その72・まどろっこしい手段はとらないこと
「まさか、助かるなんて思ってなかったわ! しかもこんなに素敵な王子様が助けに来てくれるなんて……人生、捨てたものじゃないのねぇ」
「……」
女子トイレの個室から飛び出てきた女性が鴉の首にスルリと腕を回す様を、奏は口を半開きにしたまま食い入るように見つめていた。
鴉の首元に埋められている女の唇が、うっすらと弧を描いている。
「うふふ、でもこれ毎回思うのよ。助かるたびに。……もういつ死んでも良いような気がしてたけど、あなたみたいな人がいるなら、もうちょっと人生やってみても良いと思うわぁ」
言ってぱっと顔を上げた女の視線が、何処か気怠げに鴉の喉元から瞳へと上がっていく。
持ち上がった彼女の手のひらは、まるで獲物を逃がさんとする蛇の鎌首のようで、けれど鴉のパーカーの後頭部へとそっと添えられたその指先は、酷く優しげで。
女は笑みを象った唇にほんの少しだけ隙間を作り、徐々に相手との顔面距離を縮めていく。
「っ!!」
奏は、咄嗟に鴉の腕を引いた。
思った以上の力を込めてしまったのか、急に手を引かれた鴉の足が、軽くたたらを踏んでいる。
それを視認した奏は、そこで知らずのうちに己が顔を伏せていた事に気がつき、遅れて来た激しい動悸に、思わずぐっと眉根を寄せた。
何をしているんだ、と。
じぶんの頭の中で自分の声がして、けれどそれに対する答えは出てこなくて、奏はその瞼を緩やかに下ろす。
高所から落下したかのような寒気に、身体の芯から消えた温度。
なのに今はまるで全身が心臓になったかのように体中が熱く脈動していて、けれどその中心だけは泥を飲み込んだかのように苦々しく、苦しく。
無理矢理に息を吸い込めば仄かに香ったトイレの異臭に、うっと顔をしかめた奏はまた、無理矢理にその息を吐き出した。
「……えー。お怪我は、ありませんか? 我々は、救助の者です」
「……そう? ありがとうね、怪我は無いわ」
非常に酷い、気分のままに。
定型文を紡いだ奏は返って来た言葉に一つ頷くも、しかし未だ顔を上げる事が出来ていない。
それでも、足の位置関係から見て、どうやら女の身体はもう鴉と接触していないらしいという事が分かり。
その口から知らず細い息を漏らしたのも束の間、引き離された距離を埋めるよう女のつま先が一歩を進める様に、奏はまた握りしめていた鴉の腕を引いて相手との距離を一定に保つ。
「本当ですか? 逃げているときに転んだりしてません?」
「してないって言っているじゃない。あなた、さっきから何なのぉ?」
「えー……何、とは?」
ダラダラと。
己の背中を伝いだした冷や汗に気づかないふりをする為、奏は思い切って顔を上げてみた。
そこには、此方を見定めるかのように腕を組んだ女の、鋭い視線。
その胸の下まである髪はよく見るとボサボサで、顔には土汚れがついており、お世辞にも奇麗だとは言えない状態なのに、くっきりとした二重の下の眼孔には得も言えぬ迫力が宿っている。
思わず、うっと。
女の雰囲気に気圧されそうになった奏は、しかし、そこでふと何故か軽い既視感を覚えた。
「何故、さっきからあたしと彼の邪魔をするのか、って聞いてるの」
しかし、ぼんやり女の顔を観察している余裕は、無いらしい。
それを本能的に悟った奏は不機嫌を全面に押し出してくる相手に、少しばかり落ち着いた思考回路で、脳裏に散蒔かれていた言葉をまとめる。
「……えー。あなたは彼とお知り合い、ですか?」
「今から知り合おうとしてるところなんだけど、見て分からないかしらぁ?」
今度こそ奏は、ほっと一息をついた。
以前の観光地での任務で、人間集団の者に絡まれた時。
鴉の事を知っている者がいたので彼女ももしや、と思った奏だったのだが、その心配は杞憂だったらしい。にしても初対面だというのなら、もう少し謙虚に行動して欲しいものである。
「ちなみに私はそれを止めているんですけど、見て分かりませんか?」
