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ゾンビから生き残るための百のルール  作者:
第四章、応用編その1
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その57・物思いに耽り過ぎないこと







 最近は本当に、“いつも”のペースが崩されている。

 それもこれもきっと、右足の怪我さえなければまだマシだったのだろうと奏は感じていた。

 だってそれは単純な事だ。怪我というものによって体の機能の一部が停止している時点で、既に“いつも通り”ではないのだから。ただ、予想外だったのはそれに伴う副産物で。

 爽快感・達成感・ストレス解消に精神統一。それら全てを兼ね備え、更に余計な事をゴチャゴチャ考える頭をからっぽにしてくれる、筋トレや鍛錬を行う事が出来ない。

 おかげで頭が重い、痛い。溢れる思考をリセットすることが出来ない。

 なのにエネルギーだけは有り余っていて、けれど普段通りに動けない体にまたフラストレーションが募っていく。

 これが、非常に大問題だった。


 本当に、いい加減にして欲しかった。

 今だって、いつも携帯している本が手元に無いだけだ。

 只それだけだ、と分かっているのに焦燥を覚える感情は奏に図書館の通路を急がせる。


 身体を動かす事、そして読書をする事。

 それが普段の自分が行っている大体の事で、怪我のせいで運動出来ないというのなら、せめて読書に関してだけは“いつも通り”であって欲しかった。







「……あった」


 独り言とは基本的に、何の意味があるのかよく分からないものだと奏は思う。けれど今確かにそれを発したと同時、彼女は心に広がる安堵を感じた。

 となるときっと独り言とは、自分自身に言い聞かせてより現実を実感する為の行為なのだろう。

 脚立に腰掛けた奏はそれをおぼろげに理解しながら、頼りない豆電球の明かりの下で手の内に戻した本が目的の物である事を再三確認する。手にしっくりと馴染む本は改めて見てみるといかにも年季が入っており、明かりのオレンジを差し引いても確かに茶色く汚れていた。

 流石は愛読書、という言葉に互いない扱いを受けて来ただけある。それが己の手垢のせいだと思えば、なんだか微妙な気分になるが。


 しかし、そういえばもうこの本とも五・六年の付き合いになるし、多少の汚れは仕方のない事かもしれないと。

 読む事もなくボソボソになったページを捲りながら、奏は『目が合いましてね~そこから始まるコミュニケーション~』というハウツー本がまだまだ綺麗だった頃の、初めてそれが手渡された際の記憶を思い返していた。




――そう嫌そうな顔をするな。この本には君に必要な事が書いてある……あと、すまない。正直今では鍛錬に時間を割きすぎたと思っている、けれど後悔はしていない。しかし情緒の教育も必要だからな。


 なんたって私はお前の父だからな、と。

 言ったあの時の飯島は、何故だか非常に嬉しそうだった。

 それに対して自分はどうだったか。唐突に手渡された本のあんまりな題名に、若干引いた覚えがある。


――……ここまでして頂く必要はありません。

――そう言うな。この本の信ぴょう性は実証済みだ。なんたって、この私の愛読書だからな。

――でも所長、人前にあまり出ませんよね。


 言えば視線を泳がせるその姿は、まさに図星と言ったところだったのだろう。

 それだけをチラリと流し見て、自分は飯島から手渡された本の表紙を改めて眺める事に戻った。

 本の題名を確認して、無意味に本を裏返してみたりして。見て、触って(流石に匂いは嗅がなかったが)、己の五感をフル活用する勢いで検分した本は、父という言葉をやけに主張してくる男から初めて渡された本だった。


――ま、まぁ人前に出るのは少しばかりアレでな……しかし所長たる者、影から全てを管理していればそれで良いものだろう。

――管理出来ていれば、良いと思いますが……それに影から、というのならあの、研究室にこもっている人の方がそれらしいですよね。

――あれは管理などしていないだろう!? ただ影で何やらしているだけだ、まったく……。

――まぁ暇潰し程度にさせて頂きます。……この本に罪はありませんし。



 そう呟いてそっぽを向いた自分は本当に、かなり捻くれていたと今ならば思う。

 あの時確かにじぶんは、そんな事が言いたかったのでは無かった筈だ。

 ならば、何を言えば良かったのか。仮とはいえ、父から渡されたプレゼントのようなものに対して。

 父と名のつくものから、何かを貰ったのはあの時が初めてだったというのに。





(……“ありがとうございます”って言えばよかっただけなのに)


 なんて自分は馬鹿なんだろうと、奏は軽くため息をついた。

 自分は海外での仕事が多い両親からプレゼントと言うものを貰った事が無かったので、それに対する対応力がゼロに等しかったんです――なんてのは只の言い訳であり、人様から物を貰った際には『ありがとう』と言うのが世間一般常識である。あの時の高揚と緊張が入り混じったような感覚を、そんな一言で済ませていいのかは分からないが。

