その71・役割分担すること
この学校には、人間の集団が逃げ込んでいる。
そしてそれを追っていた、先行部隊の者も。
この時点でなんだか言いようの無い“イヤな感じ”を覚える奏と河井だったが、それに加えてロッカーから出てきた、やはり40代位と思われる長袖の男から、新たに仕入れた情報が一つ。
「我々も、わざとこんな場所に逃げ込んだわけではない! 追われていたんだ、追い込まれたんだ……」
唇をぶるぶる震わせている40代長袖は“何に”という部分を明言しなかったが、先に伝わっていた情報と、現在状況からしてその答えは一つだろう。
すなわち、どうやら今回目的にしている感染者も、この校内のどこかに居るという事。
まぁそれが分かったところで結局やる事は変わらないのだが、となれば今後の展望はいかほどのものか。
救える限りの人間は、救わなければならない。
奏としては特に救いたくもない人間もいるのだが、簡単にゾンビなんぞになられても困るので、これがまず最優先だと言えるだろう。
そして標的である感染者――昔の研究所の元・検体も、必ず仕留めなければならない。
河井としては詳しい事情を聞かされていないものの、此処まで来て相手を見逃せるはずも無いので、これは必ず行わねばならない事だと心に決めている。
と、くればこの二つをいかにして両立させるか。
人間を助ける端からゾロゾロと連れ歩くなんて、動き難い事このうえない。そんな状態で、標的である感染者とやりあうなんて、正気の沙汰ではない。
そうして、しばし頭を捻っていた二人が出した結論は――救出した人間は何処かの教室にでも溜めていくのがベストだろう――というものだった。
「――で、なんで俺が留守番!?」
「当たり前でしょう。というか廊下で銃を撃たれると、うるさいです」
「え。それ只の文句じゃね?」
さらっと言いたいことだけ言って去って行った奏の後姿に、河井はがっくりと肩を落とした。
確かに、二手に分かれるのなら。
留守番には銃、そして探索には身軽な(果たして本当に身軽なのか疑問な部分もあるが)彼女の方が効率は良い。リーチの短い近距離武器は大勢を守る事には向かないからだ。
しかし。しかし、だ。
ここに奴がいる事は分かっているのに、自分に留守番役を押し付けるとは随分酷い仕打ちではないかと。
1階の職員室で比較的綺麗な机に腰掛け、一人悶々としていた河井は、やはり思い切って無線機を取り出してみた。
側面に取り付けられた、とても分かりやすい“大”から“小”のダイヤルを調節すれば、近くの者にのみに連絡が取れるというのは、出立前に二人揃って飯島から聞いた説明である。
「……」
「君たちは、たった3人で来たのか?」
だけれど、その時。
ぽんっと肩に手を乗せられ、河井は無線機へと落としていた視線をあげた。
そこで何やら仏のような遠い目をしていたのは、先程まで半ばパニック状態だったはずの長袖40代である。
「悪いことは言わない。一人でも多く救いたくば……」
「す、救いたくば?」
「今すぐ、僕を連れて逃げるのだ」
真顔で言われ。
困った河井はとりあえず曖昧な笑みを浮べたが、それはマスクに覆われているため、相手に伝わる事はない。若い女性ならまだしも、大の大人に「私を連れて逃げて!」と言われるのは、どうにも絶妙な気分になるものである。
「……いや、気持ちは分かりますけど。一応任務なんで」
「任務、か……だからと言ってこの広い校内、生き残った人間をしらみ潰しに探していく気か? “生きている”かも分からないのに? 彼女らがそれを生きて達成する事が出来る可能性はどれだけある? その間、此処が襲われないとでも?」
「はい。だからまぁ、二手に別れたんすよ」
「それが問題だと言っているのだ!」
くわっと。
目を見開いた長袖に、河井はちょっぴりビビッた。
先程からこの長袖男、どうにも情緒不安定なようである。
「只でさえ少ない戦力を分散させるなど、正気の沙汰では無い! いや、そもそも一人が女である時点で……」
「いや、あいつは……こう、生物学的には女っすけど。その辺の奴らよりは遥かに強いんで。ってかそこんとこ信用しあってなかったら、組んで行動とか出来ないっすから」
寧ろ言われるまで奏がピンチに陥る可能性など、全く考えていなかった河井は、また無線機の方へと視線を落とした。
そう。普通で考えるのなら、ここは女である奏の心配をするところなのだろうが。
残念ながら、長袖男の言うような心配は、河井の中には全く存在しない。
寧ろ、むしろだ。
(あいつ一人で全部仕留めそうなのが問題なんだよ!)
