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ゾンビから生き残るための百のルール  作者:
第五章、応用編その2
84/109

その78・ものは持ちすぎないこと








 時は少しばかり遡る。

 4階の廊下を抜けた先にある階段を上りきった奏は、いかにも頑丈で重たそうな扉の前で、伏せた睫毛に纏わりつくような湿気を感じていた。

 しかし実際のところ今の彼女には、普段より跳ね上がっている心臓が落ち着くのを待つような時間などない。

 先程出会った先行部隊の生き残りを職員室に合流させた以上、留守番に焦れた河井が“今がチャンス!”とばかりに何時飛び出してきてもおかしくないからだ。


(まぁ、これで長袖男から引き離せるだろう……ってぶんには良いけど)


 急がねばならない。

 余計な入れ知恵をされないぶん、今から自分が行おうとしている事を目撃される可能性がある、と。


「……鴉」


 伏せていた瞼を上げた奏は、繋がれた手の先を意識してみる。

 しかし、数秒待ってみても返ってこない返答に。


「鴉?」

「……なんだ」


 湿気を漂わせてくる扉から右手の先へと、訝しみの視線と共に顔を向けてみた奏は、フードの影から薄目で見下ろされ、軽くギョッとした。

 何処がどの様に違うのか、というのは本当に感覚的なものでしかないが、鴉のそれが機嫌が悪いときの表情であると、奏の過去の経験が自身に警告を発したからだ。


「え、えー……なんか、機嫌悪い?」

「悪くない」

「そ、そう……? あ、ああ。じゃなかった。ち、ちょっとお願いがあるんだけど……」

「なんだ」


 悪くない、とは言われても。

 明らかに不機嫌そうな鴉の普段より僅かに低い声を前に、奏はちょっぴり身構えてしまう。

 しかし言い出した手前、乗り掛かってしまった船。

 鴉の視線の妙な重圧から、途中で言葉を止める事が出来ないと悟った奏は、視線をふよふよと泳がせながら無駄に明るい声を出してみせた。


「そ、その、良かったら今からちょっとの間だけで良いから手を離して欲しいなー……なんて」


 スルリと。

 手の内から消失した手のひらの感覚に、奏の視線の動きが止まる。

 代わりとばかりに右手に纏わりついてきた空気の中で、確かに残っている感触はけれど同時に酷く希薄なもので。

 半ば放心したように己の右手へと目を移した奏は、やがてゆっくりとその視線を持ち上げた。


「なんだ。まだ何かあるのか」

「いや……離してくれると思わなかったから、意外で」

「お前は……もう、逃げないだろう」


 呟くように言って近くの壁を背に座り込んだ鴉に、奏の眉が先程とはまた別種の衝撃に跳ね上がった。

 けれどぱくぱくと開閉を繰り返す口から言葉は何も出てこず、見開いた瞳から全ての感情が伝われば良いのだが、もう既に鴉は明後日の方向を向いており。


「もっ、もともとアンタから逃げ切れるなんて思ってないし!」


 反射的に沸いた羞恥に怒りが混じり始めた頃、己の口から飛び出したその言葉に奏は心中でガックリと膝を落とした。

 何を自分は、声高らかに敗北宣言を行っているのか。

 そんな思いに一気に半目と化す奏だったが、一方視線を戻してきた鴉の瞳は意表をつかれたかのように丸く。


「……そうだな、それもそうだが」

「は!?」

「お前に逃げられると楽しいが、お前が逃げないと嬉しい」

「あ、アンタの嬉しさなんぞ知るか!!」


 小さく漏れた吐息から鴉が軽く笑ったのだという事を悟り、奏はその背中を階段から蹴り落としたい衝動に駆られた。

 しかし、鴉が背にしている壁は湿気を漏らしてくる扉の直ぐ隣。

 位置関係的に階段から蹴り落とす事は不可能で、ならばその脳天に踵落としを――などと考え始めていた奏はそこでふと、僅かな違和感に振り上げかけていた足を止めた。

 そもそも、「もう逃げないだろう」というのは何なのか。

 まさか鴉は、“非常食”に逃げられる事を心配していたとでも言うのか。


(“逃げられると面倒”とかならまだしも、心配? ――弱気? いやいやいや、ありえない、こいつに限って……寧ろ)


