その69・ベストコンディションを作ること
パラパラと車体を叩く雨音。
灰色に濁った景色は昨日と変わらず、けれど広がった雲の重なりは、徐々にそして確実に厚さを増していっている。
すなわち完全に悪い、雲行き。
しかし現実、雲行きの悪さと先行きの悪さがイコールの関係にはない事を知っていた奏は、どれだけ天候が悪かろうと、やる事に変わりがない事も知っていた。
雨が降ろうと、雷が鳴ろうと、雹が降ろうと。
為して、成らぬのは己に原因があるのであり、為らぬは己の成せぬなりけり、というわけである。
「着きましたよ、河井さん……ほら、鴉も立って」
モノレールの扉に凭れながら悪天候を眺めていた奏は、通り過ぎていく風景が徐々に緩やかになっていく様に、近くの座席に腰掛けていた河井の方へと視線を移した。
「おう。了解」
「降りるのか」
軽く蹴躓いたかのように、車体が揺れれば。
空気が抜けるような音と共に自動ドアが開き、構内の屋根を叩く雨音とむわんっと広がる湿気がより一層強く感じられる。
しかし、それでもやはり、どれだけジメッとしていようとまぁやる事は変わらないのだと。
再度自分に言い聞かせ、大きく伸びをしている河井と寝起きでなくとも目つきは常に悪い鴉に横目をやりながらモノレールを降車した奏は、周辺の安全確認を行いながらおもむろに昨晩の事を思い返した。
(でも……思った以上に、寝れなかった)
そう。
実は昨晩のあの後、奏はあまり眠れていなかった。身じろぎや寝返りを打とうとするたびに、鴉にガッツリ右手を握られたためだ。
けれど、再度眠りに落ちるのは早く。しかし、再度起こされて。
正直ほとんど寝た気がしない奏だったが、幸いだったのは自分が一度の徹夜くらいでへばる体力の持ち主では無かったこと。
なので寧ろ一人での長期任務時の事を考えると、一瞬だろうと眠れただけ上々ではないかと。
今回は任務に対し前向きに考えることにしていた奏は、しかし一抹の不安に視線を流した。
「……少しは、眠れました?」
「ん? ばっちり、ばっちり」
駅構内を駆けていくネズミを視線で追いながら返して来る河井に、奏は心の中だけで嘘つけ、とツッコミを入れる。
昨夜、鴉によって起こされるたび一応周囲の気配を確認していた奏は、河井がほとんど眠れていない事を知っていた。
原因は、恐らく、今回出会う感染者だろう。
なんたって、河井は奏にとってわりと分かりやすい人間だ。
昨夜は自然と話題を流されてしまったが、今も何事も無かったかのように振る舞われているが、言い難そうにしていただけあって彼の中の問題は中々に大きかったのであって、中々に大きい問題が一夜でスッキリする筈がないのであって。
共感と呼ぶには少しばかり頼りない、けれど何故か確信できる河井の胸の内に軽く視線を伏せながら、奏は錆に浸食され始めている改札を抜けた。
モノレールの中ではやはりいつもより寡黙。普段は合わせてくる視線を合わせない。そんな河井の挙動不審の片鱗が、昨夜の彼を知っている奏には、どうにも顕著なもののように見える。
(まぁ、普通眠れるわけないか……河井さんって、なんていうか正直だし)
しかし。
自分だって、自分に正直だと昔通知簿に書かれた覚えがあると。
なのできっと、自分が昨夜あまり眠れなかったのも、鴉のせいだけでは無かったのかもしれないと。
言い訳のように考えながら、奏は左右に広がる構内の通路をぐるりと見渡した。
「というか、いませんね」
「そうだな……ここで待ち合わせの筈だよな?」
「ええ。……あ、ゾンビ」
まるで待ち伏せしていたかのように右方からノッソリと姿を現した、見るからにボロボロな感染者の姿に奏はさらりと武器を抜く。
毎度毎度、当然のように鴉に右手を塞がれているせいで、左手で武器を抜く事にも慣れたものだ。
「非常食」
「え? な、なに?」
しかしいざ踏み込もうとしたところで鴉に軽く手を引かれ、奏は恐る恐る右方へと声だけを向けた。
