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タイプライター

 仄暗く錆びついた倉庫の中に私はいた。既に暗闇に慣れた私の目は遠くに青白く光る出口を見つけた。不気味な場所だった。扉の取っ手に手をかけると、金属の擦れる耳障りな音を立てて扉は開いた。

 扉を出てすぐ、目の前は開けていた。今自分が立っている場所より下にはさらに階があるようだった。自分から向かって右手には、どこへ続くともわからない廊下が連なっている。不規則に点滅する蛍光灯が照らし出すその風景は、まるで人気を感じさせないのだった。茶色に変色し、幾分か湿気を帯びて盛り上がった壁が一層場の薄気味悪さを物語る。進むべき道は、右手に続く、人が一人入ってやっとのような廊下だけなのだった。

 細長い廊下を、私は進むことにした。どうにも床はぬめりがあるようで、足元はどうにも覚束ない。進行方向向かって左にある手すりは、体重をかけてしまうには折れてしまいそうなほどに脆そうなつくりで、何から何まで茶褐色の錆で覆われているこの場所から、私は一刻も早く立ち去ってしまいたかった。だからといって、急ぐわけにもいかなかった。何しろ、一歩間違えれば、手すりのすぐ横下に見える地下へと足を滑らせてしまいそうだったからだ。

 中々先の見えない廊下を歩き続けていると、それまで無音だった中にも、少しずつ何かが息づく音がした。私は一種の安堵を得るとともに、生暖かい不気味さを覚えた。どれだけ歩いたかはわからない。ややもすると、地下街のような場所に出た。それまでは天井の高さを意識していなかったが、自分が立っている地をもとに、2、3階立ての建物が連なっていた。気が付くと歩きにくかった廊下も整備され、滑らかな土の上を歩いている風だった。消灯のたびに「じ……じ……」と音を立てていた蛍光灯の存在はもう見られない。代わりに建物の一部の部屋で光が見られるのみである。

 建物はところどころガラス張りで、柔らかなセピア色に似た懐かしい光を放っていた。そのせいかわからないのだが、私は一種の既視感じみた感覚を抱いた。どこかで見たことがあるような気がするのだ。あるいは夢に見たことがあるとでも言おうか。一番に目に入った部屋は何かの待合室のようで、植木鉢に入った人のサイズほどの緑が鎮座していた。さらに進んでいくと、レストランのような間合いの部屋が見えた。階にして三階あたりだろうか、まじまじと見なければ部屋の内装は見えない。私はじっと目を凝らしてその部屋を窺った。ちょうど外から見える座席に人影を確認したそのとき、徐にその「客」が振り返り、私の方を向いた気がした。目が合ったと認識するよりも早く、私は駆けだしていた。後ろ姿を覗いた限りでは一見それは人であったのだが、振り返った顔を見たとき、私はその顔の中に動物のような目を見たのだ。まるで猫だか子リスだかの目が人間の目とそっくり入れ替わったような、そんな顔であった。私はすっかりその奇妙な目に怖気づき、その場を飛び出してしまったのである。建物の方とは逆の方向へ駆け出していくと、やがては広場のような間取りのものが見え――広場と言えども、茶金属の淡泊な素材でできた地面が続くだけで草一つ生えてはしないのだが――私の本能が今いるフロアから下ることを求めていた。廊下に備え付けてあった手すりはどこかで途絶え、建物から離れていくほどに、扉を開けてすぐに見えた地下の姿が露わになった。

 地下は思っていたよりも深いところにあるようで、地下に降りた先は暗闇に覆われて何も見えない。まさか飛び降りるわけにもいかないと、辺りを見回してみたところ、地下へ続くと思わしきロープがどこからか垂れ下がっていた。上も真っ暗なら下も真っ暗である。かろうじて見えているのは目の前に揺れる数本のロープ。握れば千切れてしまいそうな、頼りがいのないものだったが、すっかり暗闇に目が慣れてしまった私の目には、先の人外な何かと再び遭遇するくらいならば、地下に通じていそうなロープへ身を預けてしまう方が幾分か希望が見える気がした。

