブラウン管の大型テレビが故障してから、デジタルテレビに買い換えずに、パソコンのワンセグに切り替えた。出費を切り詰めたら、そうなっただけのことだった。寝室の枕元の19インチのブラウン管テレビはいずれ廃棄する予定でいる。

 パソコンのワンセグ・テレビを見ながら、江東区テニス協会の玉田と双葉智子の電話番号を携帯電話の本体メモリに登録した。それから充電スタンドに携帯電話を立てかけた。背中にすこし、はりを感じたので、両手を天井に伸ばして屈伸をした。そこに、携帯電話の呼び出しメロディーに設定してある、

〈夕焼け小焼け〉

が鳴り響いた。送信者名を見ると、見城仁美だった。

「海野刑事さんですか?」

 若い女の甲高い声だった。

「見城仁美さんですね。いま、どちらですか?」

「・・・自宅ですけど・・・」

「これから、ちょっとお会いできませんか?」

「・・・お昼ごろでしたら、構いませんが・・・」

と様子を窺うような、戸惑うような物言いをする。

「じゃあ、東陽町駅近くのファミレスでどうですか?」

「・・・結構ですが・・・」

「時間はいつごろがよろしいですか?」

と仁美の声のトーンの暗さを中和するように土岐はつとめて明るく聞く。

「・・・今日は日曜日なんで、お昼どきは込むと思うので、一時過ぎでしたら・・・」

「それじゃ、どこのファミレスがよろしいですか?」

「・・・自宅近くのジェームズでしたら・・・」

「どの辺ですか?」

「・・・区役所の近くです」

「江東区役所ですね。わたしは目印にHEADのテニスラケットを持っていきますので」

「・・・やっぱりそうですか・・・海野刑事さんじゃないんですね。なんか、声が違うと思いました」

と言うなり、電話が切れた。土岐は舌打ちしながら掛けなおした。呼び出し音はするが、出てこない。そのうち、留守番電話に切り替わったが、それもメッセージを入れる前にすぐ切れた。

 仕方なく土岐は、宇多弁護士に相談することにした。自らの辞書に忖度という言葉を持っていないような人間で、個人的には嫌いなタイプだが、ほかに方法が思いつかなかった。電話をすると、

「おい、おい、休み中は電話してくれるなって言ってるでしょ!」

と言う罵声が聞こえてきた。土岐は事情を説明した。宇多は弁護士モードに入った。

「廣川加奈子さんからはまだ着手金も貰っていないんで、君とは話もしたくないんだが、・・・その見城仁美は殺人の有力な目撃者だから、こちらでも押さえとく必要があるな・・・まあ、あくまでも民事になったら、の話だが・・・」

「で、ぼくも彼女に会って話を聞きたいんだけど、失敗をこいてしまって・・・」

「そりゃ、刑事を騙って話を引き出そうとすれば、そうなるのは当然だ」

「で、どうすりゃいいでしょう?」

「そこをなんとかするのが、あんたの仕事でしょ」

「なんとかできないから電話しています。協力してくれなきゃ、加奈子さんの紹介料支払いませんよ」

「それはできないよ。契約書がある。契約不履行であんたは百%負けるよ」

「負けてもいいです。払わないものは払わない。本当に、カネがないんだから・・・取りたくても、取りようがないですよ」

と土岐は開き直った。

「しょうがないな。あんたには勝てないよ。・・・法律はおれの味方だが、あんたに限っては、カネはおれの味方をしてくれない」

 土岐は宇多に縋るのをやめて、説得することにした。

「おたくはぼくの十倍以上の所得があるんだから、知恵ぐらいはケチらないでください」

「しょうがない。彼女の勤務先の電話番号を調べてみたら。・・・そのくらいはできるだろう。勤務先に電話して、アポをとったら。・・・こんどは、ドジるなよ」

「分かった。ありがとう」

「あっ、だけど、その前に、しばらくして、また電話してみたら?電話番号登録されて、受信拒否になってなければ、出てくる可能性はあるだろう。すこし、こわねを使ってさ。・・・電話番号を登録されていれば、固定電話からかけてみるという手もある」

と言うと、一方的に切れた。

 宇多は離婚や相続や債権整理などの金銭がらみの民事専門の弁護士で、十年以上のキャリアがある。大学在学中に司法試験に合格したという秀才だ。土岐は調査の仕事を始めて、三年にもならない。宇多や彼の仲間の弁護士の下請けで、糊口をしのいで来たという立場にある。民事調査のノウハウをオンザジョブで身に着けてきた。宇多は好かない人間だが、土岐にとっては商売上切っても切れない関係にある。

