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ゾンビから生き残るための百のルール  作者:
第四章、応用編その1
64/109

その58・重要な部分と譲れない部分を間違えないこと






 ふっと肺から漏れる空気。

 同時に奏は、息苦しいほど早鐘を打つ己の心臓に気が付いた。

 緊張している、という事にすら気づけない程の緊張状態から解放され、今更のように心臓は張り切ってその鼓動を高めているらしい。

 そんな自分に呆れにも似た感情を湧き上がらせながら、奏は蹴り飛ばされた感染者の頭に空いた黒い穴をぼんやりと眺める。

 対象は完全に沈黙したようだが、もしかしなくとも先程、自分はかなり危うい状況にあったのではないだろうか。

 ピクリと己の意に反して跳ねた身体に視線をやれば、感染者の歯形のついた松葉杖を掴む指先が、痙攣するかのように震えている事が分かった。


「……。」


 ゴツリ、と。

 静かになった資料室、分厚い靴音は妙に大きく響く。

 耳元で聞こえたそれに引かれるよう顔を上げた奏は、己を真っすぐに見据えている銃口に、ゆっくりとその目を瞬いた。

 鼻につんと抜けるような火薬の臭いが、周囲を微かに漂っている。


「……噛まれたか?」

「いいえ」

「……怪我は?」

「ありません」


 かけられた声と豆電球が照らすシルエットから、銃を向けてくる男が河井だという事がわかる。

 また少し視線を上げた奏は、しかしその先にある逆光に、相手の表情を読み取ることが叶わないのだと早急に判断した。

 なので、見えないものは無視するにして。銃口へとまたゆくりと視線を戻した奏は、どうにも既視感じみたものを感じていた。


(なんか……あの時みたい)


 ケンタロウを奪われた時。

 追いすがろうとした自分に、男が拳銃を取り出した時。

 けれど当初のような恐怖も不快も絶望も、その他何一つとしてを感じないのは、一体何故なのか。

 そっと指を伸ばしてみればその先の銃口がビクリと揺れ、手を止めた奏は、また銃口から相手の表情へと上目に視線を移す。


「……たぶん、感染してないと思います」

「……“たぶん”って、お前」

「今まで感染した経験が無いので」


 ハッキリした事はいえません、と。

 只の事実を口にすれば数秒を置いて、重く長いため息と共に構えられていた銃口が下ろされた。

 ボリボリと頭を掻く音を尻目に奏がゆっくりと上体を起こせば、それとは対照的にどっかりと河井が床に腰を下ろして来る。

 そうして改めて至近距離で相手と対峙しても、溜め息と同時に顔が伏せられたため、やはり奏には河井の表情を読み取ることが出来なかった。


「…………お前、さあ」

「? はい」


 やがて呟くように落とされた声に、奏は上げかけた腰を落ち着け直した。


「……大人しく、してろよ。無茶すんなよ。ハンデしょってんだから、危険なとこに突っ込もうとすんなよ」

「河井さん……?」


 ぽつぽつと唇の隙間から漏れる河井の声色は、無謀に感染者と揉みあった事に対する叱咤というには余りにも弱く、細すぎた。

 けれど相手の顔を覗き込むことは流石にはばかられて、奏はただ静かにその首を軽く傾ける。


「お前がもし今ここで噛まれてたら……俺はお前も撃たなきゃいけなくなってたって事、分かってんのか」

「……せめて即殺ではなく、研究対象としてでも使って頂きたいですが」


 普段とは違った河井の様子に、疑問を感じつつも。

 言って腰を上げようとした奏はその時、掴まれた右腕に目を瞬いた。


「――ッ、お前は!」


 奏が中腰のまま振り返った先。

 河井との視線が今、漸く交差する。

 奏は何も言えないままに相手の表情をまじまじと見つめ、その数秒で幾分か冷静になったのか、我に返ったかのように手の力を緩めた河井の視線はまた、緩やかに床へと落とされた。


「……俺はそもそも、感染者を研究対象としてでも――捕らえて生かしとく事には賛成じゃねぇんだ」

「……」

「そりゃ分かってるけどな。そうしないと感染者の、黒液の研究が進まねぇって事くらい……だからこれは、只の私情だ。だから検体の事に文句なんか言わねぇし、所長にも、楠さんにも文句言う気なんか無い」


