山川 和月【告白:289回】
火曜日の放課後、俺は図書室にいた。本を借りるためではない。昨日、丹羽美羽とのやりとりを見ていた霞さんは、大した千両役者っぷりじゃないか何回やり直したんだい、なんて俺を茶化した後、次なるターゲットを指定したのだ。彼女が新たに指定したのは5人。
そう。あれで終わりでは無かった。霞さんはあれ、言ってなかったっけ、とかとぼけていたが、どう考えても言っていなかった。こんな事がまだ、続くのかと内心げんなりする。
いくら最愛の人のためとは言え、俺にも人の心というものがある。心底嬉しそうに、また明日ねと手を振る丹羽さんを見て、罪悪感を感じない訳がない。俺は彼女に対して、微塵の好意も抱いていない。
きっと、これからデートなんかをする事はないだろう。俺が誘いを断り続けて、少しずつ疎遠になっていくはずだ。俺が彼女に美しい世界を見せてやることは決してない。そう思うと、丹羽さんの笑顔が明るいのと同じだけ深く、胸が痛んだ。
だが、それでも俺は今、ここにいる。たとえ誰かの想いをいたずらに踏みにじり、その心をぐちゃぐちゃに傷付ける事になったとしても、俺は霞さんを諦めたくない。何度でも、同じ事をするだろう。
俺は座っている場所から、受付の方へちらりと視線をやる。髪の長い、いかにも内気そうな女子が、カウンターの中で椅子に座って本を読んでいる。
彼女が今回のターゲット、図書委員の山川 和月さんだ。昨日は適当だったようだが、山川さんについてはあらかじめ決まっていたのか、霞さんからの名指しの指定だった。また、名前や役職も教えてもらえた。
図書委員の仕事の一つとして、図書室を閉める際に、残っている利用者に退出を願うというものがある。その時に二人きりで話す事を狙っての居残りである。
そういう訳でまた、放課後である。部活もやっていないのに連日居残りでは正直休まらないが、これも霞さんのためだと思えば、全く以って苦にならない。
最終下校時刻が迫り、周囲から人が減っていく。最後は俺一人になっていた。いや、正確には本棚の陰で霞さんが手を振っているがガン無視している。あの人とも、昨日から随分距離が近付いているように感じる。ちょっと嬉しい。
「……あの」
先ほどから全く進んでいない本のページから顔を上げる。図書委員の名札を付けた気弱そうな少女、山川さんだ。俺は一分間のカウントを始める。
「そろそろ閉館、というかあの、鍵を閉めなきゃいけないので……」
「……山川さん」
「あっはい……?」
「俺、山川さんの事、ずっと見てたんだ。本、好きなんだよね?」
「は、はい、一応……えっと……?」
うちの学校の図書委員は居残りが多いから結構な不人気職だ。じゃんけんで負けたのでなければ、よほど本が好きなのだろうと考えるのが自然だ。
「良かった、俺もなんだ。特に恋愛小説なんかは好きで、よく読んでいるよ。君はどんな本が好き?」
「……あ、あの、退出を……お願い、します……」
ふむ。軟弱な恋愛ものなんかが好きそうだと思って振ってみたのだが、食い付いてこないか。心なしか怯えられているように感じる。まぁ、あまり時間もないので、さっさと最初の告白に移ろう。
「その……俺は山川さんに興味があるんだ。良ければ付き合ってみないか? 本好き同士、話が合うと思うんだ。どうかな……?」
「あっ、えっと……ごめんなさい……?」
「……そうか。ありがとう」
見るからにこういう事に慣れていなさそうだし、こんな軽いノリはかえって引かれてしまうようだ。かと言って熱血アタックは怯えさせるだけだろうし、やはり一分間という制約はかなり厳しい。
「……ところで、綺麗な名前だな。山川 和月……」
「あ、ありがとうございます……自分でも、気に入っているんです」
「……かぐや姫みたいだ」
「名前負け、してますよね……」
あはは……と、ちょっと自信なさげに笑う山川さん。俺は彼女の本当に欲しいものを、見つける事ができるだろうか。時間を戻す。
「そろそろ閉館、というかあの、鍵を閉めなきゃいけないので……」
「山川さん、本は好き?」
「えっ? は、はいまぁ、好きですけど……」
「俺も本が好きだ。本はいつも、読者の事を一番に考えてくれているからね。それに、変な事を訊いてきたりしないし」
「……それは、傲慢では……?」
「なに……?」
「読み取る努力をしない者に、本は語りません。書いてある事を、読者一人ひとりが、自分のものとして取り入れる……そうする事によって、知見となります」
「……分かるように書くのも、大事なことだろ?」
「そうしないのも自由です。読者自身の知識や経験や人格を前提として初めて、読書という行為が成り立ちます。難解な本、迂遠な本、冗長な本、みな等しく本です。重要なのは、受け入れようという気概かと……」
「……なるほど。もっともな事だ」
……地雷を踏んだかもしれない。人間、自分の好きなものに関しては、得てして饒舌に語ってしまうものだ。実際、彼女の言っている事は間違ってはいないが、書き手の独りよがりだ。
書き手には自分の能力の及ばない事は書けないし、読み手にだって受け入れ難い事はある。本と人も、人と人も、コミュニケーションはまずそれを受け入れる事から始まる。大事なのは互いを尊重し認め合う事、そして可能な限り歩み寄る事だ。
