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ゾンビから生き残るための百のルール  作者:
俗にいう幕間〜風邪を引いたとき編〜
67/109

その61・弱りがちな気持ちを吹き飛ばしてもらうこと








 結果的に言えば、きっちりケンタロウの夢を見る事は出来た。

 しかし誤算だったのは、それがふわふわの温かい夢では無かったこと。




 ケンタロウが男に連れ去られて、何時間か経った頃。

 溢れた感情は全て声にならない声として吐き出し続けて、その残滓も涙として流しつくして、もう心の中には何一つとして残っていなかった。

 けれど、息をしているのかも分からないまま、体育館の冷たい床の温度と同化していた自分の中に、不意に湧き上がってくるものがあった。


 それは、焦燥感。

 ずっと一緒にいた存在がいない。常に傍にあった温もりが無い。

 何故なら、さっきの男の人が、全てを奪っていってしまったから。


 頭の中で言葉にした途端、なんだか急に寒くなってきて。

 それでもたった一つの紛失によって狂ってしまった現実を認める事が出来たのは、思考回路を暴発させる感情が、もう全て無くなってしまっていたからだろう。

 けれどその名残のようにまた涙が頬を伝う感触がして、力を込めた足先はどうにもふら付いた。


 なんだか立ち上がる、ということ自体が随分と久しぶりのような気がした。

それでも、今じぶんがしなくてはならない事はしっかりと分かっていたので、端の方へと転がっていた包丁を拾い、ぐらつきながらも外へと向かう。


 一歩を進めるたびに、身体が軋む。頭が痛いと思考回路が文句を言う。

 男に蹴りを入れられた場所が、今更にじんじんと熱を持ってきて、しかし動かないわけにはいかない。

 自分はもう既に、かなりの時間を無駄にしてしまっていた。

 周囲から微かな視線を感じたが、体育館にいる他の人たちが何もしない人たちだという事は、既に分かっていた。


 今なら、間に合う。

 もう、間に合わない。


 希望と現実が頭の中をぐるぐると回って、重たい体育館の扉を開ければそこに広がっていた夕焼けに目がくらむ。

 嗅覚に意識を集中してみれば、拍子抜けする程にあっさり探していた臭いは見つかって、何処に残っていたのかまた暴れはじめた感情が、身体の痛みを無視させた。

 歩け、走れ、今すぐ走れと、気持ちが行動を焦らせる。

 犬のように臭いを辿って、見知らぬ校舎の渡り廊下の下を通り抜け、先に広がるグラウンドへと向かってみれば、風上からの強風に前髪が煽られた。


 夕焼けの、赤。

 其処に漂う、焦げた臭い。


 砂が入らないよう翳した手を降ろせばその先、開けたグラウンドにはもう誰一人の姿も見えなかった。

 けれど夕日のオレンジに染まる土の上には、本当に分かりやすく黒い部分があって。

 こんもりとした小さな焚き木の跡が、臭いを空気に溶かしていた。


「ぃ……や……――っ!!」


 嫌だ、いやだ、いやだと。

 崩れ落ちそうになりながらそこに駆けよれば、黒い炭の跡とは別に、小脇に分けてある塊があることが分かる。

 それを目にした途端、完全に膝から力が抜けて、へたり込んだまま覚束ない指先を、くすんだ肌色と紫暗色でまだらになった塊の方へと向ける。


 落ちた涙がジュッと炭の上で蒸発して。

 震える指先で一つ一つ拾い上げた骨は、なんだかぺたぺたしていて。

 嫌悪感とこれ以上無かった筈の絶望感が深く深く沈み込んで、すぐ傍で砂利を踏む音が聞こえるまで、その場を動く事が出来なかった。







「――――おい」


 何かが、聞こえたような気がした。

 けれど何にしても寒くて、ビクリと力を込めた両腕は、まるで守れなかったものを今更、守ろうとするかのようで。


「――おい、非常食!」


 しかし。

 何やら強く頬が引っ張られる感触に目の前が暗転したかと思えば、突如。

 視界いっぱいに広がった不機嫌な顔面に、奏はしばし言葉を忘れた。


「…………はっ!?」


 理解不能への抗議と動揺に慌てて手を振り上げれば、ガシリと。

 まるで予測済みだと言わんばかりに右手をキャッチされ、奏は秒間五回のペースで瞬きを繰り返す。

