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ゾンビから生き残るための百のルール  作者:
第五章、応用編その2
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その74・人の話は最後まで聞くこと







 陰鬱な天候、陰鬱な季節。

 せめてもの救いは風が強くないことか。

 それでも割れた窓から多少は降り込んでくる雨に濡れないよう、廊下側に近い位置の机に腰を落ち着かせた河井は、手の内の銃を無意味に弄っていた。


「食べられる缶詰として、まず外観が変形しているものは駄目だ。缶の接合部が壊れている可能性がある。それから錆による腐食、上蓋の膨らみ――この辺りがチェックのポイントだ」

「おお、成程! すごい、物知りなんっすね!」

「この程度の事は一般常識。君は知らなかったのか? 全くもって驚きだな、君の上司は一体君に何を教えているんだ」


 はぁっ、と。

 缶詰片手にわざとらしく溜め息を落としてきた長袖男に、河井は引き攣ろうとする己の表情筋を必死に押さえつけた。

 もう既に、相手と目を合わせ続ける事は放棄しており。

 けれど手の内の銃は既に銃身部の亀裂、機関部のゆるみ、安全装置の機能、銃腔内の異物の有無まで確認が終わっており。

 それでも、何らかの作業によって気分転換を行おうと彷徨う河井の指先は、いつだって必死でちょっぴり虚しかったりする。


「はっ……仕方のないことかもしれないが。君の身なりを見るに、食べられるものを探し駆けずり回る生活など送っていないのだろう?」


 今度は小馬鹿にしたかのように鼻を鳴らされ。

 少し前から既に堪忍袋の緒に限界を感じてきていた河井は、今此処にいない女へとずっと脳内から精一杯のSOS電波を放ち続けていた。


(俺限界スグカエレ、俺限界スグカエレ、俺限界スグカエレ……ってかあいつ遅くね!?)


 自分にこの男の相手を押し付け、一体彼女は何をやっているのか。

 答えは簡単、学校内の生き残りをさがしているのだ、と。

 見事に自己完結してしまった河井は、一向に届く気配のない脳内電報を送るのをやめる事にした。

 奏の周りには常時妨害電波が発生しているような気がする上に、そもそも彼女の場合良く考えれば、電報を受け取っても無視を決め込んできそうだったからである。


「はぁ……僕の人生もヤキが回ったものだ。ああ、大学を主席卒業するまでは良かった。僕の人生は完璧なものである筈だった……そもそも、そうだ、引き抜かれた先が、あのクソ野郎が……っ!」


 そして、河井がくだらない事を考えている間にも、長袖男の愚痴は続いており。

 「はぁ」とか「なる程」とか「そうなんっすか」としか最近喋れていない気がする河井は、それでもやっぱり、ただ「はぁ」と曖昧な相槌を落とす事しかできない。


(もう無視して良いんじゃねぇかな……いや、無視したら無視したでまた面倒くさそうなタイプだしな……)


 そもそも、何故こんな状況になってしまっているかというと。

 中途半端に広い職員室という空間、二人の人間がいる以上、お互いやる事もないのに無言というのは居心地の悪いもので。

 けれどこうもチクチクやられては、奇妙な無音を落とされた方が間違いなくマシで。

 しかし長袖男が話しかけてくる以上返答を返さないわけにはいかず、もしここで言い返したり無視を決め込んだりなどすれば、自らが所属する研究所の評価全体を落としかねない――などとウダウダ考えてしまう河井は、生粋の日本人的思考の持ち主である己を恨んだ。