 弱気になっているのは、さっさと扉に手をかけず、こんな所でグズグズやっている自分の方なのではないかと。

 思考の辿った道のりからなんだか不快な事に気がついてしまった奏は、一瞬思いっきり顔を顰めた後に、改めて重量感のある扉の方へと向き直った。

 そうして良く考えてみれば、今から対峙するのは別に鴉に右手を解放されなくとも十分に対処できる相手であるような気もしたが。

 余裕をぶっこいた者の末路は得てして悲しいもののような気がするので、万全の何が悪いのだと、奏は一つだけ大きく深呼吸をする。


「行ってこい。待っていてやる」

「っ、言われなくても!」


 顔面のゴーグルを押し上げ、今度こそガッツリ扉に手をかけた奏は、最後に鴉をちらっとだけ視界の端にして、屋上への扉を開け放った。

 途端に一層濃くなる雨の臭い。

 前回の任務の際、“個人のにおいを辿る”という鴉の能力を身をもって体験していた奏は、別に彼の言葉を疑っていたわけではない。

 ただ本当になんとなく、最後に壁を背に座り込んでいる姿を瞳に宿し、開けた視界の先に視線をやった奏は速やかに扉の横合いへと身を躍らせた。


(来るか)


 広がる灰色の世界。

 張り巡らされているフェンスの近く、何処かくすんだ後姿が差している透明のビニール傘は、遠目にも錆びの茶けた色が目立つ。

 振り返る相手。

 その視線上に決して入らないよう身体を側面移動させていた奏は、しかし一つだけ予想を外す事になる。


 臭いによる鴉の個人認識能力は確かなものだった。

 振り返った相手の顔は、彼女の求めていたものだった。

 ぼろぼろのビニール傘を差した相手の手には、予想通り小型の拳銃が握られていた。


「……。」

「……。」


「……なんで、撃たなかったんですか」


 けれどそれが発砲されなかったという事実に、奏は怪訝に眉根を寄せる。

 そんな彼女の呟きが聞こえているのか、いないのか。

 しばし無言だった男は乱雑に伸びた油っぽい髪を揺らし、フェンスの向こう側へとその顔を向ける。


「……風の向きを、ね。見てたんですけど」

「……?」

「埒が明かないし、あれは、鼻が良いみたいだから。でもそういう問題じゃあ、無かったみたいで」


 未だ扉近くの奏の位置からは、男の見る風景を正確に把握する事は出来ない。

 出来ないが、屋上という場所の見晴らしのよさを考えれば男が“何を観察していたのか”にすぐさま思い当たり、奏はその眉を不快に歪めた。

 相変わらずこの男は、仲間を仲間と思っていないようである。


「それで。助けに、来てくれたのかな?」


 フェンス向こうにやっていた視線を、戻してきたかと思えば。

 なんとも気軽な調子で言葉を落としてくる男に、奏はふと思い当たるものがあった。

 今現在、自分が纏っているのは誰が見ても一目に『何処かの部隊の者』である事が分かる服装。

 だからこそ、男はその銃を発砲しなかったのだろうと。

 唯一のチャンスとも言えた瞬間を逃した相手へと、一歩を進めた奏はその腰から包丁を抜く。


「そう思いますか? 私があなたを、助けに来たと?」

「……ああなんだ、君、ですか」


 今更に顰められた男の顔に、奏はたった今相手が此方を認識したのだという事を悟った。

 包丁で認知される、というのは正直どうかと思う部分もあったが。

 そういえばサラシも巻いてたのだと言う事を思い出し、やはり些細な変装でも十二分な効果が得られるのだと、奏は今だけは楠に対し素直に感謝しておくことにした。


「君……そんな感じ、だった?」

「たった今、こんな変装でも効果はあるんだなと思っていたところです」

「……もしかして、僕を、殺す?」

「さぁ。どうでしょうね」

「君に殺されるよりも、まだ、あれに食べられる方が、納得出来るんだけどな」


 最後の言葉には返事をせず、そういえば“生きてる”事を疑いもしなかったななんて、今更に考えながらも奏は慎重に一歩ずつを進めた。

