File.2 性格
ガラガラガラ、ペシャッ!うがいではない。大学内407部屋にて、遅刻して部屋に入った修治をポン吉(本名大林諭吉。42歳。狸みたいな顔、体型をしているためポン吉という愛称がつけられた)が段々に何度も折り曲げた紙の束で叩いた音だ。
「いててて。突っ込み早すぎっすよ!」
「誰がお前と漫才なんてするんだ。肌で感じろ!怒りを込めて叩いたんだ」
「ですよね.....」
周りからは失笑。
「修治、お前今日で何回目だと思う?6回目だぞ。この数字の意味が.....」
「いえ先生。俺今日で8回目なんすよ、それが」
ポン吉は修治の通う大学でビジネス英語という授業を担当している。学生からは狸が英語でしゃべったと冷やかされるのは言うまでもない。それを率先して言っているのが修治だった。で、もちろんポン吉にとって修治は強敵であり気に入らない生徒の一人でもあった。しかも遅刻した回数を堂々と訂正までしてのけた。結果増量。減るならまだしもだ.....しかしそんなことはかわいい戯れ言だったのだと知らされる。言い換えれば、今までのそれは単なる余興にすぎなかったということだ。それは修治の些細な駄洒落と怪しい目線から始まるのだった.....
「あーあと先生、みんな気づいていないみたいだから敢えて言わせてもらいますけど、その、俺の優しさと言うかですね、チャックチェックした方がいいかもですよ?ははっ、我ながらつまらん洒落を.....」
修治は言いながらズボンのチャックを見つめる。もちろんポン吉のだ。そのポン吉が修治の目線を追いかけると、その先にはチャックの開いた自分のズボンが.....
これはまずい!
今日のトランクスは確か.....
ポン吉は嫌な予感で冷や汗が止まらなくなってきた。とにかく焦ってそれを閉めようとする。しかし見えてしまったものはしょうがない。チャックの隙間からかわいい狸の絵が!
「えー!ポン吉って名前案外気に入ってたんすね先生!」
やはりばれてしまった。しかもでかい声で言いやがったぞこいつ!
「ばっ!これは娘が.....あ、いや.....」
そう、言ってしまったものもしょうがない。ポン吉は今日という最悪のタイミングでこのトランクスをはいてきてしまった。娘が修学旅行で買ってきてくれたが、あまりにも恥ずかしいと娘の前で口走ってしまったのだ。もちろんポン吉の娘は落ち込み、一切口を聞いてくれなくなってしまった。今日はそんな娘の機嫌取りではいてきたのだが。
「着替えてくるんだった.....」
ポン吉の後悔の声は近くにいた修治にしか聞こえていなかった。みんなの笑い声にかき消されてしまったのだ。
先ほどまでの失笑は爆笑へと進化していた。
その日のポン吉は終始顔が真っ赤だった。ふむふむ。
狸も恥じれば赤くなる.....などという言葉は存在しない。
「いやー面白かったなぁ。な、タカ!」
大学の学食内。いわゆる「ポン吉真っ赤事件」が終わり、次の授業が空いているので友達であるタカと食事中というわけだ。
時刻、午前11時。
「面白いってお前。あんまりポン吉のこといじめんなよ。それに6回.....」
「8回!!」
すかさず修治の訂正。
「はいはい、8回目ね。とにかくお前、授業の10割遅刻してるんだぞ」
「うわっ!パーフェクトかい。やるねぇ俺」
「やるねぇ、じゃねぇって。ポン吉の授業まで単位落とす気か?そしたらお前リュウネ.....」
「あーそれ以上は言うなよなタカ。ほんと見た目によらず固いんだからお前は。もっと気軽にいけって。な?」
「気軽にねぇ。それよりお前、先月貸した.....」
「おっと、わりぃなタカ。俺バイト行ってくるわ」
「バイト?お前夕方からじゃねぇのかよ。いや、つーか金返せ!」
修治はタカの声を右手で制して走って行ってしまった。
「ほんとあいつは。楽観的っていうか能天気っていうか。おまけにプライドも高ぇし」
タカこと鷹石ヒロセはこの時、いや、いつものことだが親友である修治を少しばかり心配するはめになる。あくまで悪態も添えて、だが。