こういう時に声をかけられるというのは、これまでの経験からして、あまりよろしくない内容を語られる前触れである場合が多い。
「朝食をしてくる」
「え。あ、はい? 行ってらっしゃい――って、ちょっと待って鴉!」
けれど、今回に限っては違ったらしく。
真っ直ぐにゾンビへと駆け出した鴉にほっと胸を撫で下ろしたものの、ふと反射的に静止を投げてしまった奏は、不機嫌そうな鋭い目に奇妙な焦燥を感じた。
「なんだ」
「い、いや……気をつけて」
「誰にものを言っている」
全くもってその通りでございます。
と、心の中で自身の訳の分からなさに項垂れながら、解放された右手に視線を落としていた奏は、繰り広げられるであろうグロテスクな光景から目を逸らすため河井の方へと向き直った。
方角的に彼からは鴉の朝食の風景が丸見えだろうが、そこは気にしない事にしてもらう。
寧ろ刺激的な光景により、彼も暗い感傷から強制的気分転換を行う事が出来るだろうし、と。
「それにしてもいませんよね、先行部隊の人達とは此処で待ち合わせだった筈ですよね」
「お、おう……」
「河井さん、どうしますか、河井さん」
うめき声と、粘り気のある水音と、“ぐちゃぐちゃ”に交じる“バキベキ”といった音から河井の意識を逸らさせる意味も含めて。
少しばかり己の声量を上げた奏は、我に返ったかのように降りてきた河井の視線に一つ、頷いた。
「え、えーっと……あ、アレだ。ここって改札2つあんのかな?」
「いえ、ここの改札は1つです」
「と、となるとつまり、アレか。つまり、来てないって事か」
「そうですね」
しかし、どうやら河井の動揺は抜けきっていないらしい。
現在生き残っている人間と言うのは感染者が人を喰う場面を見てきているものなので、ある程度の耐性が彼にもあるだろうと思っていた奏は、中々に立ち直りが遅い河井に心中で首を傾けた。
けれど、今はともかく、待ち合わせ場所に先行部隊の者が来ていないという事の方が重要なので。
こういう事が起きないよう普通考えて行動している筈なのに、と。背後を振り返らない程度に周囲を再度観察した奏は、改札正面に設置されていた枠の外れた小さな黒板にふと視線を止めた。
「…………! 河井さん、これ」
まるで、そこだけが浮き上がっているような。
擦れた深緑の中に綴られた白の文字列に釘付けになっていた奏が我に返って名前を呼べば、周辺へと足を向けかけていた河井の踵が返ってくる。
「ん、うーん……とりあえず、連絡してみて指示仰ぐか?」
ごそごそと。
まだ少しばかり歯切れは悪いが、思考回路はまともに働き出しているらしい河井が大荷物をあさり始める音を一応、耳には入れつつも。
構内掲示板から視線を外せないままにいた奏は、その他のものと比較すれば遥かに新しい文字列を何度も何度も読み返していた。
(これ、は……)
何か、話さなければ。
胸を圧迫しようと急激にざわつき始めた感情を落ち着かせるため、奏は一つ、静かに大きな深呼吸を行う。
「……そういえば。それ、その無線機、雨天でも使用可能なんでしょうか」
「使ってみりゃわかるだろ」
まったく。
こういう時こそ何か無駄な事を話してほしいのにと、至って現実的な言葉しか発しない河井に軽く眉根を寄せた奏は、すぐさまそんな自分にまた眉間のシワを濃くさせる。
超能力者でもない限り言わねば伝わらない事は分かっているというのに、何故人間相手だと過剰な期待を向けてしまうのか。
しかも、よりにもよって河井に、なんて。
そもそも人付き合いを殆どしていない、同じくらいのレベルで話せる相手など河井くらいしかいないという事に気づいていない奏は、自責の念をこめて心中で正座した。
『――、――……!――!!』
そしてどうやら、奏が完全なる自己完結を行っている間に、河井はさっさと取り出した無線機を稼働させていたらしく。
『か――ッ……で、奏かっ!?』
「……河井です」
『ちっ……どうかしたのかね、河井君。そ――ても、ノイズが酷いな』