 兎も角、間違っても『暇潰し程度にさせて頂きます』だなんて言葉で返してはならなかった筈だと。

 だってそれじゃあ偉そうにも程があるんじゃあないかと、奏は過去の自分に少しばかり絶望した。


(これじゃあ、あのバカ()に偉そうな事いえないな……ってそもそも、ろくな事いえてないけど)


 軽く痛むこめかみに指先を当てて、奏は静かにハウツー本の裏表紙を閉じると同時にそっと瞼を伏せる。

 しかし、ならばあの時、何を言えばよかったというのか。

 己の行動を鑑みる彼女の脳裏には、先程会話したばかりの感染者の姿がある。

 “初めてのプレゼント”に対してすら正確な言葉が返せなかった自分が、“なんとなくモヤっとしたから”という限りなく曖昧な自分の心境を、正確な言葉に変えて相手に伝えるなんて少しばかり難易度が高すぎるんじゃあないかと。


(でも……)


 鴉に対して、自分は何かを伝えたかったはずだと奏は今になって思う。

 しかし対峙してもろくな言葉が紡げないという事は、別に話したいわけじゃなかったのかとも思う。

 ならば、会うだけの方が良かったのか。

 何か話したい事があると思っていたけど、そうでもなかったのか。


(う、うーん……)


 などなど。

 考えていると何だか本格的に頭が痛くなってきた奏は、脚立に腰を落ち着け直し、ふしゅうっとマヌケな音を立てて煙を立ち上らせかねない頭に手を当てた。これが俗にいう知恵熱と言うヤツなのか、掌を当ててみたオデコは中々に熱い気がする彼女である。

 にしてもよく“考え事をしてオーバーヒート”という表現を絵に表したものの中で耳から煙が出ているものがあるが、あれは一体何故なのだろうか。耳の奥には鼓膜と言うものがある筈で、それなのに煙が耳から出ると言う事は鼓膜があまりの考え事のしすぎでパーンとなってしまったんだろうか。

 なんて、一瞬どうでもいい事を考えてしまった奏は改めて瞼を上げた先、手の中にある愛読書を再度数秒眺めた後ふっと一息をついた。

 自分にこれを渡した飯島は、限りなく正しい判断をしたとしか思えない。しかし効果が出ているのかは分からない、自分は人付き合いにしろ人外じんがい付き合いにしろ下手すぎる、と。


「――ふぇっ!?」


 突如、暗闇から伸びてきた白い手。

 懐に愛読書をしまい込もうとした奏は、思わず間抜けた声を上げた。

 反射的に掴もうとした本の端は指の隙間をスルリとすり抜け、それを追って身を乗り出そうとすれば脚立が不安定に揺れる。


(ッ……!)


 心の中で奏が舌打ちをする間にも本を掴んだ白い手は白い服の裾を翻し、敏速な動きで本棚の影に消えた。

 その後姿を、彼女が見逃すわけが無い。

 速やかに脚立から降り松葉杖を脇に当てた奏は騒音をはばからず、現在自身が持つ最高速度で白い後ろ姿を追う。相手が何だろうがどうでも良く、心には“とりあえず一発蹴りを入れる”という気概だけがあった。


 しかし。

 ゴッツンゴッツンと松葉杖の音を荒ぶらせながら相手を追っていた奏の中で、本棚から本棚へと飛び移っていく標的のその姿に、地面に飛び降りたかと思えば腹ばいになったまま依然スピードを落とさないその姿に、何だか嫌なものがこみ上げる。


(えーっと……これ、感染者……だよね)


 何故、感染者がこんなところにいるのか。そして何故、己の本を奪っていくのか。 

 良く分からないが奏は追いかけっこを続けるうち、それの全貌を捕らえ始めていた。


 まず、“それ”が着ているのは恐らく、白衣だ――薄汚れて本来の色はまだらにしか残っていないが。

 そして、“それ”は恐らく、上体しか存在していない――全ては白衣の下だが、下半身があるべき場所のふくらみが存在していないし、先程本棚に飛び移っていた時もあきらかに腰から下が空だったから。

 更に、“それ”の黒髪は長かった。という事は対象は恐らく女性で、けれど髪の毛の束にはえらく偏りがあるので、もしかしたら腐敗が進んで皮膚ごと髪が剥がれ落ちているのかもしれない――


 と、なれば相手は間違いなく人外、という事は感染者。

 それを再確認した奏は、眉のあいだにくっきりとシワを寄せていた。


(ってか、速い……っ)


