表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ゾンビから生き残るための百のルール  作者:
第五章、応用編その2
71/109

その65・所得選択すること







「そして、その研究所をめちゃくちゃにしてくれた本人でもあるんだよね」


 瞬発力のある楠のイラッとメーターは、そのぶん持続力が無いのだろう。

 腕を組んだ研究者が軽いため息と共に吐いた補足にに、先程の怒りはもう殆ど滲んでいなかった。

 けれど奏はその言葉の内容に、頭の中に真っ白なペンキをぶっ掛けられたかと思った。

 上司二人の説明はとても単純なはずなのに、意味を理解するのが、酷く困難で。

 表情筋をピシリと硬直させた奏はしかし、衝撃のあまり静止の言葉を吐くことすら出来ない。

 なので口を挟む者のいない中、上司二人の会話は依然、酷くマイペースに進んでいく。


「食欲さえ管理していれば暴れだす心配が無い筈の検体が何故、急に暴れだしたのか……今まではその理由が不明で、誰かが食事の管理を怠ったのだとこいつは考えていたようだが。その実――」

「原因はあの検体が変異型ではなく、食欲以外の理由を持って行動する感染者……つまり特殊型だったから、ってわけだね」

「うむ。良かったな、疑いが晴れたではないか。気にしていただろう、確かあの検体の担当者はお前の――」

「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください!」


 とにかくストップをかけねば、と。

 それだけの思いで上司二人の会話を中断させた奏は途端、向けられてきた二方からの視線に軽く息を詰まらせた。

 それでも相手らの意識を己に集中させたことにより、後に引けなくなった現状が彼女の口を無理矢理にでも動かさせてくれる。


「今回、始末するべき感染者は……楠さんが昔にいた研究所で、生まれたんですか? そしてその研究所を、めちゃくちゃにした?」

「うん。僕としては遺伝子に先天的な奇形が見られる者を検体にするのは反対だったんだけど、あの時はともかく色んなデータが欲しかったみたいだからね……ああ、今思えばその辺りも――じゃなかった、そうそう。だからまぁ今回の“報告書にあった感染者を何としても始末しろ”っていうのは、私情の塊。あはははは」


あはははは――じゃねぇよ! と。

 改めて相手の言葉を確認してみた奏には、やはりツッコミを入れる事など出来ない。

 それどころでは無い、というべきか。


「つ、つまりそれは――」


 元いた研究所。めちゃくちゃに。

 結論を紡ごうとした奏はその時、確かに楠と目が合った。


「なに?」


 普段は隠れている楠の瞳が、前髪の隙間から覗いている。

 めちゃくちゃバイオハザード起こってるじゃないですか、なんて。


「……いえ。なんでも、ありません。……その、元いた研究所っていうのは、まさか」

「多分君の考えてる通りだよ?」

 

 楠がカラカラと笑っている。

 この研究者は、こういう時だけはぐらかさない。

 きっと先程の結論も、吐いたところで今のように軽く答えが返されたのだろう。

 それを一瞬の間によって冷静になった頭で理解した奏は、全てを口に出さなかった自分自身に、安堵した。

 知らないこと、知っていたくないこと――というのはこの研究所で働く以上、慎重に選択すべき事である。

 それを初めて強く認識したのは、確か8年前の事だったかと。

 おぼろげに年月を数える奏は、知ったところで今更、自分がどうこうなる訳ではないという事を知っていたが同時に、知っていたくない情報が確実に自分自身の首を絞めるということも知っていた。


「……ま、これで心置きなく処分できるし。良いんじゃない?」


 落ちた数秒の沈黙から、これ以上の言及は無いという事を悟ったのか。

 座っている椅子をくるりと回転させ、机の方へと向き直った楠が軽い調子で出した別の結論に、奏は軽く伏せていた瞼を上げた。


「実は今回、生け捕りにしてもらおうと思ってたんだよね。生きたまま連れ帰ってもらって研究したら、あの時の事故の原因も分かるから。……でもアレすばしっこいから困難だろうし、生かしておくと色々まずいかもってことで断念するしかなかったんだけど――」


