その60・見舞いに来た同僚には優しくすること
夢を見る。
断片的に飛ぶ場面の連なりだったそれが、いつのまにか一つの時へと収束していく。
はいていたジャージの裾を何かに引っ張られた奏は、瞬きと共に我に返った。
(……あ、れ?)
広い、家の台所。
ケンタロウが、ジャージの端っこを噛んでいる。ふわふわの毛を震わせながら、自分に何かを促している。
キッチン台の向こうに見える居間の空間には、スーツを着た知らない男の人が、もう殆ど落ちた夕日を背負って立っている。
(誰……?)
中年の“誰か”が足を一歩進めれば、その靴の下で割れたガラスが、更に細かいものへと砕けていく。
なんだかふらふらしているその人の、何かがおかしいという事は明らかだった。
此方の存在は見えているだろうに、何故か覚束ない視線。だらりと、力が抜けたように下ろされている腕。
何より、顔や手などにガラスの破片が刺さっているというのに、それを気にした様子が無い。
「――!」
急激に襲ってきた寒気と、眩暈を覚えるような心臓の鼓動。
小刻みに震える指先で流しに立てかけてあったフライパンを手に取り、真っ直ぐに侵入者を睨み付けた自分の足は、けれどいつのまにか一歩、後退していた。
(--って、ちょっ、なんで!?)
もう一歩足を下げようとすれば、何故かケンタロウによって強く引かれるジャージの裾。
低い唸り声を上げながら、それでもその場を動こうとしないケンタロウを半ばパニックになりながら見下ろしてみれば、裾を噛み続けている愛犬は此方の動揺など意にも解せず、ただ居間にいる不審者を震えながらに全力で威嚇していた。
それを見て、不意に気が付く。
家の台所には勝手口という者が無いため、これ以上後ろに下がっても良い事は何もない。
それを思えば二階の自室に自室まで突っ切って携帯から警察に電話――というのも逃げ場を無くす悪手に思えて、とりあえずスタンドに刺さっている包丁も手に取った。
「……。」
「……。」
家の中は、妙に静かだ。
割れた窓の方から、先程も聞いたパトカーのサイレンが遠く聞こえる。
直ぐ近くにある冷蔵庫から低い機械音が聞こえてきて、居間の白熱灯からジジジッと何なのかよく分からない音が聞こえてきて、段々気分が悪くなってきて。
それでも、ゆらゆらと居間の中をうろついている不審者を注視し続けられたのは、恐らくケンタロウの存在のお蔭だろう。
この子は、私が守らなくてはいけない。この子を守れるのは、私しかいない。
いつの間にか頭の中で唱えていたそんな言葉を呪文のように繰り返し、今にも叫びだしてしまいそうな衝動を抑え込んだ。
刻々と過ぎる引き伸ばされたような時間の中で、どうでも良いことにだけ回る頭が、不審者から流れている血が何故か不自然に黒いという、現状打破には全く関係のない疑問符を浮かべる。
それと同時、ピタリと。
うろうろと居間の中を検分するかのように彷徨わされていた不審者の足が止まり、息を吸い込んだ喉が変な音で鳴った。
「ぃ――っ!!」
来ないで、と反射的に叫びそうになった声は、引き攣れた喉からは出てこなかった。
突如くるりと方向転換した不審者が、台所の方へと向かってくる。
先程までの比ではない程に震える手が、フライパンと包丁を取り落しかける。
しかし。
台所に向かってきていた不審者の足は、また唐突にピタリと止まった。
息も出来なくなるような圧迫感の中、涙の滲む目じりでその動向を追えば、何故か不審者の背中は居間のテーブルの方へと向かっていく。
「……?!」
かと思えばテーブルに乗っていた食事へと顔を突っ込ませた不審者に、今度こそ卒倒するかと思った。
ぐちゃぐちゃと。箸どころか手すらも使わず犬食いを始めるその姿を見ていると、両足の感覚が消えそうになる。
これは、おかしい。なにかが間違いなくおかしい。何が、何処が、すべてが――
パニックを起こし始めた思考が、その時捉えたのは鈍い痛みで。
視線を下ろせばジャージ越しの足に食い込む犬歯。そして見上げてくる丸いこげ茶色の瞳と目が合った――かと思えば瞬時に身を翻して走り出したケンタロウに今度こそ頭の中が真っ白になる。
