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ゾンビから生き残るための百のルール  作者:
俗にいう幕間〜風邪を引いたとき編〜
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その62・大前提として適切な看病を行ってもらうこと







 ゆるやかな目覚め。

 体調を伺う第一声と、程よく冷まされた水分たっぷりの食事。

 一通りの軽い検診を受けながら器の中身をからっぽにすれば、速やかに上体を布団の中に戻され、奏は寝転びながら食器が下げられていく様子を見送った。

 どうにも良い身分になった気分である。


「だいぶ顔色が良くなったね? 憑き物でも落ちたかな?」

「……良く寝たんで。だからだと思います」

「あはは、この調子だと明日には回復してそうだね?」


 それでも今はまだ病人だ、という事なのか。

 しっかりと感染防止用にマスクをつけている楠が手繰り寄せた洗面器の中で、ぽちゃんと水が跳ねる音がする。そんなどこか涼しげな音を、蛍光灯を見つめながら聞いていた奏は、おでこに乗せられた濡れタオルに軽く目を細めた。


 昨日の鴉襲来の、後。

 全ての気力を使い果たしたからなのか、どうなのか。

 先程まで泥のように眠っていた奏は現在、楠が言うように、己の体調がかなり回復してきている事を感じていた。

 それこそ体温計が無いので体感でしかないが、熱はもう平熱に近い場所まで戻ってきている。


「というか……楠さんって、看病上手ですよね」

「そう?普通じゃない?ああ、でも……」


 寝相によってずれていた布団を正してくれていた引きこもり研究者の白い手が、何か考え事をするかのようにピタリと止まる。

 研究の邪魔となるような事を極端に嫌がる、楠の性格からして。

 『見ているだけ看護』になるかと思いきや、いざ決定となればかなり丁寧な看護を自分に対して行ってくれている研究者に、奏は意外を感じていた。


「兄弟がいてね。そいつが結構病気がちだったから。慣れてたのかもしれないね?」

「兄弟……」

「奏ちゃんは一人っ子だっけ?」

「……はい」


 ぽつぽつと控えめに会話を交わしながら、奏は研究室の蛍光灯を見上げる。

 確かに、兄弟が病気がちだったりすると、看病という行為にも慣れが生まれるものかもしれない。

 それを踏まえて思い返せば、鴉は当然、病人に対し乾き物を持ってきた河井にも、もしかすると兄弟がいないのかもしれない。

 そんなちょっとした行動にも育ってきた環境が影響するというのは中々に面白い事だなんて考えつつ、けれど。


「……鴉を、自由にさせすぎじゃないですか」


 いくら適切な看護を施されようと、それとは別で物申したい部分がしっかりある、と。

 蛍光灯の明かりに目を細めながらボソリと吐き出した奏の耳に、届いたのはカラカラとした明るい声だ。


「あれは人に危害を加えるタイプの感染者じゃないと思ってね? 特に奏ちゃんには」

「……でも、感染者ですよ」

「それこそ、君は良く知ってるんじゃない? 前にも感染者に助けられた事がある、君としては」


 なんだか楽しげな楠の声に、ザックリ。

 奏は反論を紡ぐための口を閉じさせられ、物言いたげな視線だけを相手に向けた。

 しかし毎度のごとく楠の目元はもっさりした前髪によって隠されており、加えて今は口元もマスクによって隠されており。

 それでもなんだか相手が笑っているような気がするのは、恐らく奏の気のせいではないだろう。


「ってか良く考えたら君も凄いよね? 言語操れる感染者に二体も出会うなんて、そうそうある確率じゃないよ?」

「……ですね。しかもそれだけの感染者に出会っておきながら、今生き長らえてますからね」


 細く息をついた奏は、脳内をフラッシュバックのように過っていく回想に軽く眉を寄せた。


 鴉と初めて会ったとき。

 相手によって瞬時に封じられた攻撃手段と、その唇から洩れる意味のある言葉に。

 自分はかなり驚愕したものだ。

 まさか、こんなのが――他にもいたなんて、と。

 けれど前例があったおかげで、頭の中の動揺はそこまで激しくなかったように思う。

 限界まで振り切った警戒心も、ある程度の時と共にゆるやかに落ち着いていったはずだ。


 しかし。

 今こうして思い返してみれば、初めて“人語を解する感染者”と遭遇した河井はあの時、本当に、相当驚いた事だろうと。

 なんで喋ってんだ、なんでお前はそんなに冷静なんだと、当初あまりにもギャーギャーうるさかった河井に、どうにも冷たい態度を取ってしまったような気がしてきた奏は、今更に申し訳なさのようなものを感じた。