 己の一言一言を確かめるよう紡ぎ始めた河井に、奏はそっと目を伏せる。

 静かな資料室に落ちる彼の声は聞き取りやすく、彼が何か大切な事を伝えようとしている事くらい、流石に分かって。

 だからこそ此方の腕を掴むその手にまた力が込められる事にも、奏は何も言わなかった。


「でもな、俺はほんとのところ、感染者が動いてるのを見るだけでもうんざりする。視界に入るだけでムカつく、あいつらが存在するってこと自体に吐き気がする――それに例外なんか、ねぇんだよ……当然だろ?」


 それは確かに、当然だ。

 感染者は結局のところ、どこまで行っても感染者。

 ゾンビとはすなわち、“生ける屍”。

 生者ではない、人間を喰い、増殖する人類の、“敵”。

 それは通常型でも、変異型でも、特殊型でも――。


「だから俺は、お前があいつらと同類になるとこなんか……絶対に見たく無い」


 元々が“誰”であろうとも、同じ事だ。


「……。」


 しかし、そうは言っても。

 この先何が起こるかなんて分からないし、黒液に感染した場合、実験体にしてもらうのが今後を考えれば最も有益だろう――なんて。

 押し殺したような声で言い切った河井のつむじへと口を開きかけた奏は、結局何も言わないままに唇を閉じた。思うも自分はきっとそんな事が言いたいのではないし、相手だってきっと、そういった答えを望んではいないからだ。

 その根拠は、“なんとなく”というこれ以上なく曖昧なものだったが。

 河井へと視線を戻した奏は相手に伝わらないよう、まだ普段より幾分か早い鼓動を落ち着かせるべく、静かに深呼吸をした。


「約束は出来ませんが……私も、別に感染者になりたいわけではありません。なので、出来れば人間のまま一生を終えたいと思っています」

「……。」

「だって、自分が“自分以外の者”になって動き回ってるのとか、嫌ですし……なんか、上手く言えませんけど。ほら、感染したら“私”じゃなくなるじゃないですか。別に“私”じゃないなら、“私”じゃない私が何をしようとされようと、どうでも良いのかもしれないけど……なんか、“私”じゃない私が『あー』とか『うー』とか言いながら徘徊してるのは嫌というか、まぁ後の世の役に立つのなら良いのかもしれないけど、何というか……」


 なんだか、最後の方はもにょもにょとした不明確な言葉になってしまった。否、最初から最後まで、お世辞にも説明とは呼べない言葉の羅列になってしまった、と。

 やはり“なんとなく”を明確な言葉として紡ぐのは難易度が高すぎる気がしてならない奏は、どうにも居心地の悪い気分になった。

 加えて、数秒――否、数秒以上、何故か続く河井の無言。

 それが居心地の悪さをどんどん増産させていくようで。更にコホンと咳払いをしてみても、特に状況変化が起きなかったので。

 沈黙に耐えかねた奏は河井の手を自ら取り直し、改めて自ら声をかけてみる事にした。


「えーっと……聞いてますか、河井さん」

「……聞いてる」


 じゃあ何か言葉で反応をしろと。

 此方の手を握り返してくる河井の指を逆ポキしたくなる奏だが、そういえば彼は先程から、何か様子がおかしかったのだという事を思い出した。


「えーっと……大丈夫ですか、河井さん」


 何がだ、というツッコミをやはり自分の心の中だけに留め、奏は改めて河井の様子を観察した。

 取り直した手が脱力しているという事は恐らく、先程のような興奮・緊張状態にはないのだろう。けれど相手の顔は未だ伏せられたままで、しかしその肩には強張るような力は入れられていない。

