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ゾンビから生き残るための百のルール  作者:
第六章、発展編
94/109

その87・情報は収集し、同時に隠蔽すること(※挿絵あり)



挿絵(By みてみん)







 何かが、おかしいような気はしていた。

 最初の違和感は恐らく、あの白衣の感染者。

 図書館と呼ばれる資料室に出現したあれは——少なくとも河井にとっては、かなり衝撃的な存在だった。

 “検体でもない感染者が所内に存在した”というセキュリティの甘さについてもそうだが、感染者がまとっていた白衣を見た瞬間、河井の中に湧いたえも言われぬ気持ち。

 そして周囲の、事の重さに反するあまりの反応の軽さ。

 どうでも良いとでも言いたげな楠の態度に、それがどうしたとでも言わんばかりの奏の態度。

 唯一微妙に眉を寄せていたのは飯島だけだった事を河井は知っており、どれだけ些細なことだろうと、一度引っかかりを覚えてしまえば疑惑というものはいとも簡単に膨らんでいくのである。

 “疑惑の種”とは、言い得て妙だ。


 そうしてよく考えてみれば、年配の研究員がいないことについてもそうだった。

 長く生きる程に経験は積み重なる、経験を積んだ者に困難な任務が回されるのも分かる。しかしそれにしたって自分や奏が古株にされるほどに、上の年代が全く残されていない現状は、どう考えたっておかしいだろうと。

 “今の時代、人は保持すべきもの”。

 確信を抱いた河井の脳裏に住み着いたのは、前回の任務で出会ったあの長袖男の言葉である。

 そしてそれに伴う奏の挙動不審が、河井の思考回路により濃い影を落としていく。

 何かが、おかしかった。

 しかし、それだけだったのなら。

 また、話は違っただろう。



(――なんだアレ、待てよ、ちょ……どういう事だ!?)


 なんだ、どうして、何故、と。

 際限なく湧いてくる疑問符に、混沌とした頭で河井が駆け込んだ先は、図書館と呼ばれる資料室。

 乱暴に閉めた扉に背を預け、その場に数秒硬直すれば。

 やがて暗闇に気付いた指先が壁を這い、無意識にスイッチを手探り始める。

 パチリと。

 場違いに軽い音を聞けばぽつぽつと灯ったオレンジの明かりに、河井はゆっくりとその視線を上げた。

 年期の入った紙特有の匂い。ゆったりと浮遊する細かな埃。室内を照らすのは少々頼りない、けれど無いよりは遥かにマシである明かり。

 その有様に既視感を覚えた河井の足が、ふらりと気の抜けた一歩を踏み出した。

 そう。何も考えずに駆け込んだ先ではあったが、そういえば此処にも違和感はあったのだと。

 想起した時にはもう既に、その足は数ある本棚に向かい駆け出している。


(……無い。……無い、無い、無い! ……ってこれどういう事だ!?)


 先程自分が見てしまったものに、不可解に八つ当たりするように。

 事務的に並んだ本棚を片っ端からあさり始めた河井は、やはり存在しなかったそれに頭を抱えた。

 やはり、無い。

 どれだけ探っても、出てくる感染者の資料の束には表紙が、作成者が、タイトルが――そして作成日時が存在しなかった。


(……いや、違う。違う、今はそれどころじゃ……でも)


