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ゾンビから生き残るための百のルール  作者:
第五章、応用編その2
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その79・その場を凌ぐこと







 我ながら、ベタだ。

 そんな思いが常時頭の中を巡り巡っていたが、今は兎も角急がねばならず、奏は4階端の教室の隅で一人奮闘していた。

 子供なら余裕、大人ならギリギリ。

 そんな掃除用具入れのスペースは、可能な限り広げられていたがやはり、押し込めようとしているものが、もの。

 すんなり中に入るわけも無く、ぎゅむぎゅむと奏がロッカーを揺らすたび、外側に出された箒やらなんやらが、ガタガタと危なっかし気に揺れる。


(こ、このちくしょう……!)


 最も近い教室を選んだとはいえ。

 それを教室まで運んで来た時点で奏はかなりの体力を消耗しており、軽くしびれる腕は、焦りと相まって彼女の思うように動いてくれない。

 それでも、孤軍奮闘。

 崩れ落ちてこようとするそれを肩で支えつつ、勢い良くロッカーの扉を閉じた奏は、前もって準備しておいたロープを慎重にロッカーへとかけていく。

 そうする事により、手を離しても勝手にロッカーの扉が開いてくる事は無くなるわけだ。

 しかし。


(あ、やば)


 ロッカーの隙間からはみ出た、服の一部。

 それに気が付きロープを縛る手をピタリと止めたのと、奏の耳が銃声を捉えたのは、ほぼ同時の事だった。


「っ!?」


 マズい。

 反射的に出かけた吃驚の声を飲み込み、ロープを投げ出した奏は瞬時にロッカーから踵を返す。

 その走り、俊足且つ無音。

 並んだ机や椅子やらのたった一つにすら身体を擦らせる事をせず、扉の前にまで到達した奏は、緩やかに教室入り口のドアをあけてみせた。


「っ! って、お前か……」

「はい……私、です、が……」


 さも、先程から扉の前にいました、奥で何か?してるわけないじゃないですか、とでも言わんばかりに。

 扉を開けてみればやはり、目の前に居たのは河井で、その少しばかり見開かれた目と銃口を見上げた奏は直後、思いっきり顔を顰めた。

 なるべく己とロッカーとの関連性を隠すべく行動をとった結果、急激な動作からくる目眩に少々目の前がグラついてしまったからである。

 そして河井の方はそれを、どうとったのか。


「……? な、なんだ。なんかあった?」

「まったく、何も、ありません……っけど」

「いやいやいや。息あがり過ぎだろ」

「サラシ、を……巻いているので。どうして、も」

「え、そういう問題――」


 やはり、職員室から出て来たか。

 予想通り、そしてタイミングとしてもそこまで悪くない河井の登場に、奏は息を整えながらほっと胸を撫で下ろした。欲を言うなら、彼にはもう少し遅く登場して頂きたかったが。

 なんにしても今だけは銃に、そして河井の足下で転がっているゾンビに感謝である。

 銃声が鳴らなかったら、もう少し河井の到着が早ければ、恐らく最悪のシーンを目撃されていた事だろう――なんて。

 改めて考えれば、背に冷や汗が伝ったが。それでも兎も角、危機一髪間に合ったロッカーの中のものを隠すべく、一歩進み出て教室の扉を閉めた奏は、改めて見上げた先からの河井の視線に、きょとんと一つ瞬きをした。


「……あいつは?」


 ひいっ、と。

 こういった場面で引き攣った声を上げる事が出来るのは、まだまだ余裕のある者だけだと奏は思う。

 実際、奏は見事なまでに硬直し、けれど幸い、その無表情は普段通りのもので。

 数秒無言のまま河井と見つめ合ってしまったものの、奏は特に胸中の動揺を表に出さないままに、なんとか言葉を口から落とす事に成功した。


「なんか個人的に用事があるそうですよ」

「……。」

「……し、知りませんよ! どっか行ったんで……ま、まぁそのうち戻ってくると思うんで」


 とりあえず、先に行こうと。

 教室、そして屋上とは反対側の廊下に向かって進み始めた奏はしかし、数歩進んだ後に直ぐさま元の位置へと逆戻りする羽目になる。

 河井が後を追って来なかったからだ。


「……おまえさ。何か、隠してねぇ?」


 教室の前に佇んだまま。

 腕を組み、しかめっ面でじとーっと見下ろしてくる河井に、奏は高速で瞬きを繰り返した。


「いや、ちょっと前から聞きてぇとは思ってたんだけど――」

「な、何かって……」


 今で言うなら正に、背にした教室のロッカーの中の男。

 そして屋上に続く階段の上には、まだ目を覚まさない鴉。

 色々とマズいものを隠している奏は心当たりが有りすぎて、流石に口籠るしかなくなってしまう。

 しかしこういった場合は、即座に否定を吐くのも不自然だろう、だなんて。

 結局、どういった行動を取るのが正解なのか分からず、とりあえず視線だけは彷徨わせないようにと 河井の顔を見つめ続ける奏は、己の心臓の音が外に漏れだしているような気がしてならない。