 屋上には、二人きり。男の全身はしっかりと視界に納まっており、ついでに今の奏の思考回路には、『雨の日は銃の精度が落ちる』なんて、先日河井が零していた愚痴を思い出す余裕すらある。

 一方、これと言った動きを見せない男は、何を考えているのか。


「あれ、そんなに大事な、犬だったんだね」

「……そうですね」

「でも僕がしたのは、ただの、器物破損なんだけど」


 また一つ歩を進めれば。

 男の口から零れた言葉に、奏は思わず軽く噴出した。


「法律ですか。随分懐かしいものを持ち出してきましたね」

「その方が、君にも分かりやすいかな、と思ったから」

「分かってないのはあなたですよ」


 近づく距離。

 ごく一部にしか注意を向けられなかった以前とは違い、現在の奏の視野は広い。

 数メートル先にある男の表情は勿論、微かな筋肉の動きですら見逃す気のしない集中の中で、彼女は瞬きで弾いた雨の向こう側、フェンス越しに広がる景色をおぼろげに見ていた。

 灰色の雲。灰色の地面。

 雨に濡れ、いつもよりくっきりと影を落とした灰色の世界に、奏の瞼の裏で過去が点滅する。


「……道には、同級生の死体が歩いていました。駄菓子屋のおばあちゃんは、人に踏まれて死んでいました。いつもの道がどんどん“いつも”じゃなくなっていって――」


 進めた足先に水滴が跳ねる感覚に、奏はまるで当初に戻ったかの様な感覚に一瞬陥る。

 人の記憶など不確かなものである筈なのに、思い出す衝撃の色は酷く鮮やかだ。


「そんな中でも変わらないのはあの子だけだった。あの子だけが一緒にいてくれたんです。……それをあなたは、奪った」

「君ね、そう言うけどね。こんなことになった以上、無くならないものなんて無いと思いますよ」

「そうですね。だからもう大切なものなんて、持つべきじゃないと思ってます」


 灰色に戻った世界の中で、言い返しながらも。

 脳裏に浮かんでしまったいくつかの情景に、奏は僅かに苦笑した。

 一度、全てをなくした筈なのに。

 いつの間にやら自分の周りには、命は当然、いつ無くなるか分からないものがまたもや溢れ返っていて、それは十年前以上に酷くなっているような気がして。

 けれどそれら全てを分かった上で、奏は真っすぐに男を視線で射抜いた。

 失う、なんて繰り返すものではない。

 社会が、知っているものが、大切な存在が消え失せて、何処を歩いているのかも分からないような感覚を味わうのは、もう二度とごめんだった。


「だからきっと、なくさない為に。私は強くなったんです」


 強く、踏み込んだ右足。

 奏の脳裏に不意に蘇ったのは、『ただ生きているだけなんて嫌だ』と言ったあの女の声。

 それに今、確かに感情で納得しながら。

 雨水がすれる音を聞く頃には蹴り出された左足によって、既に奏と対象との距離は詰まっている。

 そんな、幾度と無く繰り返してきた踏み込みの中。

 奏は見開かれていく男の瞳をどこかスローモーションに捕らえながらも、拳銃を握っている相手の手首を固定し、そのまま肘関節を決めガッチリ下へと絞ってやる。


「っぐ……!」


 面白いほど簡単に、地面を打つ男の膝。

 最後に滑り落ちるビニール傘を跳ね除けた奏は、さらけ出された男の後頭部をその光の無い視線で見下ろした。

 そうして、しっくりと、手に馴染んだ包丁を振りかぶり。

 相手の首の側面へと一刀を入れれば、無様に崩れ落ちた男の身体の下で雨水がベチャリと跳ねる音がした。


「……。」


 一瞬消えていた雨の音が、戻ってくる。

 数秒、ぼんやりと倒れた男の姿を眺めていた奏は、思い出したかのように倒れた男の傍らへと屈み込んだ。

 片方の手袋を外し、強打したばかりの相手の首筋へと指先を当てた奏は、普段手繰る事の無い感触を指先で追ってみる。


(……下手して今、死なれても困るし)


