お酒の代償
シンディは自分が情けないとなんど自分の顔を手の甲で擦っただろうか。
貴婦人の格好をしてみても、いつまでたっても自分は不格好な大きな女でしかないのだ。
歌姫と自分で名乗っているが、舞台で客を呼べるような歌手ではない。
何でも歌えるからと色々なパーティに声がかかったが、声が低すぎて女性歌手に求められるソプラノが歌えないのである。
アルトでも有名な戯曲があるが、その戯曲だって主役はそもそもソプラノだ。
けれど、今夜はこれ以上ないぐらいに絶賛された。
まるで舞台で歌う歌姫のように、シンディは持ち上げられて称賛を浴びたのだ。
そこで終われば良かったものを、シンディはここで大失敗をした。
グラス一杯の発泡酒。
彼女はその一杯で酔ってしまった。
気持ちが高揚しただけでなく足元がおぼつかなくなった彼女は、酔いを醒まそうと声をかけてくれた男性の腕に寄りかかりながら、情けなくもへらへらしながらバネッサの屋敷の客間に行ってしまったのだ。
目の前にはベッド。
抵抗しなければ!
彼女はそこだけは意識が働き、自分の腕を掴む男性の手を振り払おうとした。
が、シンディは足を滑らせて床に大きく転んだのだ。
そこで暗転して彼女には記憶はない。
次に気が付いた時には誰かの腕の中で、彼女を客間に連れて行った男では無い男性によって別のところに運ばれている所であった。
「フィッツ、あなたの上着が駄目になってしまったわね。」
頭がぐらぐらするして目も開けられなかったが、クラウディアの声によって自分を抱く男がフィッツなのだと安心し、彼女は体から力を抜いて目を瞑ったままにした。
「これぐらい平気ですよ。僕にはリーブスがいないから、絶対に叱られると脅えることもありません。汚れた僕の上着を片すのもこの屋敷の人達ですしね。」
「まあ、意地悪ね。」
シンディはフィッツの腕の中で自分に吐瀉物の臭いが微かにあることから、酔っぱらった自分を介抱してくれたフィッツの胸に吐いたりしたのかもしれないと情けなさでこのまま死にたいぐらいだった。
そして、彼によって馬車に乗せられ、クラウディアと二人で自分を介抱してくれる優しさにシンディは耐えられなくなった。
彼女は耐えられないと感情的になったまま、その馬車の中で自分の過去までも洗いざらい泣きながら語ってしまったのである。
最初の恋人は既婚者だった。
妻にお金を渡せば別れられると言われ、言われるがままに貢いでしまった。
そのろくでなしと別れてから出会った男は独身者であったけれど、婚約者となった途端に保護者だからと銀行の金を全部引き下ろして逃げて行った。
それでも歯を喰いしばって営業していたら、付き人だった友人にお金を全部持ち逃げされた。
そして、止めはエンバイルの軍船だ。
全部を聞いたフィッツは、本当の意味でシンディの心臓を止めた。
「で、トロンボーンの男はどこに出てくるの?」
「出てこないわよ!片思いでしかなかったのだもの!時々私の為に吹いてくれるから、私は彼のメロディに合わせて歌えただけよ!」
フィッツが途中で馬車を降りたのは、シンディの醜態に付き合いきれないという事かもしれないとシンディは思い返して、自分の情けなさに再び涙が零れた。
「でも、全部は言っていないから平気よね。」
彼女はグイっとこぼれ出た涙を乱暴に拭った。
「お父さんが自分の母親以外を愛していた事実なんか、彼は絶対に知りたくは無いはずだわ。」
エミールに愛された歌姫はソプラノ歌手だった。
天使の声だと絶賛され、誰もが彼女の歌声にうっとりとした。
けれどカナリアが短命なように、彼女は船の上で肺炎になって死んでしまったのである。
「私は酷い女だわ。実の母が亡くなった事を悲しいと思わないなんて。ふふ、雇われのシッターにまかせっきりだったものね。ママは私を抱きたい時に私を呼び寄せるだけだったもの。」
そんな母親が母親らしい顔を見せてくれたのは、あのエミールと恋仲になってからだったとも思い出していた。
「彼は優しかったもの。私にもお父さんみたいに接してくれたわ。フィッツが優しいのも彼の息子だからなのね。」
失敗した今日を忘れてしまおうと、シンディは枕に顔を埋めた。
リネンからふわっと香るのはヴァーベナとゼラニウムだった。
「ああ、そうだ。ママの香水はゼラニウムとローズだったわ。ああ、まるで二人に抱かれているよう。だから私はフィッツの家で落ち着けるのね。」
シンディは自分の言った言葉で何かに気が付いたのか、跳ね上がるようにして身を起こした。
「違う!ママは違う香水だった。ゼラニウムとローズはエミールに贈られたからだわ。あの香水を使うようになってからママは弱っていったのだわ。ああ、ママの財産はどこに行ったの?ママはお金持ちだったはずだわ!それなのに!私は無一文だからってあのシッターが私を引き取ることになったのはなぜ!」
パーティ会場での噂話が頭に浮かんだ。
――吸血鬼が出たのですってよ。
――若い男が草むらで倒れているのですってね。
――いいえ。違うわ。若い女こそ、よ。悪い男に全てを吸いつくされて首をくくった女性がもう三人目よ。
――あら、バネッサのコンパニオンも誰かに貢いでいるって有名ね。次はあの子かしら。
「まあ!そうよ。シャンタルの姿が今日は見えなかった。ええと、あの噂話は、あの子はどこに行っているって。」
シンディはクローゼットに向かうと、華美な服ではなく侍女に見える地味なドレスを選んでそれに着替えた。
「私みたいな失敗をさせちゃあいけないわ。あの人は私と違って生まれながらの貴婦人なのだもの!」