 そう、相手の逃走速度は、ともかく速かった。

 恐らく相手は河井が言っていた“図書館の妖精さん”とやらだが、何が妖精だ、まるで白いゴ……否、これ以上は明確な言葉にしないでおこう、と奏は松葉杖を支える腕にぐっと力を込める。豆電球がぽちぽちと並ぶ薄暗い資料室の中では、素早い動きをする感染者を見失わないようにするだけでも一苦労といったところであった。

 するすると影から影へとぬうように移動する姿を注視すれば豆電球が頭に当たり、かと思えば本棚に張り付いて裏側へと逃げていくので、急ブレーキをかけた上に方向転換しなくてはならない。そんな鬼ごっこからのストレスに、奏は段々イライラしてきた。


 何故こんなにも、すばしっこいのか。当然現在の自分が身体的に万全でないという部分もあるが、それにしたって思わず缶スプレーをシューッと標的に対し噴射したくなる速さだ。良く分からないがこの感染者は多分、身体が上体しかないぶん移動速度が上昇しているのだろう。

 しかしそんな事を考えていた彼女の頭の冷静な部分が、ふと相手の行動に疑問を覚える。

 身体が半分しかないという事はかなり腐敗が進んでいるという事なのに、それでも此方に襲い掛かってこないというのは、どういう事かと。


「……!」



 けれどその時、とてつもなく重要な事に気がついた奏は先手を打って行動を始めた。

 次の本棚の角を越した先は、床にも本棚の上にも本がミッチリと積み上げられた完全な袋小路である。特に、本棚の上に隙間無く天井まで本が積み上げられているというところ良い。

 すなわちそこにさえ追い込めば本棚の上によじ登って逃げる事も出来ないだろう、と相手が角を曲がらぬよう松葉杖を駆使して追い立てていた奏は、ふっと軽く笑みを漏らした。

 思惑通り、相手が最後の角を直進し、本の山脈が連なる袋小路の方へと進んでいったのである。

 これは完全なる勝利の確信、流石は腐った感染者、多少行動に奇抜なところがあるが所詮知能はそこまで高くなかったらしい、と。

 己の愛読書を何故か持ち続けたまま逃亡を繰り広げていた標的に終止符を打つべく、本棚の角を曲がった奏はそこにいるであろう相手に高らかに宣言した。


「返し――てぇ!?」


 瞬間、目の前いっぱいに広がった腐敗した顔に奏は慌てて松葉杖の一本を盾にした。

 突っ込んできた相手の歯がギチリ、と松葉杖に食い込み、勢いに押された奏の身体が後方へと倒れ込む。

 一・五人分の体重を受けた図書館の床が鈍い振動を響かせたその時、彼女が背中で受身を取ると同時に負傷した方の足を浮かせて保護できた事は長年の鍛錬、もしくは奇跡の産物だっただろう。


(っ、なんでコイツ、いきなり――!?)


 さっきまで逃げの一方だった相手が、何故か今、凶悪に歯をむいて来ている。

 そんな事実の意味が分からず、奏は馬乗りになってくる感染者と至近距離で激しく揉みあった。お陰様で本の山が崩れ、ドカドカと降り注いでくるのがたまらない。

 更にそれが感染者の頭に当たり、腐り落ちる寸前だったのであろう頭皮と髪の毛をひっぺがしながらずり落ちて行くので、奏は速やかに己の口元と鼻を覆った。

 今のところ感染者の頭からポタポタと垂れてくる黒液は彼女のTシャツに染み込んでいくのみだが、これは非常にマズイ状況である。


 黒液は基本的に、皮膚からは浸透してこないとされている。

 なので顔面であれば目や鼻や口といった進入経路さえ塞いでおけば、とりあえず感染の心配はない。しかし、皮膚に少しでも傷があった場合はアウト。


 なので先程降って来た本が己の肌に傷をつけていない事を祈るしかない奏は軽い寒気を覚え、しかしその時、顔の直ぐ隣で鋭い空気の流れを感じた。


「――っ!」


 顔面スレスレの部分を、切るようなスピードで通り過ぎた何か。

 それが誰かの蹴りだという事を、奏は吹っ飛んだ感染者と耳の直ぐ隣で鳴った靴底の音により悟った。

 それと同時、ガンッと。

 吹っ飛んだ感染者の身体が奥の本の山に激突したかと思えば、圧縮したかのような重い破裂音が周辺の空気を大きく振るわせる。


「……。」


 爆音によってバカになった聴覚の中で、奏が捕らえたのは沈黙した感染者の姿。

 その手から己の愛読書が音も無く滑り落ちるのを見つめながら、彼女は漂う硝煙の匂いを嗅いだ。






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