 棚に打ち付けた拳の中で、資料の束がぐしゃりと潰れる。

 焼き付いてしまった光景が、何度も何度もフラッシュバックする。

 四肢に繋がれた鎖。指先でくるくると弄ばれる注射器。並べられた試験管の中で、蠢く黒い液体。

 先程目撃してしまったそれは、一体何だったのか。

 痛みを感じ始めた頭を軽く振り、河井は無惨にひしゃげた資料を本棚にそのまま突っ込んだ。

 速やかに踵を返したその足はもう、次の目的地を決めている。

 今、ここで確認出来る事を、全て確認する必要があった。





・     ・     ・




「あ、河井さん久しぶ」

「おう卓郎また後でな!」

「えぇ!?」


 久々に見つけた顔見知りの先輩の姿に。

 声をかけた卓郎青年は、軽くあしらわれ若干ショックを受けた。

 しかし、研究所ここで暮らすうちに知った新事実。この銃器を扱う先輩は、それらの最前線に居る人物なのだということ。

 すなわち、最近姿を見かけなかったのも恐らくは“外”の任務に行っていたからで、銃器のエキスパートと呼ばれる彼は所詮、畜産の自分になんか構っている暇は無いのだと。

 ほんの少しの物悲しさと共に、その後ろ姿へと無意味に敬礼したくなっていた卓郎はふと、そのとき弾丸のように遠ざかっていく背中が急にブレーキをかけた事に気が付いた。

 かと思えば超スピードで此方へと戻って来たその剣幕に、卓郎の足はうっと思わず後ずさりをしてしまう。


「ちょっと聞きてぇんだけどお前ここで見た人の最高年齢って何歳!?」


 卓郎の思考は、数秒停止した。

 肩で息をしている河井は間違いなく何か急いでいて、けれどそんな状況で行われた質問の意図が分からない。


「え? こ、此処ってこの研究所っすか? で、一番歳とってる人??」

「そうだよお前顔広いだろ!?」


 卓郎はしばし考えた。

 どうやらこの先輩は、何かを急いでいるが故に質問の意味を話す気はないらしく、その剣幕からして曖昧な答えを返すことは許されそうにも無い。


「ひ、広いとは言っても広いですけど……た、多分うちの畜産の久保田さん?」

「誰だよ!」

「久保田さんっすよ! えーっと……あ、多分ほら、最初に会った……あの所長さんよりちょっと若いくらいの歳っす!」

「所長より……若い?」


 鬱陶しげに汗を拭った河井の視線が鋭く流される。

 どうにもピリピリとした先輩の様子に、いつのまにか直立不動の体制をとってしまっている卓郎だったが、その頭の中では少しの余裕が生まれつつあった。


「ちょっと久保田さんの方が若いかなーってくらいですけどね。30はいってるけど40はいってなさそ」

「畜産だろ?」

「あ、はい」

「……若過ぎるだろ」

「え?」

「分かったじゃあな!」

「えぇー!?」


 しかし生まれた余裕が生かされる機会も無く、先輩はまた流星のように駆け出していってしまった。

 残された卓郎としては、どうにもハリケーンに巻き込まれたような気分である。

 否、厳密にいうならば竜巻とは通過するもの。戻って来る方がおかしいのだと。


「……?」


 違和感に首を傾げながらも、卓郎は気を取り直して食堂へと向かう。

 ここでは一歩の遅れが一食の惨劇に繋がりかねない。C食という名の食欲破壊兵器をもう二度と口にする事のないよう、卓郎はロスした時間分の歩みを早めることにした。

 あれだけ急いでいた河井が何故いちいち戻って来たのかも、向けられた質問の意味も重要性も、彼には分かる筈も無い事だった。






   ・     ・      ・






 水をたっぷりと吸った石は、それでもまだ貪欲に水を吸い続ける。

 かけたばかりの水があっという間に吸収されていく様に、また少し水を砥石の上へと滴らせた奏は、愛用の武器の刃をそっとそこに寝かせた。

 刃の際、数ミリ。

 砥石と刃とのぎりぎりの境界線に指を押し当てた奏は、ぐっと力を込め、大きく刃を石の上に滑らせる。

 水と、砥石から生まれたぬめりが、ほど良く潤滑剤となっている。

 始めの頃は砥石の摩擦に負け、指先の皮が薄っぺらくなったりもしていたが、今の彼女にその心配は必要ない。

 分厚くなった指先は強く、そして確実に、包丁の刃を磨き上げていた。

 石と鋼がこすれ合う独特の音は、奏の心を落ち着かせる。


「……完璧だ」


 しかしその場に居るのは、彼女だけではなかった。

 隣の飯島が上げた子供のような喜びの声に、奏は軽く横目を流す。

 鍛錬のあと武器の手入れをするのは毎度の事で、そして飯島がその場に残っているのも、これまた毎度の事だ。


「流石だ、流石は私だ。この至高の一品に勝るものがあるだろうか……否、ない!!」


 梅雨の合間の晴れの日に、電気の節約された室内。それでも窓から差し込む昼の陽光は十分に眩しく。

 壁に着いた変な色のシミまでしっかりと目についてしまう中、飯島がかざした包丁の輝きに奏はその目を細めた。

 飯島の手元にあるのは仕上げ砥石。磨き上げられた包丁の鏡面のような刃は、確かに芸術品と言っても良い。


「……どうせ使えばすぐ汚れますよ」

「その時はまた磨けば良い」


 一瞬困ったように眉を寄せたものの。

 すぐにまた笑顔に戻った飯島は、どうやら包丁を研ぐのが好きらしかった。

 否、そういえばこの所長様はそもそも、コンピューターを組み直したり、無線機を組み上げたり、何かを作り上げる事が好きなのだと。

 奏は芸術品にされてしまった己の武器に、心の中で溜め息を落とす。

 つくるのが好きならば、壊されるのも汚されるのも嫌いだろうに。

 それでも包丁を完璧に磨き上げてくる飯島に、奏は過去、疑問を向けた事がある。

 しかしそれに対し飯島は「武器が汚れるのは仕方が無い。使用すれば摩耗するのは当然だ……全ては愛娘の生存率を上げるため!」とかなんとかのさばったのだ。

 つまり汚したって別に良いよ、という事なのだろうが。

 そもそも包丁の輝きが生存率に関わるのかは甚だ疑問で、この見事にぴかぴかな鏡面と太陽光を利用し「包丁フラッシュ!」なんて事をしても、ゾンビには全く効果がない事を奏はもうとっくに知っていた。


