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ゾンビから生き残るための百のルール  作者:
第四章、応用編その1
61/109

その56・情報を収集すること








(ああ、クソ……クソ……ッ!!)


 時は少しばかり遡る。

 奏に一方的に研究室に向かうよう言い放った後の河井は現在、所内を意味なく全力疾走していた。

 否、一応所長を探すという目的がある以上、彼の疾走に意味は無くないが。

 結局のところ飯島は研究室にいたので、やはり結果をいうと目的に対しての意味はない河井の疾走、しかしそれは彼自身には一応必要な事だった。



(ああああああああ、っく、クソ……ッ!!!)


 所長室、(一応)奏の部屋は周ってみたが目的の人物は見当たらなかったので、最後は食堂を周って終わり。と、まぁ頭の中で今後のルートを組み立ててはみても住み慣れた所内、特に加えて進路について考える事もなく、河井は自身の脳内の大半を占める感情を持て余す。

 そう、全ては先程の奏との接触にある。


(くっっっそ――柔らかかった……じゃねぇ!違う違う!!)


 幾ら頭を振ろうと全力疾走をしようと、一度身体が覚えた感触が消えてくれる筈もない。

 更に事故の様な形とはいえ、女の身体を抱きしめたのはいつ振りだろうか、なんて。頭の中の冷静な部分が現状の心理状態に油を注ぐようなことを考え始めるものだから、彼はもう兎に角走るしかなかった。

 そうしてうっかり曲がるべき角をスルー仕掛けた河井は、慌ててUターンしながら己の煩悩の根源たる奏の行動を回想し、また疾走とは別の動悸が高鳴るのを感じる。


(ってか! なんで、なんでアイツ――匂いとか嗅ぐんだよ!?)


 それは奏としては、反射的な行為だったわけだが。

 ついでに言うと彼女はその匂いを、今は亡き愛犬と比べていたわけだが。


 そんな事は知らない河井は『腕の中の柔らかい生き物が匂いを嗅いでくる』という思わず壁に頭を叩きつけて冷静になりたくなるようなシチュエーションを、食堂に到着するまで延々と頭の中でリフレインする羽目になったのであった。






(……ってか、ここにもいねぇのかよ)


 ピークを過ぎ、人が少なくなった食堂内を最終確認で見回しながら、河井は心中でため息をついた。

 となれば恐らく飯島は、研究室にいたのだろう。

 因みに脳内再生しまくった映像は、お陰である程度耐性が出来たようで精神にそこまで影響を及ぼさないレベルにまで落ち着いていた。まぁ繰り返したせいでもう忘れられない記憶として脳に定着してしまったわけだが、それはそれで――なんて。

 口が裂けても本人には言えない事を考えながら食堂内を一周した河井は、そこでふと中央列の端っこで食器と睨めっこしている姿を見止める。

 スプーンを握り締め、目の前の器を親の敵だとでも言わんばかりの勢いで睨みつけている青年は間違いなく見知った人物であり、食事の内容は言わずもがなだ。


「……それな。暖かいうちに食べたほうがまだマシだぞ」


 所内に来てまだ浅い彼は、そんな事実を知らないのかもしれない。

 思って声をかけてみた河井は、上げられた相手の顔の悲痛さに軽く肩をすくめて見せた。


「でも湯気上がってたらあがってたらで、こう、ムワッってくるじゃないすか……」

「一口が吐きそうなくらい重いのと、どっちがマシかって話だ」


 どちらにしろ酷い味な事に変わりはないが。

 その他の食べ物と同じく、C食と言う名の超絶不味い半個体の食べ物と出来れば呼びたくない食物も、暖かいうちに鼻をつまんで食べればなんとか吐きそうになる事はないと。

 研究所の伝統的に語り継がれてきたアドバイスを口にした河井は、そのまま食堂を後にしようと踵を返すがその時、服の端をしっかとつかまれ半ば呆れながら振り返る。


「河井さぁぁぁん……」

「卓郎……黙って給食のおばちゃんに暖めなおして貰え」


 服の端を掴むとは何事か。こいつは女子か。

 思わずそんなツッコミを心中で入れてしまいながらも、河井は仕方なく卓郎君の隣の椅子を引いた。当然、C食を代わりに食べてやる気などさらさら無いが、ここで相手の為に少しばかりの時間を割いてやるのが河井 亮介という男である。又は無意識に再度奏と顔を合わせるまでの時を長引かせている、とも言えるが。