 楠が引き寄せた器具に立ててある試験管の中で、黒い液体がゆらりと蠢く。

 それは、鴉から摂取した黒液なのか。

 細長いガラス管の中の物体はまだまだ新鮮で、元気に活動しているようだった。


「もう原因は分かったし、生かしておく必要性は無いってことで逆にスッキリしたね? というか今回、奏ちゃんには何が何でもあの感染者を仕留めて貰わないといけなくなったね? 今までも一応、まぁ早めに始末しときたいって事であれの探索に人は出してたんだけど……あれが特殊型と分かった以上、可能な限り迅速に処理しないと、ね?」

「うむ、言語を学ばれると面倒だ…………うん? お前、あれの探索など行っていたのか? 初耳だが」

「ああ、君には“周辺の探索”としか申請してなかったかも?」


 飯島と楠が何やら少しばかりズレた部分の話を始めたが、奏の思考はまだまだ先程の話題を引きずり続ける。

 標的を必ず仕留めなければならない理由は、今回の標的が特殊型だから。

 そして、楠が過去にいた研究所に関わる、元・検体だから。

 特殊型の全てが言語を操れるわけでは無いが、特殊型である以上――元検体が昔の色々を話せるようになっている可能性が、十分にあるから。


(なるほど……確かに、これは)


 彼には、到底聞かせられないと。

 ついでに上司が河井を退室させた理由も分かった奏は、十分に知りたくない事を知ってしまっている自分に胸中でため息を落とした。


「――つまり、我々にとってマズい情報が漏れる可能性がある限り、奴は速やかに潰しておきたいという単純な話なのだ」

「……は、はい。了解しました」


 はっと意識を目の前に戻せば、先程ズレ始めていた会話は早急に収束したのか。

 飯島が深く頷いている様に、我に返った奏はワンテンポ遅れて了承を吐いた。

 やはり、この研究所での生活が長くなればなるほど、知りたくない事を嫌でも知ってしまう立場に自分はいるらしい。

 己の中の複雑さを誤魔化すかのように、奏は話題をたたむべく、改めて楠に謝罪を行う。


「あと……本当に、申し訳ありませんでした。情報の重要さを理解していませんでした。」


 今ならば、自分が報告しなかった情報が、どれほどの重みを持つものなのかも良く分かった。

 マズい情報の塊であるらしい元検体を、楠は前々からぼちぼち追っていたようだが。

 それが変異型ではなく特殊型だと分かっていたら、もっと本腰を入れて処分に乗り出していたことだろう。


(……ん?でも)


 追っていた元検体が現在まだ生きているということは、探索に出た者たちは標的を発見できなかったのだろうか。

 それとも標的を発見したものの、ミイラ取りがミイラになったという事なのだろうか。


(……まぁ、何にしても)


 うっかり他の任務中の所内の者と元検体が遭遇し、昔の色々をべらべら話された――なんてことに今なっていないのは、不幸中の幸いというやつなのかも知れないと、奏は白い床へと緩やかに視線を落とした。

 この研究所が、元を辿れば何なのだとしても。

 現在感染者に対する唯一の希望なのだから、壊されるわけにはいかなかった。


「奏……確かに君のうっかりは私の研究所を脅かす可能性のあるものだったが、そこまで謝る必要はない」


 床に視線を伏せながら思案を行っていた奏は、かけられた声に顔をふっと上げた。

 実の所、吐き出した謝罪内容とはちょっぴりズレた部分に思考を流し始めていた彼女なのだが、それを見ていた飯島は、奏が自身の失態に対し相当落ち込んでいると感じたのだろう。