「なんつーか……いや、ただ単にお前が変なだけかも知んねぇけど」

「は?」

「やっぱな。どう考えてもお前、変」


 しかし。

 見下ろしてくる河井の言わんとしている事が少々分からなくなり、奏は胸中で首を傾げた。

 自分が今現在“物理的に”隠しているものと、彼が追求しようとしているものは、もしや別物なのだろうかと。


「さっきお前、あいつに対して“そのうち戻ってくると思うんで”って言ったよな?」

「……? 言いましたけど」

「戻って来て欲しいってことか? あの感染者に?」


 感染者、と言ったのは多分わざとだろう。

 その部分を強調してみせた河井の声の音に、奏は己の失言を悟る。

 そのうち戻ってくる、なんて。

 まるで“隣に在るのが当然”かのようなそれは、間違っても“感染者”に対し向けるべきものではない。

 それを理解してしまえば、少々時差はあったものの、奏は河井のしかめっ面にも納得がいった。


「……前々から思ってたけど。お前、鴉に対して甘くねぇ? そりゃあどこも腐ってねぇし、言葉だって通じる。でもな、感染者だぞ?」

「それ、は……そうですけど。その」

「腐ってねぇって事は、餌に困らない強さってことだろ? 言葉が通じるってのは、進化してるってことだろ? 普通何よりめんどくせぇ相手じゃねぇか。どっか行って戻って来ないんだったら……まぁ一時凌ぎっちゃ一時凌ぎにしても、そっちの方が良いんじゃねぇの?」


 そっちの方が良いに決まっている、何もおかしくはない。

 即座に肯定をはじき出した奏の脳内に過ぎったのは、フラッシュバック、というものに近かった。


 初めて河井と共に、任務に向かったあの日。河井が初めて鴉と出会ったあの日。

 巨大感染者の肉片を求め向かった洞窟の中で、手を離し不意に駆け出した鴉に対して、“これってチャンス?”と零したあの時から、彼は何一つ変わっていない。


「でも、じゃあ……河井さんは」


 詰まった言葉というのは、排水溝と同じだ。

 流れ出すまでが大変で、一度隙間が出来れば渦を巻き驚く程の勢いで流れ出す。


「なんだよ」

「河井さんは、あいつに対して本当に何も思わないんですか? あいつもその辺のゾンビと同じで、“只の感染者”なんですか?」

「当たり前だろ」


 無表情な河井の瞬きに、奏の喉がびくりと詰まる。

 彼の事を冷たいと感じるのは初めてで、その根本的部分に自分自身の変化が有るのだという事に、奏は気付かない。

 やがて静かに息のような溜め息が落とされるまで、彼女は自分が瞬きを忘れている事にすら気が付かなかった。


「――って言えたら良いけどな。まぁお前の言いたい事も分からんでもねぇよ」

「……。」

「話せるし、個性もある。見た目も人間そのまんま……って来たらそりゃ、その辺のゾンビと一緒だとは思えねぇ。情だって多少は――いや、あいつに湧かせる情なんぞ無いにしても、だ」


 ゴーグル越しの河井の瞳が、一瞬躊躇いがちに伏せられる。


「でもな、結局は感染者。それは変わんねぇだろ? いつかは始末する時が来んだよ」


 知っていた。

 河井が次に吐く言葉なんて簡単に予測がついていて、けれど実際に鼓膜をふるわせたそれに、奏の眉根が微かに震えた。


「……で。あいつ、どこ?」


 河井はきっと、何処かしら気付いているのだろう。

 繰り返されていた、鴉の“眠る”という感染者としての異常行動。

 執拗に繋がれていた奏が今、一人で此処にいる理由。


「……知りま、せん」

「……奏」

「知りません」


 繰り返せば言葉に迷いは消える。

 鴉の居場所を教えればきっと、河井は“いつか”を“今”にするのだろうと奏はどこかで確信していた。

 彼は感染者に対し、容赦がない。感染した人間にすら、容赦がない。

 それはとても普通の事で、同時に奏の視線をぽとりと床に落とさせるものでもあった。


「……お前、変だよな。なんで? 感染者だぞ?」

「……河井さんだって、その辺りで会った動物に片っ端から変な名前つけていってるじゃないですか」

「変な……? じゃなかった、動物と感染者は違ぇだろ。犬猫ヤギ可愛がるのとは話が違ぇんだよ。……何をどう転んだって俺はあいつを仲間だなんて思えねぇし、当然、もちろん、癒しになんぞなるわけがねぇ。お前は、お前も、そう思ってこれまでやってきたんじゃねぇの?」

