第7話 私を選べよ
目の前にそびえ立つホテル。たぶんここのスウィートルームに美咲はいるのだろう。
僕はおじいさんからもらったメモで、美咲がいると思われるホテル名を知った。婚約者は岸本グループの1人息子、岸本徹だ。そのへんのことには詳しくないので、財閥名を言われてもさっぱりわからない。
ロビーで岸本グループについて聞こうと思ったが、やめておいた。変な考えが頭によぎったからだ。僕の姿を知られているかもしれなかったから、伊達眼鏡をかけて変装してきたが、いきなり岸本グループを聞く人間なんて怪しいかもしれない。
僕はエレベーターを使って最上階まで行ってみた。予想通りだった。ある部屋の前で、いかにもという風貌の男2人組みが立っているのだ。
1401号室。あの中に美咲がいるのかもしれない・・・・・
しかし、どうやって中に入ったらいいのかわからなかった。懐から当然のように拳銃を取り出しそうなあのボディーガードに力で勝てるわけがない。あそこにいる確証だってない。
僕は一旦最上階から離れて1階まで降りた。歩きながら考えた。しかし、何も考えが浮かんでこなかった。
しばらくしてから声が聞こえた。
「また食べてなかったみたい。例のスウィートルームの人」
「これで1週間よ。大丈夫かしら・・・」
それは、従業員入り口の開いたドアの向こうから聞こえてきた。そのときだった。僕の中で何かがひらめいたのは。
「それ、最上階の1401号室に運ぶ食事ですよね?先輩から頼まれて僕が持っていくことになりました」
ここまでの道のりには苦労した。まずはボーイに成りすますための制服。新人と偽ってボーイの1人を捕まえて、新しい制服を得る。それから、何食わぬ顔で本来夕食を持っていく女性社員と交代する。一見簡単そうだが、僕にとってはライオンの檻に飛び込むようなものだった。
その女性は首を傾げて、じーっと僕を見る。なるべく顔を見られないように顔を背けたが、かえってそれも怪しい。意味もなくにこにこと笑っておいた。
「あなた・・・名札はないの・・?」
「新人なんです」
「先輩って誰のこと?」
「えぇっと・・・さっきロビーにいた人です。実はまだ名前を覚えてないんですよ・・・」
苦しい言い訳かもしれない。額に変な冷や汗を感じる。僕はなるべく早くこの場をやり過ごしたかった。
やがて、女性はうなずいて台車を僕のほうへ近づけた。
「それじゃぁ、よろしくお願いします。私新人さんが入ってくること知らなかったのよ。ごめんなさい」
そりゃぁそうだ。新人なんて僕のウソなんだから。僕は申し訳ない思いで台車を押していった。うまくいったことに安堵しつつ、美咲を見つけたら早めに退散したほうがいいなと思った。とにかくエレベーターで最上階を目指す。
例の部屋の前にはやはり男2人がいた。僕は顔を隠すように台車を押していく。前を通り過ぎようとしたとき、男の1人に話しかけられた。
「何の用だ」
「食事を届けに参りました・・・・・」
男の視線が痛かったが、なんとか平常心を保って答えることができた。しかし、なぜか男のほうが女性社員よりもあっさりとしていた。
「いいだろう」
女性社員だけでなく、男性社員も食事を届けに行くことがあるのだろう。僕はぺこりと頭を下げて部屋の呼び鈴を鳴らした。返事はなかった。隣でボディーガードの1人がカードキーでオートロックを解除してくれた。
「失礼します」
僕は台車を押して入っていく。中にいるのが必ずしも美咲とは限らないが、それでもこの緊張感を抑えることができなかった。
部屋はこれまで映画でしか見たことがないようなものだった。こんな所に僕は一生だって泊まることはできないだろう。大きなテレビにソファ、大きなベッド。僕はベッドの上で足を抱えてうずくまっている少女の姿を見た。一目でわかった。
「美咲」
とてもゆっくりとした動作で美咲は顔を上げる。焦点の定まらない目。しばらくぼんやりと虚空を見つめていたが、ようやく僕を見つけたらしい。急に驚いたように目を見開いた。困惑した表情のようにも見える。
