イチゴミルクと診察室
仄暗く錆びついた倉庫の中に私はいた。既に暗闇に慣れた私の目は遠くに青白く光る出口を見つけた。不気味な場所だった。扉の取っ手に手をかけると、金属の擦れる耳障りな音を立てて扉は開いた。
扉を出てすぐ、目の前は開けていた。そこはちょうど、バスケットボールの試合が終了したところだった。私は息せき切って会場へ走り出す。試合会場をぐるりと囲む円状の観覧席は、さながらコロシアムのようだ。狂気めいた奇声を発しながら、手を奇妙にくねらせている集団に揉まれながら、私は「最愛の人」を見つけにかかった。前を向いたまま、此方が無理やり道を作るためにぶつかろうとも、観客は一瞬たりとも私の方を向くことはない。よほど試合に夢中と見えた。
いよいよ最前列に辿りつき、成程と私は声を挙げた。入ってすぐに目にしたのは、まさにバスケットゴールにボールが入ったその瞬間だったのだが、何という事だろう。ただのバスケットボールの試合ではなかった。そもそも私は、バスケットボールの試合ルールすら知らないというのに、何故バスケットボールの試合だと確信して止まなかったのだろうか? 湧き上がる疑問を自問自答する。回らない頭なりに視線を泳がせてみれば、所々で血を流して倒れている者がおり、気を失っているのか、ただ倒れているのかわからない者さえいる。ゲームの勝敗は生死に関わるようであった。コロシアムの雰囲気を感じたのはあながち間違いでもなかったらしい。
私ははっと我に返る。私は大好きな人を探しに来たのだった。「彼」の姿はすぐにわかった。駆けよればすぐのところで、「彼」は虫の息だった。胸が押し上げられるような思いに、眩暈がした。私は咄嗟に「何か飲み物を彼に与えなければ」と考え、「彼」に何を買いに行けばいいのかを尋ねた。そのとき、私の思考は行動の一歩後ろを行っていた。どうも、何故自分がそのようなことを思い、「彼」に尋ねているのかが分からないのだ。しかし、事態が急を要することだけは瞬時にわかる。「最愛の彼」の窮地に陥った姿を見てすぐに思いついたことなのだ。正解も間違いもないだろう。
「彼」は私のよく知る微かな笑みで「イチゴミルク」と答えた。「彼」の切れ長の瞳は、笑うと一層細くなる。私はその人懐っこい表情が大好きなのである。私は使命感を背負い、イチゴミルクを買い求めに走り出した。競技のホールを出て、見慣れない廊下、階段を走り抜けながら、私は自動販売機を探した。青緑のつるりとした材質の床を幾度と踏み、息も切れるほどに走り回るのだが、一向に目当ての自動販売機は見当たらないのだった。
幾段上っただろうか、階段を上り続けていると、私は会場のスタッフと思しき若い男が階段を下りてくるところに出会った。ホテルのボーイのように黒髪を七三に分けた、規律正しそうな男だ。私はその男に自動販売機の在処を尋ねた。若い男が言うことには、私がいるこの階段を上っていったところに霊安室があり、その隣で飲み物が販売されているという事だった。私は若い男の言葉にあった「霊安室」という響きに寒気を覚えたが、一刻も早く「彼」のところへ戻らなければという思いが強くあったため、言われた階まで即座に足を運んだ。
辿り着いたフロアは、映画館があるようなフロアで、階段から上がった先から向かって奥へ行くほど薄暗く、手前ではポップコーンの販売がされていた。何故映画館を連想したのかは自分でも不明だったが、身体がそう感じたのだからどうしようもない。私はポップコーンの味の種類の中にイチゴミルク味があるのを見つけた。しかし、ポップコーンは飲み物ではない。至極単純な話だが、一見して飲み物の販売をしていないこともあり、私は強い焦りを感じた。形振り構わず、私はポップコーンを販売している店員の男に事の次第を全て話した。「最愛の人」が瀕死の状態であること、「彼」はイチゴミルクを所望しており、一刻も早く私はイチゴミルクを手に入れて彼に届けなければならないこと。店員の男は、私の要領を得ない話をただただ聞いていた。
私が一頻り要望を伝え終わると、店員の男は何を思ったのか、突飛なことを申し出てきた。
「久しぶりに診察をするときが来たみたいだ。診ようか」
それまで店員の男の顔など気にも留めていなかったが、よく見れば目の前にいるその男は、先刻階段で自動販売機の場所を尋ねた男と同じ顔であった。私は状況もよく理解できていないにも関わらず、「診察は要りません」と即座に答えていた。
男は私の言葉など耳に入っていないかのように、販売所からぬっと出てきて、私の目の前に立った。照明の影響で不確かだった男の全貌が明らかになる。その姿は明らかに医者で、白衣を着ていることに何故私は気付かったのかと無性に悔やまれる思いだった。浮遊感を伴う眩暈が、また私の脳を刺激する。その不意を突かれ、私は男に腕をとられ、何やら関係者以外立ち入り禁止という文言が相応しい部屋の前へ連行された。部屋の中は丸見えで、今私が置かれている状況からの乏しい推察になるが、そこは診察室のようだった。病院の個室でよく見る医療用カーテンの先は緑がかっていて薄暗く、ここで私は「霊安室」という言葉を思い出したのである。