気が抜けたおかげか、それは口からスルリと滑り落ちて。
一拍置いて自身の失言を察した奏は、見る見るうちに吊り上がっていく女の目を半ばやけっぱちの気分でじっと見つめ返した。
この様子からして恐らく、相手は先程の此方の発言を挑発と受け取ったのだろう、と。
「……そういえばあなた、私の兄を見なかった?」
何処かでゴングの鳴る音を聞いたような気がしていた奏は、話を全く別の方向へと変えて来た相手に、きょとんと瞬きを返した。
「え……あ、兄と言われても。どんな外見なのか教えて頂けなければ、なんとも」
「ハカセと一緒に逃げていくのは見たんだけど……」
「ハカセ?」
「あだ名よ、あだ名。凄く物知りだから……いえ、違う。違うのよ、そっちじゃなくて私の兄は、髪が短くて、年齢は46、服装は――」
ずらずらと。
“兄”とやらの外見特徴を述べていく女の顔を見つめているうちに、奏はまた己の心臓が一つ大きく脈打つのを感じた。
そう、先程奏が不意に覚えた既視感。
ぶつぶつ言っていたかと思えば突如手を伸ばして来て、違う、頼むと言っていたあの表情と、妙に逞しさを醸し出してくるこの女の表情とは、あまりにもベクトルが違いすぎているが。
他人と呼ぶには、見れば見るほどに似通ったその顔の造りに意識を奪われていた奏は、しかめられた女の表情にはっと我に返った。
「――ってあなた、聞いてるの?」
「あ、はい……聞いてます」
しかし、ここは可能性を口にするべきか、否、可能性どころか2階の廊下に未だ転がっているであろう遺体の元に連れて行けば、全てはハッキリするのだろうが、等々。
別の方向に思い悩み始めていた奏は、また女がさりげなく鴉の方に接近していっている事に気が付かない。
「じゃあちょっと、探してきてくれない?」
「へ?」
見ればいつの間にやら鴉の腕に手を回している女に、奏は瞠目した。
これこそまさに、いつの間に。
まさか己が一般人に遅れをとる事になるなど、思っても見なかった奏は中々のショックを抱えたまま、改めて女を凝視する。
「あなた、救助の人なんでしょう? 行って来てよ」
「……それはそうですが。貴女をまず、安全な場所に送り届けないと」
「それは彼と行くから、あなたは別に良いわぁ」
まさか。
まさか、どうやらこの女、かなりの策士。
にっこりと笑って鴉の腕に両腕を回したあげく胸を押し付けているとしか思えない女に、奏は更なる衝撃を受けた。
流石はこの時代、外で生き抜いて来ただけあると。
少しばかりずれた部分に思考を流しかけていた奏は、慌てて歩き出そうとした女の前に立ちはだかる。
「ちょ、ちょちょちょっと待ってください!」
「なぁに?」
「とりあえず、落ち着きましょう。待ちましょう」
「なんでぇ?」
全くもって、なってない。
それくらい自分自身でも良く分かっており、けれど“会話の先を読んで策を練る”なんて高度な事が出来る精神状態に無い奏が、反射的に視線を流した先は鴉である。
「……」
「……」
しっかりと噛み合った視線。
鴉の無表情に鋭い目つきはいつも通りで、否、いつもより少しばかりぼんやりとしていて。
やけに静かだとは思っていたがもしやコイツ、この状況でまた眠いのかと。
若干の怒りを覚えかけた奏は、けれど反面、己のパニックが何故か少しだけ落ち着いた事に気が付いた。
シトシトと。
今更に耳に戻って来た雨音に、なんだか不思議な感覚を覚えつつ。
奏が見つめる先、雨のなか学校に駆け込んだため濡れてしまっている鴉の前髪から、薄く雫が伝い落ちていく。
「……とりあえず。彼は、ほら、雨に濡れてるんで。引っ付いてたら貴女、風邪引きますよ」
顔の向きを女の方へと戻した奏は、先程よりは随分とましな言葉が紡げたように思えた。
そして、そう。
今回、この女と接しているうちに、奏には分かって来た事が一つ。
それは全てにおいて、冷静さは欠かせないという事。
「彼は?」
「へ?」
