その7・恐怖に負けないこと
山中をゆったり走るモノレールがトンネルの入り口に差し掛かった時、奏は逃げ出したくなった。
否、出来ることなら既に逃げ出していただろう。
暗闇を走るモノレールのガタガタと揺れる車体に、彼女は顔を引きつらせる。
そう、このトンネルもまたモノレールと同じ。長い間人の手によってメンテナンスされていないもの。
(まずい。トンネルが崩れたらどうしよう)
車窓から真っ暗な景色を眺める奏の顔はすでに蒼白である。
しかし彼女の顔はその全体をマスクによって覆われているので、車窓に表情が映る事はない。
(崩れなくても老朽化した岩盤とか降ってきたらアウト? ああ、なんでこんな事に……!)
本来なら、彼女はこんな危険を冒さない。ゾンビ蔓延る老朽化都市でこれまで任務をこなし続けられたのは、危険そうな場所に決して立ち入らなかったから、というのもあるだろう。
それが今、奏は味わいたくも無いスリルを強制的に味わわされている。全ての現況は鏡のようになったガラスに映る、通路向こうにいる感染者だ。
二人がけの座席にどっかりと座り込み余裕ぶっこいている(ように少なくとも奏には見える)のが非常に腹立たしい。
と、我に返った奏は己の思考を振り払うよう軽く頭を振った。
(いけない、いけない)
怒りという私的感情に囚われ、冷静さを欠くのはよろしくない。いつ何時なにが起きても対処できるよう、平常心は欠かせないものだ。
そう、いくらこのモノレールがトロトロ走っていようとも、焦ってはいけない。
平常心、平常心が大切なのだと奏は自身に言い聞かせる。
まぁ、いくら平常心だろうとトンネルが崩れれば終わりなのだが、考えても仕方が無いことは考えないことにした。
(そう、それよりこ――……ん?)
と、その時ふと窓の向こうを通り過ぎていった何かに奏の思考が中断する。
車内の明かりで僅か照らされたそれはモノレールの進みに合わせて遠ざかっていった。
「……。」
しっかりと視認できたわけではないが、それがどうにも気にかかり。
通路向かいの感染者に動きが無いことを確認した上で、奏は窓にへばり付くようにして車外の暗闇を凝視した。
暗闇を、ゆっくりと進んでいくモノレール。元は観光用のものだったのか、それならばこの緩慢なスピードにも納得できる。
もしかしたら先ほど立ち寄った場所も元は何かしらのレジャー施設だったのかもしれないな、と。
奏の思考が少しばかりずれ始めた時、それは彼女の前に姿を現した。
「――っ!」
腐れ落ちた顔。
通り過ぎたそのぽっかりと明いた眼孔と、窓一枚越しに顔を突き合わせてしまった奏は僅かな悲鳴を上げ―――それは背後から伸びてきた掌に全て吸収された。
「――ッ!!!――――!―――――ッッ!!!」
今度こそ奏は背後に向かってしっかりとした悲鳴を上げるが、それもまた空気口をぴったりと塞いだ感染者の手によって妨げられる。暴れる彼女の身体は、既にきっちりと羽交い絞めにされていた。
(こいついつの間に……っ!というか、ここまできっちり空気口塞がれたら――)
息が出来ない。死ぬ。
半狂乱になりながらも奏は必死にその両手を駆使し、空気口から相手の掌をどかせる事に成功した。
ひゅっ、と。
足りない酸素を補おうと鋭く息を吸えば又、もう片方の手で空気口を塞がれる。
慌てて奏は手にしていた感染者の腕を開放し、再度空気口を塞ぐ相手の手をどかす。
するとまた感染者は解放された腕を使って奏の空気口を塞いでくる。
(なにがしたいの、こいつ!?)
なんだこれは、新手の拷問かと。
怒気を込め背後を振り仰いだ奏は、相手との顔の近さに血の気を失った。
(あ、食われる)
先ほどの会話など頭からすっぽ抜け、真っ先に思う彼女の身体は完璧に硬直していた。
フリーズしたまま走馬灯を巡らせ始めた奏の前、得体のしれない・何を考えているのかも分からない感染者は、己の唇に人差し指を当てる。
凍りついた身体と思考が溶け、奏がその意味を理解するのにおよそ二秒。
(・・・・・・静かにしろ、ってこと?)