 私はロープを手繰り寄せた。二本ほどかき集め、同時に掴んでみれば、何とか下へ降りて行けるような感触はあった。迷う暇もなく私は茶褐色の地から足を離し、ロープに捕まった。緊張で気付かなかったが、ロープもまたやけに湿っており、おまけに生温かいときていた。それはまるで人の息遣いのごとき温かさで、私にはとても気味が悪く感じられた。

 見かけによらず思ったよりも丈夫にできていたロープを伝い、私は地下へと辿り着いた。上の階で見ていた通りの暗さであった。そこは病院の地下倉庫を思わせるような場所であり、降りてすぐには受付のような場所がある。私はその受付と思しき小さな部屋の窓の中に、看護師のような服装をした女の姿を見た。目より上はガラス窓のシャッターで隠れていて見えないが、鼻から下、腰あたりまでは鮮明過ぎるほどに見えた。それというのも、異常なまでに暗い中で、その受付の建物だけが異様に白く、煌々とした光を放っていたからだった。私はその女に声をかけるべきかどうかを迷った。それというのも、先のレストランでの一件があったからだ。この女も似たようなものであったなら、いよいよ私には逃げ場がない。私は足音を立てないよう、ひっそりと暗闇の中を歩いて行った。


「ご用件は?」


 私が受付の建物を過ぎようとする頃、女が声を発した。私は観念して女の方へ向き直る。


「それがよくわからないのです。進路はこちらで合っていますか?」


 私は進行方向から先を指さした。女は無言で頷いて答える。


「あなたは……の方ですね。どうぞ先へお進みください」


 大事な部分が上手く聞き取れなかった。どうやら女は私がここに来ることを承知済みのようだった。どういうわけか、私自身も女のその反応には違和感を覚えなかったのも事実だ。

 女はそれ以上何も言わなかった。私も何も言わなかった。先の建物の光は、頭上の遥か彼方に見える。地下へ降りるのはすんなり来れたが、もうあの場所へは簡単には戻れそうにない。私は女の言う通り、先へ進むことにした。

 しばらくすると、病棟のような廊下から一変して、会議室が並ぶ場所へと出た。オフィスビルの中のようだった。数段の階段を上がると、会議室に沿う廊下の突き当りが見えた。奥から二番目の会議室は扉が開いており、薄緑色の廊下に白い光がうっすらと洩れていた。私はふと疼いた好奇心を抑えることができなかった。会議室へ近づくほどに洩れる光と艶やかな嬌声に、心臓が幾ばくか高鳴るのを抑えながら扉の隙間から中を窺ったのだった。

 僅かに開かれた隙間から見えたのは、男女の交差した身体そのものであった。生身の人間ではないことがすぐに見て取れた。中にいたのは二体だけではない。そのほか地べたに転がり、何処でもない方向に視線を向ける球体関節人形、あるいは蝋人形が脱力したような姿勢で息づいていた。

 私は見てしまった後悔と、罪の意識に苛まれた。見てはいけないものだったような、そんな気がしてならなかったのだった。そうこうしている間に、私はどこからかキーボードを叩くような音を聞いた。その音は機械的であるものの、人工的なリズムであった。音の先を私は視線で追う。雑多に散らばる人形たちに埋もれて、何やらタイピングをしている「人間」の姿があった。黒のスーツに身を包み、白い眼鏡をかけている男だ。私が認識したのはその男の横顔で、眼鏡の中の瞳までは見えなかった。彼のキーボードを打つ手は止まらない。かたかたかたと、その音に合わせて、文字が印字された紙が出力されている。


「おやおや、これはいけませんね。あなたのシナリオはまだ途中なのですよ」


 男はキーボードに目を向けたまま言う。その言葉が私に向けられたものであることを、私は知っていた。私はここにきて、罪の意識がどこからきたものかをようやく理解したのだった。

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