 となればもしや、先程の言葉の羅列があまりにも理解不能だったせいかもしれないと。

 ここでもし「ごめん、さっきのもう一回言って」などと言われても全く同じ言葉を繰り返せる自信の無い奏は、けれどその時、河井の肩が微かに揺れるのを見止めた。


「大丈夫じゃねぇって言ったら……どうすんの?」


 ニヤリと。

 言葉と共に顔を上げた河井の口元には、珍しく“狼狽える”という表現に近い態度を取っていた奏をおちょくる為の笑みが浮かんでいる。

 しかしただ『笑み』というものだけを確認した彼女は、未だ下がったままの彼の眉尻に気が付かない。


「どうもしません。早く自室に返って歯を磨いて寝て下さい」

「……。」


 なので奏は“なんか良く分からんがコイツいつのまにか立ち直っている”という結論に達した。

 それに対し河井の目が数回瞬くが、やがて数秒の後、あからさまに大きなため息があてつけがましく落とされる。


「……はぁ。ま、安心した」


 ぐっと両腕を上にあげて座ったまま伸びをした河井は、どうやらいつもの調子に戻ったらしい、と。

 判断した奏はするりと己の手の中から抜けて行った相手の指先を眺めながら、一つ、頷きを返す。

 黒液に感染した者はその数分後から寒気を感じ始めるとされているが、現在体調に変化が無いところをみると恐らく、自分は感染していないのだろう。否、体調の事を言うのなら少しばかり体温が上がっている気がするが、と。

 軽い自己分析をする奏は一呼吸と共に、改めて河井へと向き直る。


「助かりました。ありがとうございます」

「はぁ……お前さあ、無謀すぎだろ」

「今回に限っては、返す言葉もないと言っておきます。今回に限っては」

「当たり前だろ、ほんと何考えてんだ。ってかまじ無謀、超無謀……お前さぁ、ちょっと前々から思ってたんだがもしかして、『感染者になってもまぁいっか』くらいのこと思ってる?」


 それは流石に言い過ぎである。

 そんな思いが奏の中に湧きあがったが、確かに今回の事は思い返せば思い返す程に、自分が鳥肌が立つほど愚かな行動を取っている。

 しかし、それでも『感染者になってもいっか!』なんて。


「確かに、今回は馬鹿な事をしたと思っていますけど。感染者になりたいわけないじゃないですか、何処をどう見たらそうなるんですか」


 そこまで思わせる程の態度をじぶんは取っていただろうか、と。奏は視線に素朴な疑問と少しの不快感をギロリと滲ませた。それは論点をずらす事によって己の失態からくる居心地の悪さを誤魔化す、という中々に小者臭い行為だったのだが。

 意外なのは対する河井が、そこでピシリと表情を固まらせた事だ。


「何処見たら、って……」

「……。」


 今回の単騎特攻(足に怪我付き)を見たら、だろうか。

 確かに、確かに言われてみればもし自分が、今回の自分のような行動を取っている者を見たら『こいつ自殺志願者?』と思う事は間違いないので、やはり変なところに突っ込みを入れない方が良かったのかもしれない、と。


「……とりあえず俺の感覚では、怪我した状態で感染者になんか突っ込まねぇし。そもそも近寄らねぇし――」


 すすす、と視線を泳がせる奏は次に耳に届いた河井の声に、先程の彼以上の硬直を味わう羽目になった。


「間違っても歩けないからって……感染者におんぶなんかされたくねぇって事だ」






   ・    ・     ・






「うん。これは見事に感染者だね?」


 あの後、沈黙した感染者は河井の手によって楠の研究室へと担ぎ込まれた。

 報告として研究室を訪れた際、そこに居た楠に『それ持ってきてよ』と強請られたからである。

 奏としては当然、この流れになるだろうという思いがあったので感染者の移動に関しては何も思わなかったのだが、僅かに顔を顰めた河井としては図書館・研究所間の短距離でも、上体だけの感染者を運ぶのはちょっぴり嫌だったらしい。

 まぁ、奏としてはそんな事は知った事ではないのだが。どうせなら研究所最上階から地下までとかだったらよかったのに、なんて思うくらい河井の不快感など知った事ではないのだが。


