香りという記憶
白いシャツに汗のにおいなど残ってはいなかった。
彼女が知っているのは、彼から香るのはシトラスのようなハーブの匂いだってだけだった。
「ヴァーベナは男の人を誘う香りなのにね。」
母はそういって笑った。
金色の髪は色が薄くてレモン色だ。
緑色の瞳は葉っぱのようで、彼女は母と同じ髪色なのは嬉しいが、目の色だけは母の色じゃない事が少し残念だった。
彼女の目は青かったのだ。
彼女は優しく笑う緑色の瞳を覗き込みながら、母親の言葉を聞き返した。
「ヴァーベナって、そうなの?」
「ええ。男を誘う魔女のハーブよ。」
「男の人はもっと甘い匂いが好きなのだと思っていたわ。お船に乗っている貴婦人たちは鼻が曲がるほどに甘い匂いじゃないの。」
「うふふ。だからさっぱりした香りに惹かれるのかもしれなくてよ。」
彼女は母親に抱きついた。
誰もを虜にしてしまう母親の匂いはどんななのだろうと考えながら。
しかし、彼女の鼻をくすぐったのは甘いミルクのような匂いだった。
「え?お母様?」
記憶の中の母の匂いは違ったはずだ。
美しく女神そのものと称賛される母からした香りが、ミルクとほんのりバニラエッセンスを垂らしたようなお菓子のようだなんてと、彼女はとっても驚いた。
そこで両目の瞼がパッと開き、彼女の視界には見知らぬ天井が映り込んでおり、彼女がベッドに寝かされていたことに気が付いた。
「たすかった?」
簡素で質素な部屋でもあるが、置いてある家具や小物は華美でなくとも質の良いものであり、海辺の診療所の一室とは思えなかった。
そして、彼女の目を覚ました匂いとは彼女の横になっていたベッド脇のサイドテーブルに置かれていた湯気の立つカップからだった。
「ミルクティーとビスケット。私へのもの?」
救われた事は理解できたが、彼女は助かったのだとも思ってはいなかった。
海に溺れる記憶という悪夢の中で、真っ黒な化け物に襲われてもいたのだ。
この場所が安全だとは言いきれまい。
また、彼女をここに運んだのが彼女を海に落とした男達であったのならば、体力を取り戻せば彼らの望むようななぶりものにされる事は確実であるだろう。
絶望に瞼を閉じた。
すると、ドアが開く音がして、小さな軽い足音が彼女へと向かって来た事を知り、混乱したまま彼女は眠った振りを続ける事にした。