「だめ! 戻って――ッ!!」
声に反応したのか。
食事から頭を上げた不審者の顔面に張り付いたレタスの切れ端やソースに吐き気が込み上げるも、ケンタロウの吠え声によって反射的に息を吸う事が出来た。
駄目だ、吠えたら、危ない。
ケンタロウの方へと緩慢に向けられていく不審者の視線に、足は勝手に駆け出していた。
身を低くして唸っている愛犬の方へと、黒い血に塗れた手が向けられている。それを目にすると同時、反射的に振りかぶった右手に込めらた力は、真っ直ぐに不審者の手へと狙いを定めていて。
鈍い音と共に外敵の手へと衝突したフライパンが、フローリングに落ちてぐわんぐわんとその身を震わせた。
叩き付ける筈が手の内からすっぽ抜けてしまったフライパンの落下音に、弾かれたかのように我に返って、震えて縺れる足を無理矢理動かし、向かう先は居間の入り口、馬鹿正直に玄関の方。
「ケンタロウ! おいで!!」
言わずともフローリングを駆ける爪の音は耳に届いていて。
廊下を抜けた先の玄関で靴を足先に引っかけると共に、お散歩セットを引っ掴んだのは、長年の散歩生活からくる条件反射だったのだろう。
定まらない指先で玄関扉のサムターンを摘まみながら振り返れば、追ってこない足音と人影に、また不可解という名の恐怖感を煽られる。
「ぅ……ぁ、っ……!」
叫びたがる喉を押さえつけて、玄関扉を開けた先は、濃紺に近い夕闇。
頬を撫でた生ぬるい風に、包丁を握る左手が力を込めた。
「――っ!」
「うぉっ!?」
反射的に振りぬいた左手が、何かを軽く掠る感触。
一呼吸と共に瞬きをした奏は、その先にあった顔にまた一つ、瞬きをした。
枕元に座っているふわふわの頭が、俯きながら左頬を抑えて何やらプルプルしている。
「…………え? ……あれ?」
振り上げたままだった左手を降ろせば、徐々にクリアになる思考と読み込めてくる状況。
「…………お前、さぁ」
振り上がっていた自分の腕と、何故か居る河井の地を這うような声。
そこから推測できる現状は、自分はどうやら寝ぼけて河井へと(なんでこんな所に居るんだ)攻撃を仕掛けてしまったらしい、という事実だ。
「ち、違います。今のは流石に、事故です」
そして彼は咄嗟にそれを避けようとしたものの、避けきれなかったのだろう。
この前つくられたばかりの打撲と、まったく同じ個所に同じ人物からダメージを喰らった河井の恨みがましい視線に、奏は慌てて他意は無いというアピールを行った。
「本当に、事故です。他意はありません、本当に」
「……。」
「河井さんこそ、なんでそんな、攻撃を喰らうような距離にいるんですか。ってかなんで居るんですか」
左頬を無言でさすっている河井は、それでもしばらくむっつりと眉根を寄せていたが、やがてゆっくりと瞬きをすると共に視線を横へと流し、ため息と同時にその手を降ろした。
その様子から察するに、釈然としないながらにも、彼は一応納得をしてくれたのだろう。
「はぁ……まぁ、良いけどな。起こしちまった俺も悪ぃし」
「いえ……あの、こちらこそ。……あ、ああ。そういえば楠さんは?」
誤魔化すように向こうの方へと視線をやれば。
其処に居なかった人物へと、これ幸いとばかりに奏は話題をそらした。
そんな様子から此方の居心地の悪さを酌みとってくれたのか、普段楠が腰掛けている椅子の方を振り返った河井は、ぽりぽりと頭を掻きながら僅かにその目を細めさせる。
「奥で、まぁ……なんかやるらしいぞ」
しまった。
と、反射的に自分の話題チョイスを奏は後悔したが、時すでに遅し。
研究室に引きこもりきりの研究者がその席を外している理由など、検体のいる実験室に行っているに他ないというのに。
そして河井とは、検体――感染者の事で揉めたばかりであるというのに。
やってしまった感による奏の中の居心地の悪さは、意識した途端に増すばかりで。
『奥で何が行われているのか』というのは中々に気になる事だったが、彼の前でそんな話題を続ける気にもなれず、奏は中々好判断を行ってくれない自分の頭に、ため息交じりに右腕を乗せた。
どうにも、上手く行かない。熱で頭が動いていないのかもしれないが、上手くいかせる努力というものには、そもそもどうにも疲労感が伴う。