至近距離で揺れた金髪が、蛍光灯の明かりを受けて見事に輝いている。


「ぅえ!? ちょ、あんたなんで――ッ」


 叫べば、ズキリと痛む頭。

 意識した途端に襲ってくる気怠い疲労感。

 どうにも熱が上がっているような気がしてならない奏は、何故か、本当に理解不能なまでに何故かいる鴉が、何やら得意げに頷いている様子に、眉根を寄せた。


「お前はただ俺に会いに来ることすら、ろくに出来んようだからな」


 しかし。

 返って来た言葉に、起こそうとしていた身体から力が抜ける。

 文句をいおうと開いた口から、何も吐き出せない。

 想像以上に自分の身体が重く熱を持っていて、手首から伝わるひんやりとした温度に心地よささえ感じてしまう奏は、多少冷静になった頭でとりあえず、周囲の状況を確認した。


 研究室の、床の上に敷かれた布団の上で、寝ていた自分。しかしいざ目を覚ましてみれば、その傍らに、何故か居る鴉。


 急激に嫌な予感がしてきて奏は速やかに、器物破損の跡が無いかと研究室全体を見渡した。

保管されているサンプル、機材、実験室の扉。

 それらに全く破損が見られず、更に研究室の主が不在という点に、また不可解を覚えた奏の中で先程とはまた別種の嫌な予感が過る。


「……と、とりあえず、右手離して。あと、どいて。水……飲むから」

「……俺より、水が重要か」

「水飲まなきゃ、しぬ」

「なんだと。早く言え」


 言えば大人しく引かれていく身体を見送りながら、奏は上体を起こし枕元にある盆の上に乗ったコップを手に取った。

 持ち上げたコップはぬるく、口にした水は胃までするすると滑り落ちていって。とりあえず一息つけた奏は、もう一杯と水差しに手を伸ばしながら、どうにも大人しい鴉の様子に改めて横目を向けてみる。


「……何か不審な餌の臭いがするな」


 何やら室内を検分しているらしい鴉をコップ片手に観察していると、やがて目が合い、かと思えば突拍子もなく落とされた言葉に、奏は訝しげに眉を寄せた。

 不審な餌、とは一体何の事か。

 寝起きでまだぼやける頭に浮かんだのは、今は懐かしい『ゴキぶりホイホイ』の中に取り付けるアレの存在で、しかしそんなものはもうこの時代に残っていない事を知っている奏は、相手にならって室内に置かれている物へと順に視線を移していく。


「……ああ。この部屋、感染者の臓器とかを保管してるスペースがあるから」


 何に使うのかはサッパリ分からないが。

 楠が感染者の臓器収集を行っている事を知っていた奏が簡潔にそれを伝えれば、研究室の中をまたうろついていた鴉の視線が戻ってくる。

 この感染者がどこまでを“餌”と認識しているのかは分からないが、同族を平気で喰っていたところ、保管している臓器の臭いを“餌の臭い”と認識していてもおかしくない。


「そんで、変な臭いなのは……たぶんなんか腐らないような薬品に漬けてるから」

「成程、そういった餌の保存方法もあるのか」

「……やめろよ?」


 まじまじと此方を眺めてくる鴉に多少の身の危険を感じ、一応くぎを刺しながら奏は盆の上へとコップを戻した。

 本当は水など飲んでいる状況ではないのだろうが、喉が渇いていたので仕方がない。本当は今すぐにでも寝転んでしまいたいのだが、鴉が目の前に居る以上、せめて上体を起こし続けていなければならない。

 しかし、今はそれ以上にどうにも状況がおかしい事が気にかかると、奏は寝起きの頭を回転させてみる事にした。


 実験室にいたはずの感染者が何故、外に出ていてつ、実験室の扉が破壊されていないのか。


 しっかりと思考を働かせてみれば、答えは実に単純だった。

 まず、扉に破壊の跡がない以上、鴉は正当な許可のもと実験室の外に出されているのだろう。

 となると次は、“何故外に出されているのか”という部分。

 まず許可されて外に出ているという時点で既に頭を抱えたくなる状況なのだが、恐らく楠の目的は、特殊型の行動観察だろう、と。

 そのくらいしか鴉が現在自分の隣にいる理由が思いつかない奏は、となればきっと、この部屋には現在監視カメラのようなものが沢山仕掛けられているんだろうな……などと実験室と化しているらしい研究室に気付いてしまい、頭痛を訴える頭に軽く手を添えた。


