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ゾンビから生き残るための百のルール  作者:
第六章、発展編
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その88・動揺を押さえ込む強い心を持つこと








「河井君、報告書は」

「すみませんもう少し待って下さい」


 問いかけた飯島に対し、あまりにも鋭い早口を返した河井からの視線に、奏の眼差しが細められる。


「……お前、つぎの任務入ってるか」

「いえ――」

「いや、入ってても何でもいい。とにかくちょっとついて来い」


 強引にも程があった。

 真っ向からそれを向けてくる河井の目を見返すこと、数秒。やがて奏はその足を進めた。

 僅かに上がった彼の眉の形は恐らく、素直な行動に対する少々の意外を表したものだろう。

 河井との距離を詰めた奏は最後に一度室内を振り返り、あからさまな疑問符を浮かべまくっている飯島の方へと眼差しをおくる。逆光で顔は良く見えなかったが、上司の口が何かを紡ごうとする前に軽く頭を下げ、奏は鍛錬所を後にすべく扉をくぐった。


「なんですか。ってか河井さん、今まで何処にいたんですか」

「無線機壊した罰則で草むしりとか、な――ってそれどころじゃねぇんだよ!」


 先を行く河井の足は、速い上に荒っぽい。

 廊下で談笑を交わし合っている職員にぶつからないよう、早足でそれに続いていた奏は、しばらく歩みを進めたところで相手の後ろ肘あたりを強く掴む。


「まさか……今日の夕食は米ですか?」

「ちげぇよ! まじもう何でもいいから兎に角――って痛い痛いいてぇ!!」

「河井さん。目的も告げずに、人がついて行くと思うんですか?」


 とりあえず相手を落ち着かせるべく、奏は肘を掴んだ指先にぎりぎりと力を込めた。地味に痛いツボ押しである。

 そう、奏は一応あの任務のあとからずっと、河井を探しまわっていた。

 食堂にもいない。彼の部屋の場所なんて知らない。飯島に心当たりを聞く事も出来ない。

 最近どうにも危うい河井の挙動を考えれば、上司の前でその名を出すこと自体、奏にはどうにもはばかられたのだ。

 そうこうして、彼女が浪費した時間は3日。

 河井が草むしりに費やした時間を2日と考えれば、問題なのは今日1日。

 彼がその間、何をおこない、何を知り、何を考えていたのかなんて。到底分からない奏はひとまず足を止めた河井から手を離し、大げさに肘をさすっているその様子を注意深く観察する。


「悪い……でもやっぱ、目的は言えねぇ」

「……じゃあ諦め」

「だから、頼む……頼むから、何も聞かずについて来て欲しい」


 伏せかけていた顔をあげ、絞り出すように言葉を吐いた河井は苦々しげでもあり、苦しそうでもあった。

 そんなに痛くしてないのに、と思うだけにするには少々引っかかるものがある表情。

 彼が何かに焦っていることは明白で、その内容はさっぱり分からない奏だが、どうにも嫌な予感だけはする。

 可能ならば、すっぱり断ってしまいたかった。

 けれど必死そうな河井の様子に、その時奏の脳裏を過ったのは、数日前の既視感である。


「……。」


 しかし自分はこんなに情けない感じではなかった筈だと。

 言い訳のように思う奏の思考の裏側に浮かんでいるのは、車庫に帰っていくモノレールと、夜の森の中に去っていった後ろ姿。

 河井はその時の事を知らない。

 けれど、“信用して欲しい”、と。

 頼むから信用して欲しいと鴉に頼み込んだ自分の姿が、今の河井と重なってしまった奏には、もうその首を横に振れるはずもない。


「……分かりました。行きましょう」

「!」

「そうと決まったら急ぎましょう。さっきの口ぶりからして、ぷらぷらしてる場合でもないんでしょう?」

「まぁな……」

「報告書もまだ出してないみたいですし。大丈夫なんですか?」


 聞けば河井の顔が歪んだ。この様子からして、間違いなく大丈夫ではないのだろう。

 それでも、それを差し置いてでも向かわなければならない場所。

 そんなものが本当に存在するというのなら――河井について行くことは、あながち間違った事ではなく。

 その行き先を見届ける権利を渡されたというのは、寧ろ奏にとって、喜ばしい事なのかもしれなかった。










「……無断外出ですよ」

「だからそんな事言ってる場合じゃねえって、さっきから言ってんだろ……ってかここまで来たんだからお前も腹くくれ」


 しかし、まさか。

 まさか普段の対ゾンビ用装備に身を包んだあげく、知る人ぞ知る抜け穴から所外に出る事になるなんて思っても見なかった奏である。否、やはりよく考えれば、その可能性は一応存在していたのかもしれない。

