その64・体型管理に気をつけること
きょとんと。
不意を突かれたかのように見開かれた河井の瞳は、かえって無表情にも見えた。
それを隣でポケッと観察していた奏は、彼が研究室を退室した後もしばらく、その表情に意識を奪われ続けていた。
(何だったんだろ……)
今回の任務で出会うかもしれない感染者は、河井にとって会った事のある感染者だと。
楠が告げた途端、彼の様子が変わったのは確かであり、そしてそれは奏にとって、どうにも気にかかる表情であり。
一度出会った事のある感染者に、もう一度会うのがそんなに嫌なのか。
しかしそれにしては、嫌という一言には収められないものが、先程の彼の瞳には滲んでいたような気がすると。
意識をよそへとやっていた奏はけれど、飯島の咳払いによって我に返った。
「――実は、少しばかり面倒な問題があるのだ」
三人となった、空間の中。
飯島が落とした僅かに潜められた声に、奏はハッと意識を引き締める。
そう、今は河井の事なんかを考えている場合ではない。
自分だけ部屋に残されたという事は、先に退室した河井には聞かせられないような重要な話があるという事であり、“相手の表情から何かを読み取る”なんて、高度な事をしている場合ではないのだ。
「報告書にあった、変異型と思わしき感染者の件なのだが」」
「はい」
「遭遇した場合、必ず始末して欲しい」
けれど腕を組み真顔で告げてきた飯島に、奏は己の眉を僅かに寄せた。
不可解を放棄した途端、別の不可解が現れるとは一体どういう事なのか。
(必ず始末って……)
普段、任務中遭遇した感染者の処遇は、全て此方側に任されていた。
こうして念を押されるなんて、今までに無い事だった。
しかもそれを今、己だけ残され、告げられている事の意味なんて。
「……それは、もし任務中に遭遇しなかった場合も周囲を探索しろ、という事ですか?」
「あはは、それは無いんじゃない?」
考えれば考える程に増える不可解に頭をグルグルさせ始めていた奏は、カラカラと明るい笑い声を上げたもう一人の上司の方へと顔を向ける。
“それは無い”とは、どういう事か。
何故断言することができるのか。
自分が発した言葉の意味位は自分で説明してくれと、奏が無意識に込めた強い思いは幸いな事に、顕微鏡を小脇にのけ何やら作業をしている楠の背中に、無言の訴えとして届いたのだろう。
「え、もしかして気づいてない? 奏ちゃん、君、感染者に好かれてるよ?」
「……それは、どういう」
「ああ、やっぱり気づいてなかったんだ? あのね、君の任務中の感染者との遭遇率、他の人に比べてかなり高いんだよね。今まで“無駄に狙われてる”って思った事、無かった?」
「……!」
やはり作業の片手間、といった様子だったが。
楠が行ってくれた説明に、過去の任務を思い返した奏は見事なまでに絶句する羽目になった。
自らの中を流れていく回想に、思い当る部分がありすぎたからである。
(た、確かに……)
元を辿れば。
初めてその違和感を覚えたのは、洞窟の中で巨大ゾンビに会った時の事だったのかもしれない。
あの巨大ゾンビは、鴉に身体を踏んだり蹴ったり引きちぎったり喰われたりしながらも、何故か自分の方ばかりを狙ってきたのだ。それもしばらくの間、ずっと。
それはもう、当初は釈然としなかった。
何故、このゾンビは鴉という障害を排除しないままに、自分にばかり執着してくるのかと。
けれどその時は、あの巨大ゾンビは感染者が元来持つ食欲に加え、更に食欲を持った特殊型だったのだ――という結論を出した為、なんとか納得する事が出来ていたのだが。
でもこうして考えてみると、もしや、そういったところが理由だったのではなく。
