その81・堅実な行動を心がけること
――あいつらに噛まれてから、ゾンビ化するまでの時間には個人差ってヤツがある。だけどな、まだそいつが“人間”だったとしても、噛まれてる人間はすぐに殺せ。
――そ、そりゃあ頭では分かってるんすけど。“助けて”とかいわれるとこう、ぶっちゃけ良心が……。
――このバカが。だから言ってんだろうが、命乞いされる前に殺せって。そんなんだからお前はモテねぇんだ。
それは関係ないんじゃないっすか、と。
過去に対し飛ばしたツッコミは当初の自分が発したものと同じで、河井は校門を背に心中で舌を打った。
単調な雨音というものは、どうにも懐かしい記憶を連れてくる。
重く伸し掛かるような曇り空の下、絶え間なく地を叩く雨の幕の向こう。
いま目の前にいる相手も相まい、その過去は彼の脳内で妙にくっきりと再生される。
(ってか奏の奴……っ)
奏から、“外に出るな”という忠告は受けていた。
けれどそれに対する、詳しい説明は何もされていなかった。
となればそんな曖昧な忠告を守る理由など無く、校内の見回りを済ませ外に出た河井はしかし、まさかこんな事になるとは、という苦々しい感情を今噛みしめる羽目になっている。
――当たると思えなかったら撃つなって言ってんだろ。お前今日、メシ抜きな。
――は!? い、いや、そりゃ物資に限りがあるって事くらい分かってますけど……いだっ!?
――人間相手なら無駄撃ちにも意味はある。威嚇になるからだ。あいつらに威嚇が通じると思ってんのかこのボケ頭は。
あいつら相手の無駄撃ちは只の隙だ、と。
いつだったか己の師から教わった言葉が頭の中を過ぎり、河井は銃把を握る掌から僅かに力を抜いた。
少々の雨に銃器がやられることはないが、念の為にと透明ビニールで包んでおいた拳銃は、違和感をもって彼の掌を焦らせる。
銃口の先にある感染者のあどけない表情に、嫌になるくらい跳ね上がる心臓の鼓動が酷く耳障りだ。
(くっそ……ッ!)
学校を囲む形で配置された茂みの中から出てきたのは、感染者だった。
小学校にあがるかどうか、といった年頃の、幼女の外見をした感染者だった。
感染者は歳をとらない。
成長の止まった幼女に、あの日あの時過去の記憶の中のものと全く同じ表情で見つめられ、これ以上早くなることは無いと思っていた鼓動がまた一つ大きく引き攣る感覚に、河井は思わず眉を顰めた。
対象との距離は近過ぎず遠過ぎず、真っ直ぐに相手の脳幹を見つめた銃口は、未だに沈黙を守ったままだ。
(急所外した瞬間、死ぬよな……ん、ってか、死ぬのか? 俺……)
何故、奏は外に出るなと言ったのか。
こいつが校外にいる事を、知っていたのか。
自分はこの感染者に出会いたかったのか、出会いたくなかったのか。
曇天の元、脳内を巡る数々の疑問符と記憶によって、霧散しようとする己の集中を河井は必死に手繰り寄せる。
それが途切れた瞬間こそが、拮抗が崩れ、己が終わる瞬間だという核心が確かにそこにはあった。
――……前にも言っただろうが。黒液が回りきるのには個人差がある。でもな、噛まれた人間は、もう“感染者”だ。さっさと殺せ、って。
――けど、だってあんた、は、まだ……うそ、だろ……?