「薬品? など無くとも干せば長期保存は可能だからな……しかしお前は動いている方が楽しい。非常食として活用されるその時まで、動き続けているべきだ」


 しかし、奏がそんな事を考えている間にも、鴉は一人ズラズラと言葉を吐き出し続けており。

 本当に相変わらずな感染者の様子に奏は、とりあえずあからさまなため息と物言いたげな視線をプレゼントしてみるが、残念ながら相手はそれに気が付かない。

 全く、本当に、何故。

 鴉はこんなにも堂々と、病人の隣に座っているのか。

 外に出ている理由は先程の自分の推測が正しいにしても、外に出れたのなら出れたで、他にする事があるだろうにと。


「……前からちょっと思ってたんだけど。あんたって、頭が弱いの?」

「弱かったことなど一度として無い」

「そうか? い、いや……なんていうか、逞しいなと思って」


 言えばジロリと見下ろされ、曖昧に視線を逸らした奏は、内心でまた一つため息をついた。


「逞しい? 何を当然の事を」

「あ、うん……いや、だから。普通研究所に捕まって、あれこれされたら……なんか、あるもんじゃないの?」

「捕まった覚えは無い。そして体調の不備もない。決して、無い」


 何かあるのか。

 と思いつつもツッコミを口に出せば面倒な事になりそうなので、奏はとりあえず曖昧に相槌を打つ。

 しかし、自分が言いたかったのはそういう事ではない。


 研究所に捕まった(確かに自分自身で否定しているように、自主的に乗り込んできたともいう)彼は、恐らく様々な実験をされているはずであり、実験室に押し込められるという窮屈な生活を送っていたはずであり、外に出されたとなれば――真っ先に逃亡や、八つ当たりに出てもおかしくないはずであり。

 なのに、何故。

 こんなにも堂々と余裕綽々といったいつもと変わらない調子で、鴉が今じぶんの隣に座っているのかが、奏は本気で分からなかった。


「本当に、なにもないの?」

「くどいぞ」

「いや、じゃなくて……うん、なんていうか。まぁ、すごいなって話、というか? いや、身体能力が異常に高いのは知ってたけど、精神的にも逞しいんだなぁと……」


 自分だったら、こんな余裕のある態度はとれない。

 実験室から出された途端、間違いなく八つ当たりをする。そして八つ当たりを済ませてスッキリしたら、小者臭く速やかに逃亡を図る。


 けれど。

 というかそもそも、彼は本気で“研究所に捕らえられている”とは感じていないようで。

 感染者関係のエキスパートである楠の、鴉に対する扱いが上手かったからなのか。それとも鴉の中にある優越欲求が、“捕らえられる”という現象を受け入れ拒否しているからなのか。

 熱にぐらつく頭ではよく分からないが、何にしろ本当に、本当にいつも通りの鴉の調子に、奏はふっと己の中のつかえが溶けだしていくのを感じた。


「……まぁ、感染者だしね」

「それがどうした」

「ちょっと羨ましいって話……あと、なんか安心する」


 起こしていた上体を布団の中に落ち着け直しながら、奏は素直に心中を吐露した。

 揺れない精神、それを体現した全くブレない鴉の態度には、余計な気を使う必要性が皆無で。


「例えば、これが人間相手だったら……たぶん緊張しっぱなしで“この人は本当は何を考えているのか”とか、注意してないと、考えてないといけないし。本音とか、建て前とかね……その点、感染者って嘘つかないし、馬鹿みたいに単純だし」


 もともと“人類の敵”だから、そういう意味で裏切られる事ってないし――とはいわず、奏は自らのぬくもりの残るふわふわの毛布を肩まで引き上げる。

 この感染者は、自分に危害を加える気が無い。この感染者は、自分に対して怒っていない。

 子供が抱くようなそんな単純な安堵に、奏の身体に知らず入っていた力が抜けていく。


「だから、安心する。それに人間って、敵になったりするし……敵じゃなかったとしても、なんかこの時代、コロっと死んじゃうかもしれないし。 そう考えたら、理解しようとしたり、話きいたり心配してみたりとかも――全部意味ないのかもしれないし。でもその辺、あんたは楽というか……いや、人間が色々面倒くさいだけなのかもしれないけど」