すぐさま聞こえ始めた飯島の声に、奏は気持ちを切り替える事にした。
どうやら所長は今回も今回とて無線機の前で常時待機していたらしく、それは良く考えれば、こういった不測の事態が起きた場合とてもありがたい事。
となると部下である自分も、速やかな上司の対応に応えなければと。
「雨ですから。その辺りはどうしようもないと思います、それで所長――」
『おお、奏!! おい! 楠、楠!! 天候を何とかする装置を作れないか!』
『……ん? てるてる坊主? わかったわかった、後でね……』
しかし、無線機から聞こえてくる会話に。
どうにも己の意気込みが空回りしている事に気が付いた奏は、なんだか昔を思い出した。これではまるで研究所に来た当初のようだ。
『それで、どうかしたのかね奏。まさか、あの小僧に何か――!?』
「……いえ。合流地点に到達したのですが、先行していた部隊の者が見当たらないので」
そうだ。
此方が気負おうが気を抜こうが、不機嫌だろうが上機嫌だろうが。
いつだって飯島はマイペースなのだからと事実を改めて噛みしめながら、無線機を充電しようと手を伸ばしかけた奏はしかし、手持ち無沙汰だったらしい河井に充電ハンドルを奪われた。
「……。」
『それで。何か手がかりのようなものは残っていないのかね?』
「あ……はい。駅の伝言板に、かなり新しいものと思われる文字が書かれているんですが、ここが目的地だと思っても良いんでしょうか」
自分が行おうと思っていた事を奪われた奏は河井に恨みがましい視線を送るが、当の本人は全くそれに気が付いていないらしい。
『うむ。手がかりがそれだけしか無いというのなら、その場に向かう他あるまい。駅ならば周辺の地図もあるだろう』
「はい。了解しました、では」
『ちょ、ちょっと待て奏ひさしぶりに声を聞いたというのに――』
ぷちっと。
長くなりそうだったので速やかに電源をオフにした奏は、隣の河井からの呆れた視線に頷きだけで返した。
先行部隊の者が待ち合わせ場所に来ないという事実。そして伝言板に残された文字。
先を急がねばならないという事は、状況的にも気分的にも、奏の中では明らかである。
「先を急ぎましょう、河井さん」
「おう……ってかこれ、本当に使えるんだな」
「使えないものを渡されるわけがないでしょう」
名残惜しそうに無線機を眺めている河井に、さっさと機械を仕舞うようバッサリした態度で促した奏は、相手の無言に軽く眉を寄せた。
「どうかしたんですか」
「いや……なんかこの時代に新しいものが作られてるってことに違和感が」
「……今が本当に最後、ってだけだと思いますけど」
自分にとっちゃ完全にどうでも良い事を言い始めた河井に。
そういえばコイツ結構変なところで細かい性格だったなと、腕を組んだ奏は改めて相手をジロジロと観察する。
「まぁ、そうなのもな。材料とか部品とか、いつまでも使えるもんじゃねぇだろうし」
「そうですね。あと新しいものを作るためには、技術者も必要ですから」
「……やっぱお前も、後継者的人間が育ってないとは思ってんの?」
「この時代、どうしようもない部分はあるでしょう。だから使えるものは使える時に使っとくんです」
「いやいやいやいや。勿体ないだろ。勿体ねぇだろ!」
2度も言われてしまった。
流石は貧乏性、この時代で銃を使っている人間のいう事は違うと奏は軽く目を細める。
しかし“勿体ない”なんて言葉は、強い者だけが言えるセリフだ。
「生き残れなきゃ、意味が無いでしょう。……この世の全てのものは劣化します。それは、河井さん。貴方も、私もですよ? だからこそ今のうちに――」
「いやそんくらい俺も分かってるけどな!? でも、だからこそ次のこと考えてねぇと――ってお前なにしてんだ!!」
不意に自分を通り越した河井の声に、奏は慌てて自身の背後を振り返った。
会話に集中しすぎて忘れていたが、そういえば此処にはもう一人がいるのである。
それはもういつだってマイペースな、衝撃しか連れてこない奴が。
「――って、ちょ!?」