「あー……あと、これ」
そんな事を考えていると、ごそごそと。
聞こえてきた音に頭に乗せていた腕をずらし視線をやった奏は、己の背後の方へと身を捻っている河井が、任務帰りの格好をしているという事にふと遅ればせながらの疑問を感じる。
手袋と付属装備を外しただけの、それは本当に簡単な恰好。
何故、という疑問は膨らんで、楠に報告書を出すにしても一旦部屋に帰って着替えてくれば良いのに、なんて。
考えながら無言で河井の動向を観察していた奏は、けれどやがて差し出された物に、その目を普段の一・五倍ほど見開いた。
「これはメリーから。んで、これは……俺から」
これらは一体、何なのか。
「だからあの子はメアリーだ」というツッコミも忘れ、まじまじと河井の方を見つめてみるも視線はかち合わず、奏は改めてその目を彼の両手に乗った物へと動揺交じりに向け直してみる。
一つは、彼の言葉通りメアリーの乳と思わしき、コップになみなみと注がれた白い液体。
そして、もう一つは、パン。何処からどう見ても、パン。紛うこと無き、パン。
まだ、前者は分かる。水分という意味で、病人には必要なものだ。
しかし、何故彼は熱の出た病人に、途轍もなく固く口内の水分を根こそぎ奪っていくようなパンを、差し出してくるのか。
まさかこれを、食えというのか。
「……とりあえず、先程ご飯食べたばかりなので。此方だけ頂きます」
「お、おう」
けれど、これは恐らく好意だ。好意なのだ。
河井という人間はこれまでの付き合いからして、病人に乾燥物を与えて苦しめるという陰湿ないじめを行うような性格を、していなかった筈なので。きっと彼にも他意は無い筈だと自分自身に言い聞かせながら、上体を起こした奏はコップの方を手に取った。
ちなみにパンの方は、そっと枕元へと置かせて頂く。
「……。」
ごくごくと。
貰った山羊乳に口をつければ訪れる無言の中、奏は、何故か向こうの方を見ている河井の姿を改めて横目に観察した。
防護服に身を包み床に胡坐を空いているその姿を見るに、間違いなく彼は今日何らかの任務を行ってきたのだろう。
そして。
その姿とお土産から推測するに、任務から帰った彼は着替える事もせずメアリーの所へ直行し、乳を搾り、食事で出されたパンの半分を自分に持ってきてくれている。
となればこれは恐らく――お土産ではなく、お見舞い。
そんな事実をかなり遅く確信した奏は、思わず河井の方へと顔を向け、それによって何やら静かに落とされたため息を目撃した。
「……なんか、疲れてます?」
「ん? いや……まぁ、ちょっと任務から帰ったばっかだからかもな」
やはり、予想は的中していたらしい。
ならばこんな所に来ていないで部屋でゆっくりすれば良いものを、と思うも口には出さないままに奏は最後の一口をごくりと飲み干す。
冷たいとは言えないその液体は、けれどしっかりと炎症を起こした喉を潤してくれた。
「ごちそう様です……今回は、どんな任務だったんですか?」
「どうも……この辺りの巡回だな」
「……巡回、とは」
「そのまんま。モノレールまでの道に変な感染者がいねぇかとか、何か変わった事が起きてないかとか。よく使う道の見回りみたいなもんだったな」
彼はもしかすると、否、もしかしなくとも病人に対して気を使ってお見舞いなどという行為に出ているのだから、こちらもそれなりに気を使ってみるべきかもしれない。
そんな思いと共に話題を振ってみていた奏はしかし、返って来た内容から、ならばそんなに疲れる事も無かったのではないのかと。
内心首を傾けたが、寝ていろと河井の手に促され、布団に上体を落ち着け直す。
「でも今回使用許可された弾の数がさ、異常に少なくてな。しかも『感染者と遭遇しても特に戦う必要はない』とか言われて……でも一方的に逃げんのって性に合わねぇし」
ぽつぽつと、そして次第に饒舌に語りだした河井の言葉から、奏はなんとなく事の全貌を理解した。
どうやら普段自分が行っている任務は現在、完全な形ではないにしろ、河井へとまわされているらしい。