 うだうだと考えながらも身を低くし、木々に身を隠しながら河井に続いていた奏は、枝葉に隠されていく研究所の姿にかなりの冷や汗を流していた。

 長年研究所に身を置いている以上、「駄目だと思わなかった」なんて言い訳が通用する筈も無い、無断外出。

 更に目の前には、河井の背がちゃっかり背負っている透明な袋に包まれた大型の銃。


「河井さん……その銃、どうしたんですか。……勝手に持ち出せるものじゃ、ないですよね?」

「長年のコネの賜物。あと、普段の行いが良いから」


 そっけなく返してくる河井に、奏はくらりと目眩を覚えた。

 武器庫の管理人も、所詮は人間。警戒心というものは顔をあわせる程に薄まっていくものだ。更にその相手が最低限の弾丸しか使わないケチ臭い人物ともなれば、管理の鍵も緩くなる——のかもしれないが。

 しかし、しかしそれにしたってお前武器庫の管理人だろ武器庫の!と思わず言ってしまいたくなる奏は、結局吐息のような溜め息を落とすしかなかった。

 今此処に居ない人間は、責めようが無い。

 そしてそれ以上に不味い状況が、ここにはあるのである。


「河井さん……何処に向かっているんですか?」


 それは、河井の足が向かっている方角。

 彼女の冷や汗の原材料となっているそれに、けれどやはり返される答えは無く。

 良いから黙って着いて来いとでも言わんばかりの河井の態度に目を細めた奏は、顔に掛かってきた枝葉を少々乱暴に手折った。

 進行先の、視界は悪い。

 数日降り続けていた雨のせいでうっすらと靄がかかった森の中、無秩序に伸びきった枝を分ければ葉にたまった水滴が跳ね、ただ歩くだけで髪がしっとりと濡れていく。

 対ゾンビ用装備に身を包んでいなければ今頃、見えない無数の傷が肌に刻まれていたことだろう。

 整頓されていない、その獣道とすら呼べない道は、モノレール乗り場に続く道ではなかった。

 あえて言うなら湖に続く道なのだが、けれどそれすらも微妙に迂回していく河井の足先に、奏の中の嫌な予感はどんどん膨らんでいく。


「……お前、図書館にさ。なんか感染者関係の資料がポロポロあるの知ってる?」


 やがて落とされた声に。

 僅かに顔を上げた奏は、数歩先を行く河井の歩みが若干緩やかになっている事に気付き、へし折った小枝を後方に放った。


「……そういえば以前、欲求の種類がどうとか言うのを読んだ気がしますけど」

「それ、表紙ついてた?」

「? 覚えてませんけど……確か内容が目についたから読み始めたんですよね。ああ、ってことは表紙は無かったかもしれませんね」

「だよな。それで気になったから、所長室あさってみた」


 黙々と足を進めていた奏は、はたと足を止めた。腐った木の枝が、足の下で音も無く砕ける。

 なんだか、おかしい言葉が聞こえた気がした。それは果たして、気のせいなのだろうかと。一瞬河井が何を言っているのか分からなくなる奏だが、恐らくそれは聞き違いではない。

