浜辺に流れ着いたものは見つけた人のもの
貴族には二つのタイムテーブルがある。
首都の社交界シーズンのものと、領地でのものだ。
首都の社交界のものは、ひたすらにパーティに参加する羽目になるので、朝は昼ぐらいまで眠ることになる。
起きたらご機嫌伺いで家々を渡り歩いたり、気に入った淑女をピクニックやホロなし二人乗り馬車に乗せて口説いたり、だ。
つまり、繁殖相手や商売相手を必死に口説くためのタイムテーブルだ。
反対に領地のタイムテーブルは規範的な生活スケジュールだ。
領主たるもの、領民の手本とならねばならない。
その実、早く寝る事で召使の手間を減らし、そのせいで早く起きてしまうので、召使に邪魔にされる前に領地を回るというだけだ。
フィッツは皮肉な気持ちで相棒を眺めた。
伯爵未亡人は当たり前にまだぐっすりだが、ニーナはフィッツの外回りについて来たのである。
彼女は真っ黒で大きな犬を従え、そして、小さな男の子の手も繋いでいる。
少年の名前はリュカ・リリュー。
茶色の巻き毛に茶色の瞳の彼はどこにでもいる風貌でもあるが、父親が他国に身柄を狙われている著名な科学者、アラン・リリューということで、普通の子供らしい生活が出来なかった不幸な幼子だ。
アランは最近フォルスの兄嫁だったジョゼリーンと結婚した。
新婚には新婚である二人だけの時間は必要となる。
そこで、今まで父親のアランと二人で家に閉じこもるようにして生活していたリュカを、普通の子供らしい生活を味合わせたいという理由で同じ子供でも年上のニーナに押し付けた、ということなのだろうとフィッツは推測した。
そして、本当は幼い子供でしかないニーナは、伯爵未亡人とリュカ少年の相手に疲れたのだろうと。
フィッツの考えを肯定するように、ニーナは潮風を吸い込んで体中の悪いものを出すかのようにふうっと吐き出した。
その表情はゆるんとした力の抜けたもので、フィッツがニーナの実年齢を四十代以上に感じたぐらいのものである。
「お疲れ様、ニーナ。」
「ふふ。何をおっしゃるの?フィッツ様ったら。ああ、でも本当にいい香り。海の匂いは独特ですわね。」
「ああ、全ての源の母親の匂いだ。」
「あら、なんだか厭らしい匂いに感じますわ。」
「ハハハ、悪かった。それで、知っているかな。波打ち際に落ちているものは、見つけた者のものになるんだよ。今日はどんな宝物が落ちているかな?」
「見つけたら自分のものにして良いのですか!シーフル少佐!」
リュカは尊敬のまなざしでシーフルを見上げた。
シーフルはそんな目で見上げられる事には満更でもなかった。
自分自身がアルマトゥーラ中将閣下だと思われていて世の子供達に尊敬されていると聞けば、親友へのざまあ見ろと言う気持ちで、自分がニーナにいいようにされた敗北感も消えるというものなのである。
「ああ。自分のものにしていいのだよ。今日の浜辺にはどんな宝物が落ちているのだろうね。」
フィッツは子供達に微笑みながら目線を浜辺へと向け、そのまま今日は屋敷に閉じこもってしまおうかと考えた。
遠くに見える海岸は、クリーム色の砂浜に青い海が白い模様を浮かべて輝くという素晴らしい光景であるはずなのに、真っ黒の毛玉がそのクリーム色の浜辺で団子になって騒いでいるのである。
フィッツが大型で飼い主の命令が無くとも索敵に捕獲と守備行動がとれる犬を量産していた理由は一つ、彼の領地が海を間に挟んで敵国と対面している、という地理的問題からである。
密入国者、それも武器を持ったエンバイルの密偵が領地に何度も入り込む事から、フィッツは地獄の黒犬達を領地に放ったのである。
フィッツは浜辺の黒い毛玉を眺めながら、エンバイルの兵など勝手に上陸させて自分は知らぬ存ぜぬを通していればよかったのでは無いのかと、今更ながらに青臭かった考え無しの自分を責めていた。
今の自分など責めない。
現在のフィッツは自分の放った犬達によって、しっかりと毎日過去の自分の行動のつけを払わされているのだ。
「子爵様。道を変えましょうか?今日は羊の群れと遊んだ方がよろしい気がしますの。」
「さすが、我が姫。……君も大変なんだね。」
フィッツは本気でニーナに同情をした。
ボスコは本気で自分の身内が嫌でたまらないようで、ニーナの肩に両の前足をかけてニーナに抱きついているのである。
犬もこんなに嫌そうな表情が出来るのかとフィッツが驚くほどだ。
巻き毛のロングコートの犬達は巨大モップのようでもあるが、その硬い巻き毛になっている事で体温を守り、どんな悪天候でも耐え忍べられるという利点はあるのだが、表情など全くわからない毛玉でしかないのである。
ところがボスコは本当の飼い主であるフォルスによって毛を短く刈られているので、普通の犬、もとい、熊のぬいぐるみのような間抜けな外見にはなっている。
大きな目は本気で嫌そうに大きく見開かれて、普段は真っ黒な瞳だけのはずが白目の部分までしっかりと見せつけての嫌がっている表情だ。
うおおおおおん。
リーダー格のボスコの兄犬、レギオンが大きく鳴くと、フィッツの方へと駆け出して来た。
フィッツは逃れられなくなったと受け入れ、ニーナには屋敷に戻るようにと左手で合図をした。
「わあ!兵隊だ!敵の兵隊さんだ!」
ここには大人の事情を考えない子供がいたことを忘れていたと、フィッツは自分を呪ったが後の祭りだ。
リュカは浜辺へと一目散に駆け出して行ってしまったのだ。
「ああ。リュカがレギオンたちに潰される前に捕まえなければ!」
フィッツはニーナに子供らしくして欲しいと願っていたが、必死で小さな子供を追いかける今は、どうして世界の子供はニーナのように出来ないのだろうと考えていた。
浜辺に横たわる鮮やかな青色の制服。
密偵が着るわけはないエンバイルの正規兵の制服であり、クリーム色の砂浜を覆いつくそうとするほどに広がっている長い髪は、その兵が女性であると証明しているのである。
その髪色が青緑色にも見えるのは、彼女が領地に引き起こすであろう禍々しい予兆ともフィッツに思わせた。
「いらないよ。僕が一番に見つけていない。ああ、そういう事にしてくれ!」