自分の“餌”としての魅力によって、あの巨大ゾンビは障害の排除よりも餌を渇望していたのかもしれない、と。
考え出せばワラワラと湧いてくる心当たりに、今や奏は完全に表情をフリーズさせていた。
(そうだ、そういえばその後の任務にしても――)
何やら石を物凄いスピードで投げてくる変異型は何故か、そういえば何故か、自分の方にばかり石を投げてきた。
その時はもう既に感染者も感染者を喰う事があるのだと鴉によって理解していたので、“もしかしてこいつら、餌として私の方が弱いのを見抜いて攻撃してんじゃないだろうな”なんてちょっぴり釈然としないながらにも、“やっぱり人間の方が餌として魅力的なのかなぁ”などと納得することにしていたが。
やっぱり、集中攻撃というのはどう考えてもおかしいのだ。
(う、うわぁ……)
更にダメ押しのように、前回の観光地での任務中の出来事にさえ、心当たりは出てくるのである。
観光地をうろつく感染者の始末は、酷くスムーズに進んだ。それは、スムーズすぎる程に。
その時はサクサク任務が進む事に疑問なんて抱かなかったが(他の問題の方が問題だった事もあるが)、もしやあれらは全て“自分が探索して発見した”というよりも“自分を狙って寄って来たゾンビを倒していた”という事だったのかもしれない。
だって、良く考えれば、周囲にぼつぼつ存在するゾンビを全て自分で狩りきるというのは、寄せ餌でもない限り困難な事の筈である。
――と、まぁここまで来ると偶然の集中攻撃より、“自分の餌としての魅力”を認める方が現実的であると。
認めざる負えない奏は先程までの疑問をスッパリ忘れ、心の中、絶望にも似た疲労感によって膝を折る。
ついでに言うと無意識下では本当に最後のダメ押し、『優越欲の権化であるらしい感染者の中で“非常食”というとても素晴らしい(らしい)ポジションに置かれている』という事実もしっかり認識していたが、そこはきちんと思考にしてしまうともう、崖っぷちから奈落の底に叩き落されるかのような気分になるので。
ガッツリ削られた精神HPの防衛のため心を無にしようとしていた奏は、普段以上に目が死んでいた。
「……物事には全て、理由というものが存在する」
そして、そんな彼女の死んだ目から、滲む疲労を感じ取ったのか。
ぽつりと声を落とした飯島に、もしや何かフォローを吐いてくれるのかと虚ろな視線を上げた奏は、その先にいる自分の師匠が深く頷いて見せる様にほんの僅かな期待を託した。
「なので奏、君が狙われる事にも、理由は存在する」
「それは……一体?」
「奏、君はまず栄養状態が非常に優れている。これは、何故か他の隊員が食べようとしないC食を、君は比較的良く食べているからだろう……感染者は本能的に、栄養価の高い物を好むからな」
なるほど、でもそれって所長が「栄養価高いから食べなさい」って言ってくるからですよ?
とは思いつつも口を出さなかった奏は、なんだか飯島が紡いでいく言葉にちょっぴり嫌な予感がしてきたが、一応先を聞いてみる事にした。
「そしてその栄養状態の高さによって生み出されているのが……奏、君の身体のバランスの良さだ。今は少しばかり脂肪が増えているようだが――君は脂肪と筋力のバランスも、非常に優れている」
「えー……つまり、それは――」
「つまり、君は感染者にとって、バランスの良い総合栄養食に見えるというわけだ……ふっ、私の組み上げたトレーニングプランは完璧すぎるバランスを生み出してしまった様だな!!」
「・・・・・・。」
そして、それを感染者達は証明してくれているという事なんですね!
なんて乗れるはずもない奏は、湧き出た感情を抑え込むのに必死だった。
己の眉がひくつき、拳がわなわなと震えている事が、とても良く分かる。
(つまり、お前のせいか!!)