「あの小僧の話など任務とは直接関係ない、という君の判断は正しい。その上、巨大感染者というヒントが他にもあったというのに、見落としていたこいつが悪い」


 こいつ、と言いながら楠の方を顎でしゃくった飯島に、奏は僅かに目を細めた。

 卓上の実験から顔を上げた研究者も、恐らく奏と同じことを感じたはずだ。


「……君さぁ。気づいてたんなら、言ってくんない?」

「研究には口を出さない、という約束だろう?」


 飯島は、見事なまでにドヤ顔だった。

 奏はその時、楠の方からプッチーンという擬態語が確かに聞こえた気がした。

 しかしピタリ、とその手が固まっていたのは一瞬の事で、試験管を器具へと戻しスポイトを手放した楠は、とても美しい笑みで振り返った。


「そうそう、奏ちゃん。今回の任務は、もう一つ頼みたいことがあってね?」


 なんだか笑顔が怖い、と思うのは気のせいだろうか。

 明るく、朗らかで、周囲にお花がポワポワと飛んでいそうな楠の笑顔にどうにも得体のしれない迫力を感じ、奏はゴクリとつばを飲みこむ。

 これに対しぽけっと首を傾けている飯島は、もはや鈍感を通り越し馬鹿としか思えない。


「鴉君、だっけ? 今回の任務にはあの感染者も連れて行って、行動のデータを取ってきて欲しいんだよね」

「断るッ!!!」

「君に言ってないから」


 上司二人の掛け合いは、早すぎた。

 口をはさむ間が無くたじろいでいた奏はしかし、飯島を黙らせた楠からの強い視線を感じ、恐る恐る用意された無音の中に言葉を落とすしかなくなる。


「え、あ……こ、行動データ?」

「うん。今、ちょっと色々実験しててね? その経過観察もかねてなんだけど……まぁそれ自体のデータはもう殆ど取れてて、でもやっぱり外で自由に行動している時の情報も欲しいから」

「必要ない! 無い! あの小僧と奏が共に行動――」

「へぇ、じゃあ初めにした約束破るんだ?」


 やはり口を挟んできた飯島の方に、楠がぐるんっと顔を向ける。


「あの時、確かに君も了承したよね? きっちり自分が作り上げたルールを破るんだ?っていうか研究所存続に関わるような重大な事にすら、約束だからって口出ししなかった君が今更口出せるの? っていうか本当危機感ないよね、確かに今の今まで変異型だと思ってた感染者だから、アレが言語を今更に学んでる可能性は少ないよ?でも100パーセントじゃないって事分かってる?0.1パーセントでも可能性がある限り危惧しておくべきだって前から言ってるよね僕?」

「し、しかし」

「ああ、マズかったって事は自覚してるんだ? でも口に出さなかったんだから、今回も口出ししないでくれる? “研究には口を出さない、という約束”だったもんね?」

「ぐ、ぐぐぐぐぐぐ……ッ」


 飯島は、完全に沈黙した。

 一気にたたみかけた楠はそれに満足したのか、先程とは似て異なる、本当に心の底からの笑みを満面に浮かべている。

 そして話題にもっとも関係がある筈の奏はというと、これ以上文句を挟める隙間など到底見当たらず、今更にじわじわと押し寄せてきた“鴉を次の任務に連れて行く”という言葉の意味に心の中でガクリと膝を落とした。


「し、しかし楠さん……今回の任務では人間と接触するだろうし、鴉はあの外見から感染者であると一発でバレるだろうし……連れて行くと色々とマズく、ないでしょう、か?」

「ああ、金髪だもんね。変装すれば?」


 そしてしどろもどろに紡いだ進言もあっという間に解決案を出され、奏には今度こそもう、本当に打つ手がなくなった。

 鴉を任務に連れて行くなど、面倒を通り越して厄介でしかないというのに、と。

 過去の様々な経験をぐるぐると走馬灯のように脳裏で回す奏は、出せる言葉は無くとも、まだ気持ちでは諦めきれない。


「そういえば奏ちゃんもあの集団に顔、見られてるよね? 君も変装しといた方が良いんじゃない?」

「あ、はい……そうですね」

「鴉君は髪を隠せば良いとして、君は性別でも逆転させとけば良いんじゃない? ゴテゴテ装飾しなくていいから楽だし、実は一番正体がバレにくい方法だと思うよ? あ、あとこれ特殊型が持ちうる欲求の種類が書いた紙。何かに使えるかもしれないから持っていけば?」

「そうですね……あ、ありがとうございます……」


 しかしきっちり、変装方法の案まで出されてしまった。

 そして反論を挟める余地など、もう完璧に消え去った、と。

 確かに男装であれば髪を隠して胸を潰せば良いだけだし楽だな、なんて心の中で乾いた笑いを漏らしながら、奏は重い足取りで楠が差し出してきた紙を受け取りに行く。

 そう、この世には“諦めが肝心”という言葉がある。

 机の周辺に積み重なっているレポート用紙の束を崩さないよう、受け取った資料に死んだ目を向けた奏は、そんなこの世の真理の一つに心の中で重いため息を落とした。






  ・   ・   ・





 地下にある資料室には、殆ど人が訪れない。

 “図書館がある”という話はこの研究所の者たちも皆、噂で知っているようだが、それが資料室で、かつ地下にあるのだというところまで、完全に認識している者は少ないだろう。