「……んー。ってか君たち、何?」


 ブルーシートの上に転がされた感染者の元に屈み込んでいる楠が、手を動かしながらこてんと首を傾けてくる。

 それを奏は部屋の東側、対面の壁に凭れている相手を視界の中に入れないよう、目を座らせたままに傍観した。


「なんかギスギスしてない? 気のせい?」

「気のせいです」

「別に……なんでもないっす」


 人の古傷にクリティカルヒットを喰らわせておいて『なんでもない』とは何事だ!と。

 また少し奏の中のイラッとメーターが上昇するが、ともかく深呼吸を繰り返して外面にそれが表れないよう努力する。


「そう? ってか河井君、左の頬っぺた腫れてない? なんかちょっと変色してない?」

「……気のせいっす」


 どうせならもっと強く殴っておけば良かった、なんて己の中で燻る後悔をまた深呼吸によって落ちつけながら、奏は楠の作業が速やかに終わる事を願った。

 今はゴム手袋越しに感染者の眼球やら口内やら上半身の中身やらをぐちゃぐちゃしているが、恐らくそれはこの研究者が満足するまで続けられる。

 そして、それが終了するまで河井がこの場から解放される事はない。何故なら作業後の感染者の身体を、また運ぶ人間が必要だから――


 などと。

 地味な計算行う奏はというと、残念ながら飯島が返ってくるまで勝手に帰るのは許されないという、最も手持ち無沙汰な状況にあった。


「ふぅ……奏! ただいま!」


 なので飯島の速やかな帰還を願っていた奏は、開かれた扉の音と飛んできた声に珍しく顔を輝かせた。非常に良いタイミングである。


「……おつかれさまです」


 所長、帰りたいです。

 というのを何とかこらえて声をかけた奏に、飯島が爽やかな笑顔を向けてくる。

 正に一仕事終えた、といった表情をした彼は、地下への進入禁止の為に張り巡らせたバリケード(テープは勿体ないので、ただの板)を全て回収してきたのだろう。

 それは元々『図書館に何かがある』という話になった時点で、他の者が地下に降りてこないよう設置したものだったようだが、結果としては感染者を移動させる際の『危険物扱い中!立ち入り禁止』的な意味を持つものとして活躍することになっていた。

 そして全ての作業が終わった後、自分で張ったそれを自分で数分もしないうちに回収しに行く事になってた飯島は、それでも清々しい笑顔を浮かべているところ作業が苦ではなかったらしい。


「ああ、ただいま奏! ……それにしても久々に重労働を行うと、中々に腹が減るな」

「お疲れ様です」

「……お疲れさまです」


 ボソリ、と上司への礼儀を吐く河井の声が、先程からくぐもって聞こえるのは口の中が切れているからか。

 思考の端で投げやりに察した奏に同じく、河井の方へ改めて顔を向けた飯島もそれに気が付いたようで。


「ふむ。怪我人と思って侮っていると、痛い目に合うという教訓だな」

「……そんなんじゃないっすよ」

「“そんなん”とは“どんなん”なのか知らないが」

「人の古傷抉ると、痛い目に合うという事です」


 さらっと口から零した奏は、すぐさま反応として向けられてきた視線へと顔を上げた。

 視界の端で同様に飯島が此方を見ているのが分かったが、今の彼女の意識は己の対面、西側の壁に背を預けている相手へと一直線に向けられている。

 先程まで床に落とされていた視線と正面から睨み合えば、腫れた頬の上で河井の瞳が眇められるのが分かった。


「……へー、古傷だったとは。別に嫌な気もしてないのかと思ってた」

「……まだ殴られ足りないみたいですね」

「否定できんのか? 本当に嫌だと思ったら、最初からそういう状況になってないと思うけどな」

「っ! ちょっと顔か――「あはは、うるさいんだけど君達?」


 口を開けばすぐさま険悪になるムードを、速やかに諌めたのはアルトの声。

 屈んだまま感染者を弄るいつも通りの楠の調子に、しかし有無を言わさぬものを感じた奏と河井はぐっとその口を噤む。


「くだらない事で言い争わないでくれる? ……まぁ整理出来てない気持ち刺激されると、イラッとするもんだけどね?」

「……!」


 居心地の悪さに落とした視線を泳がせていた奏は、その言葉に引かれるよう楠の方へと顔を向けた。何故だかは分からないが補足として紡がれたそれが、自分に対しての言葉だという事が分かる。