「別に心を無にすりゃ、冷たくても食えねぇことはないと思うけどな?」

「河井さん、正気っすか。無理っすよ、ムリムリ……それにオレ、美代子さんちょっと苦手なんっすよね」

「え、ミヨコって誰」

「給食のおばちゃんっすよ。……ほら、今もオレをハンターの如く視線で」


 声量を落とした卓郎君の言葉にそれとなく視線をずらしてみれば、給食のおばちゃん――もとい美代子さんと視線がかち合い、河井は曖昧な笑みを浮べる。

 確かにハンターかは分からないが、美代子さんは笑顔ながらにも鋭い視線を有していた。


「……まぁ。ってか卓郎、お前良く給食のおばちゃんの名前なんか知ってたな」

「一応この所内の人ら全員の名前は覚えましたよ。下の名前分かんないのは楠さんだけっす」

「何それすげぇな!? ってか楠さんの名前とか研究所七不思議のうちの一つだろ」


 なんだか妙な流れになってしまったが。

 頬杖をつきながら他愛無い会話に興じていた河井は、ふと、これはこれで良いかと案外所内の情報を集めているらしい卓郎君に、浮かんだ質問を向けてみる事にした。


「そういえばお前、図書館に妖精が出るって話、知ってる?」

「あー!知ってますよ。アレっすよね、なんか白くてふわふわしてて、髪が長いとかいう……」

「え、何その微妙に具体的な感じ」

「ふっ、侮ってもらっちゃ困りますよ河井さん。オレ、これでも所内の七不思議には詳しい方で」


 なにやら足を組んで人差し指をちっちっち、と振ってみせる卓郎君はかなり得意げだ。しかし彼は今現在、自分の目の前にある食べ物の問題を忘れていないだろうか。否、恐らく自発的に忘れようとしているのだろう。

 冷めるとともにどんどん粘度を増していく器の中のC食に河井はチラリと視線をやりつつも、本当に案外、絶妙なところで情報通と化しているらしい卓郎君に再度興味の視線を向ける。


「あー。んで、その妖精さんの外見って誰から聞いた? ってかお前、まさか自分で見たとか?」

「侮ってもらっちゃ困りますよ、河井さん。オレがそんなホラーな場所に特攻できると思ってるんすか?」

「……そうだな、お前ビビリだもんな」

「『自己ぼーえー』ってヤツっすよ。危ないとこには突っ込まない、これ長生きのヒケツっしょ」


 確かにそういわれてしまえば反論の余地も無い。

 けれどどこか釈然としないものを抱えながら、しかし一応納得する事にした河井はとりあえず“ビビリ=自己防衛”問題をさておく事にした。

 そう、現在注目すべき点は、収集した情報にある。

 白くてふわふわ、そして長い髪。

 ということは研究所七不思議に認定されているらしい『妖精さん』は恐らく、外見的に女性なのだろう。しかし、『白装束に長い髪の女の霊』ではなくあえて『妖精さん』という形で噂が流れているのは、何故か。

 そもそも白くて長い髪という時点で限りなく幽霊臭い外見なので、あくまで噂話の尾ひれとして添付されたその外見なのかもしれないが――と、脳内で少しばかりずれた部分の考察を真剣に行っていた河井は、そこでふと水を片手にスプーンを握りしめる事に戻っていた卓郎君に再度質問を向けてみた。


「なぁ、妖精と幽霊の差って何だと思う?」

「何言ってんですか、河井さん。足が“ある”か“無い”かに決まってるじゃないすか」

「え、嘘。何それ常識?」

「当たり前っすよ――あ、今『体の大きさとかじゃねぇの?』とか思ったっしょ。違うんすよねー、妖精にも人間と同じくらいの大きさのヤツはいるんすよ」


 ふっと得意げに息をつき、肩を竦めて見せる卓郎君はやはり、妙な部分に知識が偏っているらしい。

それを改めて確認した河井は、しかし素直な賞賛を顔に浮かべた。『明日使えないかもしれない無駄知識』でも、知識は知識である。 というかぶっちゃけ、人生において全く必要の無い知識を耳にするのが久々で新鮮だった、といった方が正しいかもしれない。