現実には、到底口には出せない言葉。
そして同時に、奏は握りしめた拳を相手に届けることが出来ない。飯島を殴る事が許されているのは鍛錬所の中だけである。
なので今すぐにでも詰め寄って「ちょっと鍛錬所、行きましょうか」と言いたくなった奏はしかし、何とも興味なさげに響いた適当な笑い声によって足を止めさせられた。
「あはは。ってことで、まぁ間違いなく次の任務でも目的の感染者に遭遇するだろうって見立てなんだよね。報告書を見る限り、相手は今はその人間の集団とか言うのに夢中みたいだけど……君が行ったら、君の方によって来るでしょ? そこをまぁ、ザクッとね?」
「……はあ。……まぁ、はい。そう、ですね」
朗らかな調子で、かつ要点の纏まった楠の言葉に。
奏は軽く瞼を伏せて、静かな深呼吸を数回繰り返した。
なんだか怒りによって一瞬にして失念していたが、そういえば今は、上司から指示を出されている最中なのである。
そう、自分が感染者に狙われている理由は全て飯島のプランのせいだ、という中々に物申したい事実に対する言及は、今は置いておかなければならないのである。
「……しかし少し、疑問なんですが」
なので、とりあえず今は、怒りは置いておいて。
けれど後で言及、後で言及、後で絶対一発入れてやると。忘れない意思を自身に言い聞かせていた奏は、ついでに先程報告書を読んだ際、少し気にかかった部分を上司に確認してみる事にした。
それは、自分自身の意識を任務へと向ける作戦でもある。
しかし、それは実際、何故誰も突っ込まないのかというくらい気になっていた事だったりもする。
「ん、疑問? 何々?」
「あの報告書を、私も読ませて頂いたんですが。……報告書にある感染者は、本当に変異型なのでしょうか」
「ああ、そうなんだよね、ちょっと行動が変だよね? 人間の集団をストーキングしながら甚振ってるみたいだし……」
「はい、そこが少し気になって」
報告書には、変異型と思われる感染者がどうの、といった内容が記されていた。
しかし楠もいったように、報告書にあった感染者は、変異型というには少しばかり変わった行動を取っている。
普通、変異型は通常型とほぼ同等程度の知能しか有していない。なので、『獲物を追いながら少しずつ甚振る』なんて、趣味的行動をとる事は無い筈なのである。
「でも足が変異してるみたいだから、まぁ今のところは変異型って事なんじゃない? でも変異型とするには奏ちゃんが言うように、やっぱり行動に違和感があるし。となるとやっぱ、変異型が特殊型に進化する事もあるって事なのかな?」
「あ、いえ。そうではなく」
「ん?どういう事?」
机の上で行っていた作業から、改めて此方へと顔を向けてきた楠に。
いまいち言いたいことが伝わっていないという事を察した奏は、内心首を傾げながらも自らの結論を口にした。
「特殊型が足を変異させているのではないでしょうか?」
奏の中では、どう考えても、そうだった。
獲物を追って、お腹がいっぱいになったら去る――という単純な行動をしていないあたり、報告書にある感染者は、特殊型だとしか思えない。
それは変異型が奇行をとっているという過程より、変異型が特殊型に進化するという嫌な想像より、ずっと現実的なもの。
しかし。
(……え。な、なんで無言?)
何故か落ちてしまった無音の時に、奏は少しばかり動揺した。
こちらは間違ったことは言っていないはず。なのに無言を返されてしまうと、やはり自分が何かトンチンカンな事をいってしまったのかもしれない、という気分になってくる。
「それは、つまり……特殊型も変異型みたいに、身体の一部を作り変えれるかもって話?」
「はい――というか、あの。“かも”というより、特殊型は己の身体を……作り変えられます、よね?」
「……確かに。君が前会った、なんか凄く大きくて腐ってるゾンビは、特殊型だけど“身体を作り変えてる”といえるね」
なにやら、神妙な様子で考え込んでいるらしい楠に。
奏の中の動揺が、疑問によって揺れた。
確かにあの巨大ゾンビも、その巨大さからして“身体を作り変えていた”と言えるのかもしれないが、どちらかというと“栄養過多によって自然と肥大してしまった”という方がしっくりくる。
それに、奏はそういった事を言いたいのではなかった。
「というか、鴉がやっていたので?」
栄養を沢山とったから体が大きくなりました、という水が上から下に流れるような自然な話ではなく、獲物を狩りやすいように腕を強化する・足を強化する……といった、故意の話。
というか何故、たったこれだけの話が、こんなにも伝わらないのかと。
楠の読解力の低さを考えるより、自分の説明下手の可能性の方が現実的で、少しばかり自信を無くしかけた奏はそこでふと、ヒヤリとしたものを首筋に感じた。