 整理出来てない気持ち刺激されると、イラッとする――それはまるで激しい運動の後に飲む水のように、奏の思考にすっと沁みて。

 嘘みたいに冷静になった頭が「この苛立ちの理由はそんな簡単な言葉で説明できるのか」なんて、ほうけまじりの納得にある種の感嘆を吐いた。

 その心境を言葉にするなら“そうそう、そうだよそういうこと”である。


「河井君も。って君、自分で分かってるでしょ?」

「……。」

「私は全くわからんな。娘から『おかえりお父さん!』と言われた時点で何もかもどうでも良くなった」

「君はそうだろうね? あとちょっと捏造が入ってるね?」


 あはは、と。

 会話に交じってきた飯島に対し楠が軽い笑い声を上げるのを聞きながら、奏はこっそりと河井の方を盗み見た。

 ぐっと腕を組みながら顔を伏せているその様子からして、不承不承ながらにも彼もその言葉に納得したらしい。

 それを理解すると同時、何故かまた少し居心地が悪くなった奏は、けれど楠に感謝した。

 研究室にこもりきりの自由人とはいえ、やはりこれが年の功というやつなのか。“殴る”又は“蹴る”以外の手段で場が収まるのなら、それに超した事は無い。


「……特殊型って、食欲より第二の欲求が優先される事があるんでしょうか」


 けれど、自分にだって少しばかり空気を読む事くらいは出来ると。

 思い完全なる第三者、ブルーシートの上に転がされている感染者の話題を出すことにした奏は、口にした瞬間に、しくじったと思った。

 そう、現在河井とギスギスしてしまった理由の真ん中に居るのは、感染者(しかも特殊型)である。


「ん、なんで?」


 しかし楠が本当にいつもの調子で好奇心の瞳を向けて来たので、奏はフォローを兼ねるかのように矢継ぎ早に言葉を吐き出した。


「あの、そこの感染者……“そこのブルーシートの上に転がってる上体だけしかない感染者”は、身体が半分損失していたにも関わらず己の身体の再構築――食欲より、本に執着しているように見えたので。そういう事もあるのかなと、素朴な疑問を覚えました。なんとなく感染者は皆食欲第一なのかと思ってたので、少し驚きました」

「ああ、なるほどね。確かにそういう事はあるかもね? 通常型とか変異型はそもそも食欲しか頭にないみたいだけど、特殊型の場合、二種の欲求の優先順位は個体それぞれみたいだから――」


 ってかふーん、やっぱこれ特殊型なんだ、などと。

 再度感染者の方へと視線を戻し楠がブツブツ呟きだすのを、奏は妙に緊張した面持ちで見つめる。

 なんだか焦りながら言葉を紡いだせいで変な説明口調というか作文口調になってしまったような気がするが、周囲に不信感を与えなかっただろうか。

 河井が感染者に対し――特に今は特殊型というか鴉の件に対し、何やら物申したい事を抱えているのは流石に分かっており、けれど自分としては“整理出来てない気持ちを刺激されたくない”のだが、と。

 話題がぶり返さない事を只々祈る奏は、陳腐な挑発の言葉を吐いたり殴ったりといった正に“話題をぶり返させかねない”行為を己が取っていた事に今更気付いて頭を抱える。


「……ってか、コイツ白衣着てますよね」


 そしてそんな奏に対し、河井の思考回路はどう動いたのか。

 せめて利き腕ではなく左手で殴れば良かったのではないか――なんてちょっぴりズレた後悔を本気で行っていた奏は兎も角、話題が目の前に転がされている感染者一点へと絞られたことに安堵した。

 それと同時、何故じぶんはこんなに気を使っているのか、という疑問がふと頭の隅を過ったが。ツキリと諌めるように走った頭痛によって、幸い奏の不快感は別の方向へと流れる。