 そうして頬杖を突きながらも感嘆の息をついた河井に気をよくしたのか、コップから手を放した卓郎君がスプーンの中心を摘まんでヒラヒラさせ始める。


「ふっ、オカルトに関してならオレの右に出るヤツはそういないっすよ。さっきの『研究所七不思議』についても、既に全部把握済みっす」

「ん? 七不思議って全部知っちゃったらダメなんじゃ――」

「まず、七不思議その一ですが!」


 景気づけなのか雰囲気を出す為なのか、スプーンをぎゅっと握り直し真剣な顔を作って見せた卓郎君に、河井はふと今更ながらなんだか妙な雑談に巻き込まれ始めている事に気が付いた。

 しかし、此方から質問をするだけしておいてハイサヨウナラ、というのも気まずい。

 そんな思いに河井が足止めされいている間にも、卓郎君はつらつらと『研究所七不思議』とやらについて既に語り始めている。


「『図書館の妖精さん』ってヤツは案外知名度が高いっす。まぁいかにも七不思議、ってカンジの内容だからだと思うんすけど――んでその二は、アレっすね。『誰もいないはずの鍛錬所から聞こえる声』ってヤツっすね」

「鍛錬所?」

「そうっす。ホラ、なんかこの研究所って鍛錬所がいっぱいあるみたいっすけど、使われてるのって限られてるみたいじゃないすか」


 まさに怖い話をするよう落とした声で語り始めた卓郎君へと、河井は訝しげに目を眇めて見せた。


「なのに、たまに誰も使用してないはずの鍛錬所から……声とか物音が聞こえるらしいですよ」

「いやそれ普通に誰かが中で鍛錬してるんだろ」

「誰がっすか? そんな、わざわざ寂れた場所で鍛錬する人とかいないっしょ」


 まぁ確かに、卓郎君の言わんとするところも分からなくはない。

 漫画等では必殺技の修行などでわざと人気のない場所を選んで鍛錬を行ったりする事もあるが、現実、誰も使用しない部屋とは本当に使用されないものだった。

 そして更にいうならば、この研究所は人数に対し鍛錬所の部屋数が多いので、本当に忘れられた部屋には人っ子一人いないと言う有様が容易に出来上がる。となるとつまり、そもそも鍛錬相手がいないと鍛錬にすらならない“鍛錬所”、利用者は他に誰かがいる部屋に集まる、というのが現実なわけである。

 しかし、それにも例外はある。


「いや……いるだろ」

「え、誰っすか?」

「奏……とか?」


 本当にわかりにくい場所にある、数年研究所にいる河井でも知らなかったような部屋を、それ以上にこの建物に慣れ親しんだあの二人は知っていたのだろう。蛍光灯が切れかかった、壁に変な色のシミが付いたという“いかにも”な鍛錬所に、何故だか奏が飯島と籠っている場面を河井は目撃している。

 そしてあの時はどうやら日本刀でキャッキャしていたようだが、床に残った踏み込みの後や傷からして、あの鍛錬所が定期的・かつ長期的に使用されている事は明白で。


「なんでそんなとこで鍛錬してるんすかね? 何か見られて困るもんでもあるんすか?」

「いや、それは知らねぇけど……」


 ともかく、どれだけ辺鄙へんぴな鍛錬所でも、その存在を知っている者がいる以上使用される事もあるのだろうと。

 説明してはみたものの確かに、何故あの二人はわざわざ人気のない鍛錬所を選んで使用しているのかだなんて。首を傾げる河井を尻目に、謎を解明された感が嫌だったのか卓郎君は、気を取り直すように次の七不思議を語り始める。


「あとは『立ち入り禁止の部屋から轟く破壊音』とか。あ、因みにコレは噂によると、地下のどっからしいっす」

「それ楠さんの研究室じゃねぇの? あの人、よく何か壊してるし」

「……あ、あと『無人所長室』とか」

「所長、あんま所長室にいねぇからな」

「あ、あとは――」


 等々。

 良く考えれば不思議でも何でもない気がする七不思議を卓郎君が語るのを耳に、河井はそろそろ本気で研究室に戻らねばならない事を考えていた。

 確かに、“何故所長が所長室にいないのか”とか、“何故地下で破壊音がするのか”だとかは、その当人らの事をよく知らない者にとっては不思議な事だろう。けれどそれらを知っている河井としては、当然その人らを待たせるとマズイという事も知っている。

 特に、長時間己の研究室を待ち合わせ場所として占拠されたとなれば、楠のイラッとメーターがそろそろヤバイ事になってきているのではないか――と、内心真面目に焦り始めた河井の耳は卓郎君の語る七つ目の七不思議を丁度拾うところだった。


