第53話 理由
「なんで、死のうとしたんだ?」
七瀬は、驚きも困惑もしなかった。
まるで、聞かれることを想定していたみたいに、無の表情を続けている。
七瀬は、一度だけ、深めに息を吐いた後。
「私の家庭は……察しの通り、ちょっと特殊なの」
落ち着いた声で、話を始めた。
「父はいくつも会社を持っているような、いわゆる資産家で、当時大学生だった母とバーで知り合い、一夜限りの関係を持った」
その時点で、ちょっと特殊、どころじゃないだろうと突っ込みたくなった。
傾聴する。
「その一回で出来てしまった私に、父は微塵も愛情を持たなかった……母が私を妊娠した事を知ってからは一切、関わろうとしなかった。面倒事を避けるために与えられた豪邸と、充分すぎるほどの養育費が、私にとっての父の存在の全てだった」
父の顔すら知らないわと、七瀬が補足する。
愕然とする俺をよそに、話が続く。
「そういう経緯があって、私は母に育てられた。母はもともと、ちょっとした名家の御令嬢の出だったけど、父との一件で、体裁を気にした実家から勘当されたみたい」
七瀬は、どこか他人事のように語っていた。
「母は私に負い目を感じていたのか、最初のうちはちゃんと育ててくれて、父がいない分の愛情を注いでくれていたみたいだけど……母も、ピアノがきっかけでおかしくなった」
──ピアノには良い思い出がないの。
七瀬の言葉が思い起こされる。
「先日言った通り、私がピアノで結果を出すと、母はもっと私に結果を強いるようになった。結果的に、私はピアノを辞めたのだけれど……その後、何をするにしても、母は私に結果を強要した」
七瀬が、目を伏せる。
「結果を出せ、結果が全てだ、1位以外意味がない、誰にも負けるな、負けたら許さない、ありとあらゆる言葉と……ありとあらゆる手段で、結果を求められた」
表情に、悲痛の色が浮かぶ。
「テストで良い点数を取れなかった時は、洗濯機に閉じ込められた」
──狭い空間には、嫌な思い出があるの。
「かけっこで負けた時は、お風呂に沈められた」
──水には、嫌な思い出があるの。
「美術の課題で賞を取れなかった時は、雷雨の中、家から追い出された」
──雷には、嫌な思い出があるの
三つの『苦手』に身体を震わせていた七瀬が、脳裏にフラッシュバックした。
七瀬の『苦手』は全て、母親によって刻みつけられたという事実に、俺は頭を鉛でぶん殴られたような衝撃を受けた。
「……幸か不幸か、父から受け継いだ優秀な遺伝子のお陰で、私は勉強、スポーツ、芸術、何事においてもトップレベルまで上げる事が出来た。それで、少しはマシになるかと思ったけど……逆に母の要求はどんどんエスカレートしていった」
だけど、と逆説を置いて、七瀬は続ける。
「私は、どんな言葉を投げられても、どんな事をされても、結果を出そうと尽力した。多分、私自身、結果を出す事で母に認められたい、必要とされたいって気持ちがあったのでしょうね」
どこか自嘲気味に、七瀬は言った。
「でも……」
空気が変わる。
一気に、暗い方向に。
「……あの日、家に帰ったら、知らない男がいて、お母さんが言うの。『私、この人と結婚する事にしたから』って」
呼称が、『母』から『お母さん』に変わった事に気づく。
「お母さんが、見ず知らずの男に向けている目と、私に向ける目を見て」
どこか悲しそうな声。
「ああ、私はもう、必要なくなったんだ、って思ったの」
……。
…………。
………………何か、言ってあげないと。
なんて、烏滸がましい思考が、薄っぺらい言葉を口にする。
「いらないってことは……流石に、ないんじゃないか?」
「この5日間、一度も電話がかかってきてないのが何よりの証拠よ」
何も返せなかった。
事実、七瀬のスマホに着信が来た様子は一度もない。
普通の感覚ではありえない話だ。
17歳の娘が家出して5日間、一度も連絡を寄越さないなんて……。
こほんと咳払いして、七瀬が続ける。
「私の母は……言葉を選ばずに言うと、ただの承認欲求モンスターだったの。お金持ちの家で子供の頃から甘やかされて育って、プライドばかりが肥大化していった末、一夜の過ちで父からも、家からも切られて……」
寂しそうに伏せられた瞳には、憐憫の情が浮んでいた。
「突出して何かが優れているわけでもない母にとって、私が結果を出すことだけが、自身の承認欲求を満たす唯一の手段になっていたの」
これが全ての種明かしと言わんばかりに、七瀬は言う。
「つまるところ……私じゃなくてもよかったのよ」
砂漠のように乾いた笑みに、俺は何も返す事ができない。
「あの瞬間、全てがどうでも良くなった」
七瀬が言う。
「今まで頑張ってきた事が、馬鹿らしくなった」
言葉が溢れ出す。
「気がついたら家を飛び出して、行く当てもなく彷徨った。何も考えていなかった。なんとなく、降り立った駅でぼーっとして、何度もやってくる電車を見て思ったの」
あの日、七瀬が見せた、どこか生気のない表情が浮かぶ。
「もう、生きたくないなって」
そこからは、俺の記憶に繋がる。
電車に飛び込もうとした七瀬を助け、旅に出ようと連れ出して──。
「話は終わりよ」
ピリオドを打ってから、七瀬は深く息をついた。
一方の俺は……途方に暮れていた。
七瀬が結果に拘る理由、彼女の性質のルーツ、身投げの経緯、全てを知った。
知った上で、七瀬にどんな言葉を返すべきなのか、答えを出せないでいた。
旅に誘った時みたいに、「そんなことない!」と勢いで否定することは簡単だった。
だけど、七瀬の口から語られた、一人の少女が背負うにはあまりにも重すぎる事実にそんな軽い言葉はぶつけられなかった。
だからといって、今の俺に七瀬の論理を崩せる材料はなかった。
……いや、違うな。
無いのは俺の、覚悟だった。
その時、俺のスマホがバイブレーションを奏で始めた。
発信主は……母親だった。
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