とは思いつつも何も知らない長袖には愚痴る事が出来ない河井は、今度こそカチリと無線機のスイッチを入れた。
それと同時に可能な限りの最高速で充電ハンドルを回転させれば、その隣で長袖男が目を丸くする。
奏が通信に出るか出ないかは賭けだったが、河井としては此処で一人悶々するより、賭けに出たほうがマシだった。
「……ああ、でも逆に。あいつが弱けりゃ良かったのに、って思うことはありますよ」
「何故だ? 強いに越した事はないだろう。ああ、強さが中途半端だから困るというわけか?」
無線機を覗き込みながら聞いてきた長袖男に、河井は言葉を詰まらせた。
奏の強さは、別に中途半端なわけではない。寧ろ強いと言って良い。しかしだからこそ困る――というのは伝わり難い感情だろうかと。
(いや、でもそもそも……あいつと会ったのって、腕相撲大会の時だったしな)
奏が弱かったのなら、そもそも自分は彼女と面識すら出来ていない。
そんな事実に気がついて、結局“弱い奏”というのは自分の中には存在しないのだと、ついた溜息の意味はきっと、長袖男には伝わらないのだろうと河井は思う。
民間人である彼は現在、自分を救える人物を熱望しているのだろうから。
男だろうが女だろうが“強い者”であればきっと、何でもいいのだ。
(そうだよな……俺だって、初めは――)
無線機から応答があったのは、河井が別の部分で悶々とし始めていた頃だった。
『……はい、こちら奏ですが』
どうにも不機嫌そうな彼女の声にはっと我に返った河井は、慌てて抱えていた機体に向かって言葉を紡ぐ。
「まじかよ、ってかお前絶対応答しないと思った」
『用事が無いのなら――』
「あー! 待て、まてまて用事ある、かなりある!!」
奏としては探索中だということに加え、近距離とはいえ無線通信に膨大な充電が冗費される事を危惧しているのだろう。
しかしそれにしたってどうにも淡白な彼女の声を、河井は必死に引き止めた。
『なんですか。というか用事があるなら、さっき言っておいて下さいよ』
「おまっ……! それが俺に留守番押し付けた上に文句だけ言ってさっさと消えやがった奴の言うセリフ――」
『例の感染者の事でしたら』
ぴしゃりと。
此方の言葉を遮ってきた奏の声に、河井は我ながら随分とマヌケ面を作ってしまったように思う。
『可能な限り、後回しにします。心配しないで下さい』
「お前……」
『何か』
奏の声は、その表情と同じく、淡白だ。
けれど今は彼女の顔が見えないぶん、その声の色に集中できるのか。
無線機越しの声に混じった微かな感情の色に気付いた河井は、自然と口元に苦笑を浮べた。
まさか、奏に。
奏に気持ちを察せられるなんて思っても見なかったからだ。
「いや、意外と人の気持ちが分かる奴だったんだな……」
『失礼な。でも、そうですね……今回に限っては』
なんだかちょっぴりソワソワしている彼女がどうにも可愛く思えるのは、恐らくその鉄仮面のような無表情が目の前に無いからだろう。
彼女は基本的にアレだが、一応人並みに情はあるようだし、言い訳もすれば動揺もするし、そういえば案外胸がでかいし――なんて考えていた河井はハッと我に返り、首を左右にブンブンと振った。
普段どれだけ無表情で自己中で死んだ魚のような目をしているかと思えば信じられないほど無防備な女でも、否だからこそなのか、ちょっと良いところがあれば可愛く見えてしまうのだから困ったものである。
しかし、せっかくだから、今だけは少し調子に乗ってみようかと。
「……今回だけじゃなくって。いつも分かってくれりゃあ、嬉しいんだけどな?」
『それは無理ですね。では』
ブチっと。
無常にもブチ切られた無線に、河井はガックリと肩を落とした。
これだから、これだからと、ふるふると震えそうになる肩を押さえ込むために作った握り拳の中で、うんともすんとも言わなくなった無線機がどうにも憎たらしい。
一体、彼女は何なのか。
マイペースにも程があるんじゃないかと。
わなわなと震える手で無線機を傍らに置いた河井は、そこから更に、先程まで傍観していた長袖男にぽんっと肩に手を乗せられ、改めて特大のため息を落とした。
・ ・ ・
「……もういいのか、非常食」
「え? あ、ああ。何か思ってたより元気そうだったから」
此方から通信しようと思ったところ、向こうからかけて来られたのには驚いたが。
どうにも河井は元気そうだったので安心しつつ、手持ち無沙汰そうな鴉に無線機を押し付けようとした奏はそこで――相手からの無言の視線に気付き、うっとたじろいだ。
3階の踊り場。
窓からの光は曖昧にしか届かず、薄暗闇の中フードを被った鴉の眼光は、いつもに増して迫力があるよう奏には見える。
(こ、怖……っ、じゃなかった、なんか文句あるなら言えば!?)
