箸より重い物はない
黒い生き物が去ってからも、僕の心臓のドキドキは止まらなかった。
まだ近くに、あんな大きな生き物がいると考えるとその場から動けずにいた。
「おい、ハル、ハル? 」
固まっていた僕の顔を少女がグーパンする。
非力な少女の拳とはいえ、かなり痛い。
「もう、大丈夫。なんだったんだあれは」
「せめて、平手打ちにしてよ」
「つい、いつもの癖で。俺も痛かったんだから我慢しろよな」
その理屈はよく解らないが、おかげで硬直していた身体が動けるようになっていた。
「急いで街に向かいたいけど、シュヤちゃんの歩く早さだと厳しいね」
「じゃあここで待っているから。街まで行って、車を出してもらって迎えにきたらどうかな」
「駄目だ。君をこんな所に置き去りにはできない」
「2人で遭難するよりマシだ」
少女の目は真剣だった。
「僕が君を背負って走るよ」
「な、なにいってんだ。こんな体でも30キロはあるぜ」
「何とか行ける気がする」
彼女を置いていく位なら、おんぶぐらい平気だった。
「じゃあ、無理はするなよ」
「わかった。さぁ、乗って」
最初はためらっていたが、少女は首に手を回す。
背中に確かな温もりと息遣いを感じた。
「もっとしっかり持たないと、落ちるよ」
「わかった」
恥ずかしいのか、顔が紅潮している。
「重かったらすぐ下ろせよ」
「軽いよ。羽根より軽い」
そして、ゆっくり歩き出し、走った。
体力はいるが、さっきよりは早い。
道は丘の向こうに続けており、頂上からは少し遠くまで、見渡せた。
丘を下った先に村らしき建物群が現れ、その周囲は見渡す限りの平野になっていた。
「日本なら山にぶち当たりそうなものだけど、地平線が見えるね」
「反対側も、すぐ近くは海だったんだな」
天使が言っていた異世界という言葉が妙に現実味を帯びてきた。
「どこだよ、ここ」
「北海道ではないと思う」
村が見えたので速度を落とし、ゆっくり歩く。
「昔は、兄さんによくおんぶをせがんだなぁ。怪我した時だけじゃなく、甘えたくて」
「そういえば、そうだな。お前は寝たふりをして、家まで背負う羽目になって大変だった」
「兄さん、僕重かったでしょ? 」
少女の姿に向かって尋ねる。
「軽い。箸より軽い」
グーで頬を殴られた時に、全て解った。
少女の姿をしているが、これは兄さんなのだ。
「今度は僕が兄さんを守るから」
「できるものなら、やってみやがれ」
日が暮れるのと同時ぐらいに村に入った。
夜の間は門を閉めるらしく、間一髪という所だった。
「旅人か、ひさしぶりだな」
「あの、ここは何て村なんですか? 」
「ここは最果ての村イナイカナイ」
「最果てって事は近くに大きな街とかはないの? 」
「あるにはあるが、たどり着けるのかい? 見たところ腕が立つようには見えないけど」
村人は、そういって僕達2人をジロジロ見ていた。
「こうみえて、俺は西高の修羅と呼ばれていたんだ」
「ほう、兄ちゃんにそんな大層な2つ名があるとはな」
「僕じゃないんだけどなぁ」
まさか、この少女に修羅なんて名がつくとは思わないだろう。
「この村は宿屋がないから、俺の家に泊めてやるよ。汚いし狭いから料金も要らないよ」
お金を持っていないので、この親切はありがたい。
「その代わり、2つ先の街にいる俺の孫娘に手紙を持って行って欲しい。途中で野垂れ死するなよ」
「わかりました。お孫さんの名前は? 」
「顔をみたらすぐ解るよ。俺にそっくりなんだ」
「だったら安心だな」
「ちょうど妹さんと同じ位の歳だった」
「妹? ああ、兄さんか」
その日は、好意に甘えて泊めてもらい、手紙と街までの地図を受け取った。
コンビニも、スーパーない村だったが村人達は温かかった。
「何も食べてないんだろう、干しベリーと甘ナッツでも持って行きな」
「ありがとうございます!」
「行ってきます」
「よろしく頼んだよ」
僅か一夜の滞在だったが疲労を残さず旅立てたのは幸運だった。
異世界の情報を少しでも集める為にはもっと大きな街にいくのが定石だ。
こうして、妹になった兄との長い冒険が始まりつつあった。