 やはり、留守番役なんてものは貧乏くじでしかなかったようである。


「それで。君は一体、どこの部隊の者なのだ」

「……へ? あ、はい。部隊、って呼んでいいのかはわかんないっすけど、一応研究所と呼ばれているところで」


 はっと。

 顔は上げたものの、急にまともな話題を振られ、半ば虚ろなりかけていた河井は少しばかり反応が遅れた。

 それに対しピクリと眉を寄せてきた長袖男に、反射的に身構えたものの。


「……研究所、だと? なんだ、やつらの研究でもしているのか?」


 案外ぼーっとしていた事を追求されずに済み、河井は胸中でほっと一息をついた。


「あ、はい。一応、あれに感染しない薬を作ることを目的として活動してるんっすけど」

「感染しない薬? 馬鹿か、それが完成していたのならば、そもそもこんな状況にはなっていない」


 常に上から目線で此方を馬鹿にしてくる長袖男は、存外まともな事を言う。

 それこそがこの男の面倒臭さの理由でもあるのだが、今回ばかりは河井も「はぁ」しか言わないわけにはいかなかった。


「いや、まぁそうっすけど……でもなんかうちの者も頑張って研究してるんで」

「はっ! 凡人が何日努力しようと、結果は同じだ」

「い、いやでも――」


 自分達は“外”で生きていくしかない人間に比べ、かなり恵まれた環境で生活を送っている。

 それくらい当然自覚している河井は、だからこそ“ぬくぬく生活してるだけじゃない”という事をアピールしなければならなかった。

 自分が今こうして任務に出向いているという事以外にも、研究所職員らはちゃんとやる事をやっているんだと。


(や、やってる――けど、やべぇ具体的な内容が出てこねぇ……!)


 河井は、少しばかり困った。

 一応友好関係が広いほうである彼は、研究所の研究員達の方とも多少の面識はある。

 けれど彼らが具体的にどのような研究を行い、それの結果がどのように素晴らしいものなのかなど、畑違いの自分は全く理解しておらず。


(で、でも楠さんとかすげぇ物知りだし、俺が報告書書き直してるあいだも、ずっと何か色々やってるし――)


 問題はその、“何か”が何なのかを、説明出来ないというところにあるのだが。


「でもそのうちの、俺が良く知ってる人とか……研究室から殆ど出ることもせず毎日、毎日頑張って引き――じゃなかった、研究してるんで!」

「だからいっているだろう。馬鹿が何時間かけようと結果は同じだ、と」

「い、いや多分あの人は凄い人っすよ!」


 少なくとも楠は、他の研究員が握っていないような情報を既に当然のように知っていたりするし。

 良く分からないが今回渡された無線機の設計をおこなったのは楠らしいし(組み立てたのは飯島だが)、あの研究室には黒液関連と思われる走り書き以外にも、栄養剤の調合方法やら遺伝子組み換えの何とかやら到底じぶんには理解できないような高度なもので溢れているのだと。

 ちょっぴり支離滅裂ながらにもそう言ったような事を説明した河井は、説明をおこなっている時点で既に内心でガックリと肩を落としていた。

 この長袖男ならば“馬鹿のいるところには馬鹿しか集まらない”くらいの事を言ってきそうだったからである。

 けれど。


「……その、引きこもって奴らの研究ばかりを行っているという男。名前は、何というのだ?」

「え?」

「本当にそこまで知識量豊富な人間が存在するというのなら、僕の耳に入らないはずがない」


 別の方向に追求を向けてきた長袖男に、河井は少しばかり拍子抜けした。

 そして、やはり何処までも上から目線な男の物言いに。

 もしやこの長袖男は元々、中々に偉い立場にいた人間だったのかもしれないと。


「……楠さん、って言うんすけど。知ってま――」

「楠だと!?」


 唐突に食いつかれ、河井は思わず僅かに身体を仰け反らせてしまった。

 驚いて見れば、片手を顎に当てた長袖男はその目を常時の1.5倍ほどに見開らき、更には視線を右往左往とさ迷わせている。


「まさか、生きていたとは……いや、まさかそんな筈は……」

「え、えーっと。そ、それは……どういう事っすか?」

「君!」


 またしても唐突にぐわしっと肩をつかまれ、今度は河井がその目を1・5倍ほどに見開く番だった。


「苦労しているだろう、あんなクソ野郎の下で……っ!」

「え、ちょ、何の」

「あの一族はな、全員が全員性格が悪い! 遺伝と言う名の恐ろしい病だ!」


 言葉の整理をつける前に長袖男が話し出すものだから、河井の頭は若干テンパった。

 兎も角、今確かに分かる事は、この鬼気迫った様子の長袖男が楠を知っているという事。


「そして最も憤慨すべきは全員頭の構造がおかしいと言う事だ! 奴らは研究の事しか頭に無い、僕が、僕が1週間徹夜で書き上げたレポートを“こんな事とっくの昔に分かってる”とか何とか言ってものの数秒目をを通しただけで赤、赤ペンでバツを……ッ!!」