「確かに人間は弱くて面倒だが――よく分からんな。死なれたくないのなら、守れば良いだろう」


 理解力があるのか無いのかよく分からない事を言ってくる鴉に、いつのまにか毛布に顔半分まで潜り込んでいた奏は、少しばかり言葉を悩ませた。


「そうしようと思ってる。今までも、思ってた。……だから、私も強くならなきゃって思ってるし」

「そうか。お前は過去の失態を引きずっているのか」


 もぞもぞと、毛布越しに。

 ろくに整理されていなかった言葉をなんとか纏めようとしていた奏は、言われてパチリと目を瞬いた。

 何故、ここでその話が出てくるのか。

 ケンタロウの話をしていたつもりは、全くなかったのだが。

 しかし、どうにも一秒が過ぎ行くほどに“もしかするとそうだったのかも”という疑惑が、奏の中で確信と言って良いほどのものへと変わっていく。

 確かに全てには起源というものがある筈なので、遡った先に“失態”が存在する事は、そう不思議な事ではないように思えた。

 しかし。

 それだとすると、自分でも意識しない部分にまで“あの時”が影響を及ぼしているのかと。


「……だって」


 そう考えると何だかれない気分になってきて、奏は毛布を頭のてっぺんにまで引き上げた。

 なんだか、じぶんが酷く愚かしいように思える。


「だって、守れなかったし。私にとってあの子は、兄弟で、親友で、相棒で……私が守ってあげなきゃいけなかったのに。……っ、結局守ってもらってたのは私の方だったし。その時点でもう凄い残念な気分なのに――」


 馬鹿みたいだ。結局じぶんは何もできなかった。

 全ての骨を拾いきることも出来ず、また現れたあの男から、じぶんは逃げ出す事しか出来なかった。


 そう考えると何だか本当に馬鹿みたいで、情けなくて、奏はこのまま毛布の中に一生埋まっていたいような気分になる。

 けれど、そんな鬱々とした逃避を、妨害する存在が此処にはあって。


「人間である以上、諦めろ」


 ガバリと捲られた毛布。

 その下で、奏は目を見開いたままに硬直した。


「弱い者が弱い者を完全に守り通すなど不可能だ。しかし、俺にとっては“失態”などあり得ん事だからな――」


 こいつは、センチな気分に浸っている自分を少しくらいも放っておいてくれないのか。

 そんな思いに少しばかりイラッとメーターを上昇させた奏は、睨みあげた先の鴉がこれ以上なく綺麗な笑みを浮かべる様を見た。


「お前だけは、俺が最後の瞬間まで守ってやろう」


 何度か言われてきた言葉。

 しかしその言葉に救われたことなど、一度も無かった。


「っ、それ以前に自分が背後から刺される可能性は考えないわけ?!」

「無いな」


 けれど、それなのに。

 いつもいつもどうにも毒気が抜かれて、言葉の持つ強さに反論を言う気も見事に失せて。


「……まぁ確かにあんた、中々死にそうにないしね」


 はぁ、と。

 結局、小さくため息をついて見せた奏は、何故か少しばかり己の目頭が熱くなっている事に気が付いた。

 顔が熱いのは、風邪のせいか。何故か泣きそうになったのは、風邪で興奮しやすくなっているからか。

 湧き上がる感情が胸の中から溢れそうになるのを感じた奏は、目の上に腕を乗せ、気持ちを落ち着けるように一つ深呼吸をした。


「……鴉」

「なんだ、非常食」


 呼べば返ってくる、今ではもう慣れてしまった不本意な呼び名。

 それに今更に何故か物申したい気持ちが湧き上がってきて、けれどこれでは脱線間違いなしと、奏は再度、自らの呼吸を落ち着かせる。


 ずっと、言わねばならなかった事があった。

 研究所にまで、自分を連れ帰ってくれたこと。そのせいで、彼から自由を奪ってしまったこと。

 単純な言葉に収めるのが、難しくて。きっと彼は気にもしていなくて、でも。


「……その、まぁ、なんていうか……あの……あ、ありが――」

「そういえば非常食」


 聞けよ!!

 と、思わず咬みつきたくなって奏は目の上から腕を外す。

 しかし相手の目を見てしまうと途端に先が紡げなくなり、結局無言で睨みあげる事しか出来なくなってしまった視線に、鴉のいつもどおりの無表情が注がれる。


「薄々感じていたが、お前――」

「……な、なに」

「活きが悪くなっていないか」


 ……今更?!

