透明少女と空の青
信号機が黒から白に変わって、人の波が前に流れ始めた。僕はその流れに身を任せる様に歩を進め、横断歩道の真ん中で立ち止まった。流れに逆らって灰色の空を見上げる。相変わらずこの世界には、色が無い。
黒い木々が揺れるモノクロの公園を、宛もなく歩いていく。すれ違う人たちの楽しそうな白い顔を、暗い無表情で見送る。何にも気にしちゃいない、振りは出来てただろうか。もしかしたら羨ましい気持ちが顔に出ていなかっただろうか。もしかしたら僕の見る景色は全部白黒だってことが、バレてるのかもしれない。そんなことを気にしながら、僕は公園の真ん中にある真っ白な噴水に辿りついた。
そこで僕は見た。初めての「色」を。
それが色だと知ったのは、後で彼女に教えられてからだった。柔らかな微笑みを浮かべた彼女は、淡い藍色のワンピースを羽織って、噴水前のベンチで本を読んでいた。それが、僕と彼女の最初の出会いだった。白黒の世界に飛び込んできた初めてのあざやかな「色」に、僕は何も考えられずフラフラと歩みよった。
「あの…」
僕が声をかけると、彼女は驚いたように本から顔を上げた。柔らかな肌色、風に流れる黒い髪、透き通るような瞳の中の青…。その全ての色の名前を、その後彼女は時間をかけて僕に優しく教えてくれた。それから僕は毎日モノクロの公園の、真っ白な噴水に通った。毎日のように変わる彼女の服の色を見るのが、僕の楽しみのひとつになっていた。白と黒で出来た僕の世界で、彼女だけに色がついて見えた。
「ねえ。空の色はホントは何色なの?」
「空は…あなたは何色に見えてるの?」
「灰色」
「そう…」
ベンチに座り彼女の体に寄り添いながら、僕は毎日しつこく色を知りたがった。単純に楽しかったのだ。草原の緑、アジサイの紫、くまの黄色、モップの赤…。教えてもらった色で、僕の世界は頭の中であざやかに輝いていった。だけど結局空の色だけは、最後まで教えてもらえなかった。僕が何度尋ねても、彼女は優しく微笑むだけだった。
やがて月日が流れて、空が黒く染まったある日の午後、彼女は突然僕の前から姿を消した。彼女がいなくなった途端、僕の世界はまた白黒に戻った。また彼女の色が見たい。色の無い噴水に一人取り残されて、僕はそう思った。僕は何日も走り回って彼女の色を探した。白と黒だけのこの目の中で、彼女だけが色づいて見えるのだ。どこに居たって探し出せる自信があった。だけど彼女は最後まで見つからなかった。ある日街の端の丘の上で、疲れ果てた僕はとうとうその場に座り込んだ。
そして見上げた。
そこに、初めての空の色が待っていた。
僕は目を丸くした。息も絶え絶えになったこの体で、それでも目だけはずっと空から離せなかった。そうか、これが空の色だったんだ。僕が食い入るように空を見つめていると、やがて空は色を変えた。僕は驚いて「あっ」と声を出したが、それでも目は離せなかった。空は色を変えるのか。まるで彼女の服と同じように。今見ているのは、教えてもらった橙色だ。灰色だった空に色が付いた。彼女はきっと空に登っていったのだ。道理で見つからないはずだ。彼女が空の色を教えられなかったのも、きっとこういう訳に違いない。
やがて空が深い青に染まり、また白く東の方から彩られていくころ、ようやく僕は立ち上がった。そして疲れた足で白と黒と、空の色だけになった世界に戻った。それ以来、彼女とは出会っていない。相変わらず世界は白黒だが、今でも目を閉じると、教えてもらった色が瞼の裏で輝きだす。その度に僕は彼女を思い出して、白と黒の間に立ち止まっては空の色を見上げている。