僕は駆け寄った。ベッドから飛び降りた美咲を固く抱きしめた。これはウソなんかじゃない。本物の美咲なんだ。やっと会えた・・・
「孝介・・・?なんで・・・・・」
美咲はどうして僕がここにいるのかわからないようだった。僕の背中に手を回すことなく、ただそこにじっとしていた。
「・・・あのとき、同居してた最後の朝、美咲が僕に弁当を作ってくれたから。弁当箱を返しに来たんだ」
もちろん、そんな理由ではない。しかし、美咲はそっかとうなずいて僕の背中に手を回した。ようやく美咲がそこにいることを確かめられた。それだけで僕は嬉しかった。
美咲は痩せたように思えた。肩が細くなった。それに顔もやつれている。なにより疲れたその顔が痛々しかった。
「俺と縁切りたかったんだろうけど、もっと強く言えばよかったのに・・・そうすればあきらめたかもしれない。こんなところまで追ってくるストーカー男になんかならなかったのに・・・」
「黙って出てこうとか、孝介なんて大嫌いって言ってこうとか考えてたんだけど・・・できなかった・・・・・できるわけないよ。迎えに来てくれるかなって、なんとなく期待してた・・・・・・・・・・悔しいけど・・・・・」
ぐすっと泣き出したのがわかった。僕はただ髪の毛をなでていた。
「美咲、とにかくご飯を食べよう?」
彼女はこくんとうなずいた。あまり長いと、外のボディーガードに目をつけられる。これからどうしようか?考えてみれば、この後のことを何も考えていなかった。
そのとき、美咲にボーイ服の裾を引っ張られた。驚いて見返すと、美咲は真剣な顔で見つめ返してくる。
「孝介、今から3つの選択肢を言うから選んで。1つ目、このまま私のことなんか忘れて前の彼女のところにでも戻る。2つ目、全ての元凶である私をぶっ飛ばして気分爽快。晴れて自由の身になる。それから3つ目・・・・・自分は損な性分だとあきらめて私と駆け落ち。岸本徹に真っ向から勝負を挑む。どうする?」
それはいつか僕が美咲に投げかけた問いに似ていた。
「私を選べよ、孝介」
迷わなかった。僕は美咲の手を取り、抱き寄せた。それが答えだった。
「後悔しないのか?」
「それはこっちのセリフだよ。っていうか、なんで駆け落ちなの?俺は今からでも勝負を挑めるよ?」
「駆け落ちが1番ここの人に迷惑がかからない方法なんだ」
そう言って、美咲は考えながらこれからのことを手短に話した。僕もうなずきながら時々提案を入れて補足する。
部屋に入って5分。これでも長いほうだったが、なんとか怪しまれずにすんだ。帰る直前、美咲は僕に言った。
「幸運を祈る」
「孝介もね」
今夜、それは実行される。
夜の7時頃、僕はホテルを見上げて立っていた。
このくらいになると、必ず岸本徹がホテルの部屋にやって来るらしい。美咲はその目の前で堂々と逃げ出してくるはずだ。そうすれば、ボディーガードに責任がなくなる。美咲はそれで大丈夫なのかと聞いてみたら、
「平気だ。手荒なことなんてできるわけない」
と自信満々に言ってみせた。僕ができることは美咲のおじいさんの部下に借りた車を運転することだけ。逃亡にはおじいさんに協力してもらうことになっている。
「じいちゃんが関わってるって知ったらきっとあいつ思った行動をしない。だから、じいちゃんのことはバレないように逃げるんだ。そしたら、きっとうまくいく」
岸本を知らない僕にはその言葉の意味がわからなかった。しかし、あのボディーガードを抜けられるとは思えない。大丈夫なのだろうか・・?
とにかく今は彼女を信じるだけだった。
と、思ったすぐ後のことだった。車に乗ってエンジンをかけたとき、急に外が騒がしくなった。驚いて、外の様子を見ると、いきなり助手席が開いた。そのすぐ後をボディーガードと若い男が追ってきているのがわかった。
「出して!」
それは無我夢中だった。とにかく彼らを振り抜こうと、必死になってアクセルを踏んだ。
「どーゆー逃げ方してきたんだよ!?」
「強行突破。どうしよーもなかったんだよ!」
流れに身を任せて、とにかく僕らは2人で飛び出していった。