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ゾンビから生き残るための百のルール  作者:
第四章、応用編その1
63/109

空白のページ





   ※    ※     ※





 『元に戻さなくては』なんて。

 それは恐ろしく愚かで、純粋な反射。






 パリンッ、と。

 人気の無い部屋に響いた音は、酷く軽かった。

 それはスルリと手の内から抜け落ちた試験管が、床に当たって割れた音。


 慌てて散らばったガラスを拾い集めようとした指先に、薄く鋭い痛みが走り、漸く彼女は己が最悪の失態を仕出かしたという事に気がついた。

 床に広がるのは、黒い汚泥のような液体。

 己の指先に付着しているのも、同じく黒い汚泥のような液体。その合間を縫って赤い液体が指先から滲み出てくるのを見て、彼女はペタリとその場に崩れ落ちた。


 ああ、あれ程までに先輩からは口すっぱくして言われていたのに。

 皆が食堂に行っている間に、なんて思うんじゃなかった。

 だって、ちょっとした出来心だったのだ。


 貴重なサンプルは、その危険度から厳重に注意して扱うよう言われていて。

 その危険なサンプルは、貴重さからあまり触らせて貰えなくて。


 だから、ちょっとした出来心だったのだと。

 まるで氷を飲み込んだかのように寒気がして、震える身体を両腕で掻き抱いた彼女はそれでも、半ば感覚の消えた足で立ち上がった。

 一歩、二歩と進める歩みは今にも崩れ落ちそうなほど頼りなく、頬を転がり落ちていく涙は白衣へ床へ落ちて弾ける。


 逃げないと。

 感染が発覚すれば、自分は一体どうなってしまうのか。


 上層から回されてきた感染者の姿を、彼女は一度だけ見た事があった。

 散々いじくり倒された後“もう不要”のレッテルを張られ、下っ端研究員の元に回されてきた検体の姿を。


 嫌だ、いやだ、嫌だ!!

 あんな姿にはなりたくない、身体を散々切り開かれた挙句、“もういらない”と放棄されるなんて――!!


 感染が発覚すれば、間違いなく自分は実験対象にされる。

 あれに比べればまだ、やんちゃな子供に与えられるオモチャになった方がマシだと思うような扱いを受ける。

 それだけは絶対に嫌だと恐怖に弛緩する身体を奮い立たせる彼女は、その足を無意識に地下へと向けた。出来るだけ人気ひとけの無いところへ、出来るだけ誰にも見つからないところへと。


 腹部の皮膚を捲り上げられた感染者の姿が、フラッシュバックする。

 そこにあるべく内臓は全て存在しないのに、それでも検体は蠢きながら手を伸ばして来る。

 その全てが己と重なるようで、極寒の中にいるかのように震える歯が口内の肉を噛んでいた。

 既に思考が半ば纏まらないのは、恐怖の為か体内に侵入した黒液のせいか。

 今の彼女には、分からなかった。







   ・   ・    ・





 気がつけばそれ・・は、そこに居た。

 それ・・はただ、自分のしたい事をした。

 始めはどうにも居心地の悪かったそこだが、周囲に溢れる物を観察するうちに、それらが一定の法則を持つという事に気付いたそれ・・は、整頓するという事を覚えた。


 太さが揃う。高さが揃う。色や側面に表記されている文字列が揃って並んでいく。

 それ・・は酷く歓喜した。

 腹が減った事も気にならなくて、それ・・は徐々に秩序が生まれていく混沌とした物の散乱に、己の内側が満ち足りるのを感じる。


 けれど、餌が無いと動けなくなるので。


 まず、いらないのは足だった。

 手が動かなくのは困る。物を持ち上げる事が出来なくなるから。


 次に、いらないのは腰回りだった。

 目が見えなくなるのは困る。物を識別できなくなるから。


 最期に、いらないのはお腹だった。

 お腹が無いとご飯が食べられないけれど、じぶんのいる所には本当に餌が来ないし、来たとしても直ぐに逃げてしまうから。


 それに、今のそれ・・にはもっと大切な事があった。

 きっちり揃えていたはずの物の並びに、抜けた個所を見つけたのだ。

 だから必死にそれ・・は無くなったものを探して、探して、探して、見つけた時には心の底が歓喜を叫ぶのを感じた。


 何故かそこに居た餌がじぶんを追ってきたけれど、それ・・にとって重要なのは取り返した物を収納し直す事だった。

 けれど、何故か餌は執拗にじぶんを追ってくるのでそれ・・は相手を振り切ろうとした。

 けれど、やっぱり餌は自分を追ってきてそれ・・は内心で首を傾けた。


――一体、なんでだろう。じぶんはこれを元の場所に戻したいだけなのに。



 じぶんに逃げ場がなくなった事を悟ったそれ・・は、自分のものを守るため餌を排除する事にした。

 その際餌が暴れたせいで、じぶんの積み上げた物達が崩れた事に、それ・・は非常に憤慨した。

けれど。


 突如現れた何かによって、それ・・は己の身体が吹き飛ばされるのを感じた。

 何故、間に割って入って来た二人目の餌に気が付かなかったのか。


 答えは簡単で、物が雑然としたこの場に秩序を生む為に、必要のないじぶんの耳を既に食べてしまっていたからで。

 しかし思考を展開する間もなく、それ・・は全ての感覚を失う。


 何故じぶんがこんな所にいるのか、なんて疑問を、最後まで抱くことも無く。










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