 そもそもまず、地下という場所に来る必要性が無いのだ。

 食堂・武器庫・鍛錬所・自室も含めて、好きなように使える部屋らは全て、上階に集中しているのだから。


 そして。

 もしかすると、そこから所内の者たちは無意識に連想していたのかもしれない。

 地下に行く必要はない、地下に必要な部屋は無い、地下は立ち入り禁止であると。


(――でも実は、そんなこともねぇんだよな)


 自分自身、初めて楠に呼び出しをかけられた時までは、地下など行った事も無かったなぁなんて。

 改めて思い返しながら河井は今、やはり人っ子一人いない地下の薄暗い資料室で、本棚をあさっていた。


 目的は、これまでの探索関連の報告書のまとめ資料。

 何処どこに誰が行き、そこで何が見つかったか、何が起きたか。

 それらの結果をきっちり纏めたものというのが、何処かに確実に存在しているというのが河井の見立てだった。

 何故なら提出した報告書は消しゴムで内容を消したあと、再利用されているからである。


(レポート用紙とかは、結構手に入りやすい――と見せかけて、アレだからな)


 ぽわんと頭の中に浮かんできた光景に、河井は細いため息を落とした。

 楠の研究室は、常にレポート用紙が散らばっていた。

 机の上には勿論、酷い時は床の上にまで。

 つまり、手に入りやすいレポート用紙を消しゴムで内容を消してまで再利用するはめになっているのは、恐らくあの研究者が大量消費しているからだろうと。


(……ん!? ってことは楠さんの研究速度に対して、補給部隊の供給が追い付いてない……ってことか!?)


 なんという研究速度。

 もはや人間の持つ“可能”の範疇を超えているような気がするが、それが天才というヤツなのかもしれないと。

 否、天才といえども人間である以上、可能な範囲というのは限られているんじゃないのかと。

 資料を引き出しては戻し、引き出しては戻しを繰り返しながら考えているうちに、頭が詰まって来た河井はその時、タイトルへと滑らせていた視線をピタリと止めた。


(おおお! あった!)


 やはり、自分の見立ては間違えていなかった。

 そんな感動が先程まで考えていた事の内容を頭の中からすっ飛ばし、けれど一瞬の感動が去った後、河井の中に残るのは何とも侘しい気持ちである。

 今、手の中にあるのは『探索調査報告書・まとめ』という酷く内容が分かりやすいタイトルを持った一綴り。


(……。)


 気づかないうちに、止めてしまっていた手。

 図書館の乏しい電球の下、パラパラと紙をめくればすぐに見つかる、探していた文章。


10月14日 出発2名。帰還1名。探索任務にて、変異型と思わしき感染者と遭遇――


 続くのは具体的な場所と、遭遇した感染者の容姿。

 視覚が読み取った文章が頭の中で鮮やかな記憶として再生され、速やかに纏めの束を閉じた河井は、少々乱雑に元の本棚へとそれを戻した。


(俺……馬鹿じゃねぇの!?)


 そもそも記憶に残っている以上、確認するまでもなかった情報を今改めて文字で確認し終えた河井は、完全に失念していた事実に特大のため息を落とす。

 そう。

 今確認した纏めの中、次の任務の資料だと先程目を通させられた報告書の中、己の記憶の中。

 その全てにしっかりと存在していた感染者の外見は、見事なまでに一致していた。


(一致しすぎてた……ってのは、言い訳になんねぇよなぁ)


 あれは、四年前の出来事だ。

 しかし、感染者の外見は変わらない。

 そして、その情報を知っていたくせに忘れていた自分は、ちょっと最近たるんでいるのかもしれないと。


(そうだよな。感染者って不死ではないけど、不老なんだったよな……腐るけど)


 一体の感染者を観察し続ける事など今までになかったので、それは所詮聞いた情報でしかない河井はしかし、己の中に確かに入れていた情報を完全に失念していたという事実に抱えかけ――そこで僅かな引っ掛かりを覚えた。


(ん? ってかそうだよな、感染者が不老だとか、何年も同じ感染者を観察してないと分かんねぇ事だよな……?)


