第8話 逃亡駆け落ち
僕たちの駆け落ちが始まった。
高速道路を走り始めて4時間。さすがに休憩をしたかったので、サービスエリアに立ち寄った。時刻は午前1時。普段ならもう眠くなるところだったが、状況が状況なだけに全然眠くならなかった。助手席の美咲もずっと黙って前を見つめていた。
僕たちはほとんど無言だった。時々話すことといえば、眠い?とか疲れた?等の気遣いの言葉だけだ。
話を聞いてみると、美咲は1階のレストランから逃げてきたらしかった。
「寝てもいいよ」
僕は冷たいコーヒーを飲みながら助手席の彼女に声をかける。少し休んだら落ち着いてきたのか、彼女はうとうととしていたのだ。
「平気。孝介こそ運転代わろうか?」
「ミッション運転できるの?」
「・・無理。私オートマ限定で免許取ったんだ」
小さく後悔している姿がかわいかった。僕は久しぶりに見る彼女をじっと見つめた。そういえば、今日はいろいろあってまだ美咲の顔をじっくりと見ていない気がする。
そんな僕の視線に気づいたのか、美咲は少し頬を赤くして、それでも精一杯いつもの態度をとってくる。
「じろじろ見んなよ」
相変わらずの憎まれ口で苦笑した。僕はゆっくりと身を乗り出して、顔を近づけていく。美咲も少し身を乗り出してくれた。あと少しで唇が重なりそうになる・・・そのとき、僕は固いシートベルトをつけたままだったことに気づいた。
「あ・・・」
運転席に座ると、無意識にシートベルトをしてしまうのが僕のクセだった。僕は苦笑いで美咲を向くと、彼女はさっきよりももっと顔を赤くしている。
「期待させちゃってごめん」
「してねーよ!バーカ!」
今度は飛んできた美咲の攻撃を受け止めて、そのままの動きで僕は彼女の唇を奪う。美咲は固まって動かなくなった。すぐに唇を離した。
「続きは全部決着がついたらな」
「うるさい!コーヒー臭いんだよ!!」
美咲の元気が出たように思えて少しほっとした。僕は夜の高速道路へまた車を走らせた。
駆け落ち1日目の宿は車の中だった。と言っても、これから何日続くかわからないこの旅のほとんどが車の中での生活になるのだろう。僕も美咲も駆け落ちがすぐに終わってしまうことになんとなく気づいていた。逃げるなんてよくないとわかっているからだ。
僕は彼女に岸本徹について尋ねてみた。
岸本グループの御曹司で、弱冠25歳。親の経営する会社の部長をしているらしい。僕が一瞬見た印象だと、芸能人かと疑うくらいの容姿端麗な人だった。たぶんホテルの前まで美咲を追ってきたボディーガードと一緒にいた若い男がそうなのだろう。
「でも、じいちゃんも言ってたけど、人間として最低だ。あんなヤツと結婚なんて死んでもごめんだ」
「世の中何でも金で解決できると思ってるとか?」
僕の持つ金持ち社会のイメージをそのまま伝えてみた。ひょっとしたら美咲とのお見合いもそんな意図があったのかもしれない。
そんなことを考えていると、美咲はふるふると首を振った。
「もっと根本的なところで。人間をゴミとかクズ同然のように思ってるところとか」
まだ関わったことのない僕にはその言葉の真意が読めない。
「大げさじゃない?」
「孝介も会ってみればわかる。たぶん私のことなんかゴミだけど利用価値があるとしか考えてなかっただろうな。世間体気にする人間だったから、表沙汰にならないように必死で私のことを捜しているかもしれない」
どこか人事のように彼女は言う。僕自身も聞いてはいるのだが、なんだか眠くなってきた。座席を後ろに倒して眠ろうかと思ったとき、なんでもないことのようにつぶやいた美咲の言葉に、僕は眠気が吹っ飛んだ。
「もって半日だろうな。この駆け落ちも」
「へー半日・・・・・・・・・・半日ぃ!!?」
確かに長くは続かないとは思っていたが、まさか今日明日で終わるなんて思ってもみなかった。次の言葉を探して口をぱくぱくとしていると、美咲は左手の人差し指と親指で持っている何かを示した。
「これ、私につけられてた発信機だよ。元々私につけてたのか、逃亡のどさくさにまぎれてつけたのかは知らない。わかるのは、これで私たちの居場所は筒抜けだってことだ」
