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ゾンビから生き残るための百のルール  作者:
第五章、応用編その2
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その82・時には諦めること







 反射によって立ち上がった奏は、眩暈によって並行感覚を崩す。

 けれど軽く傾きかけた身体は速やかにとられた掌によって持ち直し、彼女の視線は瞬きと同時にその向きを変えた。

 手を握られる感触。いつだって妙に威圧感を放ってくるその瞳。

 全てが何故だか懐かしくて、フードの陰になった鴉の目をまじまじと数秒見つめていた奏は、ただ無気力に下ろされていただけの己の左腕を、とりあえず持ち上げてみる。


「……。」


 そのまま相手の横っ面へと思いっきり振りぬいてみれば、案の定あっさりとかわされた。

 同時に右足で思いっきり相手の向こう脛を狙ってみたが、これまたあっさりとかわされ、結果的に縮まるだけとなった足と足の間の距離を、奏はぼんやりしたままに見下ろす。


「なんだ」

「い、いや……なんだっけ……」


 挨拶代わりといわんばかりに、何となく暴力を仕掛けてしまったが。

 自分の中にはそれ以外の何かがあったような気がして、奏は足元を見つめたままに、何処かにいってしまった言葉を探した。


「なんだ。……まさかお前、俺が少し寝ている隙に頭まで弱く」

「違うに決まってんでしょ! ……と、思うけど……」


 相手の言葉に対し噛み付いたのも、これまた反射。

 同時に上げてしまった視線を曖昧に彷徨わせた奏は、ぶり返してくる複雑な心境にもまれつつ、とりあえず混乱した頭を整理するよう己のこめかみに指を添えた。

 空は、相も変わらず雨を落とす曇天。

 直ぐ近くには、脳幹を撃ち抜かれた感染者。

 握られた右手と、首を傾げている目の前の相手の気配。


「……いや、とりあえず。とりあえず、あの」

「とりあえず、何だ」

「…………なんであんた、そんなピンピンしてんの?」

「何がだ」


 何がだ、じゃねーよ! と。

 またもや反射的に動きそうになる口をぐっと奥歯を噛む事によって堪え、奏は一つゆっくりと深呼吸をおこなってみる事にする。

 因みに先程から密かにおこなっている『右手解放計画』は毎度の如く成功しそうにない。


「さっきまで、その……半分死んでなかった?」

「死んでいた事などない」


 そもそもゾンビだもんな! なんて。

 “生ける屍”に対し「死んでなかった?」なんて意味の分からない問いかけをしてしまった自身に頭を痛めつつ、奏は改めて正確な言葉を選びなおした。


「いや、そうじゃなくて……体調悪そうだったというか、何しても起きなかったから、その」

「寝ていただけだ」

「起きなかったから……」


 ゴーグルのガラス上を雫が滑り落ちていく。

 ヘルメットを叩く雨と、繋がれた掌の隙間に入り込む水滴が煩わしくて、奏は知らずぐっとその眉間にしわを刻んでいた。


「なんであんた、起きなかったの」

「何故とは何だ」

「そのまんまの意味。体調悪かったんじゃ無いなら、なんで……なんで、起きなかったの」


 本当は体調が良いだの悪いだのは、どうでも良かった。

 何をしてもその瞼を開かなかった相手が今、何の事もない顔をして目の前に存在している。

 その事実が初めもたらしたのは衝撃で、けれどそれは徐々に奏の中で、燻るような感情へと変わり始めていた。


「何故起きなければならない」

「それは――っ」


 じりじりと、出所の分からない火種が燻り続けている感覚。

 何故、と問われれば言葉に詰まるが、奏自身の中で答えは既に明白だった。

 それを、口にするのが嫌なだけ。

 けれどそんな彼女の僅かばかりのプライドは、あまりにも脆く雨に溶ける。


「……弱いところ、見たくないから」

「何?」


 これではプライドではなく精々がオブラートだと。

 心中で舌打ちし、苦々しく吐き捨てた奏は、問い返す声にその視線を鋭く上げた。


「弱ってるところとか、見せないで。不安になるから」


 言えば何故か微かに震えた拳を、奏はぎゅっと握り締めた。

 鴉の被ったフードの端から、雨水がぽたり、ぽたりと伝い落ちている。

 耳を澄ましてみれば雨が激しくなってきている事が分かって、泥水を吸ったような雲の下、歪む己の表情に奏はぐっと眉根を寄せた。

 いつだってそうだ。

 無くすのは思ってもいない時。

 ついさっきまであったものが無くなる瞬間の気持ちなど、従容に、そして無神経に戻ってきたコイツには分からないだろうと、奏は鴉の頬を伝い落ちていく雨水を忌々しく睨みつける。

