第10話 妊娠?
美咲が初めて大学に来たのは、大学祭の日だった。僕たちのクレープ屋の出店にやって来たのだ。まさか来るなんて聞いていなかったから驚いてしまった。
「美咲・・なんで!」
彼女は買ったクレープを頬張りながらなんでもないように答える。
「妹と遊びに来たんだ。来たいって言ってたし」
美咲に妹がいるなんて初めて知った。見ると、美咲に隠れるようにして立っている女の子がいた。ぶっきらぼうに僕をにらんでくる。
「じゃぁ・・・行くわ」
立ち去ろうとする美咲と妹を、僕は慌てて呼び止める。
「また後で来なよ。サービスするからさ」
「うん」
2人が去った後、僕が振り返るともの珍しそうな目でサークルのみんなに見られた。さすがにぎょっとして固まってしまった。特に、三田の顔はにやにやとしっぱなしだ。なんとなく木下愛には申し訳なかったが、僕はこくんとうなずいておく。
「葉山先輩!知らなかったです!あんな美人な彼女がいたんですね!」
後輩の1人がそんなことを言ってきた。僕はあははと微妙な態度をとって肯定とも否定ともつかない返事をした。
「なーなーどこで出会ったの?あんなかわいい子」
「トンネル」
でケンカをしているところに出会った。まさかこんなふうに繋げられるはずがなかった。三田は僕の言葉が不思議だったようだが、事実は事実だ。
しかし、これ以上冷やかされる前に退散しようかと思っていたときだった。さっきの美咲の妹が突然1人で戻ってきて、あろうことか僕の胸倉を掴んできた。とっさのことにすぐには反応できず、ただなぜこんなことになっているのか考えていた。
美咲とは反対に髪の毛が短くて、ボーイッシュな女の子だった。
「お・・・お前とゆーヤツはー・・・・・」
その子は僕を厳しい目でにらんでくる。
「えっ・・・なになに?」
「さっき美咲がトイレで吐いたんだよ。お前の・・・・・」
そこまで言いかけて、妹のケータイが鳴った。彼女はもう1度僕をにらみつけてからケータイをとって会話をしだした。やがて、驚いた声を出して一瞬だけ僕を見た後、すぐに駆け出してしまった。
後に残された僕はぽかんとしてしまったが、すぐに三田や他の男子学生たちにどこかに連れて行かれた。強引な力で、僕は成す術もなく出店の隅に追いやられる。
「バカヤロー!!!」
開口一番がそれだった。僕は目をぱちくりとさせる。
「いきなりなんだよ?俺、彼女のとこ行きたいんだけど・・」
「孝介!単刀直入に聞く。彼女とやったのか?」
マジで単刀直入だなと思った。しかし、尋ねる三田も冗談で聞いているわけではなさそうだ。なんとなくいろいろなことを考えながら、うんと小さくうなずいておいた。
「それいつだよ?」
さすがに不躾な質問だと思う。
「なんでそんなこと聞くんだよ」
「いいから答えろよ。彼女妊娠したかもしんないんだぞ」
「え・・・?」
妊娠。その言葉がやけに大きく感じられた。何を言っているんだろう。妊娠というのはつまり赤ちゃんができるというわけで・・・将来的には自分の子供ができるものだと勝手に思い込んでいたが、こんなに早くお父さんになるなんて思っていなかった。
いや、まだそうと決まったわけではない。
「8月に・・・ちょっと一緒に暮らしてたときがあって・・・・・そんときに」
「あー・・・つわりにはちょうどいいじゃねぇか」
三田のため息がやけに大きく聞こえた。つわり。さっき美咲の妹は美咲が吐いたと言っていた。まさか・・まさか・・・・・
美咲を捜して大学内を駆けずり回ってから、ケータイで連絡をとったほうが早いということに気づいた。現在地を確認して、急いでそこへ向かう。
2号館の前のベンチ。そこに美咲は1人で座っていた。妹の姿がないのが気になったが、僕は美咲の隣に腰掛けた。
「いいのか?店抜けてきて」
「大丈夫。こっちのが大事」
美咲には意味がわかっていないと思う。さりげなく美咲のお腹を見ると、なんだか不思議な気分になった。もしかしたら彼女の中には、新しい生命がいるのかもしれない。僕と美咲の子供が・・・・・
「体、大丈夫?さっき妹さんに調子が悪いって聞いたけど・・・」
「美花に聞いたの?あー・・・聞いちゃったんだ、なんか恥ずかしいな」
