出立
この時期の明け方は、暑さも感じず寧ろ涼しいくらいで、空気は清々しく気持ち良い。そのお陰で相棒にキャンプ道具を積み込んでも、汗一つ掻かずに済む。そんな訳で、僕は思わずタバコに火を点けて一服してしまった。清々しい空気の中でする一服は旨いよね。
そうだ、タバコを吸ってる場合じゃなかった。僕の相棒を紹介しないと。
三十年以上もその基本的な形を変える事無く販売され続けているロングセラーのバイク、これが僕の相棒だ。免許を手にしてから自分の足で探し回って中古で安く手に入れたんだ。本当は最新のやつも有るんだけど、ぶっちゃけ、僕にそんなお金は無いしね。それに、ある人に言われたんだ。バイクはやっぱりキャブ車だよ、って。
最初はバイクの知識なんか無いから、何の事か分からなかったけれど、その人は判り易く説明してくれた。まあ、この話は長くなるから、また後でするとして、この相棒を見た人は、時たまだけど、なぜこれを選んだのかって、不思議そうに聞く事があるんだ。安かったから、なんて答えるのは相棒に失礼だから、必ずこう答えるようにしている。
「ゆっくり旅がしたかったから」
こいつは最新型のバイクみたいにパワーが有る訳じゃないから、あんな質問されるんだけど、でも、非力じゃないんだ。要するに、必要十分ってやつ。だから、僕を急かす様な事もしないから、のんびりと旅をするのには、もってこいなのさ。
「さて、行こうかな」
ヘルメットをかぶり、グローブをはめると、僕はバイクに跨る。
ここからは何時もの儀式の始まり。
まず、チョークレバーを引いてから、キックアームを引き出す。そのアームを数回軽く踏んで、ピストンの上始点を探り出して一番重くなった所で止めて、デコンプレバーを引いてから、全体重を掛けて一気に踏み降ろす。エンジンが目覚めると、少しだけチョークレバーを戻してやり、ほんのちょっぴり、暖機運転をしてあげる。
暖機運転って、人間で言えば準備運動みたいなものだから、これを疎かには出来ないんだ。本当は環境には良くないんだけど、ね。
僕はこの儀式が好きだ。時には一発で掛からない事もあるけれど、でも、そんな時は、君のやり方が悪いんだよって、バイクが教えてくれてるんだ。だから、一発で掛かった時は、良くできたね、とバイクが褒めてくれている様に感じる。
今日の儀式は上手く出来たから、良い事がありそうだ。
さて、暖機運転を早々に切り上げて出発するとしよう。左手のクラッチを握って、左足でシフトペダルを静かに踏み込む、そして、ゆっくりとクラッチを離しながら、同時に右手のアクセルを捻ると、相棒は静かに動き出す。
さあ、行こうか、相棒。三日だけの短い旅に。
目的地までは二百キロくらい。だから、急ぐ必要も無い。僕は日常から、非日常へと入り込んで行き、何時もその手助けをしてくれるのが、この相棒。見慣れた風景すら、極上の絵画の様に見えて来るから不思議だ。
軽快に回るエンジンの鼓動を体で感じ、肌を撫でる風はもう秋の匂い。空は青く澄み渡り、雲は遥か遠くを流れて行く。
やっぱり朝早く出ると気持ちがいいね。道も空いてるし、昼間の喧騒だって嘘じゃないかと思うくらいだ。
僕はアクセルを僅かに捻り、相棒の足をほんの少しだけ早める。その心地良い鼓動を響かせながら走る相棒も、どこか気持ちよさそう。
住み慣れた町をしばし離れて、僕と相棒は目的地を目指す。ほんの少しの期待と、ちょっぴりの不安を覗かせながら。