 ならば、感染者が不老だという情報を一体、自分は何処から仕入れたのか。

 それは間違いない、楠である。

 何故ならこの研究所の中で、感染者の詳しい情報を知っていて、かつそれを聞いてもいないのに(ベラベラベラと此方の理解を待つことも無くマシンガン並みの速さで)語るのは、楠だけだから。


(つまり、不老だって分かるくらいの間、あの人は同じ感染者を観察してきたって事になんのか? いや、でもなんか所長が“あいつは良くラボの中の検体を放置して腐らせて――”とかなんとかグチってたのを聞いた事がある気が……ってかあの人、検体に対する扱い雑だよな? ってかそれを言い出すと他にも色々変というか何というか……)


 つまり、どういう事なのか。

 考えれば考える程に、思考が纏まらなくなってきて。

 頭にかかった靄を振り払うよう、河井はくるりと身体を反転させ、どすんと本棚へと背を預けた。


「――ッぃって!?」


 途端、本棚の上から落下してきた紙の束。

 思わず声を上げてしまった河井は、頭に直撃した紙の束がバサバサと床へと落下する様を、埃がキラキラ舞う中で確認した。

 成程、先程は反射的に痛いと言ってしまったが、通りで本当のところ、あんまり痛くなかったわけだと。


(……ってか何で急に落ちてくんだよ!?)


 納得してしまえば、自分以外誰もいない資料室の静けさにどうにも微妙な気分になって。

 理由が分かりきっている事を八つ当たり気味に考えながら、河井は落ちた紙を拾い上げるため床へと屈み込んだ。ざっと散らばった紙に視線を流せば、どうやらそれらは全て感染者関連のものらしいという事が分かる。

 しかも、相当古い。


(黄ばんで見えるのも……光の加減のせいじゃねぇよな、多分)


 一枚、一枚。

 拾い上げて内容に軽く目を通し、上下を揃えて。

 落下によってばらけた資料を整頓していくうち、河井はそれらの内容が3種類に分かれているという事に気が付いた。


 感染者の行動パターンについて。

 黒液の感染経路について。

 特殊な行動を取る、感染者について。


(……マジで古いな!)


 今となっては只の常識である情報の束に、これらを研究していた時代も時代もあったんだな――と。

 ある種の感動を覚えない事もない河井だが、正直、それらは現在、全くもって役に立たない代物である。

 すなわち只の常識が書いてある紙を一枚一枚整頓していく作業に、河井はだんだんダルさを感じてきていた。

 目新しい何かがあればまだ楽しさもあるだろうに、こうなってしまえば本当に只の作業だ。


(……ん?)


 しかし。

 散らばったすべての紙を3つの束に収めきった河井は、重大な欠損にピタリと体の動きを止めた。

 速やかに床を再度じっくりと見聞し、本棚の上を確認し、ついでに周辺をぐるりと回って。

 それでも、やはり見つからないページの欠損に、河井は若干青ざめた。


(な、ない……!)


 資料というものには大抵、表紙というものが存在する。

 それが、無いのだ。

 何処をどう探しても、無い。

 きっちりまとめ直した資料の束のあいだに挟まっているのかとも思ったが、残念ながら何度確認しなおしても、無いものは無いのだ。


(3つとも無いとかありえねぇだろ!?)


 しかし若干憤りすら覚えてきていた河井は、そこでふと。

 自分自身の心中でのツッコミに、ガリガリと頭を掻いていた手を止めた。

 なんだか妙に焦ってしまっていたが、3つとも無いというのは、よく考えれば本当におかしい事ではないだろうか。


(元々なかったってこと……か?)


 それならば必死こいて表紙を探していた自分が、なんだかとってもアホらしくなるが。

 人に見られていないだけマシだという事にして(見られていないからこそ空しいという部分もあるが)、まとめ直した資料を拾い上げた河井は、覚えた違和感をゆっくりと辿る。

 表紙だけ、3つとも、存在しないという事の意味。

 偶然とは少しばかり考え難いそれが、偶然ではないのなら、一体何なのか。


(……普通、表紙って何が書いてあるっけ)


 まずタイトル。

 そして作成日時。

 あとは会社の名前――この資料の場合は、研究所名あたりかと。

 古びた紙に並んだ、今や只の常識でしかない文字列に視線を落としながら、河井は僅かに眉をひそめた。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