――……だからお前は、バカなんだ。
過ぎる過去に銃口が微かに揺れる。
そもそも拳銃の先は完全な静止などしない。静止する時と言うのは、何か物に直接銃口を押し付けた時のみだ。
あの時、馬鹿だ、と笑いながら自身へと銃口を持ち上げた師は、一体どんな気持ちだったのか。
分かるはずも無い事、考えても無駄な事、良く考えれば現実逃避でしかない河井の思考回路は、雨音によって何処か遠くぼやけていく。
(馬鹿……バカ、か……そうかもな、俺はバカなんだろうな)
いつか尽きる弾薬を、消耗品でしかない銃器しか扱ってこなかった。
その銃器の大半も、動き回るには邪魔だと先程職員室に置いてきてしまった。
この時点で、間違いなく馬鹿であると。
手の内にあるたった一つの武器に意識を流した河井は、いつのまにかそれが違和感無く手に馴染むようになっていることに、ふと気がついた。
「……っ」
なぜか不意に笑みが零れて、それに対し河井はまた笑いたくなった。
ビニール一枚分の違和感も、一時期夢にまで出てきた感染者との、身構え無しの遭遇も。過去に揺らされる気持ちをも、積み重ねてきた己の経験は瑣末だと笑いたいらしい。
実際こんなグダグダな気持ちに振り回されている此方に対し、攻撃を仕掛けてこない感染者はまぁ間違いなく銃口に宿った経験を警戒していた。
それらを何となく理解しながら改めて相手を見据えた河井の頭は、ひどく今更に、今後を何となく予想し始めた。
この感染者の移動速度が、かなり速い事は過去の経験から分かっている。
足の変異から来るのであろうそれは、そもそもが小柄な身体で獲物を食いちぎるために進化した結果なのかもしれない。
それは、脅威だ。一発でも外せば感染お陀仏な未来が待っている。相手は初弾を交わすほどの脚力を持っている。
けれど、同時に。
その小柄な身体では、己の出す超スピードに対し、弾速以上の速度で瞬時にブレーキをかける事も出来ないだろう。
と、いうことは、どう言う事か。
即ち、先に動いた方が負けという事である。
(……って。整理したところで、状況変わんなくね?)
雨の中、感染者と見詰め合う。己の師を襲うだけ襲って去っていった感染者と。
良く考えればこれ以上無く胸糞悪い現状に、河井の眉間がしわを刻んだ。
出来る事なら今すぐにでも泥水の中に埋めたい顔を何故眺めていなければならないのかなんて、整理しだした結論に、河井の正直な感情がブツクサと文句を言う。
(感染者……感染者ってなんでこんな胸糞悪い奴ばっかなんだ。ってか俺の感染者運が悪ぃのか? あー、撃ちたい撃ちたい)
先程は焦燥。今度は苛立ちから引き金に力を込めたくなってしまう河井だが、そこは当然死にたくないので自制する。
けれど相手は師の仇だ。どれだけ口が悪かろうと、どれだけ飯を抜かれようと、時たまパシリとしか思えない扱いを受けようと、此処まで自分を育て上げてくれた、師の仇だ。
それを考えれば河井の眉は歪なさまに寄るが、ここで焦っても何にもならないという冷静な現実がその引き金を固定し続ける。
引き金を引きたい。引けない。見たくも無い顔を眺め続けるしかない。
それはもはや、苦行だった。
(なんで、こんな奴に……っ、なんで感染者なんかに……っ、まじ意味分かんねぇなんで奏は――)
“感染者”の存在を、許す事が出来るのか。
命を救われたとか何とか言っていたが、それ以上に奪われたものがあったのではないのか。
怒りと焦りをこじらせ、暴発気味の八つ当たりで河井は無表情な彼女を思う。
始めから、小憎たらしい女だと思ってはいた。
勝負での敗北に加え、相手が此方の顔すら覚えていなかったのがそれに拍車をかけたのだろうが、その一方、ふとしたとき彼女が見せる一面にどこか気持ちが揺れるのを感じた。
冷たいような乾いてるような、冷凍スルメイカのような彼女にも、温かみと柔らかさが存在する事を知った。
憎たらしいのか可愛いのか、非情なのか甘いのか、接するうちに生まれてきた色々がぐるぐると頭の中を回って、ちょっぴり訳がわからなくなった中でも、一つだけ間違いなく思うことがあった。
奏が鴉と手を繋いでいると、ムカつく。
(あー! もう、面倒くせぇ……!)