「――っ!」


 しかしそんな過去の回想は、指先に走った痛みによって中断される。

 気が抜けるほど過去にとんでいた自覚は無い奏だったが、注意力の散漫は己の指に走った赤が証明している。


「奏っ!?」


 異変に気付いた飯島の手は、半ば反射的に出されたのだろう。

 持ち上げてしまっていた包丁の切っ先が、そんな上司の指先と、見事にぶつかったのは運の悪い、俗にいう不慮の事故である。


「……。」

「……。」

「救急箱、とって来ます」


 こんな時のために、鍛錬所の隅には常に救急箱が置いてあった。

 軽く手を洗い、速やかに十字マークの描かれた箱を取りに向かった奏は、改めて自分の注意力の散漫さに嘆息する。

 前回の任務から戻ってからというものの、彼女は常にこんな調子だった。


「……奏」

「なんでしょうか」

「君がこんな下らないミスをするとは……」

「……すみません」


 飯島の傍らへと戻った奏は、一旦救急箱を近くに置き、再度きっちり手に着いた砥石の汚れを落とした。

 手洗い用の水に溶けていく汚れは、まるで泥遊びをした後のようで。

 その時の奏の表情の変化はほんの僅かなものだったが、傍らにいた飯島はそんな彼女の微妙な変化に気が付いたらしく。


「……今日は良く怪我をする日だ。今朝も楠に“定期検診だよ”とか何とか言って注射器片手に追い回された」


 ホラー小説のようだったと。

 大げさに溜め息を着いてみせた飯島に、普段黙々と包丁を振り回している女はちらりとだけ視線を上げ、同時に救急箱を手繰り寄せる。

 その中身はシンプルな包帯と脱脂綿。そして毎度の防水テープ。

 そしてそれを切り分けるための道具として選択されるのは、ぴかぴかと輝く包丁だ。


「……つまり。その、なんだ。何か悩み事があるのなら――」

「……。」

「お父さんに相談してみてはどうだろうか?!」


 包丁に付着した汚れを拭っていた奏は、ぴたりとその手を止めた。

 見上げた先には、怪我した指先をピンと立てた、飯島の満面の笑み。


「……。」


 無言を返せば落とされる、小さな溜め息。

 しかし奏の中にはもう既に、この上司に問いかけをおこなっても碌な答えは返って来ないのだ、という前例が積み重なってしまっている。

 それにそもそも、今の己の心境が、この相手に理解できるとも思えないと。

 手当の準備を淡々と進めていた奏の前で、飯島の指先が分厚く切り分けた脱脂綿をさらっていく。

 飯島が主張する“父”に奏が無言で答えるのは良くある事で、飯島の方も奏から無言を返されるのは慣れっこのようだった。


「……飯島、所長」


 けれど。


「なんだね?」

「その…………飯島所長は今、何が一番大切ですか?」

「……っ!」


 不意に。

 不意に、奏は問いかけてみたくなった。

 手にしていた防水テープをぎゅっと握りしめる彼女の、最後には蚊の鳴くような声になっていたそれも、相手の耳には届いたのだろう。

 飯島の喉が短く息を飲む音から、奏の視線は既に逃げていた。


「い、いややっぱり取り消します何でもありませ」

「奏が! 奏がついに私に相談事をっ!! き、今日は記念すべき日だしかしその前にきちんと記録を残さなければ、よし奏ここにサインを!」

「…………。……これは何でしょうか」

「よくぞ聞いてくれた。これはな奏、君が私に相談事をおこなったという証明書だ」

「取り消します」

「そんな……!」


 飯島の手の中から謎の用紙がはらりと落ちる。

 こんな訳の分からないものを常に懐に携帯しているとは、やはりこの上司は意味不明であると。