しかし自分の場合と違って、彼はついでの臓器の収集を楠から命じられていないようで。
それならばやはり、そんなに疲れる事もないのではないのかと。
思わなくもないが確かに、逃げ回るというのはストレスがたまる事だと。
怪我によって『精神疲労』というものを最近深く実感している奏は思い直し、半ば同情交じりの瞳で河井の方を見上げた。
「……今回使用許可された弾の数って、何発だったんですか?」
「五発」
聞けば速やかに短く帰って来た、なるほど、確かに少ないと思える答えに。
「……何発使ったんですか?」
「ゼロに決まってんだろ。そんなあからさまに『弾節約しろ!』って感じのこと言われて、普通使えるか?」
「……河井さんって、実は結構すごいですね」
僅かに眉をしかめさせていた奏は、「私だったら使います」とは言わず、胡坐の上に肘をついた相手の視線が、居心地悪げに流れる先を追った。
「別に逃げ足が速くなりたかったわけじゃ、ねぇんだけどな」
ふうっと小さく息をついて見せる河井に、試験管を眺めていた奏は、しばし言葉を詰まらせる。
確かに自分たちは感染者達から“逃げる”ために、日々鍛錬を行っているのではない。
ならば、何のために鍛錬を行っているのか。
大雑把に言えば間違いなく『感染者から生き残るため』で、けれどそれは“逃げる”という意味ではなくて。
それの具体性を改めて考えた事など無かった奏は、しかし鍛錬に対し自分は真面目な方だと自負していた。
確かに初めは、自主的なものではなかったけれど。
飯島から、強制的に『バランスの良い身体能力の向上計画』とやらを言い渡されたのが、始まりだったのだけれど。
けれど、強くなりたいという思いは確かに自分の奥底にあって、その元を辿れば自分の無力さを嘆いた瞬間が確かにあって。
あの子は、私が守らなくてはいけなかったのに。あの子を守れるのは、私しかいなかったのに--と。
唯一無二だった大事な存在を、守りきれなかった瞬間がどうにもリアルに蘇り、奏は河井にばれないよう、静かな深呼吸と共に感情を飲み込んだ。
「……河井さんは――いえ。河井さんの師匠って、誰なんですか?」
河井さんは、何のために鍛錬を行っているんですか。
とは聞けず、気分を変えるべく少しばかりずらした部分に質問を向けた奏は、銃の事はよく分からないながらにも、師のいない人間が短期間で成長出来る筈もないという事は分かっていた。
しかし、それに対して返って来たのは、数回の瞬きの後の苦笑。
「言ってもお前、わかんねぇだろ」
「まぁ確かに、分かりませんね」
鍛錬に鍛錬に鍛錬を重ねたせいか、自分は他者の存在に疎い。
それを自負している奏は、確かに名前を出されたところで分かる筈もないと、何だか重くなってきた瞼を閉じる事にした。先ほど一瞬邂逅した過去が質感を持って脳裏に残っているおかげで、連鎖的についさっきまで見ていた夢をぼんやりと思い出し始めていたからだ。
「……すげぇ強い人だった。銃器の扱いにしても、多分近接戦にしてもな」
けれど静かに落とされ始めた声に、過去へと向き始めていた奏の意識が僅かに引き戻される。
「あと精神的にもタフだったな……この人がいれば大丈夫だろって思ってたし、まぁ格好良かった。すげぇ口悪かったけど」
河井の口から出てくる苦笑交じりの言葉が、全て過去形で語られているという事の意味。
それが分からない奏ではなく、持ち上げようとした瞼はしかし、妙に重たくて持ち上がらなかった。
この人がいれば、大丈夫。
そんな覚えのありすぎる言葉だけが、奏の思考に浸透していく。
そんな懐かしすぎる感覚が、脳裏に浮かべていた存在をどんどんリアルなものへと変えていく。
ふわふわの体温を抱きしめた事。縋り付いたこと。ただそこに居るというだけで、満たされた事。
過ぎ去ってもう二度と手の内には戻らない感覚が、こんなにも具体的に蘇ってくるのは、熱に浮かされているからか、半ば夢うつつだからか。
冷静な部分の分析はもう殆ど頭に入ってこず、奏は寝相のせいでズレていた布団を自分の肩元まで引き上げた。
「なぁ。お前はさ、“ある程度務めた人間から順に消えていく”ってヤツ、どう思う?」
しかし。