鴉が感染者だから気に食わないのか。鴉が奏の近くにいるのが気に食わないのか。
答えは恐らく両方で、また一段と募った苛立ちに、引き金に掛けっぱなしの河井の指先が震える。
狙撃銃を握る事もある以上、気が長い方である筈の彼の指先が、けれど衝動に負けるのは時間の問題のようだった。
「……っ、は!?」
しかし、その時現状は変化した。
今の今まで微動だにせず此方に敵意を向けてきていた感染者が、瞬く間に踵を返して行ったからだ。
ぽつん、と一人残された河井はマヌケな声をあげ、奇しくもそれはたった今まで頭の中に浮べていた女が先程もらした感想と全く同じだったが、そんな事は知らない河井は当然、瞬時に我に返り銃口の向きを変える。
けれど学校を囲む形で配置された木々の茂みの中に逃げ込んだ感染者の姿は、その小柄さゆえに、もう彼の方から正確に位置確認する事が出来なくなっている。
「ちょ……え、は……はあ!?」
思わず漏らした声は、誰にも届かない。
そんな事は当然分かっていたが、それでも文句を言わずにはいられなかった河井は、しかし直ぐに我に返ってその後を追おうと一歩を踏み出す。
感染者が何を思って踵を返したのかは分からない。けれど感染者を突き動かすのは、食欲だ。
それを考えると感染者の向かった先に“誰か”が居るのは明白で、速やかに後を追わねばならない事は明白で、その一方、“追ったところで先程までの状況がまたぶり返すだけなのではないのか”という危惧が、河井の足を一瞬止めさせる。
「……。」
悩んだのは、一瞬。
少しばかり変えた目的地に向け、全速力で駆け出した河井の靴が水溜りを盛大に跳ねさせた。
良く考えれば、河井ではなかったのかも知れない。
ただ穴熊を決め込んでいた民間人Aが、今更に外に出ようと考えただけなのかも知れない。
けれどもそれでも結局、誰かが危険な状態にあるというのは明白で、ぜーぜーと息をあげながら入ってきたのとは違う校門へと辿り着いた奏は、今本気で胸のサラシの存在を恨んだ。
(く、っそ……息、が……ッ!!)
そもそもそれを変装として巻く事にしたのは自分自身なのだが、楠ももう少し戦闘向けの変装案を出してくれたら良かったのに、なんて結果を考えず行動した自分を棚に上げてみたりする彼女である。
それでも自分が校外に出た以上、あの感染者はそう間をおかず現れることだろうと。
自分の“餌としての魅力”とやらに複雑ながらに期待を託していた奏は、木々が雨以外に揺れる微かな音をその耳で捉えた。
(え?! って、は、早!!)
剪定者のいない中、好き放題に伸びている茂みから速やかに距離をとれば、そこからひょっこりと現れた幼女の顔に奏は内心驚愕した。感染者の鼻のよさは鴉によって散々思い知らされていたが、それにしても早すぎる感染者の到着である。
成程、これでは確かに、この学校からの逃走は不可能であると。
逃走に失敗しゾンビと化していった民間人の姿に同情を抱きつつ、沸いた唾を無理矢理に飲み込みしっかりと相手に向き直った奏は、既にその武器を抜いていた。
抜いてはいたが、この状況でこの感染者を仕留められるかは少々疑問だった。
(とりあえずは防御。んで、息を整えて……反撃、かな)
それでも先程のように四方を壁で囲まれた状況で無い以上、一応此方にも部はあると奏は踏んでいる。
「!」
対し、感染者の算段はいかほどのものだったのか。
先程のように、せめて数秒はあるだろうと踏んでいた間を、無視して突っ込んできた感染者の身を寸でのところでかわせば、奏の背には冷たい汗が伝う。
やはり、早い。
けれどそれ以上に、間をおかず突っ込んできた感染者の行動が不可解で、奏の視線は僅かな動揺に揺れた。初撃とは、何よりも慎重に行わねばならない行為だからだ。
初撃とは、先手。決まればそれで終わりだが、外せば大きな隙となる行為。
それをこの感染者は本能で理解していたからこそ、先程の階段では数秒の間があったのだと奏は理解している。
「っく……!!」
だというのに、今は、何なのか。
寸分の迷いも無く突っ込んできた感染者をかわし、体勢を立て直せば、立て直した矢先にまた突っ込んで来られ。
此方が疲れている事を理解しているのか、それにしてもどうにも感染者から先程とは違った雰囲気を感じとり、前後に振り回されながらも奏はその眉根を寄せる。
間違いなく、感染者が纏っているのは焦燥だった。
(まさか……空腹?)