 味噌汁を飲み干し、朝食とも昼食ともつかない食事を終え、鍋を洗い、ふたたびパソコンの前に座った。すこしキーの高いしゃべりを試してから、もう一度、見城仁美に電話した。今度は出てきた。

「見城さんですか?わたくし、先日茅場町駅で亡くなられた廣川さんの奥さんに頼まれて、廣川さんの最後の状況を調べているもので土岐と申しますが・・・」

 見城仁美は何も答えない。

「お忙しいところ、申し訳ないんですが、そのことで、すこしお話をうかがいたいんですが・・・」

「そのことでしたら、もう、思い出したくないので、お断りします」

とにべもない。

「いやあ、そこのところ、なんとかならないでしょうか?・・・数分で結構なんですが・・・」

「お断りします」

と言って切れた。取り付く島がないという印象を持った。彼女の言葉全体が氷の薄い膜でおおわれているような感じがした。

 土岐はもう一度、宇多に電話した。事情を説明すると、

「PTSDかも知れないな。押しかけて行って、会うしかないだろう。それでも、話したくないという可能性はあるが・・・。まあ、証人として使えるかどうか、確認しといてくれればありがたい」

 宇多の話し方には、なにごとも常に自分の利益に結びつけようとする下心を隠さないという傾向があった。利他のかけらもない話し方に土岐はうんざりしていた。

 それにしても見城仁美が着信履歴で電話番号を確認すれば海野を騙った人間と土岐とが同一人物であることに気づくだろう。土岐は、名乗ったことを後悔した。土岐という名前が、見城仁美の記憶に残らないことを祈った。仕方なく、双葉智子に電話してみた。

「さきほど、電話した時山という者ですが・・・」

〈時山〉というのは土岐がとっさのときに使う偽名だ。

「ああ、仁美のミックスペアのかた?」

「そうです。やっぱり、彼女と連絡取れないんで・・・試合の前にペア練習したいんですが、今日はどこでやっているんでしょうか?」

「さっきも言ったと思うけど、日曜日の彼女の行動は分からないのよね。彼女とは、勤務先の近くのナイターで、平日やっているもんだから・・・」

「茅場町ですか?」

「そう。人形町の方に、・・・あ、人形町まで行かないで、証券取引所の橋を渡った近くの小さなビルの屋上に金網で囲った一面だけのコートがあって、そこで、毎週月曜日と水曜日練習しているの。水曜日はスクールだけど、月曜日はゲーム形式で、・・・オープンだから、一日だけでも、会員でなくても参加できるはずよ。会員は近所の勤め人が多くて、日曜日は大会参加で疲れている人が多いので、そうしているみたい。わたしも彼女も毎日でもテニスやりたいヒトだから、毎週参加しているのよ」

「じゃあ、さっそく、明日の夜、参加させてもらいます。何時からですか?」

「六時半から・・・これって、OLの特権ね。残業があっても、さっさと帰れるから・・・あ、お名前なんでしたっけ・・・」

「時山といいます」

「あ、そうでしたね。さっきは、トキ、しか聞き取れなかったんですね」

 土岐は冷や汗をかいた。さっき、『時』は正確に発音したが、『山』は偽名を使う心理的なプレッシャーから、口ごもるようになっていた。双葉智子は耳のいい女だった。


 午後は、ワンセグ・テレビでゴルフ中継を見た。ゴルフは見るのもやるのも好きだが、やる方は金銭的なゆとりがないので、もう十年近くプレーしていない。以前、宇多に誘われたが、断らざるを得なかった。カネがないからとは言えなかった。その日の夕方、ユニットバスの鏡の前で、髪を整えた。この仕事を始めてから、床屋に行っていない。収入が少ないので、自分でできることの出費は抑制せざるを得なかった。風呂に入って、散髪を流してから、調査日誌をパソコンに打ち込んで、その日の業務を終えた。


 〈調査日誌 九月二七日 日曜日〉

  午前十時  事務所出勤 パソコンで情報収集

  午前十一時 江東区テニス協会の玉田に電話

        目撃者見城仁美に電話

女子ダブルスのパートナー双葉智子に電話

宇多弁護士に電話


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