 酷い気分だった。

 今の自分を絞れば雨水より、黒液よりもっと薄汚れたものが溢れ出しそうで、奏はしかめっ面のままその視線を鴉から静かに逸らす。


「俺がいつ弱った」


 だが、次の瞬間。

 鴉の手のひらによって両側から顔を持ち上げられ、大きくその目を見開いた奏は、強制的に交差する羽目になった視線に短く息を呑んだ。


「いっ、い、何時ってついさっき正に弱ってたじゃ――って痛い痛い、ってか近い、近い!!」

「この目と耳は飾りか。眠っていただけだと何度言わせる」

「“何度”って2回目でしょうが! ってか感染者って普通寝ないから!! 奇行とってる時点でこっちは心配すんだか、ら……」


 尻すぼみになり、途切れた言葉。

 言い訳を吐き出すべく開かれっぱなしの奏の口からは、けれど何も出てこない。

 鴉が軽く小首を傾け、その金髪から雫が一つ、ぽたりと滴った。


「……心配?」


 鸚鵡返しにされた言葉に、奏の鼓動が一つ、大きく跳ねる。


「い、いや。それは言葉のアヤというか。別に心配とかじゃなくて」

「“不安”、だったか?」

「違う!! べ、別にそんなんじゃないし、ただ――」

「弱かった覚えなどないが。そうだな、お前がそういうのなら聞いてやらんでもない」

「聞けよ!!」


 先程とは別種の息苦しさが、居た堪れなさを連れてきて。

 その場から逃げ出したくなる奏だったが、顔面をガッツリ鴉に掴まれているため、その願いが叶う事は無い。 

 無理矢理に向き合わされている顔の先で、有り得ないほど近い相手の顔面は、彼女にとって全ての毒だった。


「聞いてやる。“不安”とは、なんだ」


 奏はくらりと眩暈を覚えた。

 相手が“不安”という言葉の意味を聞いているのか、それとも“何が不安”かを聞いているのかがちょっぴり分からなくなり、結果的に視線だけを思いっきり反らした奏の口から出たのは、あまりにも弱弱しく情けない舌打ち。

 鴉に対し完敗だと思うのは、もう何度目の事だろうかと。

 上がりっぱなしの脈拍を抑えるべく、無理矢理にゆったりとした呼吸を心がければ、次に奏の口から落ちるのは小さな音の無い溜息だった。元々激しい運動続きで酸欠気味だったというのに、とことん心臓と身体に悪い感染者様である。

 けれどそんな彼に、自分はもう敗北してしまっているんだと。

 やけにだるい腕をゆっくりと持ち上げた奏は、頬に当てられた鴉の手のひらに、自分の手のひらをそっと重ねる。


「……大事なものが、なくなるのが怖い」

「お前はそれが嫌なのか」

「嫌。でも、じぶんが死ぬのも嫌」


 あの時。

 目を開けなくなった鴉を放っておけなくて、その場にとどまった結果、感染者を呼び寄せた。

 窮地の中、校外に出たものによって助けられ、その者を助けに行こうと自分も学校の外へと出たら、死にかけた。

 結果として、助けに行ったはずの自分が、河井に助けられた。

 もう本当に馬鹿で、駄目駄目で、全てがから回っているとしか思えない自分自身が、奏はたまらなく嫌だった。


「お前はものを持ちすぎだ」

「……そうでもないと思う」


 抵抗をやめた事を、悟ったのか。

 拘束力の緩んだ鴉の手を、奏は軽く握り締める。


「お前自身、俺、お前の巣、そしてあろうことか“その他”……この辺りがお前の言うお前の“大事なもの”だろう。明らかに多い」

「……なんか変なのが一個入ってた気がするけど」

「やはり“その他”は不要か」

「いやお前……い、いや嘘です」


 鴉の手に力が込められる気配を察し、奏は慌てて言葉を正した。

 反射的に反発してしまったものの、そもそも鴉の言葉は正しい。

 悔しいので本人には言わないが、奏にとってもう鴉は必要な存在だった。必須かと言われれば多少の疑問も残るが、置いていけないと思うほどにはもう、情が移ってしまっている。