 なんてツッコミは口から言葉としてではなく只の息として滑り落ち、 なんだかとても不本意な気分になった奏は改めてしっかりとため息をおとしてやろうかとも思ったが、やはりやめておく事にする。

 なんたって、相手は鴉。鴉なのだ。

 彼に対し思うがままため息を落としていると、そのうちため息がなくなってしまいかねない事は、薄々気が付いていた。


「風邪、ひいてるから……」

「風邪?」

「普段よりだるーくなって、体温があがって、汗がなんかいっぱい出る現象……」


 これだけ単純に言えば理解するだろうと。

 生気の無い半目で見上げた奏は、その先の鴉が何故か目を見開くさまに軽く首を傾けてやる。


「お前……干からびるのか」

「……そうならないように汗かいたぶんの水分はとってるし、汗で体が冷えないように、楠さんに体も拭いてもらってる」


 何故、じぶんは感染者に“風邪”というものを説明する事になっているのか、なんて。

 真剣に考えたら脱力感しか生まない事を行う羽目になっている奏は、更に目を細めさせて鴉を見上げる。

 痛覚を知らない感染者は当然、風邪などという現象を説明したところで理解できる筈も無くて。

 ならばやはり、この行為は何の意味も持たないのではないかと、細い息を吐き出した奏はしかし、そこで鴉の変化に気が付いた。


「拭いて……“もらっている”?」


 ピクリと片眉を上げた鴉から、何故か殺気が滲んでいる。

 反射的に奏が手を伸ばした先には当然、普段携帯している武器は無く。

 何故そこに反応するんだ、と。


「俺の非常食に勝手に手を出している者がいるとはな」


 疑問を口に出しかけた奏は、しかし結局、意味ある言葉を紡げなかった。


「ぎゃああああああああああ!!!!」

「……。」

「――あああッ!!! あ、あんたちょっと何やってんの放せ! 今すぐ手を放せ!!」

「……。」


 敗因は、先程まくり上げられた毛布を、直ちにかぶり直していなかったことか。

 思考の中に一ミクロン程度残った部分が行う冷静な分析は感情の中には届かず、思い切り服の裾をまくりあげられた奏は、風邪も忘れて絶叫した。

 ありえない――という言葉がただ一つ激しく脳内をリピートし続けて、服の裾を鴉の手から奪い返そうと躍起になる奏の腕には、恐らく火事場の馬鹿力以上の力が込められていた事だろう。


「ちょっと聞いてんの!? 放して、風邪ひくからっ! ってかアンタ、手が冷たいから!!」

「……評価してやろう」

「いらんわ! っ、ゴホッ、げほっ――!!」


 言葉に全身全霊の力を込めれば流石に喉が悲鳴を上げ、変にむせてしまった奏は、涙目ながらに鴉を睨みあげる。

 するとそこにあったのは、意外。


「想像以上に美味そうだった」


 すすすっと服の裾を戻していく鴉が、一人何やら神妙に目を閉じている。

 何処となくそわそわしているその様子からして、もしや己の食欲と戦っているのか。


「――――ひぃっ!?」


 そう考えると先ほどとは別種の身の危険を感じ、我に返った奏は慌てて毛布に身をくるませた。

 武器を持っていても勝てる見込みは薄いというのに、丸腰の(更に風邪で弱っている)自分は、俗に言う据え膳だか棚ボタだか鴨ネギだか――兎も角、そういった何かなのではないかと。


「……。」

「……。」


 しかし、目を閉じ更に腕を組んだ鴉は、その後まったく動こうとせず。

 まるで石になったかのような感染者に、奏は恐る恐る言葉を紡いだ。


「あ、あんた……常識って知ってる?」

「……当然だ。食った事は無いがな」


 なるほど、そんなものを期待した自分が馬鹿だったと。

 一つの結論にたどり着き、同時に無意識に目の前の感染者に餌を食う意思がない事を確信していた奏は、そんな自分に複雑な一息を吐き出すが、完全に失念していた事があった。


 それは、何故ここに鴉がいるのか、という事。

 試験的に実験室から解放された感染者を監視するために、周囲には監視カメラが設置されているかもしれない、という事。


 けれどそんな事はもうすっかり忘れてしまっていた奏は、研究室の小脇にあるモニタールームの前で楠が爆笑をかみ殺している可能性など、考えもせず。

 ただ今じぶんの身が無事である事に、心の底からの感謝をした。

 






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