とは思いつつも、口に出せないのは何故か。
どうやら最近の鴉は無言の重圧という奴を覚えたらしく、事あるごとにジトーッと見据えられ、奏としては正直たまったもんじゃない。
そうして結局無言に耐え切れなくなったのは、悪いことは何もしていない筈なのに、何故だか後ろめたい気分になってしまった奏の方である。
「だ、だって念押しとかないと。早まって追いかけられて来られたりしたら、困るし」
「成程。つまり非常食、お前は俺と二人でいたかったという事か」
「いや全然そんな事は考えてなかった」
「……。」
だからその無言を止めろと言うのに。
否、言ってはなかったかと鴉に無線機を押し付け無理矢理に歩き始めた奏は、先程よりいっそう増した居心地の悪さに歯噛みした。
最近の鴉は、どうにもおかしい気がする。
最近と言ってもこの前まで彼は実験室に囚われていたため、殆ど会う事は無かったのだけれど。
と、そこまで考えた奏の中にふと、先程の鴉の言葉が蘇る。
(そういえば……二人っきりなのか、今)
階段側から順に教室を探索し始めていた奏は、思わず扉に掛ける腕力を強めてしまった。
バァンっと豪快に開いた扉の音を誤魔化すよう教室に乗り込み、教壇の下やらロッカーやらを乱雑に開けても、その動揺は収まらない。
それはそうだ。二人の手は、いつだって繋がれたままだ。
只二人きりなのが随分と久しぶりのような気がして、だから、それが、どうしたんだと。
「そ、そういえば学校って広いから困らない?!」
「意味が分からん」
「こう、広いと探すのにしても困ると言うか。みんな何処に隠れてるのかなぁと?!」
何だ、一体自分は何を言っているんだと。
じぶん自身にツッコミを入れるのと同時、別段おかしい事は言っていないという事に気がついた奏は、教壇に凭れて一度、深呼吸をした。
「誰かを探しているのか」
「え、ああ……うん。人を、人が……この学校に何人かいるはずで……」
「どうかしたか非常食」
「いや、なんかちょっと動悸が……」
言ってさり気無く繋がれた手を解こうと試みた奏だが、当然そう上手くいく筈もなく。
逆にそれを鴉は逃亡の兆しと捉えられたのか。
かえってぎゅうっと握りこまれた掌の感触に、奏は教壇に頭を打ち付けた。
「成程、病気か」
「“動悸”だっての!!」
人をまるで変質者のように言わないで欲しい、と。
思うも、見上げた先で鴉は首を捻っており、どうやら動悸の意味が伝わっていないらしいと言う事に気付いた奏は、じんじんと痛む額を教壇から上げた。
そう。こんな事をしている場合ではないのだ。
「……息苦しいって言ってんの」
「それは胸を圧迫しているからだろう」
「そ、そうかもね」
普通にしていて息苦しくなるほど、強くさらしを巻いてはいないのだが。
鴉も言っている事だしとりあえずそういうことにして、奏は探索を再開する事にする。
河井と二手に分かれてからというものの、出会ったのはゾンビ一匹のみで、事態は全く進んでいるとはいえない状態だ。
「ってか鴉、あんた人間が何処にいるとか分かったりしないの?」
1組、2組、3組と。
階を上がっても代わり映えのしない光景、そして探しても出てこない人。
それらに少々まどろっこしさを感じてきた奏は、任務に集中する意味も含めて、駄目もとで鴉に話題を振ってみた。
今回の任務を伝えられた際、上司に「君は感染者に好かれるよ」みたいな事を言われたが、好かれている割にはゾンビすらあまり出てきてくれないじゃないかと。
「する」
「は?」
「分かるに決まっているだろう」