 そして、奏の情は河井にもバッチリ移っていた。

 何だかんだ言っても彼女が校外に出たのは、感染者に襲われているのが河井だと思ったからだ。

 結果的には、逆に助けられたのだが。


「……確かに河井さんとの付き合いは短いけどね。任務もまだ、2回しか一緒に行ったことないし」


 部隊が別だった古い町並みでの任務は除くとして。

 同じ人間と短期間に2回も任務に行くのは、奏にとって実は初めてだった。

 今回の任務について言うなら、鴉の事情を知っているのが河井だけだったので、彼以外に適任者がいなかったからというのもあるだろうが。


「人とあんまり関わってこなかったし。年頃もまぁ近いし。ってなるとやっぱり、どうしても情が移る部分も――って、え。な、何?」

「“その他”を随分と気に入っているようだな」

「い、いや、そういう話じゃなく」

「何が違う」

「と、とりあえず落ち着いて。落ち着いて聞いてくれたら私は嬉しいと思う」


 河井は鴉の事が嫌いらしいが、この調子からするとやはり、鴉も中々に河井の事が嫌いらしく。

 なんだか“子供じゃないんだから仲良くしろよ”と思わなくも無い奏だが、その思いは双方に一蹴にされそうなので、口には出さない事にする。

 特に今、普段の3倍ほど目を据わらせている鴉の前でなど、それこそ口が裂けても言ってはいけない言葉のような気がする奏である。


「いや、だからそんなんじゃなくて。確かに河井さんって何か正直だし、分かりやすいし。単純というか嘘をついて人を陥れたりしなさそうな感じがして好感が持てるというか……でも、そんなんじゃないっていうか」

「つまり、何だ」

「つまり……河井さんとは、絶対に分かり合えない部分があるから」


 分かりやすく言え、とばかりに無言の視線を突き刺してくる鴉から、奏は少しばかり視線を逸らした。

 河井は、確かに好感が持てる男だ。

 人付き合いに面倒臭さを感じる自分ですら、まともに付き合えるとても真っ当な人間だと奏は思う。

 けれど同時に、何をどう足掻いても埋まらない溝が、自分と彼の間にはあるのだという事もまた、奏は分かっていた。


「河井さんは多分、いつか私の大事なものを……私から、奪うと思う」


 やけに現実的な予感を抱きながら、奏は鴉の目をじっと見つめる。


「“その他”なんぞに奪われるのか」

「……河井さんだけに、って訳じゃないのかもしれないけどね」


 それでも素直に厭うことが出来ないくらいに、奏は河井と時間を過ごしすぎていた。

 加えて正当性で言えば、どちらが正しいのかなど明確で。

 その瞬間奏の脳裏を過ぎったのは、“崖に二人の人間がぶら下がっていて、どちらかしか助けられないのなら?”という使い古された馬鹿げた問いだった。

 一人は人間ではない上に崖から落ちても平然としていそうだが、それを差し置いても、奏の中の正解は決まっている。


(正解、か……)


 口に出せば目の前の感染者は、恐らく「くだらない」と一蹴にするだろう。

 それが分かって、ただ相手の顔を見つめるしか出来ない奏は、僅かに下がった眉尻の下に苦笑を浮べた。

 確かに鴉の言うとおりだった。

 自分はものを持ちすぎで、挙句の果てにどうやら持ったものを大切にしてしまう性格らしい、と。

 まだ何やら考えているらしく、少しずれた方向へと視線をやっている鴉の頬へと手を伸ばした奏は、そのまま軽く指に触れた皮膚を抓り上げてみる。


「……なんだ」

「……なんとなく」


 見下ろしてくる鴉の瞳に、最近良く見ていた眠気の色は無い。

 という事は楠が言っていたように薬の効果が切れたのか、それとも鴉自身の黒液が変質し、抗体を作り出したのか。

 なんとなく後者のような気がする奏は、それが意味するところからは目を背け、ただ少しだけの感傷をのせ鴉の頬を引っ張った。







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