騙されてもそれは自分が選んだ道
シンディはフィッツの剣幕に脅えながらも、彼が押さえつけているエミールを庇おうと手を伸ばしていた。
「放してさし上げて!フィッツ!お父様なんでしょう!」
「同じ血が流れているのも嫌なぐらいだけどね。」
「あなたは!」
「いいんだよ。私が女性を求めるのは、私が失った愛を求めているだけだと息子には判らないだけなんだ。この子はまだ誰も愛した事が無いからね、愛を失った人間がどれだけ不安定で不幸な気持ちなのか考えが及ばないんだよ。」
その言葉はシンディの心を打った。
そうだ、シンディこそ失われた愛を浅ましくも足掻き続けているのである、と。
エミールを忘れられない恋心が、その心を忘れたいと手ごろな愛を掴んでしまっていただけなのだと、彼女は気が付いたのである。
「お願い。エミールに酷いことをしないで。」
フィッツは舌打ちをしながらエミールから手を離し、エミールは気品を保ったまま乱れた服装を直し始めた。
「まあ、額が赤く。」
シンディは無意識にエミールの額に手を伸ばしていた。
幼い頃の初恋の相手だ。
そして、彼は彼女を覚えていただけでなく、彼女の心配もしていたと語ってくれたのである。
彼女の手はエミールに振り払われるどころか、彼女の指先が自分の額を触り、なおかつ生え際の髪を梳く事まで許してくれたのだ。
彼女の指先の動きにうっとりとした表情までつけて。
「ああ、君に再会できてこんなに嬉しい事は無い。君の声は忘れたことは無い。もう一度私の為に歌ってくれるかな。あの子供の声がどんなふうに熟成したのか、私はずっとずっと気になっていたのだよ。」
「だったら会いに行けばよかっただろうが、口先男。」
フィッツの呟きにシンディもはっとなったが、シンディの手がエミールに優しく包まれた事でシンディからは思考力が消えた。
「ただの男ならば君に会いに行っていた。私は伯爵で官僚だ。国境の壁は高い。ああ、君が十六になった年には、君を攫いに行きたいとどれだけ願ったことか。」
「まあ!」
その年は父親ほど年齢が違う男に騙されたのだとシンディは思い出し、その年にエミールと再会できなかった自分の不幸に涙が零れた。
「こら、騙されるな!この男は君を騙した男達よりも、数倍以上阿漕だぞ!」
「人は誰かを愛すると節操など無くなるものだ。ああ、君のお母さんのことは覚えているよ。彼女の棺が海に落とされる時には、ああ、私も一緒に海に飛び込んでしまいたかった。」
「じゃあ、飛び込め。今から飛び込んで来い!」
「ちょっと黙って、フィッツ。わかるわ!あの日のあなたはとても傷ついていて、でも、ああ、私は母が羨ましかった。あの日の傷ついたあなた、ああ、あなたに見送られて悲しまれている母が羨ましかった。」
「君は何て優しいんだ。」
シンディは初恋のまま忘れる事が出来ないエミールの腕の中に飛び込んでいた。
騙されても後悔などしないだろう。
エミールに抱かれる日こそ彼女は夢見ていたのだ、と彼女はエミールに腕を回していた。
「君に会えてこんなに嬉しい事は無い。」
「私はあなたに会うために冷たい海を泳いだのよ。」
「僕は余計なことをした黒犬さん達を全部処分したい気持ちだよ。」




