嘘ばかりの危うい世界
ニーナを久々に痛ましいと感じてしまったと、フィッツは閉まったドアを見つめていた。
「強がりめ。はあ、あんなに脅えた顔をするとは思わなかった。」
ほんの冗談でしかなかった。
フィッツは潜入は得意だ。
幽霊のようにして、他人の書斎や寝室にまで足を運び、欲しい情報を手に入れてきていたのだ。
今回彼が手に入れた情報は、ニーナが未だに死んだ父親の暴力に脅えている子供であったという、知った方が良かったが知りたくもなかった情報である。
彼女が見せたその怯えは、フィッツの考え無しの行動が呼び起こしたものだからだ。
彼は大きく息を吐くと、ニーナが座っていた椅子に腰を下ろした。
そして、ベッドに横になる女性に声をかけた。
「お目覚めに僕のキスが欲しいのならあげるよ。君が寝たふりをしている事はわかっている。寝たまま首都に送られたくないのなら、さあ、起きようか。」
彼の目の前の浜辺に横たわっていた女性、エンバイルの正規兵の制服を着こんでいた女性はゆっくりと目を開けると、ゆっくりと身を起こした。
上半身を布団から出した彼女は、客用で上等でもあるが生成りの簡素な寝間着をフィッツの召使達によって着せられていた。
薄青緑色に染まった長い髪をもってしても、その女性は美しいと言えた。
太すぎない眉に、真っ直ぐな鼻。
唇は厚すぎず薄すぎず、しかし今は口元を真一文字にしているが、男性のように大きなその口は意志の強さがうかがえる好ましさでもある。
フィッツは弱々しい女性よりも、気性の強い方を望む。
弱いながらも必死に強くあろうとするタイプなど、彼はぞくぞくするほど大好きなのだ。
そこまで彼は考えて、頭に浮かんだ好みの女性がまだ九歳の子供だったと、彼は自分の頭が混乱しているのかと自分の頭を軽く振った。
目の前の虜囚は脅えながらも一歩も引くまいという気概を見せて、薄青緑の髪色と同じ薄青緑色の瞳でフィッツを睨みつけていた。
「おはよう。まず、本名と階級、そして、他国侵入の目的を言おうか。いや、直属の上司の名前だけでもいいよ。僕は勝手に推測して分析するのも趣味だからね。答えたく無くてもかまわない。君を心置きなく護送車に乗せて首都に送れる。」
「どうして意識が戻っていたと?」
「人間の反応は意識が無くても起きるものが沢山あるんだ。意識が無い振りをしている人は、みーんなそれを勘違いして、反応すべき時にじっと固まってしまう。一目でわかるでしょう。」
「あの子は何の本を読んでいたの?あの子は私の手の甲にわざとお茶を零したわ。ほら、赤くなっているでしょう。」
女は右手を上げて手の甲を見せつけたが、確かにそこに一滴の雫サイズのぽつりとした赤みがある。
「で、君は動かなかった。ハハ。ニーナは何をやっているの。寝たふりをしている君をあの子は監視していたんだね。犯罪心理学を読みながら。」
フィッツはどうでもよくなっていた。
戦争の敵味方さえどうでもよく、面白い子供と会話していた方が楽しいだろうと、椅子を立ち上がった。
「私を首都に送るつもり?」
「いっぱしの兵士ならば何も答えないでしょう。僕は無駄な時間を過ごしたくはないね。拷問も自分でやりたくない。僕は休暇中だもの。」
フィッツはそのまま部屋を出て行こうとドアに手をかけたが、女性がフィッツに待ってと叫んだ。
「お願い!助けて!私は亡命を望んでいるの!」
フィッツは扉に自分の頭を軽くこつんとぶつけた。
強くぶつけてしまったら、これから面倒を背負う自分が可哀想ではないかと、彼は自分自身を哀れんでしまっているのだ。
そして彼は振り向き、女性に階級と名前を言うように苛立ちながら命令をした。
「階級なんかないわ!私は歌姫だもの!あの格好で船で歌わせられていたのよ!クライブ・カーター大佐はアッシュブラウンが好きだって染められて!私はあいつらの船から逃げて来ただけよ!」
「で、名前は?」
「シンディ・ハーパー。それから、エンバイルの人間じゃない。私はフローディア人だわ。」
「そう。でも残念なお知らせだ。フローディアはアグライア公国の敵国では無いんだ。残念ながら亡命は出来ない。アグライア人になりたければ所定の手続きをして帰化申請をして下さい。では、船の難破で処理はしてあげますから、どうぞ近日中にお国にお帰り下さい。」
「どうして!フローディアは完全にエンバイルに侵略されているのよ!フローディアに戻されたら私は処刑されてしまう!」
「可哀想だがね、君。フローディアは今のところエンバイルに侵略されているなんて事も公になっていないんだ。」
「敵国じゃないのなら、アグライア公国の誰かと結婚したらいかが?」
フィッツとシンディと名乗った女は一斉にドアの方を振り向き、そこに面白くなさそうな顔でケーキと紅茶セットが乗っているカートを押して部屋に入って来た少女を見つめることになった。
「おはようございます。シンディさま。これは、ええ、私のお茶を零して火傷させてしまったお詫びですわ。フィッツ様の召使が焼くケーキは最高ですのよ。」
「お詫びに僕の家のケーキなんだね。」
「あなたの家のごたごたですもの。」
「いやいや。君もどっぷり首まで浸かっているよ。で、このお人に誰をあてがうつもりなのかな。」
ニーナはちらりとフィッツを上目遣いの目線で射貫き、フィッツは自分が結婚適齢期であった事を思い出した。
「あの、ニーナ。」
しかしニーナは既に数秒前までいた場所にはおらず、シンディのベッドの傍にまで行っていた。
シンディはニーナから微笑みながらケーキ皿を受け取り、そのままニーナの襟元を掴んで自分に引き寄せた。
ニーナはベッドに押し付けられて、押さえつけられた。
シンディの手にはフォークが掴まれており、フォークの先はニーナの目元に当てられている。
フィッツはどうしようかな、と大きく息を吐くしかない。