いざ寝ようというところでまた耳に入って来た声に、奏は恨みがましく薄目を開ける。
「なんかな、元は七不思議で――古株から順番に消えてくって話があんだけどさ。あれって良く考えたらおかしくねぇか?」
けれど、河井はお構いなしに話を続けてきて。
なんだか話が飛んでいるような気がするあたり、もしや自分は一瞬眠っていたのだろうか――なんて考えながら、しかし大した罪悪感は覚えず、奏は相変わらずふわふわの河井の髪の毛へと視線を移した。
「えーっと……古株は……任務で死んでしまうんじゃないですか?」
「そりゃあ……危険度の高い任務には、経験積んでる奴が行くしかねぇし。まぁ、それは確かに……そうかもしんねぇけど」
けど、と続ける河井はなんだか挙動不審だ。
そういえば先程見た夢の中の愛犬も、挙動不審な部分があった。
などと全く話題に集中できない奏は、肘をついた河井の髪がまたふわりと微かに揺れる様をジッと眺める。
「なんて言うかな。経験積んだ人間を、そう簡単に死地に追いやるってのも変な話じゃねぇ? 一人二人はしょうがないかもしんねぇけど、経験積んでる人間を全く残さねぇってのもおかしいだろ」
「……。」
「それに、お前は気づいてないかもしんねぇけど……俺にしろ、お前にしろ、明らかに任務の難易度高いと思わねぇ?」
「…………。」
「良く考えたら、俺らまだうら若き二十代だぞ? それなのにお前は異常に単独任務多いし、俺は俺で最近無茶振りされてる気がするし」
うら若き。
なんだかツッコミどころのある単語に、一瞬僅かに覚醒した思考の中。しかし「うら若きというのは二十代前半か十代後半に対して使われる言葉なのでは?」などという、長い言葉を紡ぐだけの奏の気力は、すぐさま眠気によって削がれる。
それでも。
なんだか相手は真剣な様子だし、と。奏は睡魔と戦いながら、なんとか最近の河井の任務を思い返してみる事にした。
すると確かに、一人での補給部隊の護衛やら、先程の弾五発やら。
どうにも無駄に難易度を上げられている気がしなくもない彼の任務内容に、気力を振り絞った奏は落ちかけていた瞼を押し上げた。
「……心配ですか?」
「心配っつーか……ってかお前、ちょっと白目剥いてんぞ」
言葉を紡ぐことによって僅かに覚醒する頭は、口を閉じた途端にまたふわふわとした眠気に飲まれそうになる。
「心配なら……わざ、と……復帰不可能な怪我をするという手も、あると思います」
「いやまぁそうしたらそりゃ、“外”には行かなくても済むだろうけどな? ってかそれお前、地味に難し――」
「それと。……研究所のやり方自体に、疑問を感じているのなら――今のうちに、どこか遠くへ行った方が……いいと、思います」
もう駄目だ。もう無理だ、ちょっと休憩。
そんな思いと共に瞼を落とす直前、河井が口の動きだけで象っていたのは、「お前」という単語。
それだけを辛うじて確認した奏は、閉じた瞼の裏で、なんとか思考を形にする事によって限界の眠気と戦っていた。
なんだか先程の言葉は、ちょっぴり冷たい言い方だったかもしれない。
でも、迷いながら死ぬくらいなら、其方の方が彼の為になる。
今寝たら、ふわふわの愛犬と添い寝する夢を見れる気がする……じゃなかった、ダメだ、やばい、このままじゃ寝る、というか、眠ってはいけない理由が何かあっただろうか。否、無い。
そんな思いにクタリと屈しかけた奏の耳にその時、河井の身じろぎの音が届いたのは、幸いだったのか、どうなのか。
「……。」
既に四分の三ほど眠っている奏が、無心でうっすらと開いた視界の先。
そこには肘をついた手の上に乗せた真剣な表情を、床へと向けている河井――の、ふわふわの髪の毛。
「河井さんって……」
そっと指先を伸ばしてみれば、絡む毛はやはり、ふわふわだった。
「……ちょっと、ケンタロウに似てる」
それは想像よりも少し固い毛質で、けれども想像通りだったような気もして。
今ならば、きっと。
夢の中だろうと、もう会えない存在に触れる事が出来る気がして、パタリと腕を落とした奏は今度こそ眠りの世界へと旅立った。
「ケンタロウって……誰!?」
数分後、我に返って動乱し始める河井を一人残して。