好奇心の強い男の夢
さながら天と地を逆さにしたような、それでいて自分の身体の向きは変わらないまま――すなわち、自分にしてみれば足で空を踏み頭が地面を向いているということだが――世界が動いているような感覚を君は味わったことはあるだろうか。
男は女に問いかける。問いかけられた女は看護師のような出で立ちで、真白の服の皺は微塵も動かない。男は静止したままの女に構わず続ける。
幾重にも監視されているここでは、皆が住人であり、配役であり、演者だ。君もまた然り、あるいは僕も然り。ここで起こるあらゆる事象は、極めて自然な道理の中に成り立っている。例えば、僕と君がここにいることを誰も不思議に思うものはいない。僕自身もそうだし、君自身もそうだ。僕たちの姿を目にする第三者だってそうだ。もしかすると頭のどこかで違和感を覚えることがあるかもしれないが、大部分の意識はその違和感を払拭するだろうね。
廃病院の一室のような、暗緑色に錆びついた部屋だった。口を開いている間にも男はタイピングの手を休めることなく、絶えず何かを紡いでいる。それは至って単調な動きであり、止めどない機械音は心拍を思わせるほどにきめ細かなリズムを作り出していた。
全てが至極自然だ。そして同時に不可解でもある。僕は僕が何であるかを考えたことが一度もない。ただ僕以外の存在の配役を決めてきた。例えば君。君は時に看護師であり、凄腕のスパイであり、名の知れぬ田舎にひっそりと暮らす名もない一家の母親であり、そうして人食いで有名な旅館の女将であり、はたまた記憶喪失の女であった。君はその全ての状況を受け入れてきただろう。
君はその時々で、自分が何者であるかを受け入れてきた。この場所での住人を僕はかれこれ数百、数千と見てきたが、たまに君のような者がいるね。環境適応能力とでも言ったところか。見ず知らずの他者の意識に滑り込み、その者自身に移り変わる……。
男が言い終わるのを待たずして、女は弾かれたように体を反らせ、駆け出して行った。大人しくその場に立ち尽くしていたときとは打って変わり、威勢の良い走り出しだった。部屋に残るのは男一人だ。
「悲しいかな、僕には君が見ている世界は全くわからない。色も匂いも、感覚に通ずるものは何一つわからない。ただ在ることしかわからない。僕は自分が打つ文章に何の意味があるのかわからない。ただ言葉を切り貼りして、それらしい文章を構成するばかりだ」
部屋には規則正しいタイピングの音ばかりが響いていた。