修治は大学に入ってすぐにこの鷹石ヒロセに出会った。入学ガイダンスの時修治は寝坊して遅刻したのだ。修治の家は大学から近かったものの、起きた時点でガイダンスは始まっていたのだから意味がない。それでもと走って向かっていると、校門をくぐったところで反対側から同じように走って来た学生がいた。それが鷹石ヒロセであり、今後友情を深めることになる人物だった。二人そろって怒られたがなんとなく仲間意識みたいなものができ、それはガイダンス後にこの二人が話すきっかけとしては十分すぎるほどだった。
自己紹介をした時から修治は彼を「タカ」と呼んでいた。今まで付けられるあだ名と言えば「ヒロ」だった彼にとってそれは新鮮なことだった。名前がカタカナということもあり「ヒロセ」の方からあだ名をつけられることが多かったのだ。しかし修治は「鷹」ってかっこいい名だし、みんな「ヒロ」って呼んでそうだから「タカ」でいいだろ?と、そう言ったのだ。彼はこの言葉の前半部分には少々呆れた(中学生じゃあるまいし)が、後半部分にはなんとなく特別な印象を受け、気分を良くした。それから二人で行動を共にすることが多くなり、大学内においては互いが互いを一番よく知っている者同士となった。
俺は昔から修治の行動というか言動というか、生活全般的に心配になることが多い。いや、そもそも修治自身についてなのだろうか.....とにかくあいつはいつ何をしでかすかわからない。今もそう。俺は今一人だけど突っ込んでもいいかな?
タカはどうしても先ほどから気になっていたことを、あのバカ(修治)に言いたかったことを言わずにはいられなかった(もちろん対象者不在)。
「お前は猫でもできることができないのか!!」
皿に入っていた魚は、骨ごと修治の胃袋に収められたらしかった.....
時は過ぎ、時刻、午後6時30分。
「カッ、クッ、ケッ」
「『か』の次は『き』、それから『く、け、こ』って続くんです。そこまでバカでしたっけ?修治君」
か細い、しかしはっきりとした口調で突っ込まれる。
「あのな!何で俺が、しかも人前で『かきくけこ』って言うんだ?いきなり。そっちの方がバカだろ」
修治もすかさず訂正。
「修治君ならあり得るかと。それで?」
「『まみむめも』なら言うかもな。面白そうだし.....そうじゃねぇ!骨がな.....喉に.....」
「引っかかっているんですね?」
「そう。そゆこと!だから心配してくれ」
「面白くないから無視です。私、先に行ってます」
双葉優花はすたすたと更衣室を出て行ってしまった。ここは俺のバイト先である焼肉屋、「鬼く」の更衣室。「鬼く」という名前は、この店のオーナーが鬼みたいな顔だからだそうだ。オーナー自ら言っているほどだし、確かに鬼みたいな顔はしていると思う。しかしだ!「く」を付け足して「お肉」と掛けてしまったのはいただけない。センスの欠片もねぇよ!と、俺は思うが恐いのでオーナーには絶対に言えない始末。
「それにしても、あいつほんとに無視して行きやがったな」
修治が出勤前制服に着替えるため更衣室に入ると、同僚の優花が既に制服に着替え終えて部屋にいた。
優花は年齢も大学も一緒でよく話すが、まぁとっつきにくい。普段は静かでおっとりしているが一度話すとこれだ。悪態の嵐。しまいには無視して行ってしまった。とはいえ、ボブっぽく肩で揃えられた茶髪はよく似合うし、一見して高校生に見える幼い、それでいて大人の雰囲気を漂わせる顔は誰かさんとは大違い。誰かさんとは鬼のオーナーのことだが、まぁ比較すること事体間違っている。優花は悪態こそつくが、それでイライラしたことはないし話していて楽しい。
俺が初めて優花に会ったのは大学2年になってすぐだ。雪も溶け始めた頃、俺が「鬼く」に肉を食べに行ったのがきっかけだった。その日はバイトをやめた日で、記念(何でも記念日にするのが俺のセオリー)に肉を食べようと思い訪れた。バイトをやめたのには理由がある。それまで働いていたレストランが移転することになり、家からだいぶ遠くなってしまった、というのが主な理由だ。最初移転すると聞いたときはやめるなんてことは考えもつかなかったが、車でも現在の場所から1時間以上かかる所だと聞かされ断念した。俺は車すら持っていない。諦める以外方法がなかったのだ。話を戻そう。とにかくひょんなことから「鬼く」を訪れることになった俺だが、客として入った俺はそこで優花に出会った。