 自分だって、初めて言葉を話す感染者と出会ったときは、それこそ言葉を無くすほどに驚いたというのに。


 そう、何度思い返しても、あの時の衝撃は己の中で大きい。

 ケンタロウの骨を拾っていると突如現れた男から、逃げ出したあと。

 追ってくる男から逃げて、逃げて、疲弊して座り込んでしまった木の根もとで、ガサリと現れた気配に、反射的に振り上げた包丁。

 相手の頬を掠り、そこから流れた黒い液体。

 あっというまに包丁を奪われ、死の予感に戦慄した自分に向けられた、“勿体ないから”というなんだか良く分からない理由。


「……命を、救われたんですよね」

「あはは。まぁ、そういう事だね? ……でもまぁ、感染者の考えてる事なんか、深く考えない方が良いよ?」


 思い返して複雑に眉を寄せれば、軽く返して来る楠の前髪の下を奏はじっと見つめた。


「ま、ああいうのに関しては下手に抑制するより、ある程度自由にさせといた方が大人しいよ。ガチガチにスマキ拘束してたらこっちが疲れるしね?」


 確かに。

 “何かを捕らえておく”という行いは、捕らえられている側にストレスを、捕らえている側に疲労感を与える行為だ。前回の任務中、タクロウ君ほか数人の人質を取る羽目になっていた奏にはそれが良く分かり、同時に、なるほど。

 それが鴉を外に出したことに対する、楠の言い分でもあるのかと。

 戻った話題にとりあえず納得すれば、その気配を察したのか。研究者が研究に戻ろうとその腰をゆったり上げる様子に、慌てて奏はまだ釈然としていない気持ちを思いついた疑問に変えてみる事にした。


「あ、あと! ……楠さんは。感染者に対して、どう思ってますか?」

「……どうって。随分と抽象的だね?」


 それは、前々から薄々感じていた疑問。

 この流れならばもしかすると聞けるかも、と。

 思い切って聞いてみた奏は、苦笑を漏らしながら上げかけた腰を落ち着かせる楠に、改めて真剣な眼差しを向ける。


「感染者とは、楠さんにとって“何”ですか?」

「何って。只の研究対象だよ?」


 言って、研究者が軽く肩を竦めて見せる様に。

 しばし言葉を悩ませた奏は、これ以上なく核心に近い質問を、更に具体的な言葉に変えてみる事を決意する。

 ここでのらりクラリとかわされてしまえば、もう二度とこの質問をする機会は巡ってきそうに無い。


「それは、どの感染者に対しても、ですか?」


 僅かな後悔。

 機械類の低い稼働音が、落ちた無音の中に広がる。

 それは恐らく数秒にも満たない短い時だったのだろうが、コクリと唾を飲み込む奏は、どうにも長く引き伸ばされた時間を感じた。

 腕を組んだ楠の前髪が微かに揺れ、その隙間から真っ直ぐに視線が降りてきているのが分かる。やはり余計な質問はしない方が良かったのかも、と漠然とした思いが奏の胸中をザワザワと広がる。

 しかし、時は既に遅い。


「……面白い事を言うね、奏ちゃん?」


 やがて緩く吊り上がったマスクの端に。

 楠が笑みを浮かべている事を察した奏は、また一つ唾を飲み込み相手の表情を注視した。


「研究者ってのはね、ちょっと変わった生き物なんだ。極論を言えば、興味が引かれた物は、何だって研究対象になる。それは感染者だろうと、黒液だろうと、人間だろうと……それこそ、機械に対してだって変わらない」