「彼自身も、風邪引くんじゃないのかしら? それをこんな状態のままほっといて……あなた、気が利かないのねぇ」
しかし。
間髪入れずに返し、更には鼻を鳴らさんばかりの態度の女に、奏はイラッとしてしまった。
戦いにおいても言葉選び一つに置いても、全てには冷静さが欠かせないと分かったばかりだというのに、酷いものである。
否、しかし、この相手の挑戦的な態度に受けて立たねば己が廃る、というよりこの女は意外と尤もな事を言っていると。
まぁ尤もな事を言われているからこそ腹が立つのだがそこは考えない事にして、奏はこめかみを引きつらせながらも鴉の方へぐるんっと向き直った。
「今絞る所だったんです。 鴉、ちょっと上着貸して」
「何故だ」
「絞るから」
奏が片手を出して催促すれば、素直にパーカーを脱ぎ始める鴉はその素直さからして、やはり現在また眠たいのか。
定期的に訪れる鴉のぼんやりを見ると、どうにも胸の真ん中あたりに重いものを感じてしまう奏は、それも含めた現在胸中で渦巻く様々な感情を発散するかのように、受け取ったパーカーを雑巾絞りにした。
ぎゅっと。
手の中で布が圧縮していく感覚と、捩じれたその隙間から溢れ出しこぼれ落ちた水が、タイルの上ではねる音。
それらに若干の快感を伴う達成感を感じた奏は、更にパーカーを絞る手に力を込めながら落としていた視線を上げた先で――見事に、また固まった。
パーカーを脱いだ鴉が更にその下のタンクトップを脱ぎ、自分で絞っていたからというのもある。
しかしそれ以上に、上の服を全て脱いだ鴉の頭が、その金髪が、覆う物の無いなか見事にしっとりと輝いていたからだ。
「あら……」
女がもらした、息のような声。
その意味を考える間など無く、即座に鴉の頭にパーカーを被せしっかりと押さえつけた奏は女の方を鋭く見据えた。
「か、彼はハーフなんです! だから金髪なんです!!」
言い放ちながら奏は、ちょっぴり泣きたい気分になった。
じぶんは間違いなく、馬鹿である。
否、自分はこんな馬鹿ではなかったはずなのに、と。
どうしてこうも全てが裏目に出るのか。大体何故自分はこんなトイレなんかでモタモタしているのか。そもそも鴉は風邪など引かない感染者なのだから、最初から女にはそういった意味での危険性を提示すれば良かったのではないかと、一気に巡り始めた自分自身からの突っ込みに、鴉に被せたパーカーを握る奏の指先が強く力を込める。
「そんなこと、どうでも良いわよ。私が聞きたいのは――」
そして、いつだって予想の斜め上にやってくる女の言葉に。
うつろな視線を上げた奏は、頭の上に白旗のイメージを掲げた。
「あなた、彼の恋人なの?」
本当に女は、いつだって奏の予想の斜め上に言葉を投げてくる。
そして、此方が白旗を上げていようがどうやら彼女は追撃の手を休める気はないらしいと、奏は死んだ目のままボツリと息のような音を落とす。
「違いますけど……」
「あらそう。まぁどっちでも良いのだけどね? じゃあ尚更、邪魔しないでくれないかしらぁ?」
なんて女だ。
そうか、結局この女は己の伴侶を見つける事しか考えていないのだと。
今になって全てを理解した奏はがっくりと落とした溜め息の先で、パーカーの隙間から此方を見ている鴉と目が合い、眉間に薄くしわを寄せた。
「何の話だ、非常しょ――」
「鴉」
短く。
相手の言葉を遮った奏は、常人には到底聞き取れない大きさまで声のボリュームを落とし、金髪に被せていたパーカーを無意味にゴソゴソさせながら鴉の耳元まで唇を近づける。
「今更かもしれないけど……ほんとこの学校にいる間だけでいいから、私を“非常食”って呼ばないで」
「何故だ」
今更かもしれないが、今更でも出来る事はしておきたいからだ――なんて言っても恐らく鴉は疑問符を浮かべるだけだろうし、その辺りを説明している時間も当然無いので、奏は単純で分かりやすいであろう言葉だけを選ぶ。