「す、数秒で内容が分かるくらい分かりやすかったって事っすよ!」

「内容などタイトルに書いてあるに決まっているだろうっ!!」


 つまりタイトルしか読まれなかったのか。

 なんて思っても当然、口になど出さない河井は、既に長袖男がちょっぴり涙目である事に気付いていた。

 年上の男に愚痴られるのも嫌だが、泣き出されるのはもっと嫌である。

 兎も角。

 今は極限に取り乱している相手を落ち着けるのが先決で、河井は数分という短いようで長い時間を、長袖男の沈静に費やすことになった。



「楠 修一しゅういち。それが僕の元上司だった男の名だ」


 比較的綺麗な椅子に落ち着いた長袖男が、ズズズっと啜っているのは河井が与えたお水。

 ついでに相手に自分の昼食の一部まで与えていた河井は、口から魂が半分抜け出ていた。

 相手が年上、というだけで面倒くさい。プライドが高いとなると更に面倒くさい。

 一度に大きな衝撃が来るのも嫌だが、ジリジリ精神を疲弊されるのも嫌であると。

 胸中で多大な溜め息を落とした河井は、半ば男の話などどうでも良くなりかけていた。


「あいつの親は機械工学――まぁ君に分かりやすいよう、より広義に言うならば単純に“工学”の分野で、今世紀最大といって良い成功を収めた人でな。今でも、そこらを走っているモノレールがあるだろう?」

「ああ、はい」

「あれの基礎理論を構築したのが、その人だ」


 それなりに驚きの事実に。

 常時なら相応の反応を返す事が出来る河井だが、現在は疲労モードの為、オーバーリアクションを取ることが出来ない。

 そして“知人のお父さんが凄い人!”という情報にはそもそも、「まじすか、すげぇ!」くらいしか言えることが無い。

 つまり朧げにもこれといって言える台詞が無いという事に気付いてしまった河井なのだが、幸い長袖男は饒舌のままで。


「文明がこんな事にならなければ、間違いなく彼は後の世に名を残していた、国宝と呼べる才を持った人だった……しかし、問題はここからだ」


 水をまた一口飲み、前置きをした相手の方へと河井はちょっぴり意識を戻した。

 先程から、自分の話したい事しか話していないこの長袖男。彼を落ち着かせるのにはかなりの気力を消費したが、そのお陰か男はなんだか段々普通の話をするようになってきていると。


(……ん? もしかしてこれ、結構良い流れなんじゃね!?)


 気付けば自分の苦労も多少は報われているような気がして、どこか遠い目をしている長袖男の話をまぁ聞いてもいい気がして来た河井は、改めて相手へと向き直ってみた。

 そうしてよく考えてみれば、先程サラッと楠の名が明かされた事にしろ、現在の話題は中々に興味深いもののようにも思える。


「素晴らしい功績を残した彼はしかし、己の息子に研究室を与えたのだ!」


 しかし。

 長袖男が何やら熱く言い切った後のその、一瞬のあいだに。

 河井は己の脳をフル稼働させた。

 相手の話を聞いていなかったわけではないが、半ば上の空だったため、前後の脈略を少々見失ってしまったのである。


(た、確かこの人の元上司が楠さん……楠 修一さんで、その父親がモノレールとか造ったすげぇ人で、そのお父さんが儲けたお金を使って、楠さんに研究室を与えた?)


 つまり、どういう事か。

 特に問題のある事を、楠父くすのきちちがおこなったとは思えなかったので。


「えー……つまり、楠さんは親の七光り的なものだったんすか?」

「違う、君は何を聞いていたのだ!」


 思いついた事を口にしてみた河井は、瞬時に怒られ眉尻を下げた。

 どうにも熱くなっている長袖男は、間違いなく楠の事を嫌っている様子だったし。

 親から“研究室”という、明らかに高価そうなものを与えられた子供に対する周囲の感情は、単純な妬み的なものだろうと思っていた河井なのだが。


「あのクソ野郎は……っ、絶望的なことに、頭が良かった。認知科学の、権威だった……っ!」

「えー……ってことは、そのー……つまり楠さんのお父さんは、頭の良い息子により良い環境で頑張って欲しくて、研究室を与えたって事っすか?」


 長袖男の言葉に尚更問題など何も無いような気がして来た河井は、結局彼が何に不満を抱えているのかがさっぱり分からなかった。

 理系と文系とでは頭の構造が違うらしいが、元頭脳労働者だったらしい長袖男と現肉体労働者である河井との間には、それ以上に大きな溝が存在するのかもしれない。


「彼は子育ての才能が皆無だった」

「は、はぁ……?」

「彼はそれに気がつくべきだった! お陰で我々はあの、傲慢で我侭で思いやりにかけたクソ野郎の下で蛆虫扱いを受けながら日々を過ごす羽目に……ッ!!」


 彼、とは楠父のこと。

 そしてクソ野郎、とは楠 修一の事を指すのだと。

 男の言葉一つ一つを飲み込む事に集中した河井は、ようやく相手が言わんとしている事を理解した。

 要は“上司最悪、俺辛かった”。

 そしてその責任は、まともな人間を育てなかった父親にもある、と男は此方に伝えたかったらしいと。


(……そ、それにしても)