僕は頭からさーっと血の気が引いていくのを感じた。それなら、こんなところで休んでなんかいられない。エンジンをかけて車を発進させた。
「ごめん・・・こんなことに巻き込んじゃって・・・・・」
彼女の口から聞く初めての謝罪かもしれない。さすがに意外だった。
「損な性分だとあきらめて駆け落ちしたんだ。後悔なんてしてないよ。それに・・・・」
美咲をそんな最低男になんか渡したくない。
「それに・・なんだよ?」
その先を聞こうと促されたが、僕は鼻歌を歌ってごまかした。そういえば、本当に今さらだが、僕はまだ美咲に好きだと伝えていないことに気づいた。言おう。岸本徹とのことに決着がついたらちゃんと。僕は決心した。
高速道路を降りて、一般道路に出る。特に行き先を決めていたわけではないが、自然と賑やかな町とは反対の方向に向かっている。
美咲はこれ以上発信機が取りつけられていないか調べたが、なかったらしい。ついでに、つけられていた発信機もすでに手で壊してしまっている。それでもおおよその場所はわかってしまっただろう。っていうか、もうわかっている。
さっきから背後に無点灯の車がついてきているのだ。
「美咲、この逃亡駆け落ちもそろそろ終わりかもしんない」
「・・・半日ももたなかったな」
しかし、これが美咲の望んでいたことを僕は知っている。こんな山の中なら、誰にも迷惑をかけずに決着がつけられるからだ。電灯の下に車を停車させて、僕たちは自分から車を降りた。背後についていた車も停車したが、誰かが降りてくる気配はなかった。
静けさの中、美咲が大きく息を吸って吐く音が聞こえた。
「その車に乗ってますよね?岸本さん」
少しの間。後方の車の後部座席が開いた。中から出てきたのは、ホテルで美咲を追いかけていた若い青年だ。たぶんこいつが岸本徹。
「気づかれていましたか。逃げた貴女を捜すのは苦労しましたよ」
第一声で変わった声だと思った。まるで変わらない笑顔に気味悪さも覚えた。
「発信機で私を尾行してたくせに」
「何のことですか。さぁ帰りましょう。夜が明けてしまいます」
「来るな!!」
一歩歩み寄った岸本に、美咲は大きな声で遮る。足を止めた岸本は少し驚いた顔をしていた。たぶん美咲の本性を見たのはこれが初めてなのだろう。張り付いた笑顔が急に引きつったものに変わる。
「私はこの人と結婚したい」
そう言って、美咲は僕の腕を取る。一瞬驚いた。結婚・・?僕の勝手な想像の中で、将来隣にいるのが美咲であったらいいと思ったが、彼女自身からそんな言葉が出るとは思わなかった。嬉しくなったそのとき、ようやく僕は岸本と目が合った。まるで今初めて視界にでも入ったかのような顔だった。
「人の婚約者に手を出すとは・・・あまりよい趣味とは思えませんね」
それは僕に向けられた言葉だった。
「すみません。僕もよくないと思います。でも・・・・・・・もう戻れません。美咲が好きです。あなたは言えますか?胸を張って美咲を好きだと言えますか?」
間があった。それでも岸本は、
「言えます」
と答えた。その後、彼は何を思ったのか車の中にさっさと戻ってしまった。その行動の意図が読めずにきょとんとしてそれを見ていると、突然彼らの車が急発進した。すぐに避けたが、僕が今さっきまでいたぎりぎりのところを車が通る。
「やめろっ!」
美咲の声にはっとした。見ると、助手席と後部座席に乗ったボディーガードらしき男たちが彼女を羽交い絞めにし、足を押さえて美咲を無理やり車に乗せようとしているのだ。
慌てて傍へ駆け寄ろうとしたが、すぐに美咲を乗せられてドアを閉められてしまう。
逃げられる・・・・・僕は本能的にそう思った。そんなことをさせてたまるか・・・!
それは本当に一瞬の出来事だった。
僕は車に飛びついた。と、ボンネットの上に乗ると同時に車が乱暴にスタートした。振り落とされる前になんとか天井まで移動したが、車が急ブレーキをかけたので反動でそのまま前に飛ばされ、道路に押し付けられそうになる・・・・・そして、すぐに車がアクセルを踏むのがわかった。
最後に見たものは道路の白線だった。僕は生まれて初めて車にひかれた。