「……いつ? その話、聞いてないよ?」
楠の目は毎度のごとく、長い前髪によって隠れていたが。
そこから怒気を超えた殺気じみたものを確かに感じ取った奏の心拍が、一気に上昇する。
「あ、あの、以前その、巨大な腐ったゾンビの身体のサンプルを取りに行った時に」
「ああ、河井君と一緒に行った時? でもその時は確か『巨大ゾンビの身体は全部鴉君に食べられちゃってて、その時遭遇したなんか石を超スピードで投げてくる腕を変異させた変異型を適当に蹴散らして帰って来た』――って話じゃなかったっけ?」
「あ、はい。そうなんですが、それの合間にというか――申し訳ありません、任務の内容には関係のない事かと思って……報告書には書きませんでした」
河井によって撃ち落とされた感染者の肥大化した腕を見て、これが狙撃と紛うばかりの投擲の原理だったのかと。そこで不意に思いつき、鴉に「お前もこれが出来るのか?」、と。
聞いたあれは、今思い返しても、完全に任務の合間の話だった、けれど。
任務内容とは直接の関係がなかろうと、あれはれっきとした、重要な感染者の情報だったのだと。
(や、やばい)
自分のうっかり失念に今更気が付かされた奏は、心の中で、ただヤバイヤバイヤバイとだけ繰り返していた。
別に情報を隠ぺいしていたつもりはないが、楠が怒気を滲ませているという事は、それは重要な情報だったということである。
「……もしかしてそれ、河井君と離れてた時の話?」
「は、はい……」
「あー……なるほどね?」
なるほど、とはどういう事なのか。
口元を引き結んだ上司の静かなお怒りに、背中に汗をだらだら流していた奏は、無意識の現実逃避によって少しばかりズレた部分へと思考を流した。
けれど自らの、思ってもいなかった失態によって半ばパニックになった頭では、『報告書の内容がやはり毎度のごとく散々だった河井が楠に呼び出され下手な言い訳をした挙句、根掘り葉掘り全て洗いざらい口頭によって報告することになっていた。けれど河井は鴉が己の意思で腕を変異させるシーンを見ていないので、結果的に洗いざらい話そうが、そんな感染者の事実は楠に伝わる事は無かった』なんて結論にたどり着ける筈もない。
そしてもし結論にたどり着けたとしても、それはこの現状に対しなんの改善にもなりはしない。
そんな事実になんだか不意に気が付いてしまった奏は、もうなんだか兎に角ごめんなさいという気分になって来た。
なんたって楠はむっつりと黙り込んだまま、顎に手を当て何やらを考え込んでいるのである。
間違いなく、怒っているのである。
(どどどどどうしよう……!)
とくれば自分に残された手段は、一体何なのか。
刻々と過ぎ行く無音の重圧の中、奏の脳裏に過ったのは、プライドを犠牲に全ての失態を帳消しにしてくれる可能性を持った――日本人特有の秘儀。
すなわち、土下座である。
「なるほど、という事は――」
けれど、その時。
実際目の前にプラーンと蜘蛛が降りてきたわけでは無いが、奏は天から蜘蛛の糸が降りて来たのかと思った。
緊張によって研ぎ澄まされた神経と反射速度で無音の中に落ちた飯島の声の方へと顔を向ければ、そこに確かな希望をがある。
(さっきは特に嬉しい事言ってくれなかったけど!)
けれど、今回はちょっといいとこ見せて欲しいと。
重圧に溺れる奏は、飯島をも頼る。
「つまり奴はあの時、ただ純粋に特殊型の欲求として行動をした……誰かの惰性が原因ではなかった、という事になる」
しかし。
ハッキリ言って、奏には意味が分からなかった。
「……そうだね」
けれど。
ずっと無言を貫いていた楠は、小さく頷いた。
「……?」
そしてお怒りの方が言葉を発したことによって、霧散した緊迫した空気。
けれど、しかし、奏はどうにもモヤっとした。
楠の怒りが収まった非常に有難いが、二人にだけ通じる言葉で会話されてしまうと、第三者は身の置き場がないのである。
(でも……まぁ、聞けないしな)
となると、このまま適当に誤魔化すしかないのだろう。
否、その場を誤魔化すなどと言う高等技術は持っていないので、このまま誰かがまた話し出すのを待つしかないだろうと。
けれど今後のプチ計画を立てていた奏はそこでふと、飯島の視線に気が付き内心で首を傾けた。
「ふむ。奏、君には話していなかったか」
パチリと。
奏はただの反射で、瞬きをした。
しかし飯島の方は、それを肯定の頷きと取ったのだろう。
「今回の報告書にあった感染者――奏、君が次の任務で遭遇する予定の感染者は元々、こいつが昔にいた研究所で生まれた検体のうちの一人だ」
まるで、世間話をするかのように。
飯島が話し始めるものだから、奏はしばらく、何を言われているのか分からなかった。