 過去の楠は、そんなにスパルタだったのだろうか。

 河井自身、何度も何度も楠に報告書の書き直しをさせられている身だが、さらっと理解不能な事を言われたり笑いながら嫌味を言われる事はあっても、この男のように半泣きになる程、辛い思いを味わわされた覚えは無い。

 しかしそこはやはり、同じ分野で働くとなると、違った面もあるのかもしれないと。

 第三者から語られる知人の姿に、河井がしみじみしている間にも、長袖男は未だグズグズ先を続けている。


「我々は決して馬鹿ではなかった! 奴が一人ただ、異常だった……挙句の果てには、奴の妹にすら馬鹿にされる始末。あの時期は本当に、毎日毎日胃痛との戦いを……」


 妹。

 なんだか最近、聞いた事があるし出した事もある話題の一部であるそれに。

 何やら本格的に落ち込みだしたらしい長袖男はさておき、河井はちょっぴりその目を光らせた。

 奏は特に興味が無い様子だったが、あの楠の妹と楠と飯島との関係性は、なんだか気になる河井である。

 他人が気になっていないと余計に気になる、というやつかもしれない。


「えー、って事はその妹さんも、その、何か研究に携わってたんすか?」

「そんな訳が無いだろう! 女なんぞという感情的な生き物は研究には不向き! 立ち入り禁止!」

「そ、そうなんすか?」


 この調子からすると恐らく長袖男は、楠の妹にも良い感情を抱いていないのだろう。

 そういえば先程彼は、楠家くすのきけに対し“一族そろって性格が悪い”とか何とか言っていたなと。


「だというのにあのクソ生意気な女は研究室のセキュリティを破って進入を! まったくあのクソ野郎もクソ野郎だ、セキュリティが破られたというのに“困ったなー”だとか何とか良いながらデレデレと……あの糞シスコンが!!」


 しかし男の言葉を思い出せば、その間にまた次の言葉を紡がれるものだから。

 あなたさっきからクソしか言ってませんよ、という突っ込みが浮かぶわ、妹相手にデレデレしている楠、という到底想像しがたいイメージが脳裏を蹂躙するわで、河井は己のキャパシティに限界を感じた。

 やはり現場で身体を動かす人間は、頭を使う事には慣れていないようである。


「えーっと……それで、ってかそれ一体何の研究してたんすか?」


 なんだか、段々何を聞きたかったのかも良く分からなくなってきて。

 セキュリティが破られた、と言うからには、セキュリティを破られたら困るような研究を行っていたのだろうかと、無意識のうちにボリボリ頭を掻きながら聞いてみた先で、河井は長袖男の目が一瞬、間の抜けたように開かれたのを見た。


「今更何を言っている、そんなもの決まっているだろう。あの――」


 河井は長袖男の言葉を、最後まで聞く事が出来なかった。

 破裂音に似た音と共に、散布した廊下側の窓の破片――それらによって確かに紡がれた男の言葉が、意識の外へと出てしまったからだ。

 僅かに飛び散った黒い液体とガラス片が視界の中、酷くスローモーションで。

 割れた窓から伸びてくる2本の腕の向こう側へと、河井は速やかに引き金を引いた。

 ガタン、と。

 隣で長袖男が座っていた椅子から転げ落ちたのは、突然の襲撃に驚いたからか、それとも銃声の大きさに身体が竦んだからか。

 奏に“うるさいです”と言われた事を地味に気にしていた河井は、少しの居心地の悪さに視線を泳がせつつ、長袖男の方へと声だけを向けた。


「……えー。大丈夫っすか?」


 返事は無い。

 しかし長袖男は別に死んでいない筈なので、もしや今の衝撃でギックリ腰でも発症したかと。

 既に沈黙を確認し終えていた廊下側の窓の向こうから、河井が男の方へと視線を移しかけた瞬間。


「ただいま戻りました。……大丈夫ですか?」


 ガラリと。

 職員室の扉が開き、見知らぬ女一人を連れた奏が、ひょっこりとその顔を覗かせた。






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