仔猫の実情
ニーナはどうしてこんなことになったのかと、椅子の背もたれに体を預けながら考えふけった。
姉のミアが新婚旅行中は、フォルスの叔母のカミラ・エグマリヌ男爵夫人のもとにニーナは預けられる予定だった。
ついでだと、リュカも一緒にと。
しかし、そこにはカミラの子供達が寄宿舎から戻って来ていたのだ。
姉と二人きりだったニーナや同じように父親ばかりだったリュカに対し、年上でも同年代と言える少年少女達と触れ合わせようという大人なりの心遣いであったのだろうが、基本的にニーナは子供が嫌いだ。
あからさまな嫉妬心や考え無しの言葉にはうんざりするものであり、そこを咎めればそれこそ敵とみなして騒ぎ出すのだ。
ニーナに託されたリュカもそんな子供だった。
カミラの子供達のように煩い子供という意味ではなく、ニーナに似て子供が嫌いという可愛らしさのない子供の方だ。
だからニーナは自分に懐くリュカの手を引いて、フォルスの母親の屋敷を訪ねたのである。
誤算だったのは、フォルスの母のクラウディアが、大人の姿をしているだけの子供でしかなかったということだ。
フォルスがどうして絶対にニーナを自分の母に預けようとしなかったのか、ニーナは身をもって学んだが、反省したからと言って再びカミラの屋敷に戻ることも出来やしない。
そこで進退窮まった彼女は、一人の男性の姿を思い出した。
金色の髪に金色の目をした、口から生まれて来たらしき男。
彼がネルソンという俊足の馬を大事にしているのは、自分の吐いた嘘偽りに対する報復を受ける前に逃げ出せるためだろうと、ニーナが考える程の口先男だ。
そして、気が付けば彼女はシーフル子爵家の扉を叩いていた。
金色の髪を出会った頃よりも短く刈り、顎に無精ひげまで生やしている彼は、ニーナが今まで見たことも無い程に魅力的な男性だとどきりとし、そして、兄となったフォルスと同じぐらいに器が大きい人だったと感嘆もした。
彼はニーナご一行を、それも、ニーナの思惑を知ったうえで受け入れてくれたのである。
後は静かにシーフル子爵家でクラウディアの相手をしながら過ごすだけだと安心していたのもつかの間、朝の散歩で見つける必要のないものを見つけてしまったのである。
ニーナではなく、シーフル子爵が。
ニーナはフィッツが屋敷に運び入れた拾い物を再び見返した。
客間のベッドに横たわる女性は、綺麗な卵型に癖のない目鼻立ちをした美しく若い女性であったが、金髪であろう髪を薄い青緑色に染めているという悪趣味さも窺えた。
「いえ、悪趣味じゃないのかもしれないわね。身をやつすって、わたくしも姉さまもずっと考えて計画してきたことでもありますもの。」
ニーナの父親は娘達を殴るための肉袋としか考えていない男だった。
姉であるミアは全ての拳を自分に受けてニーナを守り、ニーナの為にどこぞの屋敷の女中になる計画だって立てていたのだ。
その時にはニーナも目立つ金髪を何とかしなければいけない。
ニーナとミアは図書館で髪の色を変えるための研究もしたが、染粉の値段の高さに髪色を変えることは断念したのである。
「この人はそれを試したのかしら。青と金色の髪色が混ざると、こんな青臭い植物色になるのね。ぞっとするわ。」
「おや、君は髪を染めることも考えていたのかな?」
ニーナは一人ごとを聞かれていた事よりも、ドアが開いた音がしないのにフィッツの声がした事にこそ驚いていた。
椅子から飛び上がるほどに。
「うわ!本気で驚いたね。君が子供の素振りが出来るってしれて嬉しいよ。頑張って密偵ごっこをしてみた甲斐があったというものだ。」
「まあ!ええ、確かに驚きましたわ。さすが、情報将校様ですのね。」
ニーナは自分を驚かせたフィッツを褒めたのであるが、貴公子然とした涼やかな目元はフォルスがよくやるようにぎゅうと皺を寄せて眇められていた。
「まあ、どうなさったの?」
「誰に情報将校だって聞いたの?」
「フィッツ様ご本人ですわ。」
「うそ!僕は君にそんなことを一言も!」
「尋問の方法や、知らない人達の輪に入っていく方法を教えてくださったのはどなた?戦場をネルソンで駆け抜けて情報を渡しに行くって、それこそ、戦場の状況を読み取って指揮官に正確な分析を届ける情報将校そのものではなくて?」
フィッツは気さくそうな笑顔を浮かべ直した。
「はは、自分でバレバレしていたのか。」
「ふふ。安心なさって。わたくしも最近読んだ戦術論において兵の役割を学んだばかりでしただけですもの。」
フィッツはハハっと軽く笑い声をあげるとニーナの膝の上にある本を取り上げ、その背表紙と表紙に犯罪心理学と書いてあることに対して大きく舌打ちをした。
それだけじゃなく、フィッツはその本を自分の左脇に挟んでニーナに返してくれなかったのである。
「まだ読み始めての途中ですのに。」
「これが面白いのは僕だってわかっている。だけどね、僕はこれを十八の頃に読んだんだよ。君がこの屋敷を去る時にこの本をあげるから、君はこの屋敷にいる間は、僕のプライドを刺激しない本を読んでくれないかな。」
「では、遺伝と交配にしますわ。」
「それも、あげる、から。」
「まあ、それはおいくつの時に読まれたのですの?」
「知っている癖に!出版日を読めば、五年前の本だってわかるでしょうよ。」
「まあ!では、この調子でいきましたら、わたくしはあなたの興味深い蔵書をまるまる手に入れる事になりますわね。」
「この小悪魔が。」
フィッツはニーナにダンスに誘う紳士のように身をかがめた。
「僕の大事な本を守るために、あなたには我が家にずっと滞在していて頂きたいものです。」
「まあ!クラウディアも一緒ですけど、よろしくて?」
フィッツは楽しそうに大声で笑い出し、ニーナはそれを合図に椅子から降りると部屋を出ていくことにした。
彼女は目の前のとっても大人な男性に、胸をドキドキとさせられているのだ。
「捕虜の見守りをありがとう。」
「いいえ。捕虜への尋問を試してみたかっただけですわ。意志の固そうな方ですもの。目を覚まされたら呼んでくださいな。」
「君は!」
背中に若々しく好ましい笑い声を受けながらニーナは廊下に出た。
「これ、静まれ、心臓。」
首都のパークで時々目にしていた少年をニーナが好ましいと思っていたのは、彼が妹達を守り、妹達の我儘を何でも聞いていたからである。
ニーナはその少年をミアのようだと思い、そして、あんな少年が大人になったら父親のように娘を殴る男には絶対にならないと考えたから、彼のことを好ましいと見ていたのだ。
大人は子供よりも仮面をかぶるのが上手いから、信じすぎるのは危険だとニーナは考えている。
けれど、兄になったフォルスはニーナに手をあげるどころか、彼女に嘘を吐いたことなども一度も無い。
ニーナが欲しいと強請ったトラクターは買ってくれなかったが、そもそも買ってやるとフォルスはニーナに約束もしていない。
「フォルスお兄さまの親友だからフィッツ様も怖くはないと思っていたはずじゃないの。あんなに脅えてしまうなんて、わたくしったら。」