店にはカウンターもあり焼肉屋には珍しくお酒の種類も豊富で、どちらかと言うと居酒屋みたいな所だった。その日は一人で来ていたし、他にお客さんの気配もなかったので堂々とカウンターに座りビールと肉を注文した。その注文した相手の店員が優花だったのだ。「かしこまりました」と丁寧に返事をしたあとすぐにビールを、そして肉を持って来てくれた。確か初めて交わした会話がこれだった気がする。そのあともカウンター越しに立つ優花と会話を交わした(やめたバイトのこととか)。優花は店員として、俺は客として語り合い、二人はそれほど長い時間ではなかったにしろ打ち解け合った。あくまで俺の意見にすぎないのだが、とにかく当時の俺はそう思ったのだ。そう思わせてくれるほど優花は俺の話を真剣に聞いてくれたし、俺も優花の話を真剣に聞いた。時折見せる優花の驚いた顔や、首を傾げて「私にはわかりません」とでも言いたそうなきょとんとした顔など、表情や仕草のひとつひとつが可愛らしく、俺はそれに魅了された。それに優花には俺とどこか近いというか、似たような一面があるのではないかと感じたのだ。人なら誰しもが持っているものを持っていなくて、誰しもが持つはずのないものを持っている、とでも言うのか。それが物体として具体的に目に見えるものなのか、それとも抽象的にしか表現できない曖昧なものなのかは今の俺でもわからない。俺と優花が似ていると感じたにもかかわらず、俺は肝心の自分自身についてよくわかっていないのだ。そもそも似ていると感じることが間違いなのもしれないが、カウンター越しに立つ優花を見ているとどうしてもそう思えてしまったのだ。しかし確信できることが一つあった。それは俺と優花が今度どこかでまた出会うということだった。もちろんこの焼肉屋に訪れれば会えるのは確かなのだが、その時の俺の確信というのは「どこかでまた出会う」という表現の方が何億倍も正しかった。
そして俺の確信は思わぬ場所で証明されることになった。「鬼く」を訪れた次の日、大学の授業で優花に会ったのだ。その授業はその年の1回目の授業だった。思わぬ再会を果たした俺と優花は、今まで同じ大学だったのに気づかなかったことを大いに笑い合った。かくして俺の確信は早速当たったわけだが、そんなことはどうでもよくなった。優花にまた会えたという事実そのものを喜んだ。優花の方も同じく喜んでいた。うれしくなった俺は再会したその日も「鬼く」を訪れ、優花との会話を楽しんだ。お互いを語り合った。共通点もあった。二人は本を読むことが好きで、一人で散歩するのが好きで、色は黒が好きで、スパゲティはフォークだけで食べて.....それは俺が当初描いたあの優花像とはまた別のものだが、その日新しい共通点ができた。優花は俺を誘ってくれたのだ。ここでバイトしないか、と。もちろん次のバイトを探していた俺はこの誘いをありがたく受けることになり、現在に至る。まぁ気づいた頃には優花の俺に対する態度が変わっていたのだが.....もしもそれが本来の優花なら、それを俺に見せてくれているのだから喜ばしいことだと思う。それはもしかすると俺が描いた優花像の一部なのかもしれない。とにかく俺は自分を誘ってくれた優花に感謝しているし、そういう意味では大切にしなければいけない存在だろう.....
「お!やっと取れたか」
修二は案の定昼に食べた魚の骨が引っかかっていた。それが取れたのだ。
「誰かさんに知られたら突っ込まれること間違いなしだな」
すでに突っ込まれていることはもちろん知らない。今修治が知っていることと言えば、店のオーナーについてだけだ。
「遅刻は鬼が怒るからな。きびだんご持ってさっさと出発しますか」
修治は鬼の待つ山.....ではく店へと走った。
「おはようございます」
修治が挨拶と共に扉を開けると、うわさの優花が立っていた。とっても残念そうに。下痢にでもなったか?こいつ。
「遅刻せずに済みましたか.....」
そういうことか。結局これ。ほんと、達者なお口でいらっしゃることこの上ない。とは言わないでおく。代わりとしては何だが.....