 表には出さないものの心の中で多大な溜め息を落とした奏は、気を取り直して防水テープを切り取り、自分の指先にさっさと貼付ける。

 同様に、飯島の指先の傷口にも、手にしたテープをぐるりと一巻き。

 包帯を使う必要のない怪我――即ち切り傷なんかは、このようにして塞ぐのが常であった。


「良いだろう、分かった。記録は私の心のアルバムの中だけのものとしよう……現在、何が一番大切か、だったかな?」

「……。」

「そんなものは決まっている。今、このとき。愛娘とのたわいもない一時だ」


 飯島へと胡乱な視線を戻した奏は、傷口を確認しているらしい飯島の俗にいうドヤ顔に数秒の無言で答えた。

 それは一応、悪意ある行いというわけではない。

 相手からすれば無表情に無言で見つめられるというのは中々に辛い状況ではあるが、奏としては単純に、何と返せば良いのか分からなかっただけなのである。


「……親の鏡ですね」

「か、奏が! 奏が私に溢れんばかりの賞賛をっ!! 流石だ、流石は私の至高の娘だ。これ以上の素晴らしい娘がいるだろうか……否、いない!!」

「……。」

「ふむ。それで、奏。君は今、なにが一番大切なのかな?」


 救急箱の方へそっと目を逸らしていた奏は、向けられた疑問にまた少しだけ顔を上げた。

 しかしその視線が向かった先は、飯島の方ではない。

 シミのついた壁。窓からの陽光。おちる影の形。

 自分が今座っているのは何度も何度も背を打ち付けて来た床で、そっと動かしてみた指先に触れた傷は、しょっちゅう包丁を取り落としていたあの過去の日々によって刻まれたものだった。


「……私も同じかもしれません」


 ぽつりと落とせば、すぐ近くの飯島の気配が大仰に揺れる。


「私はこの研究所が好きです。大切だと思っています。帰る場所があるというのは、嬉しい……」


 研究所に来た当初の事を、正直奏はあまり覚えていない。

 “外”でも日々によって極限まで張り詰めた緊張の糸は、研究所という得体の知れない場所によって更に引き延ばされ。それがぶちんと途切れるたびに、訪れる泥のような睡眠の日々。

 とにかく、疲れていたのだろう。

 眠って、起きて、眠って、起きて。

 客観的に見れば自堕落極まりない日々を送っていた彼女を、部屋から引っ張りだしたのは飯島だった。

 “私の娘として研究所に来る気はないか?”なんて。

 “研究所ここに来た以上は、きっちり私の言う事を聞いてもらう”、なんて。

 上司としての権利を、あの森で交わしたくだらない条件を、これ以上無く振りかざしてくる相手に対する不気味と不可解に、自分はいつだって眉を寄せていた筈なのに。


「くだらない感じに過ぎていく時間が……好きです」


 いまや立派に絆されていると、奏はもう笑ってしまいたかった。


「……奏?」


 不可解そうに伸ばされた飯島の手。

 それを自ら取り強く握りしめた奏は、上司であり、師であり、命の恩人でもあり――もしかすると父でもある男の表情を、真っすぐに見つめる。


「ここが好きです。拾ってくれた所長には感謝してます。感謝……しているんです、っでも――!!」


 先の言葉は続かなかった。

 乱暴にも程がある勢いで開いた扉が立てた轟音に、奏は鋭く顔を向ける。

 最近、探しても見つからなかった男の姿がそこにはある。


「……。」

「……。」


 ドアノブを握ったままの河井の上がった息。研ぎ澄まされた切っ先のような鋭い視線。

 それら全てを受け止めた奏は、飯島の腕から指先を離し、無言のままにゆっくりと立ち上がった。






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