「お、お前何やってんだまさかそれ食う気かやめろ!!」
奏が言葉を紡ぎ終えるより先、河井が全速力で鴉の方へと向かっていく。
なんだか彼とは意見が合うような合わないような良く分からない奏だが、今だけは間違いなく、河井と己の気持ちは一つだと断言することが出来た。
「なんだ、“その他”」
「なんだじゃねぇよ!! その子を放せ、今すぐにだ!」
「……これか?」
これ、と言いながら鴉が片手で掲げたのは、茶色くまだらで、けれどふわふわした塊。
それがか細い声で「にゃー」と鳴く様に、奏も慌てて鴉の方へと駆け寄った。
防水ブーツに跳ねる黒い液体もコンクリートの上に散らばった肉片も、こうなったら全く気にならないものである。
「あ、あんた今ご飯食べたばっかでしょ? お腹すいてないでしょ? し、しかもそんな小さい子食べても、お腹膨れないと思うし――」
「信じらんねぇ……! どんな感性持ってたらこんな可愛い幼気な生き物を食べようなんて思えるんだ、くそっ……今すぐ放せ、俺に渡せ!」
「ふむ……」
掴みかかっていく河井を鴉がヒョイヒョイかわすたびに、その片手に首の後ろを摘ままれた子猫がブランブランと大きく揺れる。
正直、見ていられない。
とくればここは、共闘するほかないと。
動物にはとことん甘い奏は、先行している河井の動きを目で追いながら、じりじりと鴉との距離を詰める。
単純に猫へと手を伸ばし続けている河井の先読みは非常に行いやすいが、後ろに目が付いているが如く最小限の動きで逃げ回っている鴉の身体能力は、底知れない。
けれど単純なものに対応していると、対応している者の動きも段々単調になってくるものらしく。
スズメを狩る猫のようなそれでじっと二人を観察し続けていた奏は、鴉が一歩足を下げるのと同時、ぐっと右足を踏み込んだ。
「確かに――」
「……っ!」
しかし、その瞬間バッチリと交差した視線。
やばいと思った瞬間にはもう遅く、伸ばした手をがっしりと掴まれた奏は、そのまま鴉の身体に激突した。
「――“その他”、お前にはそれがお似合いだろう」
「シロっ!!」
鴉に抱え込まれながらも背後を振り返った奏は、宙を舞った子猫を両手でしっかりキャッチする河井の背中を見た。
実に、華麗なものである。
「大丈夫か、シロ。どっか齧られてねぇか……?」
「……。」
そしてそのままコンクリートの上に屈み込み、解放された子猫を撫でているらしい河井の後姿に。
安堵すればいいのか怒れば良いのか、そもそも声をかけるべきかも分からない奏は、鴉の腕の中で渾身の抵抗を行っていた。
なんたって掴まれた腕は解放されず、それはいつもの事だとしても、先程まで子猫を摘まんでいた手をスルリと胴体にまわされたからだ。
「ちょ、ちょっと、な、ななな何なの、放してっ」
「……。」
「ちょ、やめろ本気でやめろ腹の肉を摘まもうとするな確かにちょっと鈍ってるかもしんないけどそこまで肉ついてないからっ」
「……。」
「かわいそうに、怖かったな……もう大丈夫だからな? まったく、これだから常識知らずの感染者は……」
小声ながらに必死で抗議しても、鴉の腕の力は弱まらない。
河井は子猫に夢中で、こっちの事など見もしない。
もう泣けばいいのか笑えばいいのかやはり泣けばいいのか、沸騰した頭の中は纏まらず奏は只々芋虫のように身体を捻り続ける。
「ほんと勘弁してくださいってか私が何したっての……?」
「お前は趣味が悪い」
「……は?」
口を開いたかと思えば。
意味の分からない事を言ってくる鴉に、否、意味が分からないのはいつもの事かと。
抵抗のしすぎで汗をかいてきた奏は、子猫の肉球に夢中になっているらしい河井の後頭部に恨みがましい視線を送る。
本当は鴉の方を振り向けば、その意図を読み取ることが出来るのかもしれないが。
距離が距離なので絶対無理だと、奏は涙ぐましい抵抗を続けるしかない。
「“その他”の何処が良い。俺より劣っている部分しか無いと思うが」
「は?」