少しばかり酸欠気味になってきた頭で相手のジェスチャーを確認し、奏は己の親指と人差し指で輪を作った。
分かったから放してくれ、という意味を込めて。
「?」
しかし、それは相手に伝わらなかったらしい。
「・・・・・・。」
何故“静かに”というジェスチャーを知っているのに“オッケーサイン”は分からないのか。
改めてこの理解不能な感染者は理解不能だと、奏は己の頭を数回縦に振った。
そうして漸く開放された奏。
生理的な涙の滲む瞳で相手を睨めば、先ほどまで彼女を窒息死させかけていた手が車窓の外を指差した。
そして次に、先ほどと同じように男は自らの口に人差し指を当てる。
(“静かに”と“窓の外”が、関係あるって事?)
奏は先ほど見た、車外の『目の無いゾンビ』を回想し、一つの仮説を立てる。眼球が腐れ落ちたあの感染者は視界がないぶん聴覚が発達し、音に過剰反応するのではないかと。
しかし、だ。
奏にとっては腐れたゾンビより今、目の前にいる得体の知れない感染者の方が数倍危険である。
なんといっても距離が近い。
数十センチしかない距離で長時間感染者と対峙した経験など彼女には無く、無意識に距離をとろうと腰を引いた瞬間。
こつん、と。
ほんの僅か、奏のヘルメットが車窓を打った。
途端、何かを引っかくような音が多方向から伝わってくる。総毛だった鳥肌に嫌な予感しかしない中、それでも奏の首はゆっくりと、機械的に回転していく。
やがて、映し出された背後の景観。
車窓には、一面に眼球のないゾンビの顔がベタリとへばりついていた。
「・・・・・・・・・・・。」
グロテスクを通り過ぎた光景に、震えなかった彼女の声帯。それは賛美に値するだろう。
これまで感染者と対峙してきた経験からか、奏は一定以上のショッキング映像を目にしたとき反射的に感情を殺す術を身につけていた。
どこまでも、無感動に。
「……。」
「……。」
息を殺し車内を覗き込んでくる真っ暗な眼孔を注視すること数秒、やがてトンネルの終わりを告げる明かりがうっすらと射し込み始める。
それと同時、解散していくゾンビの群れ。
あれらは日光が苦手なのかとどこか冷静に理解する奏の背に、一拍おいて大量の冷や汗が伝った。
なんだ、さっきのは。とてつもなく恐ろしい光景だった。
あの数に襲われたら無事では済まなかっただろう、と。
細長く息をつき座席に座りなおした奏は、すぐ隣に居た影にまた盛大にその身を引いた。
「まだ居たんですかお前!」
緊張状態から開放されたところを、襲った驚き。
早口に言葉を乱す奏の隣、座席の上でヤンキー座りをしていた感染者は淀んだ瞳でじっと此方を見つめている。
静かに、と言われておきながら音を立てた奏に対し、怒っているのだろうか。
小言か拳の一つでも飛んでくるかと覚悟した彼女の前、感染者の手が上げられたかと思えば。
「これはなんだ」
感染者は自身の右手の親指と人差し指で、輪を作った。
「……。」
「なんだと聞いている」
「……それは“オッケーサイン”と呼ばれるもので。了解、わかった、という意味をもつものです」
先ほど行ったジェスチャーの意味を確認してきた感染者に、何故か敬語で返してしまう奏。
そもそも彼女は敬語が常なので、口にした言葉がそれであった事にあまり不自然は無いのだが。
(ん? コイツ相手に敬語……?)
考えなしに口にしたとはいえ、奏は非常に不本意な気分になる。
「因みにこうすると、お金」
「ふむ」
「まぁ使わないでしょうけど!」
上向きに親指と人差し指で輪を作った奏は、語尾荒く言い切った。
そこには『感染者であるテメーには一生無縁のもんだぜ!そもそもお前らのせいで社会崩壊してるから 私にも無縁だがな!!』という意味が込められていたのだが当然、相手には伝わらない。
教えたばかりのジェスチャーを確認するかのように作っている感染者を、奏は噛み付かんばかりの勢いで睨みつけた。
「わかったら向こう行って」
「わかった」
「え、あ、そう?」
あまりにも、あっさりと。
了承され拍子抜けした奏へと、感染者は自分の手元に落としていた視線を上げる。
「わかった。お前ただの非常食ではないな」
「は?」
「辞書でもあったのか」
「・・・・・・。」
やはりそこに人権はないのかと。
非常にマイペースな感染者には、ツッコミ所が多すぎて、もはや口を開く気力すら失せた奏だった。