 前を行く男は、所長室をあさったのだ。

 何故なら、気になったからである。


「い、いやちょっと色々言いたい事はあるんですけどなんか話が飛びませんでした?」

「まぁ所長、ほっとんど所長室にいねぇし。でも、結局何も無かった」

「そ、そうなんですか……??」


 奏は頭が混乱して来た。

 まず河井が何故、所長室をあさったのか分からない。気になったからといわれても、何が気になったのか分からない。

 資料の話とそれに、何の関係があるのか分からない。

 話の重要性がいまいち掴みきれない奏は、森の香りを深く吸い込むことによって、オーバーヒートしかける思考回路の沈静化を試みる。


「だから今度は、楠さんの研究室に行った」


 ぶちん、と。どこかのブレーカーが落ちた音を聞いたような気がした奏は、何と返せば良いのか分からなくなった。森の中で迷子の気分である。

 あたりを漂う靄が頭の中にまで入って来たかのようで、ぼんやりする。尖った枝や腐った落ち葉に、まとわりつかれているような気持ち悪さがある。

 所長室の次は、研究室とは。

 しかし研究室には引きこもり研究者がいるのでは、と何処か冷静に浮かんで来た奏の疑問にすら、河井は先読みしたように言葉を落とした。


「……楠さん、最近新しい検体に夢中みたいだからな」

「……!」

「一番近い実験室は、鴉が使ったあとそのままになってる。ちょっと離れた実験室使うしかねぇんだろ」


 吐き捨てるような河井の声の色は、奏には届かない。

 新しい検体、そして楠の実験室事情。

 ただの情報として受け取ったそれに、奏は非常に覚えがあってしまった。

 本来、連れ帰られる予定だった鴉。特殊型用に改造されたままの、研究室から最も近い実験室。

 河井の言いたいことが分かって来たような気がして、ぽたりと頭上に落ちて来た雫に奏の身体の芯が冷え込む。


「でもやっぱそこにも、何もなかった。ってか鍵かかってた」

「……。」

「なんか、おかしいと思わねぇ?」

「色々と、おかしいとは思いますけど……何がですか?」


 一言づつを確認するように言葉を紡げば、足を止めない河井が肩越しの視線を投げてくる。


「鍵だよ、鍵。薬品の棚とかなら分かるけどな、机に鍵かかってたんだよ」


 ふっと息をつきそうになった奏は、かろうじてそれを自制する。


「重要書類とかじゃないですか?」

「重要かもしれねぇけど、隠す必要は普通無いだろ。黒液の研究してる研究所で、黒液の研究してる研究者が、隠す必要のある重要書類って何だ?」

「……知りませんけど、何かあるんじゃないでしょうか。というか気になることがあるなら、楠さんに直接聞けばいいじゃないですか」


 足下から立ち上ってくる鼻を麻痺させるほどの濃い森の匂いには、平常心を保たせる効果があるのかもしれなかった。

 樹木の間隔が広がり始めれば、奏の耳が捉える音の幅も同様に広がり始める。


「……さっきの話だけどな。図書館にあった資料、ぜんぶ表紙が無かったんだよ」

「……だから、なんですか」

「何かを隠してると思った。……そんで、今楠さんがつきっきりの検体、な」


 背の低い草木の群生を膝がかき分けていく。

 生っぽい風が吹き抜ければ、ざわめく枝葉の上を水滴が滑る。


「たぶんあれ、人間だった」


 黙々と足を進め続けていた奏の顔面に走った、鈍い衝撃。

 一瞬の電流が駆け抜けるようなそれによって我に返った奏は、そこでようやく、目の前の背中がいつの間にか立ち止まっていたのだという事に気が付いた。

 無意識に上げてしまった視線が降りて来たそれとかち合い、生まれてしまった奇妙な間を埋めるよう、ぼとりと落ちて来た雫がヘルメットを叩く。


「……明らかになんか、おかしいだろ?!」


 奏はその場からの逃走を謀りたくなった。

 やばい、やばい、やばいと。己のしっぽを全速力で追いかける猫のような焦燥、そこに他人事のように浮上するのは、責任転換にも似た楠への疑問である。


「そ、それは――」


 動揺を回す奏の頭の中、言い訳はろくに纏まらない。

 外聞の悪い実験を行っていることは、あの研究者だって分かっていたはずだった。

 ならば、何故ばれたのか。流石に不用心すぎるのではないのか。


「しかもさっき卓郎から聞いたんだが。畜産にも古株がいねぇんだよ、畜産だぞ!? おかしいだろ、全員が全員馬に蹴られて死んだってか!?」

「し、知りませんよ!」


 向き直って来た河井に反射的に返した奏は、見据えてくる瞳に息を詰める。

 新たに浮かべられた険相にどくん、と大きく心臓が引き絞られ、押しつぶしたような沈黙に、奏の喉が何かを吐き出したがるように上下する。


「それで、それでなんで、何処に向かっているんですか?!」


 詰めていた息を吐き出すように。

 真っすぐに下ろされる河井の視線は、奏にとって痛すぎた。


「……前の任務で、最後に感染が発覚した男いただろ?」

「いましたね……」

「あの男、なんか最後に気になること言ってたんだよな。宿舎とか、湖の裏……とか?」


 軽く首を傾けて見せる河井の視線は、奏から寸分たりとも外されない。


「お前は、言ってたけどな。“うちの建物は一つです”って」










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