真鍮に金メッキ
海の中でがむしゃらに水を掻いて体を浮かせようとする女が一人。
彼女は遠くに見える明りが愛する彼の故郷だと知っていた。
毎晩甲板に立って他国の明りを眺めていただけだ。
今夜、偉い男にベッドに誘われるまでは。
彼女は自分を抱き寄せようとする男を、大きく両手で突き飛ばした。
ただし、鍛えられた男がか弱い女の力でふらつくだろうか。
その男は情けないぐらいにぐらっとよろめいた。
彼女は何時間でも歌い続けていられるようにと、体力作りに筋力トレーニングもしていたのである。
男の取り巻きは男がよろめいた事で下卑た笑い声をあげ、恥をかかされたと怒った男は拳でもって彼女の左頬を狙って殴りつけた。
彼女は咄嗟に腕で顔を守り、だが、彼女は大きくよろめいてしまった。
甲板の柵を乗り越えて海に落ちてしまう程に。
落ちかけた彼女に対して何本もの腕が彼女を掴もうと伸ばされたが、彼女はどの腕も掴もうとはしなかった。
彼女が欲しいのは、トロンボーン奏者の彼の腕だ。
愛しているのは一方的に自分だけ、彼が彼女の恋心を知っているわけもないという、彼女の最愛の男性の腕だ。
彼女はドボンと海に沈んだ。
死ぬときはせめて、彼の演奏が欲しかったと思いながら。
目尻が下がっているのは彼がいつも笑顔でいるから?
今の彼は口元も引き締め、誰を見ることも無く朝日の昇る煌きだけを見つめている。
そうしないと彼が崩壊してしまうかのように。
彼が目を向けたくない甲板には、黒い喪服を纏った人々が簡易な棺桶を囲んでいる。
蓋は打ち付けられて中を見ることは出来ないが、あの棺桶の中にはとても美しかったお姫様が眠っている。
いや、女神か?
彼は彼女を女神だと褒めたたえていたのである。
彼は誰の目にもわかるぐらいに彼女を愛し、彼女も彼に対して全てを捧げる勢いで愛を捧げていた。
今は冷たく硬くなっているだけだが。
温かくて動ける彼の目元は真っ赤だ。
彼は子供のように泣き、今だって鼻も目も真っ赤なのだ。
「大丈夫?」
私に彼はそっと微笑んで返したが、何も言ってはくれなかった。
きっと口を開けば彼は再び泣いてしまうからだろう。
彼は黒いケースから金色のトロンボーンを引き出して、そっと口に当てた。
せっかくの朝日が昇り始めたこの世界を再び暗く重いものにする音色が響くのは、彼が愛した人を見送っているからだ。
船で亡くなった人は、船から海に遺体を投げ捨てられたそこで終わりだ。
でも、私は彼女が羨ましかった。
愛する人にこんなにも愛していたと世界に知らしめるようにして、彼女は死出への旅路を見送られているのだ。
ざばーんと海に棺桶が落ちた。
彼女は海底でローレライとなって、彼の為に永遠の歌を歌い続けることだろう。
私は沈んでいく彼女の為に彼女の好きだった歌を歌おうと息を吸った。
「がふっ。げほ、ごほ、げほ!」
朦朧とした意識の中、過去の思い出通りに歌を歌おうと大きく息を吸った事で、彼女は海水を大量に飲んで大きく咽た。
彼女は皮肉にも咽た事で意識が戻り、真っ暗な海で足掻く自分の境遇を再び目にする事になった。
「がふ、ああ、誰か。いいえ。見つかったら殺されてしまう!」
彼女は誰に助けを求めて良いのかわからないが、ただ一つの希望の方角、彼の故郷の岸辺があるだろう方角へと必死に手足を動かす事にした。