「うん、かなり汚れてるけどこれは白衣だね?」

「……なんで、所内のヤツが感染者になってるんすか」


 白衣を纏った、所内で発見された感染者。

 その時点で対象が元々所内の人間だったという事は容易に想像がつき、けれど奏はチラリとさりげない横目を河井へと向けた。

 彼は確か、先程図書館で「検体に関する文句は言わない」といったような事を言っていなかっただろうか。


「い、いや。素朴な疑問なんすけどね?」


 そんな彼女の視線に気が付いたのか、それとも自分自身で気が付いたのか。

 先の言葉を軽いものへと変えた河井に、立ち上がった楠がこてんと首を傾けた。


「さあ? なんでだろうね、知らない」

「え?」

「これがどんな経路で感染者になったかなんて、僕が知るわけないよね? どっかの馬鹿がうっかり感染したんじゃない?」


 これ、と言いながら靴の先で感染者を指した楠は、ある程度の見分を終わらせたらしい。

 河井の方へと向けられたその表情を奏は伺う事が出来なかったが、対面の相手の視線が動揺に揺れる様は見て取れる。


「ま、まぁそうっすけど……」

「こいつは上の研究員達とは関わらんからな」


 それに対しかけられたフォローのようなものへと、視線をやれば。

 いつのまにやら携帯食糧を取り出した飯島が優雅なおやつ時間を決め込んでいた事に、奏は己の腹が鳴りそうになるのを感じる。そういえばバタバタしていて忘れていたが、彼女は昼食をまだ食べていなかった。


「関わって良い事あるなら関わるけどね? 感染者の研究してる以上やる事なんか一つなのに、とろとろ、とろとろ……標本一つ作るにしても遅すぎるんだよね、あいつら。時間をなんだと思ってるのかな? 僕、トロい奴と口だけで何もしない奴、嫌いなんだよね」

「感染者の解体をお前ほどサクサク行える人間は見た事が無いが。しかもあれはフジツボを剥がすのが面倒だとか言ってお前が上に押し付けたものだったのでは――」

「トロいのは余計な事考えてるからだよ。見た目がどうであれ、感染者である限りそれは只の研究対象なんだから。感情抜きで向き合えない奴は研究者じゃないし時間の無駄は人生の無駄……っと。まぁ本音をちょっと言ってみたところだけどね?」


 そうか、昼食を抜いていたからどうにもイライラしやすくなっていたのか、などと。

 全く関係ないことを考える奏の前で、コキリと肩に手を当てて首を回した楠が、再度感染者の元へと屈み込む。


「人の人生の速度ってそれぞれだから。その上で更に『何が大事』『何だけは許せない』『ここまでは許容できる』とか――バラッバラの事考えててさ? ……そんなんで足並み揃うわけよね? 無理に揃えなくても良いよね? 人それぞれって、いい言葉だよね?」


 ふっと笑って何やら心の広い(っぽい)事を言い話を強引に誤摩化す引きこもり研究者に、ならば先程の不平不満はなんだったのかと。

 己の腹問題に気をとられながらも聞いていた奏は突っ込みを入れたくなるが、何となく楠の言いたいことも分かった。

 例えば感染者という一点にしても、対する人の意識はまさに『人それぞれ』なのだと最近分かって来たからだ。


 例えば、それは滅ぼすべき人類の敵として。

 例えば、それは研究の対象として。

 例えば、それは邪魔にならなければ只の障害物の一種として。 


「……。」


 不意にそれに気が付いた奏の指先が、無意識に僅かな力を込める。

 “お金”や“法律”といった分かりやすい指標があればまだ、ある程度の意思統一も出来るのだろうが。

 残念ながら警察や裁判所なんてのはもう遠すぎる過去という国のものであり、となれば要は個人の『本音と建て前』が、“今”において最も重要な事柄。

 それこそが全ての根本で、ここに居る者達は特にそれが顕著。


 ぶっちゃけ今の時代、何を思って何を成すのかは、何処までも自由だったりするのである。


 つまりは誰にどう思われて、何を言われるかなんて。

 少なくとも楠は気にしていないようで、譲れない部分があるのは皆同じで、そんな当たり前の感情は、この時代では特に咎められないものらしく。

 当然、ある程度足並みを揃えることは重要だが、嘘をつくというのは人間だけの特権だし、と。

 自己中心主義者の自己弁護のような漫然とした思考を頭の片隅に、奏が取り逃した昼食へと思いを馳せる中——疑問を放置されたからなのか、どうなのか。

 河井だけはどうにも釈然としない表情で、白衣の感染者の方を見つめていた。







この章はここでお終いです。

そして幕間を除き、あと三章でこのお話も終わります。


なんだか長い物語ですが、これからもお付き合い頂ければ幸いです。

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