「あ、あと最後はっすね……えっと――」

「『長く所内に勤めた人間から、いつの間にか消えていく』」


 その時。

 卓郎君の声に被さった『七つ目の七不思議』を語る声に、河井は反射的に顔をやった。

 そこにいたのはいつから話を聞いていたのか、一瞬記憶をあされば直ぐに出てくる見知った顔だ。


「あー、そうっすそうっす。でもコレってアレっすよね、七不思議によくある『全部知っちゃったらなんかヤバイ』みたいなヤツの応用みたいなもんっすよね」


 そしてそんな唐突に話に入って来た男に対し、特に動じた様子もなく会話を続けている卓郎君は、彼とも知り合いなのか、それとも持ち前の社交性的なものなのか。

 しかしどうにも相手に対し好意的な印象を持っていない河井は、とりあえず控えめに軽く頭だけを下げて会釈をする。

 三つほど向こうの席で食後らしく、コップ片手に足を組んでいる男は、前回河井が任務の際に護衛した部隊の班長さんだった。


「そうですね、『七不思議すべてを知ると、悪い事が起こる』……つまり、『七不思議を全て知れるほど長い間所内で務めている者には、何かが起こる』という事――ですよね、河井さん?」

「は、はぁ……そうかもしんないっすね」

「でも『消える』ってなんか変っすよねー。それこそ『何か悪い事が起こる』とか曖昧にしとけば良いのに、なんでそこだけ具体的なんっすかね?」


 急に直球で名指しされた河井は、サクサクと言葉を続いて返してくれる卓郎君に心底感謝した。現在、一応笑みらしきものを浮かべている班長さんだが、前回の任務中にチクチクと嫌味らしきものを言われた身としては少しばかり構えてしまう部分がある。


「それは実際に『消えている』からですよ。現在この所内で“古株”と呼ばれている人たちが、大体何年前くらいから居るか知っていますか?」

「んー、古株って言うくらいだから十年とかっすか?」

「違いますね、古くて五年程度です――そうですよね、河井さん?」


 だから何故、そこで話を振ってくるのかと。

 思わず引き攣りかける笑みをなんとか平静に保ちながら、河井は考えにふけるかのような軽い唸り声を曖昧にあげて見せた。正直彼としては、五年以上所内に居る者は確実に存在しているように思う。

 けれど実際、古株という貫録のある者が周囲にごく僅かしかいない事も確かで。それこそ五年この所内に勤めている河井は古株らしき三名を脳裏に浮かべると同時に、班長さんが『五年程度』と言った理由が分かったような気がした。

 己が浮かべた三名――飯島、楠、奏というマイペース過ぎる人物ら――が揃って、あまり表に出たがらない者達だったからである。


 そう、思えば奏に関しては、腕相撲大会で負けたから。

 飯島に関しては、奏をなんとなく目で追うようになってから自然と関わり合いが増えたから。

 楠に関しては恐らく、本当に、あんまりにも自分の報告書ミスが多かったから。


 そんなきっかけが無ければ認知することも無かったであろう “古株”的人物らに、実はあの三人と関わりあえているのは、中々の奇跡の産物なのかもしれないと。相手の問いかけに対する答えを考えるフリをしながら河井が少しばかりズレた部分に思考をやっている間にも、会話を続けてくれている卓郎君は非常に良い子であった。


「え!? 五年って流石に短くないっすか? え、マジで古い人から順番に消えてるんすか……な、なんでっすかね?」

「まぁ我々“外”に赴く舞台としては、単純に。古い者――つまり経験を積んでいる者ほど危険度の高い任務が渡されるので。仕方ないと言えば仕方ない事なんですけどね、ねぇ河井さん?」

「は? え、ああ、そうっすね。……やっぱ流石に新人に危険度の高い任務は任せられないっすからね」


 不意に再三かけられた呼び声に思考を戻した河井は、少しの間のあと言葉を返した後に、ふっと。

 また何だか居心地の悪さを感じた。

 しかし今度の居心地の悪さには、今までに感じていた班長さんへの苦手意識などとは比べ物にならない程の重さがある。


 古い者から順に消える、と言われるには言われるだけの理由があって。

 それは“外”の任務に赴く者にとっては、“長く務めた者”、“古い者”、すなわち経験を積んでいる者ほど言い渡される任務の難易度が当然上がり――すなわち負傷や、平たく言えば死亡確率が上がるからで。