確かに、それならばこの猛攻にも得心がいくと。
納得すると同時に、奏はその奥歯を強く噛む。空腹を覚えた感染者ほど、手強いものは無い。
相手が特殊型となれば尚更で、加えてそのスピードに振り回されているうちに、くらくらと眩暈を覚え始めた頭に奏は戦慄する。
避けて、向き直って、避けて、向き直って。
それをぐるぐると続けている間に、単純に目が回り始めたのである。
(や、ば……)
もともと全力疾走の直後で息が切れていたのもあって、奏の視界が回り始めるのは早い。
まさかこんな単純な手にやられるなど思ってもおらず、相手も意識してその作戦に乗り出したのではないだろうが、効果は絶大だ。
「……。」
眩暈。息切れ。
加えて若干の吐き気が込み上げ始めた奏は、次の一撃に全てをかけることを決める。
もう此処までくれば吐いてしまえば多少の目くらましになるかも、とも思ったが、感染者相手にその効果は無さそうで。
ならば身体が限界を迎える前にけりをつけるべく、感染者相手の近距離戦において“カウンター”というこれ以上無く危険な策を実行する事に決めた奏は、今唯一の策の成功のイメージを描くと共に、ぐっとその武器を握る掌に力を込めた。
地を蹴る感染者の、微妙な角度の差異。
向き直った先の、一瞬の判断力。
避けに回らないことを決めた以上、0・1秒の迷いは失敗に直結する。
(来い――っ!!)
がぱりと開かれた感染者の口が、眼前に迫る。
伸ばした左腕で相手の横っ面を思い切り払った奏は、対象の勢いが思った以上に落ちなかった事にぐっと喉から押しつぶしたような呻きを漏らした。
反射的に追加で振るわれた刃は相手の歯の隙間を通り抜け、口角が黒い飛沫を飛ばした。
けれど、それでも感染者の勢いはまだ殺しきれない。
怯むことなく突っ込んでくる感染者の黄ばんだ歯から上体を無理矢理に逃がした奏は、体勢を崩せば全てが終わる事を当然、理解していた。
無理に逸らした体制を、無理に持ち直させる。
そんな間が果たしてあるのかは、疑問だった。
「――ッ!!」
電流が走るかのように震えたのは鼓膜。
真っ白になったのは頭の中。
耳から脳に、そして思考回路全てを強引に停止させたその反響が、何なのか。
直ぐにはわからず、奏は開き続けていた視界の中で、感染者の身体がゆっくりと傾いていく様を見送った。
(……あ。これ、は……)
感染者の後頭部に空いた穴から流出する黒液。
それが雨水に同化していく様を呆然と眺めればクタリと膝から力が抜け、水溜りの中に腰を落とした奏は覚束ない視線を無意識に上げた。
――狙撃。
その単語が出てくるまでにしばらくの時間がかかり、もう誰もいない開いた窓を奏は数秒見つめ続ける。
(河井……さん)
そもそも自分は彼を助けるために校外に出たはずなのに、と。
ぼんやりと思う頭は気が抜けたままで、奏はしばしの間、ただ雨が地面を打つ音を聞いていた。
言い訳の許されない、自らが取った行動の結果によって、死に直面するのは随分と久しぶりの事だった。
もし、河井が間に合っていなかったら。
そんな考えるまでも無い結果は目の前に転がっているようで、奏の全身が今更に泡立つ。
短く繰り返した呼吸はやはりサラシによって圧迫されたまま。
どっと噴出す汗は衣類の下を伝い落ちていく。
極限の状態からの解放がもたらす虚無感に、思考回路が半ば麻痺していた奏は、何かが水溜りを踏み潰す音に対し、普段の速度で反応が出来なかった。
「無様だな」
はっと振り返れば、奏の視線は衣服の裾が僅かに揺れる様を見とめる。
水溜りに若干漬かったそのズボンの裾が、黒液の混ざった水を吸って変色している。
「“その他”に助けられるとは。体型が崩れれば身体も鈍るのか」
見上げれば、曇天には不釣合いな色彩。
その金の下で細められている視線に、己の膝にまだ力が残っていたことを奏は反射の実行によって知る。