反射的に振り返ってしまった先、やはり途轍もなく近かった距離に、奏は抵抗を忘れた。
「人間だからか」
「へ?」
目をいつもより大きく見開くまでは良いとして、口まで半開きのまま数秒フリーズしていた奏は、回されていた鴉の腕が外されたことにしばらく気が付かなかった。
いつものように右手は繋がれたまま、いつものように隣に並んで。
そこまで来て漸く己が解放されたのだという事を理解した奏は、けれど頭の中をかなり混乱させていた。
「なに……もしかしてあんた、その……なんか気に、してんの?」
「全く」
全く。
まったく、意味が分からなくなった奏は、フードに隠れた鴉の横顔をじっと見つめる。
「俺の話ではない。お前の趣味が悪いという話だ」
「……いや、別にそういうのじゃ」
「どういうのだ」
それはこっちが聞きたいわ! とは言えず。
けれど何かを伝えたくて、なのに繋がれた手を握り返すことも出来ず。
何か、何かと言葉を探しているうちに誰かが決めた“時間切れ”が来てしまう気がして、奏はぐっと奥歯を噛みしめた。
「……わ、わたし、は」
「なんだ」
「人とか、感染者とか関係ない。大事なのは“敵”なのかどうかで、敵だったら排除するし――」
なんだ、と聞く癖に視線を向けてこない鴉に焦燥感だけが募り。
“何故か焦らされている”という理不尽極まりない感覚に、奏の中にふと湧いた苛立ちが、彼女の纏まらない言葉を喉から押し出した。
「居心地のいい場所に、私は居たいと思うだけ……だけど何か文句ある!?」
「そうか。そんなに俺の傍がいいか」
「え」
くるりと顔を向けてきた鴉の、心底満足そうな笑みに。
思わず後ずさりしてしまった奏だが、繋がれた右手のせいで一定以上の距離を開ける事が出来ない。
「べ、別にそんな事は全く言ってない気が――」
「居心地がいいだろう。誰よりも強く誰よりも寛容で何処よりも安全な俺の傍は」
「あ、あんたどっかで頭打ったの……?」
「打っていない」
「……そうか、いつもの事だっけ」
しかし真顔で言われるとこっちが恥ずかしくなるのでやめて下さい、とは言っても恐らく伝わらず。
ふらふらと視線を逃がした奏はその先、猫を抱えたまま固まっている河井とバッチリ目が合い、無性に研究所に帰りたい気分になった。
けれど、帰れない。
何故なら、任務があるから。
(そうだ、行かなくちゃ……)
迷彩柄の防護服にヘルメット、マスクにゴーグルに大荷物。
視界の先にある河井の服装によって、ある意味我に返った奏は、軽く咳払いをして一歩を踏み出した。
「行きましょうか、河井さん」
「お、おう……? ってか場所、お前分かんの?」
「分かります。地図を見れば」
通りすがりざまに、チラリと視線を流した先。
何度確認しても変わる事は無い、黒板に綴られた白い文字列を一瞥した奏は、ゆったりとした瞬きと共にまた前方へと視線を戻した。
先程それを目にした時より、気持ちのざわつきが遥かに小さいのは何故か。
(……蚊に刺されてどんだけ痒くっても、小指を箪笥のカドにぶつけたら忘れるようなもんかな)
そういう意味ではある意味、鴉の傍は居心地の良いものなのかもしれないが否、心臓に悪い時点で居心地が言いわけないだろうと。
自分に言い聞かせていた奏は、追いついてきた足音に混ざる小さな鳴き声に、改めて軽く背後を振り仰いだ。
「い、いやそりゃそうだが……地図に載ってんのか?」
さも、当然のように。
未だ子猫を抱いたままの河井に若干呆れた奏は、けれど思い直し、今だけは放っておいてやることにする。
上から叩いてかゆみを軽減させようと、かゆみ止めを塗ろうと、蚊に刺された場合の対処は人それぞれだ。
ただ、それに囚われている自分を一時でも忘れられればいいと奏は思う。
「載ってるに決まってるじゃないですか……“学校”ですよ?」
冷たい体育館。
決して温かくない燃えるような夕日。
あの日のような灰色のグラウンドを、冷静に見つめられなければ――為るものも成らないのだから、と。