妹さんは途中までしか言わなかったけれど、この美咲の言葉でもうわかってしまった。やけに照れくさそうにしている彼女の姿にどきんとしてしまう。っていうか、そんなことを思っている場合じゃない。もっとしっかりしなければ・・・・・
僕はこほんと咳払いをした。
「あの、今の俺には2人分養ってける金なんてないんだけど、卒業して俺が就職したら、絶対楽させる。もちろん俺も一緒に育児する。だから・・・その、お腹の赤ちゃん、産んでほしいほしいんだ」
美咲はしばらく何も答えなかったが、やがて自然な動作で僕の左頬に手を伸ばして・・・思いっきり頬を引っ張ってきた。あまりの痛さに目が潤んだ。
「いぃぃぃっ!何すん・・・」
「いや。なんかびっくりした。夢でも見てるんじゃないかと思って」
だったら自分の頬をつねるのが普通だろと心の中で反撃したが、痛みの余韻で声が出なかった。こんなに強く引っ張られたのは初めてだった。夢なんかじゃない。僕たちの子供がいるんだ。あと半年とちょっとで会えるんだ。それは不安なことでもあったが、同時に父親になるということが嬉しくもあった。
しかし、僕のそんな思いに反して、美咲はあっさりと言い放つ。
「残念だけど、子供はいないんだよ」
僕は耳を疑った。たぶん今僕はとてもアホな表情をしているだろう。それくらい驚いてしまったのだ。
「美花に吐いたこと聞いたのかもしれないけど、それは胃腸風邪で、つわりとかじゃないから。ごめん・・・・・だけど」
急に現実に引き戻されたような気がして僕ははっとした。美咲の上目遣いに見る目を見て、なぜか恥ずかしくなってしまった。
だけど、なぜだろう。少しだけ安心した。
「俺が早とちりしちゃったんだ。俺こそごめん。変なこと言っちゃって・・・」
「いや、嬉しかった・・・・・けど、言われなくても孝介の子なら産むっつーの」
「・・・俺の子じゃなかったら?」
試しに聞いてみると、美咲はむーっとして僕をにらんできた。嫌な予感がして逃げようかと思ったら、彼女はぼそっと言った。
「それはないよ」
そのとき、美咲が見せた微笑みが僕の中で印象に残った。
赤ちゃんは勘違いだったが、もう少し彼女と2人だけでいたかった。そして、少しずつ新たな命を守れる力をつけよう。
美咲の妹が戻ってきたとき、僕は心の中でそう決心していた。
サークル室で今日の売上を数えていたときに、とりあえず僕はみんなに報告することにした。っていうか、最初に三田に伝えたら事を大きくされた。そりゃぁそうかもしれない。なんせ僕は、
「結婚することにしたんだ」
と言ったからだ。三田の目がこれでもかというほど開かれた。
「できちゃった婚かよ!?」
「違う。子供は勘違いだったんだ。っていうか、元々前から結婚の約束はしてた」
周りのみんなが僕を見ていることがわかった。もうサークル室には来れないなと頭の片隅で思っていたら、なぜかやっほーぅ!とお祝いをされた。ノリのいい連中である。その中で木下だけがうつむいていたので僕はなんだか申し訳ない思いになった。今度彼女と話し合おう。
三田を中心に5人もの男子が後ろから飛びついてきたので、物思いにふけっていたことに気づく。
「葉山先輩!結婚の日取りとかはもう決めたんですか!?」
「どうやってプロポーズしたんですか!?」
「彼女の両親に挨拶に行くとやっぱり殴られるのかよ!?」
矢継ぎ早に繰り返される質問に、僕は何1つ答えられなかった。結婚の日取りはまだ未定、プロポーズの言葉は『結婚してください』、彼女の両親への挨拶は実はまだしていない。会いに行ったことはあるが、それは結婚の挨拶ではない。
僕は美咲との結婚のために、まだ何も行動していないことに気づいた。
その日、家に帰ってから、僕はリビングでパソコンを使っている父とテレビを見ている母と妹にそれとなく結婚のことを伝えてみた。案の定、父には泣いて喜ばれ、母にはにこやかに笑っておめでとうと言われ、妹の彩にはマジかよーと驚かれた。
「よくやったぞ!父さんはお前を息子に持てて幸せだ!!ぜひ今度連れてきなさい!」
父にぼかんぼかんと背中を叩かれながら、僕は今父が言った言葉を頭の中で反芻していた。
そして、日曜日、僕は美咲を連れて来ることになる。