雨宿り
彼女は僕の後で湖や山へ視線を送っているようだったけど、再び走り出してから数分もしない内に空が俄かに曇り始め、僕はその雲を見て、少しやばいかな、と思っていた。
「なんか曇ってきちゃったね」
彼女も少しだけ不安そうに呟くのを聞いて、僕は頷きで返したけど、ここはやっぱり返事をするべきだったかな? でもそれは、杞憂だったみたいだ。
無言のまま暫く行くと、道は行き止まりになった。元来た道を戻って国道に上がるしかないらしい。ただ、そこまでが上りなんだよね。もっとも、後では彼女が声を張り上げてたけどさ。
「雅春行けー!」
一応、応援してるんだよな? こうなったら仕方ない。僕も男だ、がんばろうじゃありませんか。
気合を入れたけど運動不足の体に取って、これはちょっと応える。まだ三分の一しか来てないのに、早くも力が入らなくなってきた。
「いけいけー!」
相変わらず後で元気に声を張り上げてるよ。こうなりゃ明日は筋肉痛覚悟でがんばるしかないな。
「うおおおお!」
今日一番の気合を入れてみた。
「ぶちかませー!」
ぶちかませって何をだよ。まったくもって、意味不明な気合を入れてるな、彼女は。
もう少しで国道に出る、と思った途端に、僕の頬に雨粒が当たった。
「やばい!」
声に出して焦る僕だけど、彼女はそうでもないらしい。なんだか嬉しそうにしてる。
「あ、雨降ってきたよ」
その証拠に声が弾んでるし。
どこかで雨宿り、そう思って僕は左右を見渡して、すぐに無人駅の駅舎を見つけた。
「あそこで雨宿りするぞ!」
「隊長、了解しましたー」
なんか間の抜ける返事が返ってきた……。ってか、俺が隊長なのか?! どっちかって言うと、彼女が隊長だろ、今の状態は。だけど、そんな事で気を抜く訳にもいかないか。こうなりゃ最後の力、ってほどでもないけど、力を振り絞って駅舎にたどり着かないとな。
僕達が駅舎にたどり着いて転がり込んだ直後、辺りが真っ暗になるほどの雨が降り注いだ。
「あぶねえ……。あんなのに打たれたら、湖に落ちるのと変わらなかったぞ」
「そーだねー」
なんとも呑気だな。
「そういえばさ、君ってこっちまで来た事あるの?」
何故か気に成って聞いてみたんだけど、なんで気に成ったのかな? でも、彼女は首を左右に振ったから、来た事は無いって事か。
「だって、こっちは縄張りじゃないもの」
は? 縄張りって……。動物じゃあるまいし、普通そんな感覚持たないんだけどな。僕が訝る表情を見せているのも知らずに、彼女は外をジッと眺めながら、更に言葉を続けていった。
「あたしは湖のあっち側しか行った事ないの。それに、こっちは知らない子ばっかりだったし、喧嘩もしたくなかったから、誘われても来ようと思わなかったの」
キャンプ場の辺りを指差しながら彼女はそう言う。僕はそんな彼女の後姿を見ていたけど、何故だか寂しそうに感じた。
そして、彼女が勢い良く振り向いて、僕に言ったんだ。
「あんまり離れると、雅春が来た時、会えないから……」
頬を染めながらはにかんで言う彼女を見た僕は、心臓が強く打ち付けるのを感じて、つい顔を逸らしてしまった。
やばい、やばすきる……、その表情は反則だ。綺麗だとは思ってたけど、まさかあんな可愛い顔するなんて、こっちが惚れちゃうよ。ってか、惚れちゃまずい。こっちはもう二十五歳で彼女は十六歳くらいだぞ。僕はロリコンじゃないのだ! と自分に言い聞かせながら彼女を伺うと、顎に指を当てながら小首を傾げて不思議そうな顔をしてる。
っく! それもやばい。益々、目が離せなくなるじゃないか! 落ち着け、落ち着くんだ。そうだ、こういう時は深呼吸だ。
僕は目を瞑り、大きく深呼吸をして乱れ始めた心を落ち着ける。でも、彼女のその瞳を見ると、すぐに心が乱れ始める始末。
駄目だ――、たぶん、これは惚れたな……。
大きな溜息を付く僕だったけど、次の瞬間には顔が真っ赤になったのが分かった。
「どうしたの?」
思わず固まる僕。男なら誰だってそうなるさ。だって、彼女の顔が僕の眼前数センチにまで迫ってんだから。
一瞬の間の後、僕の意に反して体が勝手に動いた。彼女を抱きしめてしまったんだ。しかも、何を考えてたんだか、口を付いて出た言葉が……。
「好きだ!」
あの、もしもし? 頭は大丈夫か? 僕の中の冷静な僕が問いかけてくる。
でも、次の瞬間、彼女の腕が僕の背にそっと回されて……。
「あたしも雅春の事――、大好き」
そんなに感情を込めて言われたら――、ってか、これは自制心崩壊フラグだ。その前に、どこでそんなフラグ立てたんだ、僕は?
僕が腕を緩めると、彼女も少しだけ緩めて互いの瞳を合わる。そしたら、彼女はその潤んだ瞳を閉じてしまったんだ。
これってもしかして催促? というか、据え膳食わぬはなんとやら、ってやつ? ああ、もう、考えるのめんどうくさい。
僕は彼女に口付けをした。
辺りはまだ真っ暗で、雨音も激しくて、道には車さえ走っていなかった。そして、僕達は薄暗い駅舎の中で抱き合い、共に口付けを交わしている。それは数秒とも数時間とも感じられる時間。久しく忘れていた感覚。ああ、そうだ、これはやっぱり……恋。
どちらとも無く離れると、僕達は少し恥ずかしくて、お互いにはにかむ。
「座ろうか」
僕がそう言うと、彼女は頷いて隣同士の席に着く。そして、彼女は僕の左腕を取って、肩に頭を寄せてくる。そんな彼女が愛しくて、僕はそっと髪を撫でた。
僕達は雨が過ぎ去るまで、ずっとそこでそうしていた。まるで何年も前からお互いを知っていたかの様に……。