「人相手だと、色々面倒くさいの。あんたがその、感染者だってバレたら、本当に色々面倒くさいの。困るの。……いや、ほんとうに今更かもしれないんだけどね」
「……どうかしたのか、非常食」
選んだはずの言葉は、纏まりきれていなかったのか。
首を軽く傾けて来た鴉に、「だから非常食言うなって言ってんだろ」という突っ込みすら出てこず、奏は金髪を隠すために被せていた筈のパーカーを、相手の耳に押し当てた。
「……あんたといると馬鹿になるから、やだ」
そもそも限界にまで押さえていた声はきっと、鴉には届かなかっただろう。
そして女を待たせるのも、潮時だと。
鴉の耳元から唇を離した奏は、相手の目を見る事が出来なかった。
「お話は、終わったぁ?」
そうして。
落ちた間延びした声に奏が振り向けば、どこか上機嫌な女がその口角を待ってましたとばかりに緩く持ち上げる。
恐らく彼女は、此方のあまり明るくない雰囲気を見抜いたのだろうと。
察しながらも奏は一つ頷き、鴉から一歩距離を置く。
「お待たせしました。とりあえず今から貴女を安全な場所まで連れて行くので、着いて来てください」
「だから、あなたは私の兄を探しに行ってくれれば良いのよ。はっきり言うけど、恋人でもないくせに邪魔しな――」
顔をあからさまに顰めた女は、邪魔をするなと言いたかったのだろう。
けれど、タイミングが良いのか、悪いのか。
文句を言いかけていた女の言葉を遮るかのように、女子トイレの扉がぎこちなく開いたのは、その時の事だ。
「……っ! きゃ……っ」
何やら女の方から可愛らしげな声が聞こえたが。
奏はそれに見向きもせず、扉の隙間から現れたものに静かな視線を向ける。
ずるり、ずるりと。
身体全体を使って扉を押しやり、意味をなさないうめき声をあげながら、此方に虚ろな視線を向けてくるそれは間違いなく、奏にとって慣れ親しんだ“ゾンビ”という存在だった。
乱雑に肩口まで伸びた髪と、赤黒く染まった脇腹と、注視すれば分かる2本足りない右腕の指。
その服装と身体の腐敗具合からして、恐らく対象は元人間の集団だったのだろうと。
相手を観察しつつも、そういえばゾンビと目が合うことが多いな、なんて真っ直ぐ自分だけを見つめてくるゾンビに今はどうでもいい感想を抱きつつ、奏は軽いため息をついた。
ただの、ゾンビか――と。
認識を思考の中で吐き捨て、一歩を進めた奏は次の一歩で強く床を蹴った。
まだ入り口でのたのたしていたゾンビの、“餌”へと伸ばされた腕を逆に掴んでトイレの中へと引きずり込めば、また背後で可愛らしげな悲鳴が上がったが、奏には知ったこっちゃない。
自分の仕事は、無様にも己に後頭部を晒したゾンビに、刃を突き立てる事だと。
入り口の方を向いていた己の身体を反転させ、鞘から抜いた刺身包丁を滑らかに対象の首の裏へと突き立てれば、ゾンビの頭越しに見えた視線に、奏はすっとその目を細めた。
「……そこの、貴女」
そういえば名前を聞いていなかったなと。
思いつつもやはり不要な情報は頭に入れない事にして、鴉の影に隠れている女の方を見据えながら、奏は突き立てたばかりの刃をゾンビの後頭部から引き抜く。
そうして倒れ込んだゾンビを若干足蹴にしながら、そして包丁から滴る黒い液体を拭わないままに。
身体をすくませた女へと奏が一歩を進めたのは、ゾンビが現れたせいで口に出来なかった言葉を、さっさと相手に伝えるためである。
「確かに、私は彼の恋人ではありませんが――」
言いつつ、奏がまた一歩を進めれば。
あからさまに怯えた様子の女が、更に鴉の影へと隠れる。
それを認識しているのか、いないのか。
至ってマイペースに、ごそごそと絞った服を着直している鴉からの視線を、奏は視界の端で捉える。
「貴女が彼に近づいているのを見ると腹が立つので、やめて下さい」
言い切れば想像以上にスッキリして。
女の瞳が面白いくらいに見開かれていく様に、最初からこう言えば良かったのだと。
奏は馬鹿な自分へと、呆れ交じりに鼻を鳴らした。