俺を誰だと思っている、とでも続きそうな鴉の言葉に、奏はその目を普段の1.5倍ほどに見開いた。
ならさっさと言え、という気持ちと、なんて便利なんだすげぇという気持ちが半々に湧き上がり、パクつかせていただけの口から、奏はなんとか言葉を捻りだす。
「え、えー……えっと、それじゃあ何処にいるのか教えて欲しいんだけど」
「お前に頼まれると、それを叶えてやれる自分自身が酷く心地よく感じるが……同時に教えないまま放置してみたいようにも思う」
しかし。
どうにも、もったいぶった調子の鴉に、奏はその目を軽く眇めた。
「良いから教えて。分かんないなら別に良いけど」
「……あれと、あれと、あれと、あれと、あれと」
「ま、待って! こ、此処から一番近いのは?」
嫌がらせかと思うほど一度に色んな方向を示しだした鴉に、そういえば挑発しても怒られなくなったのは、何時からだったかと。
確かに積み重なり始めた時間を不意に感じながら奏が問いかけてみれば、鴉の視線が一点に定まった。
「あれだ」
白い指の指す先は――トイレ。
これまた“らしい”場所に隠れたものだと。
冷静な部分で呆れ交じりの感想を漏らしつつ、それでも高揚感を隠せないままに、奏は指定された女子トイレの前へと足早に向かう。
見れば確かに、女子トイレの前には年季によって風化したペンキの細かな屑が落ちており。
恐らく扉からはがれたのであろうそれは、動かすものがいなければ剥がれ落ちない筈のものであり。
ゆっくりと扉を開けた奏は微かな異臭の漂う中、一つだけ閉まった個室に心の中でガッツポーズを作った。
(……! あ、でも)
そういえば自分は、集団相手に正体を隠している身だったと。
ふと思い出した奏は自分のさらしで潰した胸を見下ろし、結局、いつもより低い声を作ってみることにした。
目の前の個室の中にいるのが面識ある相手だとは限らないが、念には念を重ねるべきである。
と、いうよりそのための変装である。
「……どちら様か、いらっしゃいますか?」
タイルの上に投げ出され、カピカピになって変色したトイレットペーパーを靴の先で脇のほうに避けながら。
とりあえず無難な言葉をかけてみた奏は、応答しない個室の前で立ち止まって耳をそばだててみた。
一つだけ個室が閉まっているあたり、中に誰かがいるのは明らかなのだが、応答がないという事は未だ警戒されているという事か。
となるとここは慎重に、相手を刺激しないよう。
低い声色を忘れず保ちながら、奏は相手が安心するであろう言葉を選ぶ。
「大丈夫です。敵ではありません、我々は貴方を――」
しかし、その時。
「……っ!」
鍵がガチリと開く音は、奏の耳には届いていた。
けれどそれを咄嗟に避けようとしたところで、鴉に手を引かれたのだ。
そして奏は、顔面で思いっきり扉を受けた。
(いっっった!!!)
率直な衝撃が口から零れなかったのは、我ながら奇跡であるように奏は思う。
ゴーグルをつけていたから良かったものの、否、それのせいで衝撃が変に拡散したのか。
兎も角、なんにしろ、中から何が出てきたのかを今はまず確認しなければと。
天井を向いていた視界をクラクラする中、無理矢理に正面へと戻した奏はそこで、信じられないものを目の当たりにした。
「助けに来てくれたのっ!? 誰か知らないけどありがとぉー!!」
じぶんより年上と思われる、長い髪の女性。
それが、鴉に抱きついている。
それを、鴉は何を言うでもなく見下ろしている。
「……」
奏の視界が捉えた情報はたったそれだけで。
それだけである筈なのに、奏の中の回路という回路は、綺麗さっぱり活動を停止した。