その83・保持すること
「なによ。体調、悪いの?」
「……しばらく何も食っていないんだ。当然だろう」
部屋の中から漏れ出してくる声。
鴉を連れて行くと面倒なことになりそうだったので、渋る相手をなんとか説き伏せ一人職員室に戻った奏は、入り口の扉を開けると同時に足を止めてしまった。
前回訪れた時より人口密度の上がった室内。来訪者へと一斉に向けられる顔の中、真っ先に交差した相手との視線に、奏の中に湧いたのは奇妙な居心地の悪さだった。
「……。」
兎も角、まずはお礼を言うべきか。
妙な間を作ってしまった足を踏み出し、奏は机に腰掛けライフルの整備を行っている河井の方へと口を開きかける。
しかしそれは目の前に立ち塞がった女によって、強制的に妨害させられる。
「おかえりぃ。……あれー、一人なのぉ?」
「……只今戻りました」
「これからどうするのぉ?」
痛いところをついてくる女だと。
内心思いながらも、相変わらず地味に刺々しい雰囲気を向けてくる女の後半の言葉を完全無視し、奏は眉一つ動かす事なくただ最後の質問にのみ簡潔な答えを返した。
「帰ります」
「……えっ。か、帰るの?!」
「はい。帰ります」
何故だか目を丸くした女は、何をそんなに驚いているのか。
未だ学校から出られない状態が続いていると思っているのか、しかし河井が職員室で武器の手入れを行っている時点で、もうその辺りの説明は済まされているような気がしてならず。
奏は視界の端で周囲の動きを追いながらも、何か言いよどんでいるらしい女の言葉の続きを待った。
「えーっと……じゃあもしかして、もう他に生き残りは」
「……。」
「そっ、か…………じゃあさ。せめて、何処に住んでるのか教えてくれない? いざという時、頼るから」
くしゃくしゃに顰められた顔に無理矢理な笑みを浮かべた女を、奏はしばし無言で見つめる。
生き残るという事は、別れを重ねると言う事。
現在生き残っている人間はそれを嫌というほど積み重ねて来ており、けれど衝撃に慣れる日は来ないもので、それでも悲しみにくれる間を惜しみ明日を考える女は、やはり精神的にタフであるように奏は感じた。
しかし、それとこれは別というのか。
生き続けようとする女の事は嫌いではないし、救いを求める者を一蹴するほど心が狭い訳でもないし、今は懐かしき携帯電話がもしこの時代にあったらアドレス交換しても良いくらいには思っている奏だが、彼女らに研究所の場所を教えて良いものなのかは、中々の迷いどころである。
「うーん、でもここからだと結構遠いですよ。場所で言うと、大体――」
しかし、奏が言いよどんでいる間に紡がれ始めてしまった所在地。
ちらりと視線をやれば、そこには先程遭遇した先行部隊の生き残りの男の姿。
一言一句聞き逃す事のないよう、速やかにそちらの方へとそれた女の視線に、奏は胸中で複雑な息を落とした。
彼は恐らく、彼女らの集団が、研究所に対し強盗まがいの前科持ちだということを知らない。
ならば仕方が無い、言ってしまったものはどうしようもない、そもそもよく考えれば民間人数人程度に破れる程、研究所の壁は薄くないだろうと。
「……ん?その研究所、だったか? そこの近くにはもしや、宿舎があったりするか」
夜間の警備強化について考え始めていた奏は、ぽつりと落とされた声に鋭く視線を向けた。
そこにいたのは、どことなく顔色の悪い例の長袖男。
脅威が消えた今、早急にこの学校を出たいと考えていたのか。
一人さっさと進め始めていた歩を止めた男は、寒いのか何なのか、その長袖の裾を限界まで伸ばすように弄くっている。
「宿舎、っすか?」
「確かに宿舎と呼ぶには少し遠いが……湖の向こう側に、あるんじゃないのか?」
「うちの建物は一つです」
平坦に、けれど有無を言わさぬ力強さを持って一蹴をおこなった奏は、長袖男と疑問符を浮かべていた河井の両方から一斉に視線を受けるが、そのどちらとも目を合わさないまま、職員室に残しておいた自分の荷物の方へと向かった。
(……まずい)
非常に、不味い。
これ以上この長袖男に、研究祖関連の話をしてもらっては困ると。
荷物の確認や整頓を行う奏の手は作業に慣れたもので、けれどその脳内はお世辞にも整頓されているとは言えない状態にある。
男の存在はやはり、研究所にとってかなりまずいものだった。
「別に君には聞いていないんだが。ちっ、これだから女は。言っておくが僕は、君のような小娘に助けられたとは思っていない」
「……そうですね。あの感染者にとどめを刺したのはそこの彼です」
「……僕はこの若造にも、助けられたとは思っていない」
「……別に彼は若造ではありません。確かな経験を積んでいますし、少なくとも貴方に馬鹿にされるような人物ではありません」
奏はまとめ終わった荷物を机の上に置き、くるりと長袖男の方へと向き直る。
妙に突っかかってくる長袖男の顰められた顔から視線を下ろせば、その足が苛立たし気に貧乏揺すりをしている事が分かった。