「開口一門、嫌みですか。舌が回るなぁ優花は」
ほぼ一緒。言ってしまった。さっさとトンズラするか?いや、もう手遅れらしい。
「嫌み、ですか。これを嫌みだと思っているうちは成長しませんよ?修治君、このお店クビになるまであと遅刻一回なんですから」
はいはい、俺の負けですよ。そんなに悔しがらなくても。
これは最終手段に出るしかないな。
「あのさ、優花!この後暇か?バイト終わる時間同じだし、一杯引っかけに行こうぜ」
優花はこの言葉に弱い。酒豪だからな、こう見えて。
「明日の授業、修治君がちゃんと起きて行くならいいです」
ほれ見たことか。笑みを隠しきれてないぞ、優花!
「わかった。それじゃあとでな」
何とか切り抜けた。機嫌の悪くなった優花は何を言ってくるかわからない。俺の心をズタズタにされる前に手を打っておかないと。今夜の映画鑑賞は我慢するか。とはいえ久しぶりに優花と二人で飲めるわけだし、楽しまねぇとな.....やっぱこうじゃねぇと、人生は。何事も楽しく!ってな。辛い思いなんてしてる場合じゃねぇってこと!
だろ?母さん.....
話は数時間前にさかのぼる。タカの罵声を遮って大学を去った修治はバイトまでの時間、汽車で隣町にある小さな墓場まで来ていた。墓場と言っても、丘の上に並ぶ数件の住宅の隅に墓石が一人ぽつんとあるだけだ。修治は唯一、授業を休んででも毎日欠かさない習慣があった。
「ただいま母さん」
修治は買ってきたハマギクの花を一本、墓石の脇に添えた。
母さんはこの花が大好きだった.....
俺は花言葉とかはよく知らないけど、確か「逆境に立ち向かう」とかだった気がする。母さんはいつもこの花を見て、あの辛い日々を乗り越えようとしていた。いつかくるであろう幸せを、楽しみを掴むために。母さんは生きることにプライドを持っていたんだと思う。
親父と別れてからというもの、その頃小学生だった俺を育てるために必死だった母さんは、朝から晩まで働くことに没頭していた。一人家で待っていることの多かった俺だが、たまに知らない男が入ってくるや否や母さんを探し始め、いないとわかると分けのわからない言葉を投げ捨てて出て行った、なんてこともあった。まだ小さかった俺には理解のできない出来事だったが、その日の夜痣を作って帰ってきた母さんを思い出すと、頭のあがらない男達を抱え込んでいたんだと、今の俺なら容易に想像がつく。母さんは生きることに必死だった。辛くても苦しくても、逆境に立ち向かい続けたのだ。でも母さんは死んだ。幸せや楽しみを掴むことなく。
睡眠薬での自殺だった。俺が中学3年の頃。高校受験を間近に控えた俺のために、学費を稼ぐと言っていつも以上に働いた母さんは、その仕事の日々に耐えられなくなったのだと思う。学校から帰ってくると、玄関で倒れている母さんがいた。
その後は必死だった。近所のおばさんに救急車を呼んでもらい、一緒に病院へと駆けつけた。それでも母さんは、俺の目の前で息を引取ってしまった。目を閉じる直前、母さんが言った一言は今でも忘れたことはない。
「母さんみたいにならないでね」
どういう意味だったのかは今でもわからない。聞いたときには、母さんは何か言いかけてそのまま死んでしまった。でも、俺は母さんが残したあの言葉を自分なりに解釈して生きている。それを誰かに否定されようとかまわないとも思っている。むしろ、今ではみんなに教えてあげたいとさえ思っているぐらいだ。生きる価値、みたいなことを.....
合掌しながら考え込んでいた修治は泣いていた。どうしてもここで楽しい気分にはなれないのだ。普段の生活ではあり得ない。俺が泣くことを誰が許す?きっと、誰もいないこの墓石の前だけでしか許されない行為なのかもしれない。
「またくるよ」
声にならない声を一言発した修治は、振り返ることなく立ち去った。いやもう一言。
「魚は丸ごと食うもんじゃねぇな」
それはしっかり声になっていた.....