 けれど、やはり当然、新人に難易度の高い任務は任せられないわけで。


 別の考え事をしていた為、あまり頭に入っていなかった会話の流れを順に回想した河井は、そこまで来てようやく、己の中に湧いた重苦しい感情の意味に気が付いた。

 そう、それは恐らく彼の人生において、最大にして最悪の任務中の出来事が回想と共に湧き上がらせる感情。


 なので河井は速やかに回想を始めようとする自らの思考を押しとどめ、別の事を考えるような余裕はなくとも、せめて無心の状態を保つことに勤める。

 けれど、それを妨害する声が、この場にはあった。


「その通りです、新人に危険な任務は任せられませんからね。……けれどずっとそのままでは新人も成長出来ないので、古株の者と共に実戦経験を得るんですよね」

「……。」

「まぁそういう任務は大抵、難易度の低いものですけど。でも結局のところ同行するのは新人ですし、相手は感染者ですし? たまに予測できないような事態も起こるというか、新人が中々足を引っ張るというか」

「い、いやー。でもそれは“新人”なんだし、しょうがないんじゃないっすか? その辺りは一緒に行く古株さんも分かってるんじゃ……」


 卓郎君のフォローは恐らく、無意味なものと化すだろう。

 そんな予感を確信する河井は、ネチネチと刺々しさと粘着性を併せ持った声で語る班長さんが何故前回の任務時から己に対し妙に敵意を向けてくるのかも、ほぼ確信する事が今になって出来ていた。

 否、本当は薄々感ずいていたのかもしれない。

 気付かない様にしていた河井の耳に今、相手の声がこびりつくように響くのは、恐らく彼自身の中にある負い目だけが原因なのではないのだから。


「まぁ多少ならいいんでしょうけどね。実は新人と共に任務に向かった古株が、死んでしまった事もあるんですよ」

「え……な、なんでっすか?」

「さあ。けれど本人は『自分のせいだ』と言っていたようなので、その新人のせいであの人が死んだことは確かでしょう…………全く。 なので私は少なくとも、私の部隊の者をそいつには任せたくないですね」


 ここまでくればもう、確定で。

 間違いなくこの班長さんはあの日の事を知っており、そしてここまで言うという事は、自分と同じく彼もあの人の弟子だったのかもしれないと。

 ゆっくりと瞼を下ろした河井はまたゆっくりと開いた視界の先、明らかな敵意を向けてくる相手の視線を真っ向から無言で受け止めた。


「……。」

「……。」


 それは言いたいことがあるのなら言え、という無言の合図。


 それに対し両者無言という事は、この話はここで終わりであると。

 数秒後相手を見据えたまま席を立った河井は、引いたばかりの椅子を最新の注意を払って机の下に押し入れた。少しでも気を抜けば押さえつけた感情が、椅子どころか机ごと蹴り飛ばしてしまいそうな勢いである。


「河井さん……」


 背後から聞こえた卓郎君のなんとも頼りない呼び声に、何でお前がそんな声だしてんだと内心ほんの少し苦笑した河井は、けれど今だけは申し訳ないが振り返れそうにもなかった。

 今振り返れば、彼には班長さんの顔を殴ってしまう自信しかない。


「……そういえば今、一番古いのって誰なんでしょうね」



 そうして早足になるのも腹立たしいので悠々と食堂の出口をくぐり掛けていた河井は、小さいながらにも確実に耳に届いた言葉に、しかし一瞬怒りや苛立ちといったものとは全く別の感情が湧くのを感じた。


 恐らく、班長さんは河井自身の事を指そうと言ったその言葉だったのだろう。

 その辺りから年齢は上でも、己より相手の方が新参であることを悟った河井はしかし、自身より古参な存在を知っている。


(――――っ!)


 奏は今、どうしているだろうか。

 その姿が今の河井の脳裏をよぎったのは、半ば偶然に近かった。

 けれど過ってしまった以上、嫌な予感は急激に募り始める。

 自分がかなりの時間をこの食堂でくってしまったのは明らかで、その間、彼女は果たして大人しく研究室で待機しているようなタマか。

 否、しかし“松葉杖だし無理は出来ないだろう”――なんて。


 タカをくくれる相手でない事は残念ながら既に実証済みで、河井は食堂を訪れた際と全く同じよう、感情をすべてその脚力に込めた。







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