「私、は……」


 ぐるぐる回る思考回路。

 酸欠とはまた違った重苦しい目眩に、奏の手が軽くこめかみへと添えられる。

 河井の言葉はどこまでも正論で、正しくて、普通で。

 感染者を仲間だと思った事はあるか。感染者を癒しだと思った事はあるか。

 そんな“正解”の決まりきった問いかけに――奏の手のひらが、ぎゅっと握り拳を作った。


「やっぱどう考えてもお前、甘いんだよ。情が湧いたにしても、次元が違う。普通は“感染者”って分かった時点で、埋まりようのない距離が出来るんじゃねぇの? 戻って来て欲しいとか、ましてや庇おうとか絶対思わねぇ。死んでくれたらラッキーってのが“普通”だってのに……お前は全部分かった上で」

「普通、普通うるさいんですよ!!」


 溢れ出したのか。

 それとも底が抜けたのか、破損した自己抑制の穴は感情の濁流によって広がる。

 河井の目が見事なまでにまん丸くなる様を睨み上げた奏の中に、今や流れ出る言葉をせき止めるものなど何も無い。


「良いじゃないですか、別に私が何に情を移したって! 人それぞれですよ、ただの個性じゃないですか!」

「こ、個性って……いや確かにそうかも知んねぇけど、それが意味分かんねぇって言ってんだよ! お前だって、この10年生きて来てんだろ!? あいつらに滅茶苦茶にされたもんだってあるだろ!?」


 河井はきっと、10年前の話をしているのだろう。

 否、10年前から今にまで続いている、灰色の現実の話だ。


「その上で、なんであいつを受け入れられんの!? 特別待遇だろうがな、あいつらが一匹でも生き残ってたら、また同じ事が繰り返されんだよ! それとも、何、前になんか“感染者に助けられた”とか何とか言ってたけど、それも関係してんのか!?」

「そうですよ!!」


 瞬きと共にまた見開かれた河井の瞳に、奏は短く息を飲んだ。

 口が滑った、というのは明らかで。

 しかし今更にそれを取り繕う説明など思いつかず、刺すような視線を一瞬そらした奏は、ぐっとその奥歯を噛み締める。


「……。」

「……っ、そうですよ。関係してますよ。あの時、私は――」


 流れ出したかと思えば、詰まる。

 詰まったかと思えば、流れ出す。

 欠陥品としか思えないに自己制御能力に嫌悪しながらも、後には引けず無理矢理に形象化した言葉の苦々しさに、奏は顔を顰めた。


「大切なものを、奪われたばっかりだったんです。馬鹿みたいですけど、私にはもうその一つしか残ってなかったんです。それが無くなって、もうなんで自分だけ此処にいるのかも分からなくて、もうこのまま別にゾンビに食べられても別に良いかなって……」


 昔話なんて、碌なもんじゃない。

 最悪な気分は言葉にすることによって、いっそう酷くなる。

 それでも何故、そんな溜まった泥土のような思いを吐き出すのか。

 ぶっちゃけた話、人の言葉なんて最悪無視しても良いものだというのに、言葉を返している時点で、その理由は明白だった。


「でも、知ってますか河井さん。知ってますよね? “死んでも良い”なんて一瞬だけなんです、本当に死にそうになった時って、“死にたくない”って思うんです。そんな時助けてくれたのが――っ」


 人間ではなかった。

 そんな自分自身の体験が、非常に稀有な事例だという事くらい、奏は分かっている。

 自分自身が体験した事でなければ、理解も共感もされないという事も分かっていた。

 それでも河井に言葉を返したのは希望の残滓のようなもので、可能ならば奏は今此処から即座に逃げ出したかった。

 感情的になってしまった自覚は十二分にあるし、しかし何よりも“でもな、”という言葉を河井の口からは聞きたくなかった。


「……お前さ」

「……なんですか」

「お前さ、今はそれでも良いかもしんねぇけど……いつかは」


 カシカシと鼓膜に届く音は、恐らく河井が頭か何かを掻いている音なのだろう。


「いつかは、来るからな?」


 落ちた河井の言葉に、奏は息を殺した。

 知っている。

 自分にとっての特別が、他人にとってもそうとは限らないなんて。

 とうの昔に知っている、と。

 目を閉じれば浮かんでくる光景に、奏はぐっと唇を噛んだ。

 灰色のグラウンドに残された、大切だったものの燃え滓。

 “なんでそんなに怒っているの?”とでも言いたげに、首を傾げる男の姿。

 いつだって自分の特別は、他者には理解されない。


(それでも……見逃して、くれたのか)


 目を開ければ、遠ざかっていく河井の後ろ姿。

 きっと彼は、納得なんてしていないだろう。

 それでも強力な感染者を始末する機会に、今だけは目をつむってくれた彼に、言葉をかけるべく奏は静かに息を吸い込んだ。








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