 本当のところ、首の後ろに一発入れてやりたかったのだが。

 頚動脈を狙った己の判断は正しかったようだと、確認が取れた男の脈に奏は一人頷く。後々ムチウチになっていようと、知ったこっちゃ無い。

 後の問題は、こいつを一先ず何処に押し込んで置くべきかだけだと。


「……っ」


 現実に思考を流しかけていた奏は、己の口から零れ落ちたそれに、目を瞬いた。

 しかし口から漏れた短い息は、一度零れると止まらなくなり、奏は堪えきれずに笑った。


 なんともあっけないものだった。

 それはそうだろう。彼女はずっと訓練と実践を積んで来ており、外で生き延びて来ているとはいっても、相手はただの民間人。

 何を気負っていたのか、何を恐れていたのか。

 扉の前で二の足を踏んでいた自分が馬鹿らしくなり、奏は立ち上がって大きく深呼吸をした。


「あー……それで、何だっけ」


 わざと落とした独り言は、雨の音に乗って消える。

 それに何処か滲んでいた疲労感には気付かないフリをして、改めて屈み込んだ奏は男の両脇に腕を差し込んでみた。


「……。」


 やはり、重い。

 腐ってスカスカのゾンビならまだしも、気絶した成人男性を自分ひとりで運ぶのには、少々骨が折れると。

 無駄に筋肉に負担を掛けたくない奏は早々に一人男を運ぶことを諦め、気絶した男を一先ず残した状態で、屋上の扉の方へと戻った。


「あのー……鴉。ちょっとお願いがあるんだけど」


 差し出す対価は、今日の分の昼食か。それとも夕食ぶんまで持っていかれるか。

 普段より多めに持ってきてはいるものの、着実に減っていっている食料を思いながら扉を開けた奏は、その先から声が帰ってこない事にコテンと首を傾けた。

 見下ろせば、先程と同じ位置に鴉は確かに居る。

 けれど言葉が返ってこないというのはどういう事か、もしかすると眠っているんだろうかと。


「鴉?」


 膝を折り顔を覗き込んで見れば、鴉はやはり眠っているようで、その落ちた瞼の向こうに奏は再度声をかけてみる。

 しかし、やはり返ってこない答え。


(……あれ?)


 電車の中。一泊をした森脇さん宅。

 その他、今回の任務中、鴉が眠っている姿や眠そうにしている姿を見てきた奏の中で、そう言えば声をかけても起きなかった事があっただろうか、と。

 ふと過ぎった疑問に、足先から寒気が湧き上がる。


「ちょ、え、鴉!?」


 触れてみた感染者の頬は冷たい。

 脈は当然存在せず、呼吸を行っているのかも定かではない感染者を、やはり死人なのだと感じたのはいつの事だったか。

 そんな事を具体的に思い出せるはずも無い奏の脳は何処までも単純で、先程聞いたばかりの言葉を代わりとばかりに選び出す。

――無くならないものなんて、無い。

 よく考えれば、普段はうっとおしいほどにどんな場所にでも付いてくる鴉が、『待っている』なんて殊勝なことを言った時点でおかしかったのだ。


「ふっ……ふざけんなおきろ、起きて何やってんの馬鹿!?」


 起きたら、どんな報復をされる事か。

 どうにも嫌なイメージが頭を過ぎらないわけでもなかったが、今は兎も角何でもいいからその閉じられた瞼を押し上げたくて。

 奏は思い切り、鴉の両頬を抓り上げた。





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