「俺は千里だ。千里 走馬。バトルものや、冒険活劇なんかが好きだ。君はどんな本が好き?」
「あの……お引取りを……」
取り付くしまもない。歩み寄る気あるのかこいつ……
「……君が好きだ。君の内面や考え方、君の事をもっと知りたい。俺と付き合わないか?」
「……すみません……」
「むぅ……」
困った。取っ掛かりが掴めない。とりあえず、本を出しにしていくらか会話をしてみるか……まずは相手を知る事が肝心だ。
「……ミステリーや歴史小説が好きです。でも、面白いと感じるものであれば、ジャンルはあまり気にしません」
「……ありがとう。参考になる」
山川さんがにっこりと笑う。やはり悪い子ではないのだが、彼女の事を知り、受け入れられる人間が果たしてどれだけいるだろうか。人と本は似ている。そこに至った経緯があり、それぞれが他とは違った世界を内包している。
願わくは彼女が、俺のような学のない人間にも分かりやすい人物である事を祈るばかりだ。再度時間を戻す。
「そろそろ閉館、」
「山川さん」
「はっ、はいっ! ……はい?」
「本の話をしよう」
「はぁ……?」
それから俺たちは、様々な本について話した。俺は読書家ではなかったため、話の引き出しは多い方ではなかったが、それでも山川さんは、俺の話に頷いたり、たまに意見を言ってくれた。
俺は幾度も時を巻き戻した。山川さんは意外にも、初対面の人間に対して優しかった。みだりに事を聞き出そうとすると退出を願われたが、幾つかの言葉を交わした後、自然な流れの中でなら質問にも答えてくれた。
決して過ぎることのない一分間の中で、俺と彼女は言葉を交わし続けた。
「そろそろ閉館、というかあの、鍵を閉めなきゃいけないので……」
「…………」
「あの……?」
「……山川さん、聞いてくれ。俺は君が好きだ。嘘だと思うかもしれないが、好きなんだ……!」
「……え……っ?」
「本を愛する君が好きだ。困ったように笑う顔が好きだ。否定されると意地になって言い返してしまう子供っぽさが大好きだ」
「や、やめて下さい……!」
「言いたい事を言った後で、傷つけてしまったかとこちらを伺う気遣い屋さんな所も、嫌われてしまったかと心配になる小心さも、それでも意見を曲げない頑固さも、全部好きだ。君の全てが好きなんだ!」
「……貴方が、私の何を知っているんですか?」
「全部だ。君の事は何でも知っている。好きな本、好きな作者、好きな食べ物や好きな音楽から尊敬する偉人まで、何でもだ」
「なぜ、知っているんですか……?」
「それは言えない。だが、俺なら君を受け入れてあげられる。信じてほしい」
「……あの、信じられません。主張に説得力を感じられません。説明不足です」
「一から全部説明する必要があるか?」
「当然では、ないのですか……?」
「いいや、その必要はないよ。なぜなら君は、想像する事ができる。俺がどうやって、君の事を知ったのか」
「……ストーカーですか?」
「さぁ……?」
俺は笑みを浮かべてみせる。もちろん全ては知らないが、能力を使って知る事ができる。それにだって限界はあるが。あと30秒。
「……貴方が私を知っていたとしても、私は貴方の事を何も……知りません。そんな人とは、その……お付き合いできません」
「俺は千里 走馬。君のクラスメイトだ」
「……それだけですか?」
「必要なのはそれだけだ。俺は君に知ってほしいとも、受け入れてほしいとも思っていない。俺は君に何も求めない。君が望むなら、俺の事をいくらかは知る事ができる」
「……果たして、そんな関係がお付き合いと呼べるのでしょうか……?」
「それも一つの付き合いの形だ。人と人との関わりは、どういう形であれみな、お付き合い、だ」
「貴方の好意を受け入れる事が……私に何の得を齎すの?」
「受け入れてほしくないのか?」
彼女の瞳が揺れる。あと10秒。
「最初に言った。俺はどんな君も受け入れる。山川 和月という自分自身が、気に入っているんだろ? 俺なら君を認めてやれる。絶対に君を否定しない。君の事を第一に考える。だから……付き合おう」
「…………」
沈黙が続く。タイマーが一分を回った。ここから先は、遅れた分だけ時が進む。次にやり直す時は、その時点から一分前に戻る事になる。
俺は最初に告白をしている。やり直しは効かない可能性がある。だが、答えを待つ価値はあるはずだ。
5秒経った。
「……わがままも、聞いてくれる?」
「もちろんだ。俺ができる事は何でもする」
10秒。
「そうですね……本の話をしましょう」
「それはもうしたよ」
「してないよ……」
「いいやしたさ。ミステリーや歴史小説が好きなんだろう?」
「それは私じゃない……貴方には私を見てほしいんです。だから、これからはたくさん、本の話をします」
20秒。
「……私、きっと貴方を否定しますよ?」
「そんな君も好きだ」
「……ふふっ、おかしな人……」
「嫌いか?」
「いいえ……好きです」
自分を好きと言う男を好きになる女性は多い。好きな人には、自分を好きであってほしいという当たり前のわがままだ。
「わがままな君が好きだ」
「わがままを聞いてくれる貴方が好き」
俺たちは同じタイミングで笑みを零す。嘘だ。本当はわがままな霞さんが好きなのだ。俺が言った事も、俺のこの微笑みも、全部嘘だ。
俺は、嘘をついている。