「はっ。なら古株だとでも? その程度の歳で?」
「今の時代、必要なのは経験と体力ですから。年齢は無意味です」
「年齢を無意味と言える辺りに、君の精神年齢が伺えるな」
「救助の選り好みとはずいぶん余裕ですね。大人の余裕には叶いません――って。なんですか、河井さん」
いきなり腕を引かれ見上げれば。
そこにあった河井の絶妙に泳いだ視線に、奏は一拍置いて我に返った。
「あー……ほら、荷物まとめ終わったから。そろそろ帰らねぇ?」
「……そうですね」
話を逸らす事を考えていた筈が、いつの間にかヒートアップしてしまっていたと。
視線を伏せ己の荷物の方へと向き直る奏だが、結果的にはオーライなので、実のところ問題は何も無い。
少々場が気まずくなってしまったようだが、研究所が抱える問題に比べれば所詮些末である。無駄に偉そうな長袖男には、それらを差し置いても正直イラっとするが。
しかし、筋トレをしているとはいえ所詮華奢な女の身。
加えて年齢として確かに若輩者である奏は、確かにこういう面倒くさい人間相手には飯島が昔言っていたように、“威厳”が必須要素なのかもしれないなんて、どうにもならない性別に胸中で溜め息を落とした。
しかし。
「年長者の同行はちょっと、無理なんすよ。同行してもらいたい気持ちはあるんすけど」
「……無理というのは、どういう意味だ」
「その、やはり経験を重ねている者ほど、困難な任務に立ち向かわなければ行けないので……どうしても、そうなっていくみたいっす」
「……それは、おかしいだろう」
何やら始まってしまった長袖男と河井の会話の雲行きの悪さに、奏はゴーグルの下で目を剥いた。
利点より欠点の方が遥かに多いサラシの事など考えている場合では無かったようで、さりげなく、そして速やかにまた長袖男の方へと向き直った奏は、すぐ近くにいた河井の様子に一瞬だけその視線をやる。
何か、理由を見つけなければならなかった。
けれど長袖男によって、矢継ぎ早に連ねられる言葉は、早すぎた。
「昔は、資源も人も常に最良のものへと取り替えて行く傾向があった。しかし今は違う、人は保持すべきものだろう。まぁ確かに自給率の問題もある、安易に人を抱え込む事が出来ないという部分は認める。だが……しかし君らの歳で古株というのは間違いなくおかしい、君の上司は何を考えている? ……奴め、何が目的なんだ」
「い、いや、楠さんが研究所の指揮とってる訳では無いんすけど……あと一応目的としては、あれに感染しない薬を」
「黒液の抗体を作ろうとしている、と言ったな」
それが“ゾンビ”だったのなら、まだ話は違っただろう。
汚泥でも黒い血でも、他に何とでも形容しようのあるそれを、民間人が迷い無く“黒液”と言い切る違和感。
河井の気配がピクリと揺れる。
奏の視界の中で、腕を組んだ男の伸ばされきった長袖に半分隠れたその手のひらが、時折跳ねるような動きをしている。
「つまりそれは、人体実験を行っているという事か」
「え。い、いえそんな非人道的なことは」
「何を言っている? 感染しないかどうかなど、実験しなければ分からない事だ。そもそもあれは――」
ミシリと。
軋んだ床は、湿気によって多少腐り始めていたのかもしれない。
あれは人以外の生き物には感染しないから、と。
恐らくそう続けようとした男との間合いを一瞬で詰めた奏は身体を反転させ、ガッチリと組まれた長袖の腕を捻り上げていた。
「ぃ――ッ!?」
「……貴方、随分寒そうですね」
貧乏揺すりを続ける足を払い、そのまま背後から男の上体を床へと引き倒せば、周囲から引き攣れた声が一斉に上がる。
真っ先に動いたのは、河井の足先。
それを視界の端で確認しつつ、片足を動員して長袖男の関節をきっちり固めた奏は、牽制の意味も込めて開いた右腕で己の武器を抜く。
「っ! ……離せ!」
「おい奏!?」
「なんでさっきから、そんなに震えているんですか」
周囲一切を無視し、奏は相手の後頭部へと静かにその目を伏せた。
「いやお前普通そんな事されたら誰だって」
「ただの貧乏揺すりだ、ッ……離せと言っている!」
「それもそれで行儀が悪いと思いますが……そんなに袖を伸ばすほど、今日は寒いですか?」
河井が至極真っ当に聞こえるツッコミを飛ばしたような気がしたが。
それをも無視し、奏は伸ばされ切った染みのある長袖に手をかける。
「そ、んな格好をしているお前らに言われなくな……やめろッ!」
「それもそうですね。では最後の質問ですが」
暴れる男の関節を固定したまま。
相手の長い袖をまくり上げた奏は器用に武器を持ち替え、現れた男の無骨な手首に開いた手のひらをそっと沿わせた。
「あなた何故、こんなに体温が低いんですか?」
指先から、肘へと。
手のひら全体を使い男の皮膚を擦るように引っ張れば、その手の甲の端に薄く細く、そして小さく開いた傷口。
そこから滲んだ微量の液体の色を奏が確認したと同時、職員室の窓全ては銃声の反響音によって震えた。