 静かに、滑らかに紡がれ始めたアルトの声。

 そのどこか淡々とした言葉の連なりは、妙にハッキリと研究室に落ちる。

 前髪の隙間から見える楠の猫目は無感情で、それを見上げていた奏は、また微かに胸の内がざわつくのを感じた。


「全部、只の研究対象だよ。研究者にとって特別なのは、自分だけなんじゃない?」


 客観的に見れない唯一のものだからね、と。

 やがて呟きのような結論を落として軽く肩を揺らした楠に、奏は知らず詰めていた息を吐き出した。

 先程までは変に耳についていた機械類の稼働音は息をひそめ、今はただ何の変哲もない無音だけが研究室の中を満たしている。


 恐らく今のがこの“研究者”の自論で、それが全てで、他には何もないのだと。

 おぼろげながらに理解しながら見上げた先で、柔らかさすら感じる楠の雰囲気に、奏は軽く瞼を伏せた。


「楠さんって……」

「ん、何?」

「割と威厳ありますよね」


 わりとしっかりしてますよね、というのは流石に失礼な気がして。

 もにょもにょと吐き出した奏は、一拍おいて楠がまたカラカラと笑いだす様に、落としたばかりの視線を上げた。


「あはは、なにそれ。もしかしてあいつ、奏ちゃんにもそんなしょうもない事グチってんの?」

「あと、よく見ると顔……綺麗ですね」

「そうかな? 自分の顔とかたぶん十年以上見てないから」


 首を傾けながら、己の前髪を引っ張っている楠の様子に。

 ふと思い当って研究室に置かれている物達へと順に視線を移していった奏は、やはり存在しなかった一つの物品に、また何とも複雑な気分にさせられる。

 この研究室内には、鏡が無かった。

 研究の上で必要ない、という理由から恐らくこの部屋には鏡が存在しないのだろうが。


「楠さん、鏡を見ると良いですよ」


 客観的に見れないのは自分だけ、と。

 呟いていた研究者は、長い前髪の下で、じぶんが先程どんな顔をしていたのかも、きっと分かっていないのだろう。


「自分を客観的に見る、唯一の方法です」


 だからこそ奏は至極簡単で単純な提案を一つ、楠に対して向けてみたのだが。

 返って来たのはキョトン、という表現ピッタリの表情だった。


「……。」

「……。」

「っ……ふ、あはははは! なるほど、確かにね!」


 かと思えば爆笑され、奏は何事かと軽く首を傾けた。

 自分ではそんな面白い事を言ったつもりはなく、何処が楠のツボに入ったのか、全くもって分からない。そんな理解不能を浮かべる奏を置いて、楠の爆笑はどうにも尾を引き続ける。

 ひーひーと。

 呼吸困難になるんじゃないかと思うほど、長い時間。

 お腹を抱えて笑い続けていた楠が目じりに滲んだらしい涙を指で拭いながら顔を上げたのは、奏が「この人大丈夫か」という気分になり始めた頃だった。


「や、やっぱ奏ちゃんは面白いね?」

「それは……どうも?」


 まだ肩をプルプルと震わせている楠に、なんと答えるべきか。

 やはりよく分からないが何やら褒められたようなので、とりあえず感謝の肯定を曖昧に返した奏は、どうにも理解できそうにない楠という人種に胡乱な目を向けた。

 この研究者は、やはり何処からが本気で、どこからが冗談なのか分からない。

 そして何処までを理解していて、何処からをはぐらかしているのかも。


「それで、奏ちゃんはどうなの?」


 しかし、ぽろりと向けられた疑問符に。

 相手の真意ばかり探っていた奏は、今度は自分自身が、キョトンという表現ぴったりの表情を浮かべてしまう羽目になる。


「奏ちゃんにとって、感染者って何?」


 何、とはこれまた随分と曖昧な質問だ。

 そんな何処かで聞いたばかりのような返しを、頭の中では浮かべたものの。先程おなじ質問をした身として、奏は楠が何を聞きたいのかが分かってしまっていた。


 感染者とは、人類の敵。

 それが根本で、その上に何を乗せるのかは人それぞれで。


「人よりも楽で……たまに、人よりも面倒な存在です」

「あはは……君らしいね?」

「人より面倒な存在はいないと、この前までは思っていたんですけどね」


 人は、何を考えているか分からないし、嘘をつくから面倒だ。

 感染者は、思考と行動にほとんど矛盾が無く、どこまでも単純だから楽だ。

 それに“敵”として見るなら断然、感染者の方が扱いやすいと。

 この前までは確かにそう思っていたはずなのに、どうにも曖昧に揺らぎ始めた自分の気持ちに、奏は眉間のシワを濃くさせる。

 でも、もしかしたら、この気持ちは人に相談することによってスッキリするものなのかもしれないと。

 口を開くべきか思案していた奏は、その時、耳に入り込んできた小さな笑い声にいつの間にか伏せていた視線を上げた。


「ってか、奏ちゃんって人間嫌いだよね?」


 見上げた先には、マスクの口元に軽く手を当てた楠の姿。

 どうにも笑いをこらえている姿に見えるそれに、しばらく言われた言葉の意味を考えていた奏は、数秒悩んだ後に結論を吐く。


「そうでしょうか? あまり自覚はありませんでしたけど……まぁ最も許せない存在は、確かに人間の中にいますから」

「あははは、成程ね?」


 感染者の中の面倒な存在はごく一部なだけで、面倒さでいえばブッチギリに人間がナンバーワンだ。

 特に恨みを向けている相手がいる以上、人間という纏まりの株が自分の中で落ちていてもおかしくは無いと。

 考えれば浮かんでくる男の顔を、脳内でサンドバックにした挙句トイレに流していた奏は、ふと思い出した結論に意識を現実の方へと戻した。

 決して許せない人間がいる。でも人間を無駄にしてはいけないのも、分かっている。

 けれど狸寝入りして聞いた会話からして、あの男との再会は近い現実に起きてもおかしくは無いから。


「……楠さん。一つ、お願いがあります」

「ん、何?」


 今、伝えておかなければならないと。

 確信した奏は何も言わず笑っていた楠に軽く首を傾けられ、一度の瞬きの間に意思を固めた。

 きっとこの研究者は了承してくれるはずで、協力者はこの研究者に他ない。


「これは飯島所長にも内密にお願いしたい事なんですが――」


 だから断られては、正直とっても困るのだと。

 声を落としながらも真摯に、自分の中で出していた結論を提案として口にすれば、もっさりした前髪の向こうで一瞬見開かれた楠の目。


 それがやがて緩やかに弧を描く様に、奏はほっと薄い笑みを浮かべた。







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